12


 それから、三時間ほどが経って。


「覚悟はできたか」


 ノックもせず無遠慮にドアを押し開け踏み入ってきたローに、ミラの肩が大袈裟に跳ねた。彼女はピアノの前に座っていたが、その手は膝の上で固く握られていた。数分前まで音が溢れていたであろう空間は、わずかにその名残を醸している。なんというか、空気が震えているのだ。ローは滅多に音楽を嗜まない人種だったけれど、その震えだけは何故か本能的に感じ取ることができた。

 覚悟はできたか、とローは問うた。練習は十分か、でも、指の感覚は戻ったか、でもない。彼女の中にある覚悟についてを訊ねた。そもそも、たった数時間で、長らく楽器と離れていた身体がすべてを取り戻せるだなんて、彼は思っていない。彼とて、指先まで神経を尖らせて手術を行う医師だから、その鋭敏な感覚がどれほど衰えやすく、また取り戻しにくいかをよく知っていた。

 ややあって、ミラがゆっくり頷いた。目の色は、彼女を拾ったばかりの頃とは、すっかり違っている。大したものだと思う。プロの演奏家としての気構えだろうか、こういうときの精神力だけは強いらしい。


「お望みの曲は、何か?」

「いや、お前の好きなのでいい」


 正直なところを言ってしまえば、ローは最初から何も期待してなどいなかった。たとえその存在に登りつめられる人間がほんの一握りだったとしても、音楽家という存在はローたちからすればそこいらに溢れているものでしかなかった。たとえば立ち寄った酒場で流れているジャズも、路上でアンサンブルを披露している管弦楽団も、彼にとっては等しくBGMでしかないのだ。だからこそ、彼はミラの奏でる音楽もまた、ただの小綺麗な音の集合であって、わざわざ意識して耳を傾けるほどのものではないだろうと。

 そう、思っていた。


「トラファルガー・ロー様、どうか刀を下ろしてくださいませ」


 淡々とした、しかしよく通る声でミラは告げる。音楽家は演奏となると目の色どころか声色までも変わるのかと、ローは少し面喰らった。


「私の演奏が終わった際には、どうぞ私を気が済むまで斬り刻んでいただいて、結構ですから」


 ローは黙ったまま数秒彼女を見つめていたが、やがてその真っ直ぐな瞳に観念したかのように、肩にかけていた刀を下ろして壁に立て掛けた。彼女には彼女の矜恃があるのだろう。これで満足かと言わんばかりにミラに目を向ければ、彼女は微笑んで、ありがとうございます、と頭を下げた。ローは返事をせずに、壁に凭れる。防音工事のせいだろうが、壁には細かい凹凸があって、痛いわけではないが、妙な感触だった。

 もういいだろ、とローは言った。


「弾け、ミラ」


 ピアノを向いて座っているので、その表情はもう窺えないが、笑っていないということだけは察しがついた。泣くことだってしない。自棄になることもない。彼女はきっと、音楽と向き合うことからは何があっても逃げない。

 彼女は音楽家なのだ。

 鍵盤に指がのぼる。一度ミラは目を閉じ、深く息を吐き出すと、それを合図とするかのように、十本の指に力を込めた。



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