※不穏、モブが死ぬ

 夢と現実のちがいはどこにあるんだろう。どこからが夢でどこからが現実なのか、ひとは一体どうやって判断して生きてるんだろう。あまりにも常識的にありえないことが起きると、いつだってわたしの脳みそはこれは夢なんじゃないかと惑わされる。
 リネがマジックのステッキを振って飛んでいる鳩の色を一瞬で虹色に染めたあの日もそうだった。青空を泳ぐどこにでもいる平凡な白鳩の群れが、みずみずしく滴る花弁のようなきらめきをともなって、赤青黄色緑と……そのまっさらな身体の色をカラフルに変えたのだ。まるで夢のなかのような光景だと見とれていたら、無意識にそれが声に出ていたらしい。となりで聞いていたリネはささやくようにわたしに言った。──ひとに夢を見させるのが僕の仕事だよ、と。
 もしかしたら、今のこれは夢のなかの出来事なのかもしれないとわたしは考えた。だったらあの虹色の鳩のマジックショーのような、幻想的で気の晴れる夢を見たかった。たとえば、タイダルガの郡勢に囲まれながら海原を散歩する夢とか、レインボーローズの花畑の中心で犬と寝っ転がる夢とか……。きっとこの世のどんな人間だって、理想と欲望を交ぜ合わせた楽園で、すべての苛みから開放された甘い時間を過ごしたいと願うときがあるように。わたしも今すぐこの場から駆け出して、タイダルガでもレインボーローズでもなんでもいいから夢の世界に飛び込んでしまいたかった。
 でも、いくらそれらを頭に思い浮かべたところで目の前の現実の光景はなにひとつ変わらなかった。現実にあるのは家屋や街灯からも灯りが届かない、人も猫もいない閑静な路地裏。重たい雲が空を覆った月明かりのない夜だった。いきなり視界が虹色にきらめくなんてことはありえない。
 (あたりまえだ。だってこれは、夢じゃない)
 どんなに都合のいい幻想を抱きながら目を瞑っても、これが夢ではないことは避けようのない事実だって、わたしの頭のいたって冷静なところはきちんと理解している。現実は現実で、決してその姿を夢の姿に変えない。結局わたしはどこにも逃げられない。そもそも、震えの止まらないこの足ではどこにも行けそうになかった。
 夜目でも嫌に映える、足元に広がる一面の血。ぴくりともしない生気の失った人体、その頭部からそれがどくどくと流れ続けている。見知らぬ成人男性の体躯がしなだれるように道端に打ち捨てられて、言葉はおろか呼吸の音もしなかった。頭から血を流し続けたままぴくりと動かないのは……わたしの脳が自然と結論を出すにはいとも容易い。
 わたしの足元で、ひとが死んでいる。
「………はっ、」
 ぶるりと身体の軸がふらついて、自分の体重を支えきれずに派手に尻もちをついた。まるで見えないなにかに力を吸い取られてしまったかのように、石畳の上に放り出された二本の足は激しく震え、もうひとりでは立ち上がれそうになかった。虫の羽音も許さないような静寂に覆われたこの場所で、自分の荒々しい呼吸と鼓動の音が煩わしく、けれどもどうすることもできなかった。ただ、目の前の惨状に自分の正気がすり減らされていく。慣れ親しんだ街並みは一変にして非日常へと塗り替えられた。
 供養も湯灌もされていない、素のままの死体を目の当たりにしたのははじめてだ。平々凡々な一般市民の生活を営んできたわたしにとって、その死体は非常に惨たらしい。見ているだけでも気分が悪くなって喉の奥が焼けるような痛みを感じた。これからどうするべきか、この死体をどうしたらいいのか……撹乱した頭のなかはその判断さえ覚束ない。気が動転しているところに吐き気と目眩が重なり、生きている心地がしない。
「ねえ」
 ふいに、凛とした声が耳元で鳴る。
 とっさに息を呑んだ。声の元に振り返り、頭上を見上げる。その声はわたしのよく知ってるものだった。
「り、リネ」
「どうしたんだい?こんなところで」
「あ、あの……」
 音もなく、気配も感じないまま、いつの間にかリネがわたしの背後に立っていた。都合のいい幻覚のように現れたリネのすがたに呆然とするが、その佇まいは本物のリネだった。やさしい菫色の瞳のなかには、愕然とした表情で震えるひとりの女がいる。
