自覚すれば、どうしようもない蟻地獄に足を掬われて、どんなに足掻いても逃げられずに否応なく柔らかくて暖かい砂の中へ沈んでいくようだった。もしくは、無害なゼリー状のプールに身を沈められて、胸がいっぱいになるまで溺れさせられるような。抜け出せない甘美な苦痛。自覚すれば、恋とは、つまりそういうものだった。
 己に苦痛を与える本人である彼女は、フォンテーヌ廷・ヴァザーリ回廊の街角にある老舗のベーカリーで働いている。数ヶ月前、急逝した先代から店を引き継ぎ、若年ながらもそのパン作りの腕は長年続く店の評判を落とすことなく、フォンテーヌ廷の中ではささやかな人気を博している。特に妹弟、リネットとフレミネはそれぞれ好みのパンのために足繁くそのベーカリーに通っていたそうだが、リネが実際に店を訪れたのは最近の話である。
 ある日、フレミネが熱風邪を引いて一日ベットに横たわっていた。薬を飲んで安静にしていたが、熱は中々下がらず、リネとリネットは甲斐甲斐しく看病をしていた。
 「お水はいる?」心配そうにリネットが尋ねれば「ううん、大丈夫」力ないフレミネの声が返ってくる。「何かしてほしいことはあるかい」リネの穏やかな声に火照った顔のフレミネはううんと小首を傾げて、それから躊躇いがちに言葉を発した。
「あの……食べたいものがあるんだけど……」
 ペンギン型のクリームパン。思いもよらない回答にリネはきょとんと目を丸くした。
 フレミネが好きなそのパンは、聞けば件のベーカリーに売られているものだという。リネにはどうせならばもう少し消化のいいものを食べてほしかった本心もあったが、大事なフレミネが切望しているのなら断る由はなかった。
 おつかいを頼まれたリネは初めてそのベーカリーを訪れる。閉店間際、沈みかける夕陽が強く差し込んだ店内はがらんとしていて、レジの奥からはかすかに物音が聞こえる。リネは陳列棚を見回して、けれどもどのパンもすでに売り切れているものが多く、果たしてフレミネの要望していた『ペンギン型のクリームパン』というものを見つけられなかった。
 どうしたものかと店内で困り果てていると、ふいに店の奥の物音が止み、パンを乗せたトレーを持った女性がやってきた。ようやく店の中に顔を出した彼女はリネの存在に気がつき、口元をやわらかく綻ばせる。
「すみませんお客さま、お待たせてしてしまいましたね。何かお探しですか?」
「ああ、えっと僕の弟が好きなパンがあるらしいんだけど──」
 リネがここに来た経緯を簡単に告げると、彼女はあっと気がついたように声を上げた。
「もしかしてフレミネくんのお兄さんですか?」
「フレミネを知ってたんですね。僕はリネで、彼の家族です」
「そうでしたか……体調が悪いんですよね。すこし待っていてもらえますか」
 そう告げると彼女はパタパタと再度店の奥、小麦粉の粉が舞い踊る厨房へ戻って行った。置いてけぼりになったリネが数分、所在なさげに店内を見回していると、バスケットの籠にたくさんのパンを詰めて彼女がやってきた。そして、はいどうぞ、とリネに籠を渡す。
「あの、これは?」
「ささやかですけど見舞いの品です。お代は要りませんので。フレミネくんの好きなペンギンパンも入ってますよ」
「えっこんなに?」
 素直に驚くリネに彼女はふわりと軽やかに笑う。まるで秘密のたくらみを胸中に隠す小さな子どものように。

 彼女は、よく笑う人間だった。リネがそのことに気がつくころには、彼女の綺麗にしなだれた眉が、薄らと弧を描く形のいい唇が、鈴のようにころころと弾む声が、やけに頭から離れなくていつも胸の奥を焦がす。彼女の笑う顔を見るたび、頭のてっぺんから足のつま先にかけて微弱な電流を流されたような痺れが起きた。
 己に起きている異常を認め、その原因を解き明かそうとするのは、つまりは自覚するということだった。自覚すれば今までの価値観の中で生きていけるのは最後になり、そして新たな人生の始まりになることをリネはたしかに知っていた。
