19


 それから、二日後の昼のこと。


「すみません、あのピアノを弾かせていただいても構いませんか?」


 例の楽器屋と同じ通りに面した、南の海の料理をよく扱ったレストランである。そしてその中で、カウンターでグラスを磨いていたマスターに冒頭の質問をしたのは、お察しの通り、ミラだ。彼女が指差す先には、店の隅にあっても尚圧倒的存在感を放つグランドピアノ。客はそこそこに入っており、店にある席はカウンターもテーブルもともに八割方うまっている。

 旅人が小銭稼ぎによく弾いていくのだろう。いつものことだとばかりにマスターは頷き、「チップはあんたの腕次第だ。頑張んな」と笑った。ミラはシャツの袖を捲り上げ、長い奴隷生活の中ですっかり伸びてしまった金髪をゴムで結わくと、ピアノへと歩いていく。その様は、舞台袖から出てきたピアニストが、中央でライトを浴びるピアノに向かっていく、まさにそれだ。ぐるりと客を見渡してから、ミラは優しく笑う。


「皆様のお食事が、より素敵なものになりますように」


 飛び交う歓声と拍手。どうやら迷惑がられてはいないようだ。ただいつもと違うのは、客が音楽に惹かれて自ら足を運んだ者でないということ。

 腕がなります、とミラは小さく呟いた。




 ローの機嫌が最悪だった。

 それがどうした、と世間の人々は思うに違いない。ローだって神や仏ではないのだ、機嫌がよろしくないときだってあって当然。それはクルーも皆分かっている。しかし彼の不機嫌はそれこそクルーの誰かが確実にシャンブルズを喰らうレベルであり、実害を伴うことが非常に多い。

 甲板でベポに背を預けて日浴びしている船長に、声をかけられる勇者はいなかった。あのシャチでさえ、俺無理、と早々に船室へ逃げたほどだ。無理もないだろう、とペンギンは独り言つ。それはシャチに対しても、またローに対しても。

 五分ほど前に、出航予定時刻だった二時を回った。ミラは朝から姿を消したまま、まだ現れていない。


「俺が探しに行こうか、船長」


 思い切ってペンギンは訊ねてみるが、ローの氷山よりも冷え切った視線にあてられて、首を竦めた。ここまで来ると、彼の枕代わりになって呑気に眠っていられるベポが羨ましくなってくる。


「あいつ、逃げたのか」


 ふと零れ落ちたローの、溜息のような呟きは、潮風の中に揺れて消えた。あいつは逃げたのか、俺たちから。その答えが、自分に求められているわけではないことをペンギンは分かっている。

 そんなやつには見えなかった。どんなに海賊を怖がっていても、何事にも対して誠実な女だと、ペンギンは思っていた。海賊であれど、客であり、億を超えた賞金首であろうと、命の恩人。その割り切り方だけはしっかりしていると、そう、信じていたのに。この間船に運び入れられた大きなピアノが、彼女によって奏でられるときも近いのだろうと、疑わなかったのに。


「……もし、そうだったら、どうする」

「殺す」


 間髪入れず返ってきたこの上なく物騒な言葉に、ペンギンは微かな身震いを感じた。ローが"バラす"ではなく"殺す"と言うときは、本気だと常に決まっている。

 何はともあれ、まず先にミラを見つけださなければならない。クルー総動員で街へ向かうかと、ペンギンが考えを巡らした、その、とき。


「皆さん!」


 焦燥に満ちた女の声が、甲板に届いた。


「遅れてごめんなさい! あの、まだ乗せてくれますか」


 海岸ぎりぎりから船を見上げる彼女は、ここまで走ってきたのだろう、膝に手をついて急ぐ呼吸を静めようと努めている。遅いぞ、と叱ろうとしたところで、ペンギンはその手のひらに、あるものが大切そうに抱えられているのを見た。数秒その意味が分からずに目を白黒させた彼だが、すべてを悟ったとき、思わず笑った。

 まったく、女の子というのは、本当に可愛いことをする。


「船長、乗せるぞ」

「……好きにしろ」


 吐き捨てるように告げて、ローは船内へ戻っていった。タラップはもうしまっていたので、ペンギン含むクルー三人がかりでミラを甲板へ引き上げた。彼女がきっと頑張って手に入れたのであろう"それ"を、傷付けないように。「あの、早速で悪いのですが」と、船に引き上げられるなり彼女は口を開いた。


「聞いて、いただけますか。私のピアノを」


 小さなピアニストは、そう言って、嬉しそうに笑った。



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