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 きっと安らかに死ねると思うのだ。

 恐怖が完全に消えたわけではないし、生きることへの希望が輝いてきたわけでもない。あの海賊らに命を奪われることは殆ど確定事項のようなものだから、自分が人間である以上、恐れるのは仕方のないことだろう。それでもあの船長は、たとえそれが彼の自己満足のためであったとしても、彼女が一番欲しているものを与えてくれた。楽器に触れ、音を奏でることを赦してくれた。たったそれだけのことで、しかしミラはもう心の底から満足しているのだ。それだけのことで、きっと事切れるその瞬間まで、満ち足りた気持ちのまま逝けると思うのだ。

 ピアノの前に座っていたミラの、腿の上で拳を握りしめていた手のひらが、そっと鍵盤に触れる。指先に感じられる鍵盤のひんやりとした感覚の、なんと懐かしいことか。


「嬉しいね」


 小さな防音室の中、愛するピアノと向き合って、少女は笑った。








「はあ、それであの防音室に」


 のんびりコーヒーブレイクを楽しむローに、シャチは納得したのかしていないのか微妙な声音でそう呟いた。海賊船に防音室があるというのはおかしな話だが、以前乗船していた音楽家が朝晩構わず音を奏でていたために、穏やかな睡眠を確保したいクルー一同がローに頼み込んでわざわざ防音工事を施した部屋である。いつかの闘いで彼が死んでからというもの、ほとんどその存在は忘れ去られていたのだけれど。


「ずっと弾いてなかったところにいきなり俺たちの前で弾けってのが無理な話だろ」

「練習時間ってわけですか? やっぱ船長黒いっすね」

「はァ? いきなり弾けって言うよりマシだろうが」


 つまりローの言い分としてはこうだ。ピアニストとして名高いミラの演奏を一度聞いてみたいと思って、奴隷として捕まっていた彼女をわざわざ助けた。出来うる限り最善の治療まで施した。ずっと楽器に触れていなかったのであれば感覚を取り戻すにも時間が要るだろうと、防音室にひとりで籠らせた。そして、元奴隷の女にこれだけ気を遣ってやっているのだから、その配慮は十分なものであるはずだ、と。

 対してシャチの言い分はこうだ。彼女が奴隷とされていたのは海賊船。そこから救われた先もまた海賊で、突然命を与えられ、演奏をしろと強制される。いくら彼女でも、酷い演奏をすれば命がないことくらい分かるはずだ。そんな恐怖の中でひとりで練習だなんて、精神状態からしてもほとんど無意味に違いない。むしろそれは恐怖を増大させる時間でしかない、と。


「じゃあ船長、彼女の演奏が気に入らなかったら、あんたはどうするつもりなんだ?」


 ペンギンが訊いた。彼もシャチも聞かなくても大体分かるのだけれど、それでも聞いてしまうのは癖というか、念のためだ。長い付き合いの中で、この男の気まぐれっぷりは二人も痛いほど知っている。


「バラして捨てる」


 餓鬼を抱く趣味はねェからな、と続けたローに、二人は揃って首を傾げる。というのは、彼女は餓鬼と言われるほどの年齢には見えなかったからだ。ハートの海賊団最年少幹部のシャチと同じか、それより少し若いくらいじゃないだろうか。言わずもがなシャチの好みにド直球でもある。そこそこ顔も綺麗なのだから、捨てるには勿体無いのではないかと思うペンギンは、そこでようやくその理由に思い至った。


「ああ、細すぎるってことか?」


 極端に言えば、胸である。


「まあ、確かにいつも船長が島で抱くようなグラマーな女とは違うかな」


 ペンギンの言葉にシャチも納得したらしい。ローは大体女に好かれる風貌なので、島に入ればそちらを仕事としている女が逆に名乗りを上げてくる。その人気っぷりたるや、言葉に出来ない。とにかく事を終えて船に戻ってくる彼からは、いつもきつい香水の匂いがする。


「まあ結局、すべてはあいつの演奏次第ってことっすよね」


 シャチが軽口にまとめる。演奏次第。まさにその一言に尽きるだろう。その分かれ道の先に、彼女が求めている結末など、最初から存在してはいなかったのだけれど。



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