18


「わあっ、ヤモハのグランドピアノ! しかも限定の! ああ、こっちにはローランダも! すごい!」


 ローにはさっぱり分からない単語を叫びながら、店内を回るミラ。所狭しと並べられたピアノは、どれも天井の明かりを受けて光沢を放っている。玩具を前にした幼子のような目でピアノを見つめる彼女は、なんというか、少し笑えた。


「あの、……本当に、いいんですか?」

「あの調律の狂いまくったアップライトで弾き続けたいなら構わないが?」

「いっ、いえ。甘えます。お言葉に甘えさせていただきます」


 それでいい、と笑うローに、ミラは肩を竦める。

 音楽の街だと名高いここに、楽器屋が一軒しかないことには然程驚かなかった。その一軒に物が集中しているのだろうし、多くあるよりは回る手間が省けてむしろ好都合だ。陽気な雰囲気に誘われて海賊もよく騒いでいくのだろうか、楽器店に限らずどの店もローを見て怯え逃げるようなことはない。余程慣れているらしい。


「店長さん、あの、試奏してもいいですか?」

「ああ、いいよ。好きなだけ弾けばいい」


 腹に無駄な肉を乗せた男が、柔らかく笑って頷いた。その声音は明らかな羨望を孕んでいたのだが、ピアノに夢中のミラは気付かない。その羨望が少しでも違う方向へ傾けば、即刻切り刻んでやれるのにと思うと、ローは何となく、残念な気もした。


「あのミラが来るなんて、考えたこともなかったよ。ああ、後でサインをくれないか。店に飾りたいんだ」

「さ、サインですか? そんな大仰な……」

「もしくれたら、欲しい楽器を半額にしてもいい」

「わ、わかりました!」


 金銭の負担はローへ向かう。それをわずかでも軽くしたかったのだろう。敬礼するようなポーズを取ったミラは、奥から店主が持ってきた色紙とペンを受け取り、慣れない様子で名前を綴る。ロー当人としては金額が元の半値になろうがなるまいがどちらでも良かったのだけれど、ハートの海賊団が海賊の割には懐が潤っている、その経済事情など知るはずもない彼女であるから、黙っていることにした。

 やがてサインをし終えた彼女は、色紙を店主に返してから、ひとつのピアノに歩み寄った。何の変哲もない、ごく普通のグランドピアノである。鍵盤にそっと触れるその手つきは、壊れものを扱うかように優しい。前の椅子に座って、基準音のドから、ハ長調の音階。ミラの奏でたその僅かな音を聞いただけで、ローの脳裏には、あの防音室での演奏が蘇る。

 あの逞しく力強く、また時に脆く繊細な音たちを、あんな細い指が奏でたのか。


「ロー様、……ロー、さん。何か、リクエストは?」

「俺はクラシックは殆ど知らねェ」


 花屋のジャスミンの一件から、何事にも詳しいとでも思っていたのだろうか。ミラは意外そうな顔をしてから、「じゃあ、」とまたピアノに向き直った。その言葉に繋がるはずだった音は、なかった。

 ややあって流れてきた音の粒に、ローは瞠目する。すぐに目を閉じ、笑いそうになるのを努めて堪えた。ミラが選んだ曲は、北の海出身なら誰でも知っている、有名な旋律だったからだ。ローが北の海出身であることを知っていたのだろうか、それともたまたまか。どちらにせよ、彼女の奏でる音は心地好い。音遊びをしているように聞こえた。

 店主も目を閉じて、彼女の演奏に耳を澄ませる。ただの試奏が、これではまるでコンサートのようだ。

 船のピアノは、調律が狂っていたこともあるだろう、お世辞にも質が良いとは言えなかった。それでも、ローを納得させるほどの演奏をしてみせたのが彼女なのだ。ローは満たされた気持ちで、あのときよりも断然楽しげに遊ぶ音を聴いていた。


「それにしろ、ミラ」


 だから、すべての音が空気に溶け込んで消えたとき、その言葉は本当に自然に零れたものだったのだ。「でも、あの、」あたふたと反論を探す彼女の懸念など、聡いローには考えずとも分かることで。


「値段を見るな、音で判断しろ」


 低く告げられた命令に、図星だったらしいミラは萎縮した。ただでさえ半額になるのだから、値段など顧みずに満足する楽器を選んでほしいと、ローは思う。何せこれから、彼女はハートの海賊団の音楽家になるのだ。


「お前はうちの音楽家だ。常にそのときのベストの演奏をするのが、お前の義務だろう。ちゃんとそれができる楽器を選べ」


 ミラは苦笑した。ローの言い分は彼女の矜恃にもしっかりはまったようだ。「私も」と発された言葉は、もう遠慮がちな声音ではなかった。彼はそれを嬉しく思う。


「これが、いいです」

「よし。おい、これをくれ」


 ミラとローがともに納得したそのピアノは、見た目の平凡さからは想像できないような値段だった。普通のグランドピアノならこの半値で買えるだろう。もともと彼女のサインで半額に値切られていたので、結局ローが出した金額は、普通のグランドピアノを買うときと大差なかったわけだが。店が運搬と設置のサービスもしているというので、船に運ぶのを頼んで、二人は店を出た。

 通りに出ると、ミラは俊敏な動作でローの前に立ち塞がり、深く頭を下げた。「ありがとうございました」という謝礼を聞いた。これだけ満足しているならばまあいいだろうと、ローはその金色の頭を二、三度軽く叩く。


「ちゃんとあいつらを認めさせろよ」

「……、っ、はい!」


 俺が認めたクルーにあいつらが文句つけるわけもねェがな、と、ローは胸裏で笑うが、ミラはそんなこと知る由もなく、ただ嬉しそうに、また音楽の街へと踏み出した。


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