ショッピングモールのゲームコーナーの入口の、小さな売店で買ってもらった、ピンク色の雲みたいな形をした綿菓子の味がわたしの記憶のいちばん深いところに眠っている。ふと、何かを空想する度に、幼い日の思い出と共に、あの綿菓子の甘ったるい砂糖の味がわたしの舌の上に転がっていく。綿菓子は口に入れた途端に溶け始め、甘い蜜のような汁と、歯列に纏わりつく細い糸に化け、わたしは噛む度にまるで雲のように掴みどころのない不確かな食感を味わうのだった。

 口に何かものを入れなければ、飲み込む唾が苦いなと感じ、そのためまたあの綿菓子の味を考えていた。コース料理の合間に出てくるグラニテやソルベのように、これからやってくるメインディッシュに挑むために、口内に蓄積された味の感覚をリセットして、すっきりとした状態で食事をしたい。しょっぱいものを食べるには甘いものが必要不可欠で、それはどんな物事に対しても通じることだと思った。

「あれー奇遇だね」

 オークル色の髪の、にこにこと貼り付けられた笑みを常に絶やさない彼の姿を視界の中に見つける度に、わたしは綿菓子の味を口の中に呼び起こした。いつもは彼の気配を感じると、息を潜め、狩場に迷い込んだうさぎのように一目散で退避するのだが、今日はついていなかった。朝の星座占いではそんなに悪い順位でななかったはずだけど。

「……犬飼くん」
「今日、任務ないよね?わざわざ基地まで来て自主練?エラいね」
「大したことじゃないよ。今から帰ろうと思ってたし」
「おれも今から帰るところなんだ。もう遅いし送っていくよ」

 息をつく間も与えないほど、すらすらと話を進めていく彼を見て、まるで教科書の文章を読み上げている授業の時間みたいだと思った。送っていくよという言葉は、それだけだと提案のように聞こえるが、彼はすでにトリオン体を解除して隊室の方を指さしていた。今すぐ行こうと促してくる彼の動作に、わたしはいいとも嫌とも言えないまま、無言で彼のとなりに並んだ。
 この場合、わたしは彼に見つかった時点で負けが確定している。今から帰ると言えば、おれも帰るところだと返される。まだ訓練を続けるつもりだと言えば、じゃあおれと模擬戦付き合ってよと誘われる。柚宇か誰かと会う約束があると言えば、そうなんだ、おれも一緒に待ってていい?と巧みに躱されるだろう。押しては引いての繰り返しで、彼の視界に捕捉され話しかけられたら最後、わたしはどうすることも出来ない。真木ちゃんとか、ヒカリとかキッパリと自分の意見を言える女の子だったら、犬飼くんの誘いにも堂々とNOを突き付けられるのだろうけれど。生憎わたしと犬飼くんの性格の相性は最悪だ。嫌なものを嫌と言えないわたしと、嫌なものでも嫌と言わせない彼。どう見たってわたしが振り回されるのは確定している。

 ピンクの綿菓子、七色のバルーン、ゲームセンターのコイン。水色のゾウのスプリング遊具。パンダの電動カート。頭の中に思い浮かべるのは、あのショッピングモールで過ごした、胸踊る大切なひとときのこと。無心でそれらをかき集めれば、この耐え難い辛苦な時間も乗り切ることが出来るだろう。夢想を続ければ、舌の上の綿菓子の味も、実体を手に入れた幽霊のように、その存在が顕になっていく。なので、犬飼くんに話しかけられるとき、必ずと言っていいほどわたしの口の中はピンクの綿菓子の味がする。

「考えごと?」

 無機質な壁が一面に続く通路の途中で、犬飼くんはおもむろに立ち止まり、わたしの顔を覗き込んだ。彼の垂れ目がちな翠色の瞳の中に、表情筋が強ばったわたしの顔が浮かんで、ゆらゆらと蠢いていた。わたしはハッと息を飲み、すぐに顔を背けた。「なんでもないよ」基地の中を循環する空調の音にかき消されるか分からないほどの大きさで、ぽつりと呟く。「そっかあ」彼の耳にはちゃんと届いていたらしい。犬飼くんは鼻歌を歌い出すかのように、背を伸ばして頭の後ろで腕を組みながら歩き始め、いつもと変わらない口調で私に言った。