「このひと、ひとが」
「うん」
「その、」
 うん。リネの角のない、やわらかく繕われた声は、立ち上がることのできないわたしに救いの手を差し伸べているようだった。暗がりのなかのリネの顔は妙に涼し気で、足元に死体が転がっているなんてことも感じさせないように悠然としていた。
 まるで仮面を貼り付けたみたいに、リネはいつも通りのリネの顔をしている……それが何だか恐ろしくて、この場に馴染まないアンバランスな奇妙さを覚えた。でも、それを口に出してしまうことはこわかった。わたしはただリネを見上げるしかできなかった。違和感を口にしてしまえば、泡沫の夢のようにたちまち今のリネが消えてしまう……そんな気がした。
「リネ。わたし、どうしたら」
 肩にリネの手が置かれる。リネは抱き寄せるようにわたしのそばに寄った。
「大丈夫だよ、落ち着いて。深く息を吸って、目を瞑って楽しいことを考えるんだ」
「……うん」
「そう……その調子、息を吐いて。大丈夫だよ。全部僕が何とかしてあげるから」
 リネの言葉は、一級品のシルクのシーツのような肌触りでわたしの柔弱に震える体を包み込んだ。呼吸を落ち着かせ、徐々に酸素が脳を回っていくと、ようやく混濁した視界が開けていくような気がした。リネがここにいるだけでも、ふと涙腺がこわれて泣き出してしまいたくなるくらい、体を縛っていた緊張感がほぐれていく。
 この瞬間、リネだけがわたしの救いだった。わたしを救ってくれるのは、リネしかいなかった。
「うん、いい子だね。……じゃあ、その手にしているものを僕に渡してくれる?」
「手に……」
 そのときはじめて自分の手元を見下ろした。なぜ今まで気にも止めていなかったのだろうか。わたしの両の手で、しっかりと握られているなにかがあった。
「あ」
 どす黒い血痕がこびりついたレンガ石がそこにある。

「おはよう」
 心地よいまどろみのなかで名前を呼ばれた気がした。その声の主を探すように、徐々にわたしの頭は覚醒していく。小さく身動ぎすれば、馴染みのあるマットレスの感触を受けて、重たい瞼の帳が自然と開かれていくのを感じる。
 リネだ。リネの声がした。
 瞼を開きゆっくりと辺りを見回せば、いつものわたしの部屋の景色が広がる。わたしは今の今まで自分の部屋のベットで眠っていたのだと理解した。とても深い眠りだったのか、起きがけの頭はやけにすっきりと覚めていた。
「リネ……」
「よく眠っていたみたいだね」
 ベットのそばにあるサイドチェアに、赤と黒の燕尾服を纏ったリネがいた。彼はわたしと目が合うと無邪気にはにかんでみせた。わたしが目を覚ますのをここで待っていたのか、ほっそりとした膝の上には、部屋の本棚に差し込んでいた稲妻の娯楽小説がある。
 カーテンの隙間から漏れる白い光からは、日がだいぶ高い位置にあることがわかる。今の状況を理解しようと、しゃんと頭を動かして記憶をいちから辿ってみる……けれど、どうしてもぼんやりと靄がかかったように、昨晩から今に至るまでの記憶が思い出せなかった。たしか、昨日は遅番の日だったものだから、夜も更けるカフェの閉業時間に店じまいをして……それから、それからどうしたんだっけ?いつもの帰路を歩いて、この家に帰宅しただろうとは思うのだけれど。そこだけぽっかりと穴があいたように、どうやって帰ってきたのかわからない。
「リネ、わたし昨日のことが思い出せなくて……リネはどうしてわたしの家にいるの?」
 リネはわたしの言葉を聞いて一瞬固まった。しかし、それも一瞬のことで、すぐににこやかな表情に戻る。
「僕は昨日退勤後のきみを迎えに来たんだよ」
「迎えに?」
「きみがずっとだれかに付きまとわれてるかもしれないって言ってただろう?」
