母が蒸発したあの父のことを愛していたのかという問いには、一切の逡巡も挟まずに首肯することができるのだけれども、果たしてそれが本物の愛情だったのかという問いには、実の娘のわたしでも答え方を迷うのだ。父は、漁の出稼ぎで得たモラ袋をもれなく酒瓶に変えてはすきま風が差し込む居間の床に無造作に転がしていた、ろくでもない男だった。そんなものだから、酒気を帯びて益々気性を荒くさせる父から逃げるよう、日中の母は本当の生活費を稼ぎに街へと出かけ、わたしは野の原っぱの中で裸足に泥をつけて寝て過ごしていた。
 ──女はね、愛されるために生まれてきたの、自分の愛する人から愛されて尽くされてしあわせに死んでいくのが、女という生きものなの。
 父が忽然といなくなったあの日から、母は時たまに胡乱な目をしてそう宣うようなった。それが愛する男に捨てられた事実を認めず自分を鼓舞するための暗示なのか、男を未だ知らない娘に対する忠告のつもりなのかは判別のしようがなかったものの、母が父の帰りをずっと待っていたのは紛れもなく事実であった。古ぼけた食卓の上に並ぶのは必ず三人分の食事、配膳する母の左手には依然として光るシルバーのリング。父好みのけばけばしい色をした口紅が引かれた母の口許を、いつの日も、ベタついた豆電球の光がくっきりとなぞっていた。
 しばらくして、知り合いの郵便屋から、父に非常によく似た男をポワソン町で見かけたと聞いた。その父らしき男はどうも飲み屋の女の家に転がりこんでいるらしいが、とうとうわたしはポワソン町まで事実を確かめようとすることも、母にうち明かすこともしなかった。母にとって父を待ち続けることはもはや生きがいであり、この世の唯一の執着であったし、それはつまりわたしのふとした言葉の切れ端でも今まで見て見ぬふりをしていた足場は崩されていく危うさがあり、いとも容易く母を殺すことができるのだった。
 母から父を奪うことはけっしてできない。ただでさえ、毎晩必ず余りものとなる一人分の食事を台所に流す彼女の背中は痛々しい。
 一見して無害でありながらも、しかし冷静さとは真反対の内なる狂気を如実に孕んでいたもので、母のその狂気の矛先はしだいに、まあ順当に、娘のわたしに向けられた。
 愛されるために生きなさい、と母は言う。万人から愛されるような、利発的で愛嬌のある清らかな娘に仕立てるべく、母の洗脳じみた教育が始まった。丁寧にヤスリで磨かれた足のつま先には、もう土泥なんかをつけることなんて許されるはずもなく、ただ愛される要件を満たす人間にならないと……。それがわたしに課せられた呪い、なのだろう。

 そうこうして、やっと独り立ちできる歳になり、わたしはようやく母の元から離れ自立することが叶った。半分度胸試しのつもりで受けたパレ・メルモニアの役人採用試験試験がなんとうまく決まり、あの共律庭の共律官の職につくことができたのだった。
 村でいちばんの出世頭になったと母は大いに喜び、娘のわたしの積年の努力が報われたと泣いて、しかしそれには母からの呪いとなる執念が根ざしていたのだとは、やはり指摘することはできなかった。
 共律庭は、時計の針に終われるほど各々忙しなくしている。ばさばさと書類を束ねる音、年季の入ったタイプライターを弾く音、デスクの合間を縫うように行き交う足音。のんびりした気風に包まれた田舎でろくに世間も知らずに育ったわたしには、つねに何かに攻め立てられているような心地を覚え、新任のうちはただひたすらに手を動かすことで精一杯である。上司のデスクから漂うドリップコーヒーのまろやかな香りがもの珍しく、ふと顔を上げて鼻を効かしぼんやりとすることがささやかな安寧だった。
 とは言っても、フォンテーヌの心臓部であるこの場所には、つねに多種多様な人々が集うため、ほんのひとときの安寧の時間も相殺される気苦労もままある。
「あんた、新入りかい?えらいべっぴんさんやし、ええとこのお嬢さんか。歳はいくつ?」
 その日、フォンテーヌ廷の港の出入り許可を求める漁師──父のことがあってただでさえ漁師には良い心象がなかった──の男が執拗に絡んできて、なにより不躾にこちらを値踏みするような目線を投げてくるのに心底うんざりとしていた。出入港の手続きは済んでいるのに、いつになっても彼がこちらを解放してくれる気配はない。あいにくとなりのデスクの同僚は休憩中だったので、奥にいるセドナに視線を投げかけ続けていると、ようやく事情を察知した彼女が警備員を呼んでくれてなんとか事は収まった。
 ……こういうことだって起きるのだ。しばらくは愛想笑いを貼り付け続けた頬の内側が引き攣っているのを感じていた。

