長らくぶりに神里家の敷居を跨いだ際、わたしはつい嘘をついてしまった。本当は、緋櫻毬の砂のようなじゃりじゃりとした食感も、噛んだ瞬間に舌根にこびりつく甘ったるい味も、ぜんぶ好きじゃなかった。歳を重ねて成長しても、それだけは好きになれなかったのだ。
 城下町で名の知れた菓子屋が開発したという、その薄紅色の水饅頭は見るからにわたしの好みの逆をいったものだったけれど、久しぶりのわたしの来訪に張り切った古株の女中が嬉々として茶請け用に差し出したものだから、さすがに手をつけない訳にはいかなかった。さらに「若様が自らお選びになりました逸品ですよ」とにこやかに案内されてしまえば、なおさら。ひとからの純粋な厚意を無下にできるほど、肝が太い訳でも愚かな訳でもなかった。
 作り笑いを浮かべながら忌々しい緋櫻毬とねっとりしたこし餡の味を噛み締めた。わたしにとって耐え難い苦痛の時間が流れていたところ、数分経ってやっと当の人物が顔を見せた。世間話に付き合ってくれた女中は些かわざとらしくわたしに向けて目配せをしたあと、廊下の彼に恭しく一礼して早々に客間を去っていった。
 彼女と入れ替わるようにしてただ一歩、彼が足を踏み入れただけで、部屋の空気がぴきりと引き締まったものになる。まるで背後の床の間に生けられた百合の立ち姿のように、自然とわたしの背筋が天井に向かって伸びていく。
「お待たせしてすみません。すこし公務が立ち込んでいまして」
 彼、神里綾人の細く澄んだ声が十畳あまりの茶室に染み入る。彼が悠然とした動きで腰を下ろすのを真正面から見つめ、こうして直接相見えるのはいつぶりだろうかと思いにふけった。一見穏やかにすぼめられた目尻も、旭光を跳ね返す霜葉のようにきらめいた髪色も、彼の佇まいのどれを切り取っても完璧で壮美に整えられているのは昔から変わらないままだった。
「お気になさらないでください。あなたが多忙であるのは十分存じ上げています」
 わたしの言葉に彼はふふと小さく笑い、「痛み入ります」とだけ零した。それからわたしの目の前にある空の水饅頭の皿に視線を滑らせて、「お味はどうでしたか」と前触れなく尋ねてくるので、思わずドキリと心臓が跳ねた。
「……とても甘くて美味しかったです」勘の鋭い彼に悟られないように平静をつとめて嘘をついたが、嘘をついている自分の声はやけに嘘っぽく耳に残る。わたしは真正面に座る彼と目を合わせることが出来ず、畳縁の模様をじっと見つめた。「気に入っていただけたのなら良かったです」視界の端でその淡く色付いた唇の端が綺麗に持ち上がったのを認め、ひそかに胸を撫で下ろした。
「こうしてあなたの顔を見るのは久方ぶりですが、変わらずお元気そうで何よりです」
「綾人様こそお変わりないようで……つねにお忙しいと聞いていましたが、だいぶ血色が良いので安心いたしました」
「そうですか。昨夜は緊張であまり寝つきが良くなかったのですが」
「緊張?」
「ええ。やっとあなたに会えるので」
「えっ」
 さらりと告げられた言葉に虚をつかれる。呆然とするわたしに、彼は意趣返しのように満足気な笑みを浮かべた。
 ──途端に自分の顔に熱が集まり羞恥に居た堪れなくなる。恥ずかしさと悔しさで目が回った。鷹揚な彼のさり気ない世辞にいちいち心惑わされている自分がなんともみっともない。
「何度も食事を断られているので今回もはじめは期待をしていませんでしたが、無事にいらしてくれてほっとしていますよ」
 分かりやすく押し黙ったわたしと対照的に彼の口は滑らかに動く。その滑らかに動く口から囁くようにして告げられた言葉は、さらにわたしの居心地を悪くするようなものだった。
「……婚儀のことで大事な打ち合わせをしたいとのことでしたので」
「おや、ご自分が婚約者である自覚はあったのですね。久しく顔を見合わせないうちにてっきり忘れられてしまわれたのかと」
「それは……あなたこそ、日夜公務に追われている中で些末な婚約者のことなど思い出す暇もなかったでしょう。とうにわたしの顔も忘れてしまわれていると思っていました」
 さっきの顔見知りの女中が聞いたら、ぎょっと目を丸くして唖然とするかもしれない。およそ婚約している若年の男女の会話には適さない殺伐とした言葉の応酬だった。売り言葉に買い言葉で会話を続けたが、しかし彼にとっては子猫とじゃれつく程度の挨拶だったのかもしれない。依然と月の裏側にいるような静けさが宿る神里綾人の瞳を見て、そう思った。
 彼はおもむろに自分の水饅頭を口に運んだ。彼がわたしのために選んだという、その緋櫻毬入りの水饅頭を。一口齧り、音も立てず咀嚼する。
「私はあなたのことで忘れたことなんてひとつもありませんよ」