 リネの言葉に、そういえばそんなことを以前彼に話していたことを思い出した。ただの思い違いかもしれないけれど、たしかに感じていたのだ。帰宅中、買い物中、自宅でくつろいでいる時間でさえ、こちらを探るような不快な視線を一方的に感じていた。恨みを買った覚えも、そんなことをするような知り合いもまったく思い当たらなかった。何者かの気配を感じる以外は実害もなにもなかった。だから、一時はわたしの勘違いだと処理をしてやり過ごそうとしていたけど……自分が思っていた以上に、わたしは神経をやられていたらしい。先日、偶然出会したリネに顔色が悪いねと声をかけられて、そのまま事の次第を打ち明けたのだった。
「昨日、ナ夜遅いシフトだって聞いたから心配になってカフェに行ったんだ。あんな話を聞かされたら、どうしても気になっちゃってね。そしたらきみがカフェのテラスで倒れていたんだ」
「えっ」
「仕事が忙しくて疲れていたんじゃないかな。僕の呼びかけも反応せずにぐっすり眠っていたよ。無理に起こすのも可哀想かと思って、ここまで運んだんだ」リネは一通り説明すると、ふと気まずそうな顔をした。「それでさ、ごめん……家に着いてもなかなか起きなくて、勝手にきみのバックから鍵を使って家に入ったんだ」
「ううん、それは大丈夫なんだけど……こちらこそごめんなさい、リネに迷惑をかけて」
「迷惑なんて思ってないよ。なにかあったら僕を頼ってよ」
 リネのあたたかい厚意と、にこりと無邪気にはにかむ姿に、晴れ晴れと、胸のうちが軽くなったような気がして……それから、すぐ最近にもこんなことがあっただろうかという既視感が頭をよぎった。こちらに笑いかけるリネに救われた気持ちになるのが、これがはじめてではないような気がしていた。しかし、じっくりと思い返してみてもその既視感の正体はとうとうわからなかった。
 お腹すいてる?さっき有り合わせでサンドイッチを作ったんだけど食べられるかな?そう言って、手狭なキッチンのなかでリネがまめまめしく支度をはじめたので、わたしは慌ててベットから飛び起きた。だいぶ遅めの朝餉のにおいに、自分が空腹だったことを知る。

 あれから幾日かが過ぎ、いつも通りの日常を過ごしていたのだが、不思議なことに、例のこちらを探るような嫌な視線はさっぱり感じなくなった。そもそも、そんな付きまといの視線を感じていたこと自体が、やはりただのわたしの勘違いだったのではないだろうか。今になっては確かめようもないが、何にせよ胸のわだかまりとなるものがなくなったので、これでこの件は片付いたのだと自分を納得させていた。
 その視線の件も忘れかけていたころ、珍しく重たい風邪を引いた。高熱と食欲不振に見舞わられ、仕事は休むほかなく、わたしはベットに寝たきりとなった。かかりつけ医から処方された解熱剤を飲んで横になっていると、リネットがお見舞いに来てくれた。彼女は持参したルミドゥースベルのゼリーをサイドテーブルに置いて、不安げに具合を尋ねる。
「平気だよ。ただの風邪だから、寝てたら治ると思う」
「そう。早く回復することを祈っているわ。お兄ちゃんも心配しているから」
 わたしはありがとうとつぶやいて、ゼリーを一口スプーンで掬った。ひんやりとした甘味に舌鼓を打ちながら、すこしのあいだリネットと他愛のない会話を続けた。
 いい夢を見られますように。日が沈みかけてきたころ、リネットはそう告げて立ち去った。いい夢だったら……わたしはリネが飛んでいる鳩を虹色に染めたときのような幻想的な夢を見てみたい。そう強く念じ、あの日のリネの姿を眼裏に映して、わたしは意識を失うように眠りについた。深い、深い眠りの底に。

 浮き上がっていく意識の途中で、べったりと無機質な機械音が鼓膜に貼り付いた。ジリリリと執拗に鳴り響くそれが現実世界のものだと、もっと言うならばわたしの家のインターホンであるのだと理解するまで、数秒を要した。ぱちりと目を開け、天井を見上げる。わたしの部屋だ。放心気味の顔を軽く叩き、鳴り続けるインターホンの元へ駆け寄った。ベットから抜け出すと、パジャマのなかが汗でぐっしょりと蒸されていることに気がついた。熱のせいなのか、今見た夢のせいなのか。
