※現代パロディ

 顔の似た双子でも、朝はめっぽう弱いというのが兄の方だ。

 平日の朝、自宅から歩いて十秒のところにある児童養護施設『壁炉の家』。要塞のような外壁に見下ろされながら、正門から彼らが出てくるのを待つのがわたしの朝の日課である。朝六時半に起床し、起き抜けの顔のまま制服に着替えて出された朝食を摂って、諸々の支度を終えて家を出てからそこに到着する頃には七時を回っている。同じ高校の制服を身にまとった彼らが現れるのは、それからおよそ一分後ぐらいだ。
 常時と変わらずこざっぱりした佇まいで背すじを伸ばしているリネットに対して、リネは未だまどろみのなかから抜け出せないようなうつらうつらした表情をしていることが多い。普段の粋なふるまいと蕩けるような甘い笑みが似合う彼の面影も見当たらない、めずらしい光景を目撃できるのだが、聞けば、新作のマジックの練習に没頭して夜ふかしをしていたとか、原因はそんなところである。
「リネ、また夜遅かったの?いつも飽きずに熱心だね」
「まあね。でも日中は施設での手伝いとかやることが多いし、お父様には学業最優先って言われているから、実質僕の自由時間は夜ぐらいしかないんだよ」
「ふうん……わたしはリネの熱意がそこまで続くことがすごいなあと思うよ」
「ふふ、きみはいつもすぐ手放すから」
 リネは自分の手のひらを顔の前にかざして、指をひとつ、ふたつと数を数えるように折り畳んでいく。いきなり指を折っていく彼に何をしているのだろうと不思議に思ったが、すこしして意図がわかった。きっとそれは、ひとつめはカメラ、ふたつめは刺繍、みっつめはエアロビで……わたしが手放した熱意もとい趣味の数はすでに両の手を超えるようだ。意地悪くわたしの飽き性を指摘するリネを横目で睨めば、彼はやれやれと言った顔で肩を竦める。リネのそういうキザで芝居がかった所作は昔からのものだ。
 一方、リネットは自作の英単語のカードをぺらぺらと捲りながら、ろくに前も見ずに歩いており、こちらの会話は終始右から左へ聞き流しているようだった。リネットはリネットで、兄とはすこし違った部類の器用さを兼ね備えている。ひとり暗記モードに入る彼女のすがたを見て、ふと思い出した。いや、思い出すには遅すぎた。今日の二限は、英単語の小テストがある。
「ねぇ、リネは英単の予習やった?」
「もちろん。きみは?」
「うーんと、今存在を思い出した」
「そうだと思った」
 元から弟妹の面倒見が良くわたしに対しても兄のようなポジションにいるリネは、一度はこちらの失態に呆れてため息をつくけれど、見放すことは絶対にない。今から予習やる?小さな子どもを甘やかすような声で言う。それから、くるりと手のひらを大きく翻すと、空っぽだったはずの手のなかから単語帳が出てきた。彼はそれをぱらぱらと捲り、今回のテスト範囲のページを開く。レプリカでもない、本物の単語帳を出現させたようだ。
 上から下に英単語を順番に読み上げていくリネの声を聞きながら、わたしはこういうことにずいぶん慣れてしまったなと思った。リネやリネットのささいな動きの随所にマジックが散りばめられていても、平然と順応できてしまう自分がいる。もう十何年と彼らとともに過ごしていれば、当然のことだ。