 ▽

 神里家の遠縁にあたるわたしが本家の当主になる神里綾人と婚約を交わすことは、わたしの物心がつくより前に決められたことである。いわゆる家が決めた許嫁というものだった。決して本人同士が望んで得たものではないが、かと言って別に嫌だという訳でもなかった。それこそ幼いころには兄のように慕った彼に対して拒絶の感情は微塵もなかったし、この家に生まれた運命として受け入れるべきものだと教育されてきたので抵抗する動機もなかった。ひとりで家から逃げ出したところで、神の瞳も持たない非力な女は魔物か盗賊の餌食になるだけである。
 わたしが成人の儀を終えたころからか、ふたりの婚儀の話がふたりを抜きにして進められるようになったが、中々どうして具体的な時期も結納の手筈も決められなかったのは、国の社奉行たる本家が諸般のことに日々忙しない状況だったからだろう。当主の神里綾人こそつねに怒涛の毎日を過ごしていたが、一方のわたしといえば流行の反物の柄を眺めたり、気晴らしに琴を引いてみたり、めりはりのない籠城の姫のような生活を送っていた。
 十二分に知っていたことだが、神里綾人はわたしがこれまでに会ってきた中でもかなり要領のいい人物で、それは社奉行の仕事に留まらない。もちろん己の利敵関係を鑑みた上でだが、彼は周囲の人間の幸福と調和を考えて生きている。周囲というのは、つまり婚約者であるわたしも含まれており、自分が目が回るような忙しさに追われていても婚約者の存在は大事にしようとしてくれているようだった。
 というのも、彼はよくふたりの食事に誘ってくれたのである。それは二ヶ月に一度だったり、三週連続で続いたり、頻度はまちまちだった。
「ナマエ様がお越しになるので若様はわざわざセイライ島から新鮮な海鮮を仕入れたのですよ」
 神里家での晩餐会に向かった三度目か四度目かの夜、あのお喋り好きの女中が囁くようにわたしに告げてきたのをよく覚えている。わたしが文字の読み書きをこなせるようになった頃あたりから本家に仕えている彼女は、わたしと神里綾人に時おり孫を愛でるような慈愛を向けてくるので、今回の婚約には人一倍熱心であった。わたしと話す際にはなにかと神里綾人の株を上げたがるので、もしかしたら神里綾人に対してもわたしを褒めちぎっているのかもしれない。
 それでも、女中の言うことはあながち嘘でもなかった。晩餐会の食事は言わずもがな、彼はつねに紳士的に婚約者然としてわたしに接してくれて、籠城の姫のつまらない生活の話も興味深そうに聞いてくれた。筆まめな方ではなかったが、ふたりが会えなかった分を埋めるように会食中はお互いの濃密な話をしていたので、彼に対して一方的な寂しさを覚えることもなかった。
「たまに、この婚約がこわくなります」
 なぜその話をしてしまったのか、自分でもよく思い出せないのだが、彼がつくった居心地の良すぎる空間に気が緩んでふと胸の内にわだかまっていた本音が零れてしまったのだろう。その時、きょとんと目を丸くした彼がわたしの顔を覗き込んだ。
「こわい、ですか?」
「ええとその、なんて言うのでしょう、良い意味でというか……何もかもが順調すぎるのでこわくなります」
「ナマエは今を順調だと思ってくれているのですね」
「自惚れでしょうか」
「まさか。私にとって褒誉の言葉ですよ」
 彼はそう言って機嫌よく笑っていた。とはいっても、わたしは彼が機嫌を悪くしているところを見たことがない。わたしと居る時の彼は、常日頃の過労の翳りも一切見せなかったし、その端正に整った顔だちをまるで幼子のように綻ばせることもあった。わたしたちは誰が見ても仲睦まじい婚約者同士に見えていただろう。きっとこの先も順調な結婚生活がすでに約束されているかのように、出来すぎた幸福を永遠として疑わなかった。
 ──しかし、わたしはある日を境に彼からの食事の誘いを断るようになった。神里家にも近寄らず、徹底的に自分の婚約者と会うことを避けていた。大事な婚前の打ち合わせがあると呼び出されたあの日まで、わたしは長らく彼の前に姿を現さなかった。