「おはよう。あれ、今起きたところ?」ドアを開けるとリネが立っていた。昨日のリネットに続き見舞いに来たというリネを部屋に通し、彼から果物が数個入ったバスケットを有難く受け取る。「またずいぶんぐっすりと眠ってたんだね」彼の言葉につられて部屋の壁時計をちらりと確認すると、たしかにもう朝とは呼べない時間帯だった。そんなに眠っていたのかと呆気にとられる。
「体調はどうかな?」
「うん。なんか寝汗をかいたら熱も下がったみたい」
「そっか。それはよかった」
 リネはそう言って、うれしげな笑みを浮かばせた。
 ──ごくりと、生唾を呑む。口のなかが乾いていたためか、なんだか苦い味がした。わたしは恐る恐る重たい口を開いた。
「あの、リネ。わたし夢を見たんだけど」
「夢?」
「昨日、すごくリアルで……なんだか本物のような夢を見たの」
 熱の影響で見たただの変な夢なのかもしれないけど……。ぽつりぽつりと話しはじめるわたしを、リネは静かに見つめていた。
「仕事が終わった帰宅中で、知らない男に会ったの。その人は前からずっとわたしを見張っていたみたいで、つまりその、わたしが感じていた例の嫌な視線の本人だったんだけど」
「うん」
「その男がいきなり路地の角から飛び出して、わたしを押し倒そうとしてきて……わたしは襲われそうになったんだけど、怖くて声も出なくて、周りにはだれもいなくて」
「……」
「必死に抵抗して取っ組みあっていたら、そしたら、ちょうど、手を伸ばした先にレンガのブロックがあったから……それで、その、男の頭を殴りつけたの。そしたら、血だらけになって倒れて」
 そのまま死んじゃった。あの男は、わたしが殺したのだ。あの夜、あの路地で、わたしはひとを殺めてしまった。
「リネは……あの日、わたしが倒れていたって言ってたよね?疲れて眠っていたって……でも、本当はわたしがあの男を殺したことを知っていたんじゃないの?それで、わたしがしたことを、わたしにも全部隠したんじゃ……」
 わたしのために。わたしがリネに救いを求めてしまったばかりに、彼はわたしの罪をすべてなかったことにしてしまったのではないだろうか。そして、わたしは今の今までその記憶を失っていた。高熱にうなされなければ、記憶の断片も思い出すこともできなかった。
 息の詰まる静寂が部屋の隅々まで埋めつくし、身体が押しつぶされていくのを感じた。リネと、こんなに息が苦しくなるほど緊張感で張りつめた時間を過ごしたことがあっただろうか。額に汗を滲ませながら硬直するわたしを目の前にして、しかしリネは淡々とした様子だった。
 まっすぐにわたしを見つめていたリネは、ふいにその形のいい口元からふふと小さく笑い声を漏らした。マジックショーの舞台で彼が見せるような笑い方だった。
「熱でひどく混乱しているみたいだね。現実と夢のちがいもわからないくらい……可哀想に」
 ゆっくりとリネの手のひらがわたしの頬に伸ばされて、大切なものを扱うように撫でられる。
「今日はゆっくりと休んだらいいよ。嫌な夢のことは忘れて楽しい話でもしよう」
「でも、」
「ねぇ、現実には頭から血を流して死んだ男なんていないんだよ。そんな話だれも噂していないし、死体ですらフォンテーヌ廷のどこにも見つかっていないんだ」リネは諭すようにわたしに告げる。「きみがひとを殺せるはずないだろう?きみには血塗られたレンガよりももっと素敵なものが似合うはずさ」
 誘導するようなリネの視線を辿るように、自分の手元を見下ろした。いつの間にか、一輪のレインボーローズがわたしの手の上に横たわっている。
 夢を見させるのが僕の仕事だからね。いつの日か、リネに告げられた言葉が耳の底で繰り返す。どこからが夢でどこからが現実なのか……その答えは解き明かさないままこれからもわたしを縛っていくのだろう。レインボーローズの茎の棘を手のひらで包み込んで、わたしは静かに目を瞑った。

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