「ところで、最近は順調だろうか」
 執務室のヌヴィレット様に報告書を届けた際、前触れもなくそう尋ねられ、面食らう。当然ながら最高裁判官である彼とはただの上司と部下の関係で、今の今まで業務的な会話しかした覚えがない。彼の力強い眼差しに見据えられると、わたしの中の緊張の糸もきつく張り詰められていく。
「ええと、はい、順調だと思いますが……あの、何かありましたでしょうか」
「先日、きみが来訪者にしつこくまとわりつかれていたことをセドナから聞いた」
「しつこく……」
 ……ああ、あのときの。ヌヴィレット様の言葉にようやく、朧気にあの漁師の男の顔が頭に浮かんだ。
「それからはもうあのような人はいらしてないので、大丈夫です。ご迷惑をおかけすることはありません」
「それはきみが判断できることではないだろう」
「え?」
「たとえ好意的なものであっても、他人からの感情を受け止める側の当事者であるきみはコントロールすることができないはずだ。先日の者にはマレショーセ・ファントムから口頭注意を施したが、業務時間外のきみに危害を及ぼす可能性も捨てきれない」
「えっと……」
 たしかにヌヴィレット様が指摘したものは至極真っ当なものであったけれど、なによりこうも真っ直ぐにわたしの身の安全を心配してくれることが新鮮で、腑に落ちた納得よりも慣れないむず痒さを覚える。冷たい彫刻のように揺らぐことのない美しさが宿るその口許から、まさか自分を気遣う言葉がすらすらと出てくるのはなんとも不思議な心地がした。以前、マレショーセ・ファントムのメリュジーヌががつけ狙われる事件があったが、彼の中でそのことが関連めいているのかもしれない。
「なにより迷惑をかけるのはきみではなく危害を与える者の方だ」
 毅然とした態度で告げられる。気品が漂う執務室の床に自分の情けない声が沈んだ。首の裏がちりちりと焦がされたように痒い。

 この国の最高権力者である方に特別目をかけてもらっているなんて、身のほどを弁えない自惚れは実に恐ろしい。欲深さが顕になれば、いつか身を滅ぼすことになるだろう。なにより、もし慎ましさの欠いた振る舞いをしようなら、わたしに貞淑を求める母のことを裏切り、堕落しきったあの父に近づいていくことになるような気がした。それは耐え難いほど嫌だった。
 けれども──自惚れや勘違いを辞めようと己に言い聞かせ、あくまで客観的に俯瞰するように努めてもなお、ヌヴィレット様からの自分への厚情の矢印はたとえば他の同僚と比べ、些かばかり大きいように感じていた。