「残念。告白の返事、考えてくれてるのかと思った」


  


 ボーダーに入隊してからずっと、オールラウンダーを目指していた。大した理由はないけれど、トリオン量が戦闘員の平均よりやや多めに持ち合わせていたわたしは、だったら色々なトリガーオプションを使ってみたいと純粋な好奇心が湧いていたのと、レイジさんのような戦闘スタイルに密かに憧れを抱いていたのだ。
 スコーピオンのポイントが目標に到達し、個人ランク戦でもまずまずの勝敗数を維持し続けたころ、ガンナートリガーの練習をはじめた。師匠のつては無かったが、こっそりと嵐山隊や三輪くんのログを参考にして、見よう見まねで習得していった。接近戦と中距離型の展開の切り替えは、嵐山隊のテレポーターのようにサブトリガーを軸にこちらから持ち込むか、三輪くんのレッドパレットのように相手の動きを封じ込めて攻めにかかるか、工夫をしなけば上手く活用できない。武器はたくさんあっても、使いこなせなければ武器にならない。二番煎じなやり方ではなく、自分独自の戦闘方法を見つけようと、わたしはガンナー用の訓練室に頻繁に籠るようになった。学校と防衛任務以外の時間はほとんど基地の中にいたし、暇そうな隊員を見つけてはランク戦に申し込んでいた。「最近太刀川さん化してないかい?」と柚宇に指摘されたのは、つい最近のことだ。どうやらわたしは何かにハマると、没頭し続けてしまうらしい。サイドエフェクトなんて大それたものでは無いけど、わたしの特性だった。

「アサルトライフルを構える時は、もっと背すじを丸めた方が打ちやすいよ」

 訓練室でアステロイドの試し打ちを行っていると、不意に、後ろから声をかけられた。いきなり話しかけられた動揺で、照準が大きくぶれ、弾は部屋の壁に衝突しドンと破裂した音を鳴らした。「あー…ごめん。邪魔しちゃったね」振り向くと、頬を掻きながら申し訳なさそうな顔をする、犬飼くんが立っていた。長らくこの部屋で練習をしていたが、ここで彼に話しかけられたのははじめてのことだったので、暫しわたしは彼の姿をまじまじと眺めてしまった。

「気にしないで。その、教えてくれて、ありがとう」
「ねえ、よかったらおれもここにいていい?」
「え?」
「一緒に的打やろうよ」

 犬飼くんは自分のアサルトライフルをわずかに上げて、わたしに微笑んだ。ガンナー同士がふたりで狙撃練習するのって、効率が悪い気がするけど…。同期だけどあまり喋ったことのない犬飼くんに、わざわざそれを説明するのも、何だか気が引けた。宛もなく目線をさ迷わせ、言葉を躊躇わせ、数秒の沈黙が流れた。意を決して、わたしが「いいよ」と答えると、犬飼くんはパッと華やいだような笑みを浮かべた。

「やったあ。おれ、きみの狙撃もっと近くで見たかったんだよね」

 ささいなことで大袈裟に喜ぶ犬飼くんは、子どもっぽい可愛らしさがあって、ろくに話したことのないわたしにも対等の目線で会話をしてくれる、人当たりのいい人だなと内心好感を持った。いきなり名前にちゃん付けで呼ばれたことに対しては、少し引っかかったけれど。

