26


 コーヒーを淹れるのを忘れた。

 真昼の喧騒からは想像もつかぬほどの静寂に、奇妙な心地好さを感じるのは何故だろう。少し空けただけだというのに、自室の空気はすっかり冷え切っている。ドアを開けるなり、戻ってきた部屋の主を拒否するようなその温度に、ローは小さく舌打ちした。そのままどかりと椅子に腰掛ければ、突然の負荷に金具が軋んだ。

 コーヒーのために食堂へ行ったのに、ミラのおかげで完全に忘れていた。まだ朝は遠い。もう一度あそこへ行くのも気が引ける。となれば選択肢はひとつ、このまま諦めて眠るということだ。たかが飲み物一杯、飲まねば死ぬという話でもない。時間を忘れ読み耽っていた医学書を閉じると、ひそやかに紙の擦れる音がした。


(あいつでも、泣くのか)


 彼らの潜水艦はそっくりそのまま、深い夜に閉じ込められている。やがて朝陽が立ち昇る瞬間の美しさを、海面に真新しい陽光が反射して煌めくその神聖さを、ミラはきっとまだ知らない。

 ローの記憶の中では、いつだって笑っていたとまでは言わないが、ミラは確かに一度も泣かなかった。初めてこの船で目を醒ましたときも、ローが彼女の手首を掴み上げたときも、下手な演奏をすれば殺される状況下でも、彼女は泣いて逃げることをしなかった(それは結果的に、彼がミラを認める要因のひとつになったわけなのだけれど)。その精神力の強さは、きっとプロの演奏家としての矜恃なのだろうと思っていた。思い込んでいた。

 思えば、彼女は客の前では完璧な演奏家になる人間なのだから、魘され始めたということは、彼女がハートのクルーたちを客ではなく仲間だと信用し始めた証明だろう。客を満足させることに躍起になる彼女は、客の前では演奏のことしか考えない。考えられないのだ。

 気付いてやれなかったことに、ほんのわずか、罪悪感を感じる。怖くないはずがないのだ。そう簡単に立ち直れるはずがないのだ。彼女は、ピアニストである以前に、一人の女なのだから。その恐怖の記憶を、持ち前の精神力で何とかできるだろうと投げ出していた自分は、きっと彼女を犯した海賊と何ひとつ変わりはしない。

 ……けれど。


(それでも、俺が何とかしてやれることじゃねェ)


 これは彼女自身が頑張るしかない領域だ。何も知らないローがほいほい出て行って終わらせられるような生半可なものではない。たとえば先にローを呼び止めようとしたミラを、この部屋に読んで寝かせたとして、その次はどうする? 無理だ、とローは思う。これからずっと彼女を護っていくなど、非現実的にも程がある。彼女がひとりで踏ん張らなければ、この先もずっと変わらない。


『まって』


 確かにそう紡ごうとした唇が音を漏らさなかったことに、ローは感謝した。彼女もしっかり分かっているからこそ、ローを引き止めるのを思い留まったのだろう。だいじょうぶだ、お前なら。彼女をひとり残してきたとき、低く落とした呟きは、彼女にはきっと届かなかった。それでいい。

 夜の深淵に沈んでいく。闇は彼らを閉じ込めるようにやんわりと、それでいて不気味に世界を支配していくけれど、時間が経てば、また新しい明日が彼らを迎えにやってくる。明日はどんな顔をしているだろう。笑っているのか、泣いているのか。


(もう、泣くなよ)


 またひとつ、今日が終わった瞬間に今日は始まる。振り向くこともできずに消えていく昨日は、しかしもう泣いてはいなかった。


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