 物心ついたときから今に至るまで、わたしの成長過程にはつねにリネとリネットがそばにいる。わたしと彼らには血の繋がりもなく家族でもなかったけれど、奇遇にも同じ年に生まれ、同じ場所で育った。わたしの生家と生まれてすぐ孤児となった彼らが預けられた『壁炉の家』は公道を挟んだ斜向かいにある。
 三人はつねに一緒だった。幼いころは、『壁炉の家』の正門前で彼らの名前を呼んで、近くの公園や空き地まで遊びに出かけるのが慣習だった。小学校中学校と同じ学校に進み、自分を取り巻く環境が変わり続けても、わたしたちが離れることはなかった。高校生にあがり、こうして三人が肩を並べて登校していても、誰ひとり違和感を持つことはない。
 「幼なじみ」と呼ぶにはあまりに凡庸かつ不十分で、「家族」と呼ぶには施設にいる彼らに対して傲慢ではないのかと……いつしかわたしはこの関係性を何とラベリングするべきか考えたことがあるが、結局何と呼べばいいのか、結論は未だ出ない。ただ確実なのは、三人の間の目に見えない絆の深さは本物であるということ。わたしはリネやリネットといると息がしやすい。素の自分を十分にさらけ出せる。それはたしかだ。対する彼らはいつだってわたしを宝物のように大事に扱い、やさしくしては甘やかし、わたしの欲しいものをくれる。まるで、「わたし」という人間がどんな人物なのか散々頭の中にインプットされていて、「わたし」を喜ばす選択肢を取ることが決められているように。
 そんなことだから、今まで一度だって三人の間に激しくぶつかる衝突もすれ違うような不和も起きたことがない。平穏な日々が続いていた。それはとうていリネとリネット以外では、築きあげることはできないだろう。
 つまり、出来すぎた平穏だった。諍いのひとつも起きない平穏はたしかに理想であるけれど、理想は理想であって現実ではないのだから、いつからかわたしは違和感を覚えるようになった。なぜわたしと彼らがここまで絆を深められたのか、なぜ彼らはわたしに特別やさしく甘やかしてくれるようになったのか……。違和感を気にしてからは、彼らとの馴れ初めに疑問を抱くようになった。しかし、自分の記憶を辿り、彼らとの思い出をつまびやらかにしていっても、心当たることがない。それに幼いころの記憶は古すぎて、穴が空いたように覚えていないことばかりだ。
 ただ、明確に覚えているのは、最初からリネとリネットはわたしに友好的だったということ。彼らは最初から施設の人間でもない、ただの近所にいる子どものわたしに対して、微塵も敵意を持たず、人見知りすらしなかった。わたしたちが初めて出逢ったあの日、あの公園で、ひとりでボールを転がしていたわたしの手をとってリネはやさしく笑いかけてきたのだ。