 ▽

 初めて見た時、どこか異国の香りのする男だと思った。神里兄妹の新たな側近として任を受けたトーマという青年は、装いや武具は稲妻のものだが、纏う雰囲気はたしかに自分の身近にいる者にはないものだった。
「さすがナマエ様、当たってますよ。俺はモンドで育ちましたから。父は稲妻の出ですが母はモンド人なんです」 
 単刀直入に尋ねたわたしに、トーマは包み隠さず己の身の上を語ってくれた。それ以降、彼はモンドと稲妻の文化の違いや海の向こうの大陸の流行など、隙を見て話してくれるようになった。孤立した島国で生まれ育つわたしにとってそれらはとても刺激的で、まるで真新しいおとぎ話を読み聞かせられている気分になった。
 神里家に伺う用事が出来た際には、トーマの話を聞くのが楽しみになった。一般教養としてテイワット大陸の地理だけを叩き込まれた頭に、新鮮な見聞が注がれていく。それはたとえば国の神の性格の違いだったり、彼らを信仰する民の気質の違いだったり、民が愛する文化や食事のことなど。
 嫁入り仕度もとうの昔に終えていてあとは神里家の仕事の波が収まりさえすれば……という状況だったのだが、時を同じくして九条家の内部対立などがあり稲妻の世情は慌ただしくなる一方だった。そのため、いきなり異国の文化に興味を持ちはじめたわたしのことを諌める者はいなかった。どうせ暇を持て余しつくした令嬢の趣味が変わっただけだと周囲には思われていたに違いない。
 社奉行として、御三家のひとつとして、やり遂げるべき仕事が一旦落ち着いたとの報せを聞いて、わたしは神里綾人に会いに行った。数週間ぶりに会った彼はいつもと変わらない表情をしていたが、わたしの顔を見るや否や「ずっと棺桶に閉じ込められていましたよ」とくたびれたため息を吐いた。彼は仕事や政治の話はしたくないと言い、わたしが普段何をしているのかを尋ねてきた。 
「城下町で璃月から来た冒険者と知り合いまして、それから彼女に料理を教わっています」
「ほう、それはめずらしいですね。異国のご友人ですか」
「はい。トーマと話すようになってからか、もっと自分も社交的になってみようかと……」
 無性に照れくさくなり、わたしは誤魔化すように湯呑みの淵に視線を落とした。すこし不自然な沈黙がふたりの間を通り過ぎる。ちらりと真正面を窺うと、ばちりと目が合った彼は表情も声音も変えず「そうですか」と告げた。
「いつかナマエの作る璃月料理をいただきたいですね」
「そんな、味は期待しないでくださいね。それに璃月の味付けはこってりとしたものが多いので綾人様の口に合うか……」
「ふふ、ナマエが作るものでしたらなんでも美味しくいただきますよ。ナマエこそ、元々食が細かったでしょう」
「量は食べられませんが、味が好きなんです」
「味?」
「ええ。辛いものが好きで……璃月料理の中でも絶雲の唐辛子を使った蒸し饅頭がお気に入りで、家では茶請けとして出してるんです」
「唐辛子の辛みをお茶のお供に?……想像するとかなり冒険的ですが」
「わたしは好みの味でした。むしろ、緋櫻毬が入っている稲妻菓子の味の方が苦手でしたので」
 彼はわたしの顔を見つめ、穏やかに笑っていた。彼の笑い方には一切の嫌味がなく、わたしの発する言葉のひとつひとつを大事に受け止めてくれるように。
「そうですか。覚えておきましょう」