 その日を境に、犬飼くんとわたしは会話をすることが増えていった。何も、今まで無視していたとか、全く接点がなかった訳じゃない。任務で一緒になれば少しだけ雑談することはあったし(二宮さんがいるから、ほんの少しの間だけ)、基地ですれ違えばお互い挨拶はする。ただ、学校も違うし、元々わたしがアタッカーだったためポジションも被っていなかったのもあり、犬飼くんと話す機会は他の同年代のカゲや穂刈くんたちと比べると、少なかったと思う。またこれは後に彼本人から聞いた話でもあるけど、わたしが何かに没頭している間は『話しかけるなオーラ』が体から湧き出ていて、とてもじゃないけど気さくに話しかけるのは難しいらしい。わたしは全くそのオーラを出してるつもりはないから、犬飼くんの言うことは大袈裟に聞こえたけど、確かに自分が集中していると、周りの雑音も視界に入る人影も、全く気にならないほど意識の外に除外されているから、あながち間違ってもいないのかもしれない。だったらどうしてあの日、狙撃をしていたわたしに声をかけたのかと尋ねると、「チャンスだと思って」と上手くはぐらかされたような答えが返ってきた。


 訓練を終わらせて、基地を出る直前に、任務から帰ってきた影浦隊のメンバーと鉢合わせた。「おい、飯食いいくか」ぶっきらぼうにわたしを呼びつけたカゲに誘われるがまま、わたし達はいつものお好み焼き屋に来ていた。わたしがスコーピオンをメインに使っていた頃、カゲに剣術を教えてもらっていたこともあり、時たまにわたしたちはよくご飯を一緒に食べることがあった。トリオン体で過ごしてるとは言え、長時間基地で過ごしたままろくに食事を取っていなかったわたしは、彼の誘いに断る理由もなかった。本当はここにユズルくんの姿もあるはずだけど、「練習したいことがあるから今日はパスする」と彼は基地を出ずに別れてしまった。わたしが加わったことで気を使わせてしまったかと一瞬焦ったが、にやにやとヒカリが「ユズルのヤツなぁアイツ青春してんだよ」と小指を立てながら耳打ちをしてきて、そうなんだと納得した。

 カゲはかげうらミックスを、ゾエはかげうらミックス大盛を、ヒカリはネギもちチーズを、わたしは豚キムチをそれぞれ頼んだ。熱々とした鉄板に、カゲがボウルに入った玉を四回分流し入れ、ヘラを使って薄く引き伸ばしていた。ぱりぱりと表面が焦がれる音と、豚肉から染みでる脂のジュウジュウと焼かれる音が重なり合い、鉄板上の上には焼かれている具材から放たれた湯気と、とろみのある粉の匂いが立ちこもっていた。カゲはわざわざロングTシャツの腕を捲り、ヘラを離さないまま目の前のお好み焼きの作成に集中していた。誤解されやすい性格だが、彼はとても面倒見がいいことを知っている。

 「おまえ最近何してんだよ」カゲが銀色のヘラを忙しなく動かしながら尋ねてきた。ゾエは追加のおつまみを探してメニュー表を眺め、ヒカリは机にうつ伏せになりながらスマホを眺めている。「今はアサルトライフルの特訓中だよ」「そういえばオールラウンダー目指してるんだっけ。あっ、コーンバターととり軟骨追加してもいい?」「あ?勝手にしろ」カゲがヘラを生地と鉄板の間に差し込んで、軽々とひっくり返していく。さすが、手際がいい。

「スコーピオンまではいかないけど、アサルトライフルも慣れてきたからまたカゲとランク戦したいな」
「おー何回でもぶった斬ってやるよ」
「誰かに弟子入りしてるの?」
「ううん。でも、最近犬飼くんが特訓見てくれてる」
「…あ゛?」
「うわぁっカゲ!マヨネーズ飛び散った!」
「おっ出たな〜カゲのいぬかいアレルギー」

 カゲが思わず手にしていたマヨネーズのボトルに力を込め、鉄板と机の淵に中身の一部を飛ばしてしまったのを、横に座っていたゾエが身をよじって退避した。ヒカリは真向かいの男性陣のやり取りも気にもとめず、いつの間にか焼き上がっていた自分のお好み焼きを直箸でつつき始めていた。

「おいおまえ、あいつから教わってんのかよ」

 物言いたげなカゲの目が、じろりとわたしを睨んでいた。見かねたゾエが、横からまあまあとカゲを宥める。「俺はあいつが気に食わねえんだよ」とぶつくさと文句を口にするカゲに、わたしはそういえばそんな話も聞いたことがあることを思い出した。つい、いつものような会話の延長線上で犬飼くんの名前を出してしまったが、カゲが一方的に犬飼くんのことを苦手に思っているのは、わたしたちの中では言わずと知れた共通認識だった。