「ぼくはリネ。こっちは妹のリネット。ねぇ、きみの名前は?」


「二限のテストできそう?赤点だったら補習があるって聞いたけど」
「どうしよう、全然自信ない」
「大丈夫。もし補習だったらお兄ちゃんと一緒に応援してあげる」
「応援されても何も大丈夫にならないよ……」
 登校中はずっとリネの音読を聞いていたものの、たかが十分そこらの移動時間で数ページに及ぶ範囲をしっかり覚えられた気がしない。げんなりする気持ちとは裏腹にとうとう学校に着いてしまった。それでもテストの存在を忘れていた自分がすべて悪いのだ。頭をよぎる自業自得の文字に静かに絶望する。快晴の朝には相応しくないじめじめとした陰気を漂わせながら、わたしは教室に足を踏み入れた。
 リネたちと別れて自分の席に向かうと、すでに隣の席にはフリーナが姿勢良く座っていた。透き通る朝陽が溶け込んだ樹氷のような色をした彼女の艶やかな髪が、ゆるやかなウェーブをつけて跳ねている。横からおはようと声をかければ、やぁナマエ、おはようと彼女は手元から視線を離さずに、歌うような声で返事をした。視線の先にはポケットサイズの文庫本が開かれている。何を読んでいるのかと尋ねると、本の持ち主は得意のすまし顔で表紙をこちらに見せてきた。象牙色の表紙の上には古めかしい男の肖像画と、斜体でタイトルが書かれている。パリの憂鬱。ボードレールの詩集だ。
「なんだか小難しいものを読んでるね」
「そうだろう?幼いキミにはまだ早いものだよ」
「フリーナだってそんなの読んでるのめずらしいじゃない」
「こ、これから似合うようになるんだよ!今日から僕の一日は、洗練された詩の一遍とともに優雅で高遠な時間を過ごすことからはじまるんだ」
 と高説をのたまうように高らかに言い放った彼女を、得意気に鼻を鳴らすフリーナを見て、わたしは思い出す。それは、幼いころの自分のすがただ。
 遠い昔の話をしよう。
 わたしが五、六歳のころだろうか。重たい霧の帳が街を覆い尽くしていた晩秋の朝、宛もなく街中を散策していたわたしは、道端のゴミ捨て場にまっさらなオルゴールを見つけた。それは何の変哲もない長方形の木箱で、上下開きのフタを開けると二本足で立つウサギの人形が、手足をくねらせ踊っているようなポーズで静止していた。オルゴールをひっくり返すと、箱裏にはぜんまいがあった。けれど、いくらぜんまいを巻いても中のウサギの人形はぴくりとも動かない。オルゴールの機械が故障しているのだと察したわたしは、おもちゃ弄りが得意な年下のフレミネに頼み込んで、一晩かけて完璧に直してもらったのだ。──そのとき、自分が修理した訳でもないのに、リネとリネットに幼心でも惹かれるほどの綺麗な音色を自慢したくて、小さい体で威張っていたんだった。今のフリーナのように鼻を鳴らして。
 あのオルゴールはどこにいってしまったのだろう。今の今まで思い出しもしなかったものが、突然頭のすみに湧き出てきたと思えば、終わりかけの蛍光灯のようにチカチカと点滅して煩わしくその存在を主張する。己がその存在を忘れていたオルゴールは、本当は大切で大事なものなのではないのかとわたしを窓わせる。まるで、自分が今まで大切な部品を失って不完全なまま生きていたことをはっきりと気づかされたような感覚だった。当時の記憶を辿ろうとすればするほど、オルゴールの姿かたちの輪郭はあやふやで、どんな音を奏でるのかも、どこに置き忘れてしまったのかもわからない。オルゴールに纏わる記憶は薄暗い靄に包まれていて、四方八方から睨もうが依然としてその靄の先は何も見えてこない。一片の光の筋さえ通さない。
 頭の中の靄を振り払おうとして無意識にきゅっと目頭に力が入り、眉根の間に険しい皺ができる。とうとう、しぶとく消えない靄を払うことをあきらめて、深く息を吐きながら瞼をゆるやかに持ち上げた。──いつからそうしていたのだろうか。目の前にはふたつの異なる色合いをした瞳がわたしを見つめ、海中の蜃気楼をあらわしたような虹彩がいたく不安気に揺らいでいた。フリーナは困惑した様子で恐る恐るこちらを伺っている。
「お、おい!大丈夫か?急に固まったと思えばこっちの言葉も聞こえてなかったみたいだし……具合でも悪いのか?」
「ううん、大丈夫……すこし、考えごとしてただけだから」
「なんだよ。無理しなくていいんだからな。保健室に行きたかったら僕を頼れ」
「うん、ありがとう。でも、今日は小テストがあるから二限までは頑張ってみる」
「……小テスト?………あっ!」
 こんなにも驚愕と焦燥で顔色を変える人を見たことがない。どうやらボードレールで格好つけている場合ではないことに気づいたらしい。フリーナは口をはくはくとさせて声にならない絶叫をしているようだった。固まる彼女のすがたを傍観して、堪能して……それから気づいた。悠長にしている場合ではない。自分だって立場は同じ、テストの準備は不完全なのだ。慌てて単語帳を机の上に出すふたりの女の頭上で、キンコンカンコンと予鈴が鳴る。


