25


 ミラ、と呼ぶ声がした。

 悪夢から飛び起きた彼女は、思わず行く宛もないのに、走り出した。一人で眠っていた防音室から飛び出して、見えない幻覚に追われ怯えているかのように、必死に走った。ある場所に留まっていれば、今にあの男たちが手を伸ばしてくるのではないかと、気が気でないのである。


(もう、……終わった、のに……ッ!)


 あの地獄のような奴隷生活から解放されたのに。
 ここの皆はあの人たちのような卑しい目で自分を見たりしないのに。

 あらゆる"なのに"は頭の中をぐるぐるめぐって、彼女の思考回路をますます混乱させていた。

 やがて辿り着いた暗い食堂で、力尽きたかのように、彼女は壁にもたれずるずると床にへたり込んだ。酷く息が上がっていた。肩で呼吸をしながら、夢に姿を表した男の姿を思い出して、泣いた。涙と一緒に、記憶もすべて失ってしまえばいいと思った。宴を行ったはずの食堂は、暗く人気がないだけで、この上なく閑散として見える。ここでつい先日にどんちゃん騒ぎをしたなど、彼女には信じられなかった。自分の乱れた呼吸が、徐々に不安定なものになっていく心地で、しかし彼女は何をする気にもなれず、口から零れる嗚咽を只管に聞いていた。

 だから、がちゃ、と無機質な音がして、


「……なんとかなんねェのか、お前」


 不機嫌そうに髪を掻くローの姿を認めたときも、何も言うことができなかった。少し驚いていたようにも思う。怖かったようにも思う。それでも彼が近寄ってくることに、ミラが拒否反応を示すことはなかった。

 ひゅうひゅうと心許ない呼吸を繰り返す、その背中を摩りながら、ローはひっそり「過呼吸か」と呟く。背に手のひらの温度を感じ取ったのか、堰き止められていた何かがそれにゆるりと溶かされたみたいに、頬に線が伝う。長い睫毛が、あたたかい涙に濡れていた。


「ゆっくり呼吸しろ。吐けば自然に酸素は入ってくる。慌てるな」


 頷くことさえ出来ないで、ただ彼女は、滲んだ世界に降る低い声に従った。努めてゆっくり息を吐き出せば、「そうだ」と肯定する声がまた降ってくる。まだ出逢って間もないのに、しかしローの言葉には妙な安心感を覚える。目を瞑ると、貼っていた水の膜が破れて一気に涙の勢いが増長した。黒い指先が涙を拭ってくれたことを、感触だけで知った。

 どうして、この人は平気なんだろう。ぼんやり浮かされた頭で彼女は考えたが、しかしその答えはもう分かっていた。彼の手は、自分のものと同じだ。医者とピアニスト、あるいはまったく違うようにも見える二人だが、"手"を命とする性質は一緒である。手こそが彼らに取っては神聖な場所であり、穢すわけにはいかないものだった。その手で、人を貶めるようなことをするはずがないと、彼女は、そう知っていたのだ。


「……落ち着いたなら、戻れ。俺ももう寝る」


 ミラの恐怖がわずかに和らいだ丁度そのとき、それを察したかのようにローが毅然とした態度で告げる。先程まで優しく涙をとってやっていた手のひらは、ポケットの中へ。すっかり暗闇に目は慣れていたが、気付いたときには彼の姿は消えていた。まって、と紡ぎかけた口から、音が零れることもなく。

 嘘みたいに楽になった呼吸の気配に自ら耳を済まし、ミラは目を閉じる。自分のために開いてくれた歓迎会、野蛮で下品で、それでもとても楽しかったあの宴の風景を、瞼の裏に映し出す。ここが私の居場所だと、今私はここにいるのだと、確かめるためにうわ言のように呟いた。ミラ、こっち来て飲めよ。クルーは、始まったばかりでも既に酔っ払ったかのような伸びきった語調で、彼女の名を呼ぶのだ。その声を反芻すれば、待ち侘びた夜明けも、すぐに訪れる気がした。

 夜はまだ、深い。

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