「お前っていぬかいと普段何喋んだ?」

 口からチーズの糸を伸ばしながら、おもむろにヒカリが尋ねてきた。わたしもヘラで出来たてのお好み焼きにメスを入れながら、普段の犬飼くんとの会話を思い出す。最初は確か、アサルトライフルの使い方から始まって、もっぱら戦術について話し合っていたと思う。犬飼くんはわたしより洞察力とか、戦闘を観る慧眼が優れているから、彼の話を聞くのは面白い。逆に訓練以外の時間では、もっぱらわたしが質問攻めされている。住んでいる場所、休みの過ごし方、好きな音楽、得意科目、エトセトラ。プロフィール帳の項目をひとつずつ埋めるみたいに、犬飼くんは順繰りに個人的な質問を投げかけてきては、それを興味深そうに聞いているのだ。わたしはしどろもどろになりながらそれに答え続けるけど、内心、彼はこんなことを聞いていて楽しいのかなと疑問に思っている。彼の完璧な笑顔の裏は、一寸も覗くことができない。

「あまり…犬飼くんの質問に答えるって感じ」
「はぁ?なんだそれ!いぬかいのやつ不気味だな!」
「犬飼なりに仲良くなりたいんだとゾエさんは思うけどなぁ」
「あ?あいつがこいつと?」

 ゾエの言葉に、カゲが足の裏で虫を潰してしまったような顔をした。たちまちヒカリは「なんだそういうことかぁおまえらも青春してんだな」とにやけ顔で横から体をぶつけてくる。「そういうんじゃないってば」わたしはヒカリの体を押し戻し、気を沈めるようにお好み焼きの欠片を口に運んだ。自分で頼んだ豚キムチの味がよくわからない。


 三人とそんな会話をしてから、わたしの犬飼くんに対する意識も、絵の具が着いた絵筆を泳がせたバケツの水のように、じわじわと明確に塗り替えられていった。今まで何気なしに会話出来ていたことが、突然彼の心の底にある真意が気になり始め、上手く自分の言葉が出てこなくなる。犬飼くんは変わらず、にこにこと笑顔を絶やさない。それはわたしだけじゃなくて誰に対しても同じことだった。自分にだけ微笑まれるのならまだしも、みんなにも平等に分け与えている笑顔のまま接してくるから、彼に特別わたしに向ける好意や欲望はないだろうと、自分を言い聞かせる。彼の笑顔の裏を覗こうなど、わたしでは甚だ無理な話だ。だから、変な期待も思い込みもせずに、無心で犬飼くんと接するべきだと考えていても、どこかよそよそしい口ぶりになってしまう。生まれて十八年目にして、自分からドアを開けることは容易でも、他人から不用意に開けられることには強い抵抗を持っていることを知った。カゲと同じような理由で、仲良くなればなるほどわたしは犬飼くんに苦手意識が芽生えはじめていた。


「おれ、きみのこと好きなんだよね」

 休憩室の自販機で、バナナオレのボタンを押したわたしに、犬飼くんの声が唐突に降り注いだ。ガコンと紙パックのジュースが転がり落ちる音と共に、わたしは息を飲む。取り出し口に出てきたのはちゃんとバナナオレだった。

「気づいてた?」

 犬飼くんは自販機の間に割り込むようにわたしの顔を覗き込んだ。彼の顔は至って変わらない、いつも通りの表情だった。まるで遠くのスナイパーの照準内に居合わせてしまった時のように、防衛本能から呼ばれたカンが働いて、わたしは自分の心臓を狙われている心地がした。訓練室で話しかけられた時の、アサルトライフルを片手に持つ犬飼くんの姿が重なる。勘違いや自惚れなどではなく、最初から彼に狙われていたことに気がついた。


 