 衣替えした制服にはまだ馴染んでおらず、半袖の隙間からひんやりとした冷房の風が肌を撫で上げていくのが妙に擽ったくて、けれど不快感はない。じっとりと体にまとわりつく湿気を綺麗に洗い流してくれるのを感じながら、いつもの教室で一日の始まりを迎えた。
 朝のホームルームが終わると、担任の気まぐれで席替えが行われることになった。そこでわたしは二度驚いて喜んだ。
 ひとつは、自分が素晴らしいあたりくじを引いたことにより、ベストポジションを手に入れたということ。窓側の端に位置する黒板から見て最奥の席は、熱心に授業を聞くことのないわたしにとって、人の密集から外れて束の間の自由を堪能できる孤高の特等席である。
 ふたつめは、その特等席の隣にまたもフリーナがやってきたことだ。二回連続で席が隣り合う確率は六十分の一ぐらいだと思う。仲良く移動させた机をわたしの右隣に並べた彼女は、そんなに僕のことが好きなのかと、満更でもない顔で告げてくる。実際に、席替えでフリーナが近くにいることはわたしにとっては幸運の部類に入る。ちなみに双子は少しばかり離れた席にいて、昼休みにならないとなかなか話しかけにくい。
 レースのカーテンの隙間から、からりとした日差しが零れ落ちて、机の木目を白く照らした。窓の向こうからは姦しいセミの鳴き声が鳴り続けている。茹だる熱気を伴う夏の日が盛りであることを我々によく知らしめているようだった。
 ふいに、こちらを見つめる視線を感じた。しかし周りには誰もいない。先程の水泳授業の着替えでクラスメイトたちは全員更衣室に行っており、教室の中は授業を欠席したわたしひとりしかいなかった。教室の中を見回してやはり誰の気配もないので、ただの気のせいかと考えて── ふと廊下の方へ視線を滑らせた。すると教室の出入口に、生糸のように艶やかな銀色の髪を下ろした彼がいることに気がつく。
 視線の主は彼だったらしい。教室の境目を超えて目が合った彼は何も発さず、しかしその力のある眼差しはわたしを呼んでいる気がした。フローリングを靴裏で擦るように恐る恐る近寄ってみれば、案の定、用件を言い渡される。
「フリーナはいないのか?」
「フリーナはさっき水泳の授業で、まだ更衣室にいると思います」
「なるほど」ヌヴィレット先輩はふむと納得したように頷いた。フリーナに、何の用があってわざわざ立ち寄ったのだろうか。内心疑問に感じていると、彼は言葉を続けた。「フリーナに文化祭の企画資料を渡しに来た。放課後の生徒会会議で使うものだから、事前に目を通してもらいたいのだが」
「それなら、わたしがフリーナに渡しておきますよ」
 席、となりなんです。放課後に使うことも彼女に伝えておきます。わたしがそう言うと、ヌヴィレット先輩は安堵したように息をつく。そうか、きみがそう言うなら頼みたい。ヌヴィレット先輩の手から、生徒会役員資料と印字されたプリントを受け取る。
「………」
「……?あの、まだなにか」
 言伝を終えてもなおヌヴィレット先輩は立ち去らなかった。その光沢のあるローファーのつま先は一向に明後日の方向を振り向く気配がない。彼はただわたしを見つめている。恋人のような雰囲気を醸し出している訳でもなく、切れ長の瞳は、わたしに何かを語りかけていた。値踏みするように、または探るように視線を投げかけていることを、日頃の慇懃な身持ちの彼にはめずらしく隠そうとしない。
「……すまない。先ほど水泳授業と言ったが、きみは参加しなかったのか」
「ああ、その……昔から水がこわくて」
「こわい?」
「はい。プールとか海とか、水が多いところに行くと足がすくんで動けなくなってしまうんです。わたしにはなぜこわいのか、理由はわからないんですが……でも、やっぱり水辺に近づくと震えが止まらなくて」
 だから、わたしはプールには行かないんです。ヌヴィレット先輩は顔色を変えず、何も言わず、わたしを見つめていた。規律に厳しい生徒会長の彼からしたら、ただ授業をサボっているだけの怠惰な学生だと思われるかもしれない。事実、これといった病症もなく小学生から水泳授業を欠席しているわたしは、そう思われても仕方ないのだろう。
 依然として、その寡黙な表情は変わらないまま、形のいい眉がぴくりと動くことさえなかった。その大理石のような冷たさが宿る面差しは普段と変わらない。だけど、不思議と彼に対しては、畏れだとか気遣わしさだとか、そういった感情は沸かなかった。むしろ、その瞳の奥からは、わたしをやさしく包み込むようなあたたかいものを感じる。
「きみがそうしたくないのならする必要はない。きみが安らかにこの学校生活を送ることを何より大事にしてくれ」
 淡々とした響きとは真反対に、その言葉は彼の公平無私の精神を無視するような、わたしに対しての特別な甘さでありやさしさだった。面識の薄い己に対して向けられるべき言葉ではないように思う。それなのに、なぜ、わたしに。
 困惑するわたしをよそに、彼は早々と踵を返した。そのまま優雅な歩みで廊下の奥に消えていく……。彼と入れ替わるように、ぞろぞろと廊下の奥からクラスメイトの群れがやってくる。髪先を濡らしたリネットが、立ちぼうけたままのわたしの元に歩み寄る。わたしの手元のプリントを横から覗き込んだ。来月、文化祭あるんだ。リネットもわたしもはじめての文化祭だった。


