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 たとえば、経験というものが人を大いに成長させるものだとして。その経験も存分に味わってきた天才がいたとして。その天才が生み出す何かは、果たして人を魅了せずにいられるのだろうか。

 食堂にはクルー全員が揃っていた。ベポが無理矢理説得して連れてきたローさえ除けば、あとは皆進んでここへやってきた者たちである。真新しいピアノを前にして目を閉じている、ミラの雰囲気は、ペンギンが初めて起きた彼女と会話をしたあのときとは、まったく違っている。まるで別人だと、密かに息を呑んだ。


「どうか、お聞きくださいませ、皆様」


 白と黒の明確な対比を見せる鍵盤に、細い指先が乗った。

 次の瞬間、耳を劈くような低音が轟いた。……違う。ミラが奏でたのだ。階段をのぼるように切羽詰まって高みへ駆けていく音は、川の流れとでも比喩しようか、崖から落ちてくる岩のようとでも言おうか。鍵盤の上で踊る指、落ちてくる音の塊、そのすべてが食堂を支配する彼女の音楽であることを、まざまざと思い知らされる心地がした。

 口内に溜まった唾を飲み込むことさえ叶わなかった。意識のすべてが彼女の演奏に奪われていくかのような錯覚さえ憶えた。

 ローが認めた音楽家。天才ピアニスト。どんな称号を冠していても、彼女の才能というものをペンギンが身を持って体感することは、この瞬間まで、一切なかった。それがどうだ。一度彼女の奏でる音楽に、触れてしまえば、もう戻れない。彼女と出会う前に戻ることはできない。

 やがて時間は過ぎて、すべての音が消え去った空間は、沈黙する。ミラの支配していた空間、ピアノがすべてを喰らっていた空間で、ようやく声を発することが赦されたというのに、誰一人口を開くものはいなかった。がた、と音を立てて椅子から立ち上がったミラが、まだ空いた口が塞がらないクルーたちに、一礼。

 直後、凄まじい歓声が湧いた。


「すげェ! すげェよミラ!」

「何だ、今の!? なんでか分かんねェけどめちゃくちゃ感動した!」

「俺たちの仲間になれよォ!」


 次々とかけられるのは、歓迎の言葉。こんな演奏をされては、最早不満を言えるはずもない。立ち上がり各々が我先にと叫ぶクルーたちに、ミラ自身はただただ混乱している様子だったのだが。

 呆気に取られて何も言えないペンギンは、しかし歓声と拍手の中で一人立ち上がって食堂を出て行こうとするローを見つけた。すこし、苦々しい思いがした。いくらミラが時間を破ったとはいえ、既に一度演奏を聞いているといえ、何か一言くらい言葉をかけてもいいのではないかと思ったのだ。

 ミラもローに気付いたらしい。「ロー、さん!」叫ぶ声に、彼女に夢中になっていたクルーも皆、途端に黙ってそちらを向く。


「あの、これを」


 いつも通り仏頂面のローに、ミラが差し出したのは。


「……ジャスミンか」


 あのとき、ピアノを買う前に偶然花屋で見かけた、ジャスミンだった。白い花びらが、ゆらりゆらりと揺れている。


「時間に遅れたのは、本当に、申し訳ございませんでした。これを、買っていたんです」

「買った? お前、金は持ってなかっただろ」

「レストランで演奏させてもらいました。それで、チップをいくらか頂けましたので」


 差し出された可愛らしい花を、ローはじっと見つめたまま、しかし受け取ろうとはしない。彼は知らないのだ。その可憐な茉莉花が、どんな言葉を宿しているかを。「ジャスミンの花言葉、ご存知ですか」ミラの問いかけに、ローは素直にノーと返した。彼が花言葉を解していたならば、それはそれで面白いものだとペンギンは思う。

 照れ臭そうに笑った彼女の顔は、それはもう手の中にあるジャスミンにも負けず劣らず可愛くて。


「"私はあなたについていく"」


 この言葉を、あなたに捧げさせてください。

 予期せぬ計らいに面喰らったローの顔は、まさに鳩が豆鉄砲を喰らったと比喩されるそれだった。照れが隠せなかったのだろうか、トレードマークのもこもこの帽子を深く被り直して、「ああ、」と低く呟く。


「……受け取った」


 こんな粋なことをされては、最早遅刻を罰する気も起きまい。白い手のひらから、花々はその主となる者の手へ。可憐で愛らしいジャスミンは、死の刻まれた彼の手には、面白いほどに不釣り合いではあったのだけれど。

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