「………」
「ごめんごめん。今のは意地悪だったかな。でも、ずっとおれのこと一方的に避けてるんだからこれぐらいは言ってもいいよね」

 隊室へ続く通路の道中は、幸いにも周りに人影はなくわたしと彼だけだった。いや、もしかしたら誰かの姿があった方が良かったかもしれない。犬飼くんとふたりきりになることを避けられるのなら、例えネイバーでも嬉しい。
 押し黙るわたしに対し、何が面白いのか、犬飼くんは流行りの歌でも口ずさむかのようにとなりを歩いていた。対するわたしは憂鬱な気分だった。

 隊室の前までやってくると「待ってるから荷物取っておいで」と、犬飼くんは立ち止まり、壁に背を預けた。まるで彼氏みたいな言い草だなと思いながら、仕方なく中へ入り、自分のロッカーからスクールバッグを取り出した。誰もいない隊室の中でひとりため息をこぼし、視界の端に壁時計の文字盤を捉えた。時刻は十九時半を回っていた。


「昨日さ、ひゃみちゃんがビックリマンチョコまとめ買いしてて、一枚分けてもらったんだ。アレってひさしぶりに食べるとワクワクするよね。おれ、昔よくシール集めてたのを思い出したよ」
「そう」
「あれって全部シールが入ってるからお得だよね。むしろ、シールが本体でチョコがおまけみたい。ナマエちゃんは昔食べてた?」
「わかんない、一回くらいはあるかも」
「曖昧な回答だね。あまりお菓子とか興味ない感じ?」
「甘いものは好きだよ、綿菓子とか」
「何そのチョイス。かわいいね」

 街灯と建物から篭もれる明かりが、一面を覆う暗がりの闇をほのかに照らし、街中の喧騒へふたりの声がゆるやかに吸い込まれていった。茹だるような日中の暑さから一変、微かに流れるそよ風が気持ちいい。ふと、横から彼のよく回る口を見上げて、彼はどんな状況でもこんな感じなんだろうかと気になった。もし、わたしがいきなり取り乱して暴れてみたらどうするだろう、とか非現実的なことを考えてみる。
 わたしの視線に気がついたのか、犬飼くんが不意にこちらを見た。ふたりの視線が重なると、彼はいたずらっ子のような不敵な笑みを浮かべる。

「きみって自分の癖知ってる?」
「…癖?」
「うん。いつも考えごとしてると口がモゴモゴしてる。何か食べてるみたい」
「うそ」

 ぱっと口元に手を当てて、硬直する。指摘された恥ずかしさで、顔が熱くなっていった。わたし、今までずっとそんなことをやっていたのだろうか…。無性に恥ずかしくなっているわたしを、犬飼くんは無遠慮にけらけらと笑っていた。「で、何考えてたの?今日の戦績?」

「ううん、犬飼くんのこと考えてた」

 わたしの言葉で、一瞬、ふたりの時が止まった。犬飼くんは笑い声を止めて、その翠色の瞳を丸くさせた後、ぽつりと「……そっか」とだけ呟いた。彼はそのまま静かに歩き始めて行くので、わたしも気を取り直して彼のとなりを歩く。よくよく考えてみれば、とても恥ずかしいことを言ってしまった。でも、珍しく彼を静かにさせることができたので、怪我の功名だろうか。夜の景観が頬を撫で去っていき、ふたつ分の靴音が目抜き通りを抜けた薄暗い路地の中に響いた。犬飼くんもわたしと同じように、自分からドアを開けることは容易でも、いきなりドアを開けられることには弱いらしい。はじめて彼の素の部分に触れられた気がした。