 うちの学校はわりと自由な校風で、生徒の自主性を強く尊重している。たとえば、生徒自ら同志を集めれば部活動の結成も可能であるし、服装やメイクの指定も他の高校と比べて緩い方ではあった。何より、生徒の代表である生徒会の持つ権力が大きく、生徒活動に纏わる予算を決定したり、校則に基づいて生徒を取り締まる権限を彼らは持っている。そして、こういった文化祭などの学校行事の統括をするのも、彼ら、フリーナやヌヴィレット先輩の役割であった。
「知ってる?文化祭に有志で出れるステージがあるんだ」
「ステージ?」
「うん。題目はライブ演奏とかダンスとか何でもいいんだよ。一日体育館を貸し切って順番に発表していくんだってさ」
 もちろんマジックもね。三人並んだ下校中、リネは上機嫌にそう告げた。となりのリネットは特に反応を示さなかったが、ショーをやるとしたら相方のリネットも参加するのだろう。
「そうなんだ。当日、楽しみにしてるね」
「ありがとう。ナマエにとっておきのサプライズを届けてあげるよ。大勢の人前でショーをするから念入りに予行しないと」
「でも初めてじゃないでしょ?だって何回も劇場で、」
 あれ。
「え?」
「……どうしたの?」
 わたし、何を言ってるんだろう。リネとリネットはわたしと同い年で、近所の児童養護施設に住んでいて、小中高と一緒の学校で。それで。
「きみ、もしかして何か」
「ごめん!混乱しちゃってたみたい。変なこと言ってごめんね。気にしないで」
 咄嗟に声を上げて、わざとらしく笑った。わたしの戯けるすがたを、ばかだなあって呆れてほしかったのに。ふたりの顔には困惑の色がありありと浮かんでいる。瞼のふちから零れ落ちそうなくらいに目を丸くして震えさせていた。ふたりのこんな顔を見たのははじめてだった。今まで一緒に過ごしてきた中で、一度だって見たことがない。
「──あ、古文の課題もうやった?あれって今週提出だったよね」
 自分の乾いた声が足元に沈んでいく。慌てて別の話題に変えてみたが、リネとリネットはどこか元気をなくしている。自分の不用意な発言が三人の間の空気を気まずくさせたのだ。いきなり頓珍漢なことを言ってしまった自覚はある。──けれども、わたしのひとつの発言でなぜ彼らがこんなにも……自分の傷を無理やり隠そうとするような顔をしているのか、まったくわからなかった。それでも、どうしてもふたりにその理由を直接尋ねる勇気は湧いてこない。