 それは、リネにとっての初めての恋だった。

 街の小さなベーカリーを営む彼女との出会いは熱風邪を引いたフレミネを通してのものだったが、そのうちリネは理由がなくてもひとりで店を訪れるようになった。彼の動機は、会いたいから会いに行く、ただそれだけ。彼女は一年中ベーカリーで働いていたため、会うためには自ら足を運ぶ必要があったのだ。
「お兄ちゃん、どこ行くの?」
 その日、リネがめずらしく何も言わずに家を出ようとするところを、リネットは見逃さなかった。リネットの記憶では今日の公演の予定はなし、お父様から言いつけられた任務もなかったはずなので、いつもそばにいる彼が単独で動くのには違和感があった。
「──どこって、どこでもないよ。ちょっとそこら辺を散歩するだけさ」
 リネは平然とそう告げて、優しくドアを閉めていった。
 リネ自身がそう言うのなら……リネットは無闇に疑うつもりはなかった。しかし、長年連れ添ってきた妹としての勘が、『兄は何か重要なことを隠してる』とささやき、次第にリネへ訝しむ目を向けるようになる。リネはそれから頻繁にリネットの前から姿を消すので、さらに怪しさを増すばかりだった。
 気になって仕方のないリネットは、壁炉の家を出たばかりのリネの後ろをこっそりと着いていった。華麗な身のこなしで颯爽と回廊の石畳を蹴り、物陰に隠れながら察知されない距離で兄の背中を追う。
 リネの足取りはやはり散歩のような不明確さでなく、まっすぐに目的地に向かっているようで──……ついに、彼は足を止めた。壁炉の家から歩いたのも数分の距離だった。そこは、リネットもよく知っているベーカリーである。
 しかし、リネはそぞろに店の前をうろつくばかりで中に入ろうとしない。誰かと待ち合わせているのかと思えば、そんな素振りもなく、時たま店の中に視線をやったりするだけだった。うろつくこと一分、二分。斜向かいの積荷の影に隠れていたリネットはとうとう痺れを切らして、自分の兄の元へゆっくりと近寄った。
「お兄ちゃん」
「わ、わあっ!り、リネット?」
「こんなところで何してるの」
 不意に背後から声をかけられたリネはひっくり返るように振り向いた。ポーカーフェイスの妹が自分をしっかりと見つめ、仁王立ちしている姿に、思わずたじろいだ。
「い、いや、えーっと、なんでもないよ。リネットこそどうしてここに?」
「お兄ちゃんの後を着いてきた。お兄ちゃんが最近コソコソしてたから」
「コソコソって……」
 リネットの言葉に即座に反論をしたかったが、リネの頭には何と言うべきなのか言葉は思い浮かんでこなかった。それもそのはず、リネの方にもコソコソしていた自覚は十二分にあったのである。
 この期に及んでも中々口を割ろうとしない兄に対し、リネットはじっくりと有無を言わせない眼差しを向けた。リネットの表情筋は相変わらずミリ単位の動きしか見せなかったが、リネには己の隠していたことについて強情になっている妹の不穏な気配が伝わってきた。深く息を吐いて、堪忍したように言葉を発する。
「……その、週末のディナーに」
「ディナー」
「あの人を、誘おうと」
「あの人」
 バツが悪そうに言い淀むリネの言葉をリネットは反芻する。リネの言葉の内容を理解し、どうやら目的はこのベーカリーの店主にあったようだが、気まずそうに明後日の方向に視線を泳がす兄の姿は言葉以上に説得力のあるものだった。
 普段はリネットを含む家族に決して弱いところを見せたがらないリネが、つつけば零れるグラスの水のように不安定で惰弱な部分を曝け出すとは……それほどまでに、彼女はいつの間にか彼の弱点になったのだろう。顔色こそ変えなかったが、リネットの胸の中は珍しいものを見た時のごとくざわざわと騒ぎ立っていた。
「ここに居ないでお店の中に入ればいいのに」
「それは、まあ……そうなんだけど」
「?」