 共律庭の窓口が閉ざされ職員がぽつぽつと帰り始めていく、空が燃え盛るように赤く染まった頃、わたしは書類の束を抱きかかえながら執務室をノックした。
 ヌヴィレット様はいつもの席で渡された書類を流し見た。雪羽ガンの翼のような切れ長の目尻が小刻みに揺れている。ステンドグラスから差し込んだ夕焼けの光が宙に舞う小さなホコリを照らし、結晶石のような明るさを豪壮な部屋に散りばめていた。
「ご苦労。これらは私の方で受理しよう」
 よろしくお願いします、と浅く礼をする。即座にドアの方へつま先を向けようとするわたしより先に、ヌヴィレット様が言い淀むように口を開きかけた。
「……?あの、何かありましたでしょうか」
「いや、特段重要な用事はないのだが」それでも口ぶりははっきりとしない。「もし、きみさえ良ければこの部屋でお茶を飲んでいかないか」
「お茶を?」
 はて、と小首を傾げる。彼の言葉をゆっくりと咀嚼し完全にその意味を理解するまで、二度瞬きをする。
「私もたった今公務が落ち着いたところだ。可能ならきみとここで歓談をしたいと思ったのだが」
「わたしと」
「もちろんこれは業務ではない。私的な付き合いとなるので嫌であれば遠慮なく断ってほしい」
 そんな、嫌だなんて……。とっさに首を横に振る。この国の最高裁判官に対する畏れの感情は抱いていても、わざわざ目下のわたしにさえ融和的に接しようとしてくれる彼の意を無下にすることははばかられた。
 彼はわたしが立ち去る気がないことを認めると、サイドテーブルのケトルのお湯をティーポットに注ぎ始める。こぷこぷと湯がポットに溜まる音が静寂な部屋の中に響き渡った。上質そうなソファのクッションがわたしの強ばった体をゆるやかに沈めていく。
「ヌヴィレット様は飲まれないのですか」
「私は普段から紅茶より水を嗜む性分であるから気にしないでくれ」
 ティーカップから湯気がたち込む。手元から漂う芳醇な茶葉の香りが鼻腔を撫で上げた。
「ルミドゥースベルの香り……」
「知人から薦められた茶葉だ。嫌いではなかっただろうか」
「好きです。わたしの故郷の村に生えていたので、幼い頃はよく摘んでいました」
 トタン小屋のようにボロくて狭い家、噂話が一晩で駆け巡る集落、番を探すクジャクバトの姦しい声。けれど、あの青々と茂る原っぱから遠くの空に浮かぶ飛行マシナリーを眺める時間は、この世界のどんな嫌なことも忘れることができた。
「それは良かった」
 わたしの真正面に座る彼のおもさしをしげしげと見つめる。その端正な輪郭は変わらず一寸の狂いもなかったけれど、良かったと呟いたときの彼からは一瞬普段感じ取れないような柔和さがあったような……いや、やはり勘違いかもしれない。
 ヌヴィレット様はわたしの故郷のことを詳しく尋ね、わたしは紅茶を継ぎ足す。一切の陰りのない太陽が燦々と窓の縁に沈んでいく。

 それからも、しばしば執務室でヌヴィレット様と会話をすることが続いた。最初のうちは、右も左も分からない未熟な新入りに、憐れみを持って親切にしてくれているのかと思っていたが、こうも私的な歓談とやらが続くと、不思議に思う。ただの末端の共律官のわたしが特別目をかけられているみたいだ。
 どうして、わたしが……。疑問を口にすると、セドナはまた困っているのかと尋ねた。困っている、というより、身に余る厚遇がただただ不思議だった。自分の感情はきちんと整理がついていない。「だったら問題ないじゃない。羨ましい、ヌヴィレット様とお話できるなんてあなたは特別なのね」メリュジーヌの彼女にそう言われるのはなんとも奇妙な話である。

「きみは以前田舎の村の出身で家が貧しかったと言っていたが」
 嫌味のない淡々とした声で告げられる。
「はい」
「きみの普段からの所作や身のこなしはずいぶん精錬されている。出自を明かさなければ誰も予想できないだろう」
「ああ、それは……教育熱心な母のおかげでしょう」
 ぼんやり母の顔を紅茶の水面に浮かべながら、そっと瞼を下ろす。今ここにいる自分の、髪の先から足のつま先まで、ティーカップを支える指の置き方も、すべてが母がつくったものだった。
 ええとこのお嬢さんか。いつだったかあの漁師の男に言われた言葉が脳の髄に反芻する。父もあのような下卑た笑い方で女を口説くのだろうか。そんな父を、母はいつまであの家で待ち続けているのだろうか。果たしてそれらは本当の愛情なのだろうか。
「その影響も大いにあるのだろうが……いや、すまない」
「?なぜ謝られるんです」
「きみの細やかな所作にはいつも目を引かれていたのは確かだが、そればかりではなくきみ本来の魅力があることを伝えたかった。うまく言語化して説明する方法を苦慮している」
「ヌヴィレット様も」
「ああ」
「不得手とされていることがあるのですね」
「当然だ。私は全知全能ではない」
 ルミドゥースベルの溌剌とした香りが舌先で踊る。執務室の窓からは今日もまた目を覆いたくなるほど赤く膨れ上がった夕陽の光が差し込んでいる。絢爛な執務室の中に、ふたりの影を色濃く印すように。
「わたしもです」
「……」
「ヌヴィレット様からお茶に誘われるたびに、どうしたらいいか戸惑うことがあります。なぜ自分のような人間に声をかけてくださるのだろうと不思議に思っているので」
 透き通った琥珀色。彼の虹彩が波打つように揺れる。
 自分のような者がなぜこの部屋に居ることができるのだろうかと思い巡らせては、答えは見つからない。
「……その理由は、時間をかけてきみに伝えていきたい」
 今はきっとわからない。それでも、わたしがそれを理解したときには、そのまま死んでしまってかまわないと思っていてほしいのだ。

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