 わたしたちの通う高校は専門色のない普通校だが、なぜか芸術・服飾・機械など特定の分野で突出した才能を持つ生徒が通う。剣道部やボクシング部などの部活動も、数多くの大会実績をつくって校外に名を轟かせているのも事実である。生徒の自主性を重んじる校風が、他校よりは個々を大事にした教育を後押して、多様的な文武両道を実現させてるのかとも思う。
 そんな我が校で行われる文化祭は、やはり一般校とは一線を画したような企画が例年展示されているらしい。どこかのクラスでは教室五つ分くらいの潜水艇の模型を大掛かりに作成している。というのは隣の席のフリーナから聞いた話である。
「生徒会は今やることたくさんあって大変そうだね」
「まあ、実務が多くてつねに忙しなさそうだよ」
「忙しなさそうって、フリーナも役員でしょ?」
「僕は実務で手を動かすよりも指揮監督の方が向いているからね。公平な役割分担さ」
 フリーナはそう言っていたが、単に仕事をしたくない彼女の分を、ヌヴィレット先輩や他の役員が補っているだけではないのだろうか……。やぶ蛇になることが予想されたのでそれ以上追求しなかったが、ろくに働かず、時によっては高慢とも呼べる態度をとる彼女が生徒会役員として許されているのは、本来であれば訴求すべき問題である。
 しかし、なぜかフリーナは生徒から絶大なアイドル人気があった。なぜかただの一生徒である彼女を慕う熱狂的なファンが校内じゅうにいるので、今まで問題視されてこなかったのである。これもまたこの学校の謎のひとつだ。
 文化祭の話に戻すと、わたしたちのクラスでも同様に出し物決めの多数決が行われたのだが、壮大なスケールのアイディアは出されずに、無難な「喫茶店」に決まったのだった。教室に机と椅子をファミレス席のように並べて、仕入れた飲食物を提供するだけである。──しいて文化祭らしい点をあ げるとすれば、給仕する際の服装が、男子は執事服、女子はメイド服になるという。
 クラス代表がネットで購入したという、黒と白のフリルやリボンが拵えられた、あからさまなデザインのメイド服を受け取り、他のクラスメイトと一緒に更衣室で試着をこころみた。各々その薄っぺらい袖に腕を通し、互いにそのちゃちなファスナーを上げ合いっこしている。かくいうわたしも着てみたものの、慣れない丈の流さのスカートの裾がさわさわと太ももを撫でつけるのが、どうも落ち着かない。明らかに自分の体にフィットしておらず、わたしという背景の中に二千七百円のメイド服が浮き出ているような感覚になる。
「着替え終わった?」
 ひょっこりとロッカーの扉の向こうからリネットが顔を覗かせた。
「うん……リネットはなんかこういうコスチュームが似合うね」
 すでに着替え終えているリネットの全身を見ると思わずため息が出た。丈の短いフリルスカートから伸びるすらりとした脚には無駄な贅肉がない。ごてごてと装飾の多いエプロンが彼女の体の輪郭にぴったりと合わさって、着用モデルの写真かと見間違うくらい似合っていた。加えて、リネットが持参したという私物の猫耳カチューシャが彼女の愛くるしさを助長させている。
 リネットは、わたしの頭からつま先に向けて舐めるように見つめると
「あなたもすごく可愛い。童話のお姫様みたい」
 と、無表情のまま若干ズレたことを言う。
「……メイドなのに?」
「おおっと、そこのおふたり!可愛いメイド服。さすが我が校の華ねぇ」
 突然甲高い声が振ってきたかと思えば、新聞部のシャルロットである。女子更衣室にも関わらず、首から一眼レフをぶら下げてこちらに構えていた。シャルロットは着替えないの?と聞けば、当日は新聞部の仕事で忙しいので教室には顔を出すのが難しいのだと言う。生徒会のフリーナも同じ理由だった。
「せっかくだから写真撮っていいかな?喫茶店の宣伝用写真にうら若き乙女ふたりのツーショットを起用したいの」
「えぇ、宣伝用にわたしなんか……」
「写真撮って。現像したもの一枚欲しい」
「お、いいよいいよー可愛く撮るからね」
「えっリネットは乗り気なんだ」
「うん。あなたとの思い出になるし」
 お兄ちゃんにも自慢できるもの。リネットがやさしく微笑む。