「あーもう!行ってくるから、リネットはどこかで待っててよ」
 上手く格好つけることができずにリネは半ば自棄になって、店の入口を振り向いた。すると、それとまったく同じタイミングでカラカラとドアが開いて中から人が出てくる。彼女だった。
「あれ?リネくんと……リネットちゃん?」
 突然飛び出してきた話題の本人に、リネは一瞬度肝を抜かれたように固まったが、すぐさまいつもの愛嬌の良い笑みを浮かべて挨拶をした。
「やあ、これからどこかに行くのかい?」
「明日使う予定の果物がなくなったから買い出しに行こうと思ったんだけど……リネくん、もしかして今日もお買い物に来てくれたの?いつものパンなら揃っているよ」
「あ、うん。それはよかった」
 なんてことのないようにさらりと告げた彼女に、即座の反応が鈍くなるリネ。話を聞いていたリネットが「いつもの」というワードに引っかかっていると、彼女はさらに「リネットちゃんもいつも食べてくれてうれしいよ」と付け足した。
 ──ああ、そうか。点と点が結びついた。最近、食卓に自分の好きなシナモロールやらベリーのタルトやらがよく置かれるようになっていたのだが、それらはすべてリネの仕業だったのだ。今までよく考えずにパンを食べていたリネットは、なるほど、この人に会いに行く口実のひとつとして家族の好物のパンを買いに来ていたんだと納得する。
 察したリネットがじろりと見やる。リネは内心気まずくなりながら実の妹と目を合わせられずにいた。
「お買い物なら、どうぞ中に入って」彼女に促されて、一行はベーカリーの中へ踏み入った。それからリネと彼女は天気やマジックなど他愛のない話をしながら、買い物をしている。完全に観客側に回っているリネットは、さてどうしたものかとふたりを眺めていた。
「火曜日のマジックショーの公演も盛況だったらしいね。新聞で読んだよ」
「まあね。フォンテーヌ気鋭の大魔術師リネとリネットにかかればどんな舞台でも大盛り上がりさ」
「……羨ましいな。いつかリネくんたちのショーを間近で見てみたい」
 それは、ひとりで店を切り盛りする多忙な店主の不意に零れた本音だった。
 リネは時が止まったように彼女を見つめ、それから静かに息を吸った。初めて大舞台に登ったときのような、緊張と焦燥による生ぬるい汗が手袋の中を湿らせる。徐々に早まっていく鼓動の音が体じゅうに鳴り響いていた。
 これを恋心と自覚してしまえば、規則も模範もぜんぶ自分の中から消えてしまう。マニュアル通りの恋ができないように、彼女の前では普段の自分が、どんな場面でも悠揚迫らぬように取り繕っている自分の虚勢が、まるまると剥がれ落ちていくようだった。
「あの、今週末の夜の予定は?」
「週末?空いてると思うけど……」
「よかった。じゃあ、僕が最高のプレゼントを用意するよ。──あなただけの特別なマジックショーにご招待ってね」
 リネは自分が今どんな表情をしているかわからなかった。持ち前の器用さで、得意の甘い笑みを貼り付けられているかもしれない。しかし、たとえ彼女に気取られないよううまく貼り付けられていても、その仮面の下では内なる自分が地面を転がる勢いで悶絶していた。
 彼女の瞳が、何の変哲もない淡い照明の光を爛々と二度三度跳ね返す。リネの言葉がゆっくりと胸の底に落ちて、信じられない気持ちでリネの顔を見つめた。
「……本当に?うれしい、行きたい!」
「よかったわね、お兄ちゃん。私は邪魔になるからふたりで楽しんできてちょうだい」
「リネット!余計なこと言わなくていいから……」
 余裕なく横にいる妹を諌め、リネは目の前の彼女の姿を目に焼き付けた。幸せそうにはにかんだ顔、己の体の神経にあの電流が流れ出す。
 きっと自分は彼女の笑った顔を見るたびに、甘くて苦しい恋に落ちていくのだ。

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