 ▽

 城の中で終わる趣味で留めておけば良かっただろう、しかし、異国に関心を抱いているのだ。実際に現地に赴いて、見たり食べたり歩いたりしてみたいというのが自然の流れではないのだろうか。
 正式に籍を入れたら己の自由はほとんどなくなる。だったら、今の独身時代に小規模な旅のひとつふたつ、と夢を見てしまう。鎖国令は廃止され、稲妻を出入りする旅客船の数も倍以上あるという。ならば一層、あの城に籠りきる理由は今更なかった。
 けれど現実はそう甘くなく、大事な結婚を目前に控えた娘の一人旅に中々両親は賛同してくれなかった。──だからといって易々と諦めることはできず、なんとか納得してもらおうと言説を尽くして三日三晩。ひとり娘の強情に折れた父は神の瞳を持つ護衛を雇い、母は必ず連絡を寄越すようにとわたしに約束させた。いよいよ港から船が飛び出す時、わたしは期待に胸いっぱい膨らませて、自分の身の回りの何もかもを置いていこうと決めていた。これは束の間の夢の旅だと思っていたから。
 その日が境だった。その日から神里綾人からの食事の誘いが、わたしの家を介してやってくる度、わたしは丁寧に断っていた。たまに稲妻に帰ることはあっても、あの神里屋敷に立ち寄ろうとはしなかった。数日限りの旅行のはずが、十日二十日と日を延ばすようになって、自分の婚約者のことを忘れるように各地を転々としていた。
 けれども、その余暇のような旅は突然終わりを迎える。軽策荘の竹林でたけのこ狩りをしていたわたしの元へ神里家からの使いの者がやって来て、半ば問答無用で稲妻行きの船に乗せられた。若様が婚儀の大事なお話がしたいとのことです、とだけ告げられて。採ったばかりのたけのこを抱きながら、遠くなっていく璃月港の景色をひたすら眺めるしかなかった。
 長らくぶりに神里家の敷居を跨ぐ。

 ▽

 そして、今に至る。
 清々しいおもさしで緋櫻毬入りの水饅頭を口にする彼を見て、なんだか無性に璃月の味が恋しくなった。中々本題に移ろうとしない彼に、これまでの長旅の思い出話をしようかと思ったが、出会い頭に婚約者の自覚はあったのかなんて刺々しいことを告げられた手前、そんな度胸はない。というか、自分の置かれている状況は自分が思っているよりも深刻なのではないだろうか。久しぶりに会った婚約者の様子が今までと何も変わらないものだったので、己の危機管理を担う勘が鈍くなっている。
「あの、綾人様」
「なんでしょう」
「婚儀に関する大事なお話というのは……」
「ああ、そんなことを言ってましたね」彼は静かに湯呑みに口をつけたあと、流れるようにわたしを見やった。「それは嘘ですよ」
「えっ」
 思わず、素っ頓狂な声が自分の口から飛び出した。
「こうでもしなければあなたは帰ってこないかと思いましたので」
「……綾人様」
「はい」
「怒っておられるのですか?」
 彼は綺麗にその口元を歪め、ふふと小さく笑った。一見した限りでは、いつも通りに機嫌の良い神里綾人のようだった。しかし。その恐ろしく美しい笑顔の下には、どす黒く塗りつぶされた何かが蔓延っているような気がしてならない。
「怒ってるだけなら良かったのですがね」
 ぴきりと、どこかで水面を張る薄氷が割れた音がした。どうやら怒らせてはいけない男を徹底的に怒らせてしまったのだと、馬鹿なわたしはようやく気がついた。目の前に座っているのは火のついた棒を携える鬼神だった。──逃げるように視線を泳がせ、空の菓子皿を見つめる。一種の洗礼のように彼に出されたあの大嫌いな桃色の味には、遠い異国で覚えたものもすべて上書きされてしまいそうだった。

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