 リネとリネットはマジックショーに使う大道具や衣装を手配するのに忙しない。聞けば、資金繰りのために『お父様』が援助する雑貨屋で有償の手伝いをしているだとかで、放課後も休める時間がないのだろう。日中、リネットが省エネモードに切り替わる頻度が多くなっている。
 リネは輪をかけて寝不足のようだった。授業中、前方に座る彼の頭がぐらぐらと机に落ちそうになったことも、登下校中に何もないところで躓きかけたこともしばしば目にしているのでさすがに心配していた。さりとて、夜眠れてないの?大丈夫?と彼に問いただしてみるも、返ってくるのはまったく心のこもっていない「大丈夫」だ。
 リネットは委員会の仕事があるらしく、今日の下校はリネとわたしのふたりきりだった。だらだらとしたくだらない世間話に、リネはそうだねと相槌、それから大きな欠伸を朱と濃紺が織り交ぜられた夕空に放つ。
「リネ……」
「ごめんごめん、昨日も寝るのが遅かったから」
「どうしてそこまで熱心なの?」
「はは、きみはいつも飽き性だからなかなか理解できないよね」
「茶化さないでよ」
 すかさず横目でじろりと睨むと、リネは言葉を探すように空を見上げた。
「そうだね……あえて言うなら、後悔したくないからかな」
「後悔?」
「うん。僕はさ、僕の力でみんなを喜ばすことができると信じていたけれど、僕の力だけじゃどうしようもできないことがあるんだって気づいたんだ」そう言ったリネの横顔に、赤く燃え盛る夕陽が照らす輪郭に、そこはかとなく哀愁と寂寞の色が混ざりあって溶けていく、彼をわたしの知らない人にしてしまう。「時間も人の命も有限で、それはけっして取り替えのできないものだから……だから、もう運命の機会を取りこぼさないように、後悔しないようにしたいんだ。大切な人が僕の元からいなくなってしまう前に、僕から大切にして、喜びを与えたい」
「いなくなるってそんな……みんな、リネの元から勝手にいなくならないよ」みんなリネを慕って大切にしている。リネを蔑ろにする人なんていないのだ。家族のリネットだって、フレミネだって、『壁炉の家』の人間や学校のクラスメイトだって。それに、なにより。「わたしもそうだよ」
 藤色の瞳が大きく見開かれて、静かに震える。突然リネが言葉をなくしたまま、釘付けになるようにわたしをじっと見つめているので、わたしは彼を傷つけてしまったのだろうか、嫌な予感が胸のあたりをぞわりと撫でる。それでもリネに喜ばれる以外の反応が返ってくる言葉だとは思えないので、なぜ彼がこんな顔をしているのか、ただただ困惑するばかりである。今、彼の顔に宿っている感情の名前を知りたい、そう切実に願った。
 死後の世界のような沈黙がふたりを閉じ込めていた。時計の針は歩みを忘れ、この世のすべての音は消え、時間は永遠に止まっていた。リネの瞳が、西の空に浮かぶ一番星のように光って、わたしの姿を映していた。わたしの瞳の中にも星が、リネの姿が映っているのだろうか。それなら、もしそうなら、永遠に時間は進まなくていい。
「……そうだね。きみはずっとそばにいる」
 風に掻き消されるような小さな声だった。もしかしたら、わたしの聞き間違いなのかもしれない。リネはただ笑っていた。彼の後ろで夕陽が地平線に沈み、仄かなピンク色の余韻を空に残して姿を消した。世界は正常に進んでいる。わたしたちを置き去りにして。





 眩い白い光。無数の水の泡。失われる体の均衡。せめぎ合う重力と浮力。鼓膜に張り付く轟音。焼けるような喉の痛みと、肺が押し潰される苦しさ、ひそかな絶望。
 もし、このままこの濁流に呑まれるのなら。母なる海に回帰して、永遠と故郷を流れる水となりたい。なんて、我が水神へのさいごの敬虔な祈りがこれになるになるとは……。それでも置いていった彼らへの心残りが胸を掠めてたまらない。
 頭上の光は遠のいく。朦朧とする意識の中で死がより現実味を帯びていく。死ぬことはこわい。ひとりで水の底に消えてしまうこともこわい。だから、思い出そう。たのしかったことをたくさん。やさしくて甘い、大切な人たちとのかけがえのない日々を。できれば次の世界へ持って行けるように。
 世界が暗闇に包まれる。しんとした無音と冷たさ。ここは棺のように眠りやすい。そっと瞼が落ちた。どこからか聞こえてくるオルゴールの音。





 眠りから目が覚めた。瞼を開くと光が見える。カーテンの隙間から零れる月の光。視界に広がるのはわたしの部屋だ。暗がりの中の部屋には机と照明と箪笥がある。部屋のベットの上でわたしは寝ている。わたしは眠りについて、夢を見ていたんだ。
 ──夢?ちがう、あれは夢ではない。わたしは本当のことを知っている。あれは現実だ。紛れもない事実だ。

 わたしは前の世界で死んでいる。


 衝動的に、寝静まる家からパジャマのまま飛び出した。行先を考えて、すぐにリネの顔が浮かんだ。会いたいし、会わなければいけないと思った。
 部屋を出る前にとっさに手に掴んだ携帯電話で、リネの番号を鳴らす。ディスプレイの時刻はすでに夜中の十二時を回っていた。もしかしたら眠っているかもしれない、けれど夜更かししているリネならきっと。
『もしもし?』
 二コール目に繋がった。夜更けの電話に驚いたようなリネの声が耳元に届く。
「もしもし、あのね、リネ。今から話したいことがあるの」
 だから、あの公園に来てほしい。この世界でわたしたちがはじめて出逢ったあの場所に。


 リネ、あのね、わたし思い出したんだ。生まれ変わる前の世界のこと。今ここにいるわたしは二回目の人生を歩んでいるんだって。わたしだけじゃなくて、リネもリネットもみんな二回目なんだって。
「……そっか、思い出したんだ。今まで黙っていてごめんね」
 ううん、大丈夫。リネがわたしに何も話さなかった理由もわかるから。
「………。そこはどんな世界だったか覚えてる?」
 信じられないけれど、ファンタジーみたいな世界だった。文明も言語もこの世界にないもので、なにより魔法みたいな不思議な力が使えて、不思議な生き物もたくさんいて……。その世界にいたリネとリネットは世紀の大魔術師って呼ばれていたし、フレミネはペンギンと泳いでいたし、フリーナは神様だったよ。あのフリーナが信じられないけど。でも全部本当にあったことなんだよね。わたしがあの世界で過ごしたことも、ある日突然死んでしまったことも。
「……うん。きみはね、あの日──」
 
 リネは静かに語りはじめる。わたしの死んだ経緯がつまびらかに明かされる。恐ろしい気持ちにはならなかった。それはわたしの記憶にある情報と合致していた。
 あの日、わたしはフォンテーヌ廷を出港する遊覧船に乗って、スメールの田舎まで親戚に会いに向っていた。親切な旅客に出会い、彼らの駄獣の背に乗り広大な砂漠を抜け、数日をかけて鬱蒼とした密林に到着した。しかし、ぬかるんだ山道を進んでいると、ふいに足を滑らせて、あっと思う間もなく勢いのある河川に呑まれてしまった。もがき苦しみながら水底に沈んでいくあの夢は、紛れもなく自分がさいごに見た光景だったのだ。それからわたしがフォンテーヌに帰ってきたのは、リネたちに一時の別れを告げたあの日から半月後だという。水の泡にならず、冷たくなった体で帰ってきた。
 わたしが置き去りにした彼らが、その後どのように生きていたのかわからない。彼らの人生の中で、わたしの死がどんな因果を及ぼすのかもわからない。ただ、この世界の人間として生まれ変わってから知ったことがある。リネがもう後悔はしたくないと告げてくれたことも、この世界の彼らが皆わたしを大切にしてくれることも。形は違えど、わたしに向けられるそのあたたかいものは、たしかな愛だった。
 この人生がわたしの未練を救うための特別な報酬でなく、単なる運命を操るダイスの気まぐれによるものだとしても、どうだっていい。彼らとふたたび巡り合わせてくれるなら、どんな方舟だろうと泥舟だろうと乗ってみせる。わたしはわたしの物語の続きを編むためにここに来たのだ。登場人物のだれもが幸せに笑って幕が下りる、そんなハッピーエンドの物語を。

「これでわかった?僕が今もマジックに没頭している理由。きみが釘付けになるくらいの壮大で魅惑的なマジックを飽きるほど披露して、いつでもきみを楽しませてあげたいんだよ。一生分だけじゃなくて、前世の分も含めてね」
 目の前のリネの笑った顔が、大魔術師リネのものと重なる。平野をそよぐ柔らかい風のように、窓辺に降り落ちる日差しのように、心地よいあたたかさを帯びたリネの笑う顔が好きだった。むかしも、今も、ずっと好きだ。その笑みを瞳に焼き付けて、大事に瞼の裏に隠しながら生きていきたい。リネのやさしさが変わらないように、わたしの気持ちも変わらない。
「まずは文化祭のマジックショーだよ。この世界の技術を使ったとびきりすごいマジックを見せてあげる」
「どんなマジックをするの?」
「ふふ、楽しみにしてて。絶対に絶対に退屈させないから」
 うん、わかった。リネの気持ちが胸の中に染み込んで、じんわりと熱くなる。目の奥から何かが込み上げてくるのが恥ずかしくなって、誤魔化すように言葉を続けた。わたしもマジック勉強しようかな。リネはやさしい声で笑う。ナマエはむかしから飽き性だからどうだろうね。でもなんで急に?───ずっとそばにいてくれるあなたにもっと近づきたいから、と言ったら、リネはどんな顔をするのだろう。


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