 「戦ってる時とそうじゃない時の差が激しい」と、はじめてカゲと手合わせした時に言われたことがある。差、というのは、つまり彼が感じるわたしの感情のこと。普段何気なく暮らしている時─例えばカゲと他愛のないことを話したり、みんなでかげうらに行ったりしている時─、彼が受けるわたしの感情は取るに足らない、無害で微弱な電波らしい。元々空想しがちな性分で、常にぼんやりと生きているからか、日常の一コマ一コマに感情を大きく揺さぶられることはあまりない気がする。(恐らく、そういう考え事をしている時に「口をモゴモゴ」させているのだろう。)良く言えばマイペース、悪く言えば周りに関心がない。ただ、自分が何かに没頭している時はその空想も頭をよぎらず、雑念も雑音もなくなり、目の前のことだけにただ集中するのだ。それが試合中であれば、敵の首のことしか考えられなくなる。「カピバラの皮を被ったハイエナみてーな奴」と、カゲは最初わたしのことをそう評していた。彼の中でカピバラとハイエナは両極端の位置にいるらしい。

「なかなかサマになってるじゃねーか」

 ブースから出てきたカゲは、暇つぶしにはなったという顔で大きく伸びをしていた。

 スコーピオンとアサルトライフルをセットしてから、はじめてランク戦に挑んだ。カゲに十本勝負を申し込み、試行錯誤の上に思いついた接近戦と中距離戦の合わせ技を試した。エスクードとアステロイドで相手の行動範囲を狭めると、通常のアタッカーならまっすぐにこちらへ斬りかかってくる。自分の間合いに入ったところでエスクードを障害物として出現させ、体制が崩れたところをアステロイドで仕留めるか、エスクードを自分の踏み台に利用しながら、捨て身でスコーピオンで斬りかかるか。いくつか戦術パターンは用意していたけど、実践でうまくいったのは最後のひと試合ぐらいだった。まだまだ修行することがたくさんあるなと思いながらも、カゲ相手に一本取れたのもあり、自分の戦闘方法に手応えは感じている。
 
「付き合ってくれてありがとう。おかげで色々改善するところがわかったよ」
「おーそいつはよかったな。つうかおまえがエスクードなんて使うとは思ってなかったわ」
「今の武器に合わせられるサブを考えてみたら、こういうのもありかなっと思って」

「あ」

 つい先ほどの対戦を振り返るわたしとカゲの後ろから、不意に声をかけられる。この声は、と頭が識別すると同時に、体の神経がピンとバイオリンの弦のように強く張られていくのを感じた。「あ?」わたしより先にカゲが振り返る。「やあ、カゲ」声の主、犬飼くんはわたしたちに近づき、明るい声で話しかけた。わたしは恐る恐る後ろを振り返った。

「……犬飼くん」
「カゲと個人戦したんだね。途中から観てたよ」
「てめえはいちいちヒマなのかよ」
「さっきまで二宮さんとの約束があってこっちに用があったんだ。カゲと違って自分の時間はいつも有効に使ってるから、ヒマって訳でもないよ」
「……あ゛?」
「犬飼くん!」
「ねえ、今度はおれとやろうよ」
「えっ」
「おい、ヒマじゃねえんじゃなかったのかよ」

 さらりとわたしを個人戦に誘う犬飼くんに、わたしの思考が固まる。犬飼くんは対戦相手として申し分ない。ガンナーだし、カゲの時とは違った戦略が必要になってくるから、一度相手になってもらうのは勉強になるかもしれない。
 ──けれど、犬飼くん相手に集中するのは今のわたしには困難だ。彼だけはどうしてもダメだ。自分の心臓の雑音も、彼に対する雑念も、全く振りほどくことができないのが、すでに戦わなくてもわかりきってることだった。思考が彼によって侵食されて、きっと戦闘に集中することができない。魔法攻撃を食らって数ターン動けなくなるゲームキャラみたいに、こてんぱんにやられるだろう。

「えっと、わたし、ちょっと用があるから!ごめん」

 慌てて言葉を紡ぎ、逃げるようにその場を立ち去った。あからさますぎる態度だと思ったけれど、仕方ない。ドタバタと足音を立てながら、ランク戦会場を後にした。


 


「おまえ、あいつになんかしたのかよ」

 走り去っていく彼女の後ろ姿を眺めていると、となりから責め立てるような声が聞こえてきた。カゲは警戒心を丸出しにしたような顔で、こちらを睨んでいる。彼に睨まれるのは今回に限ったことでは無いので、別に驚きもしない。

「別に?嫌われるようなことは何もしてないよ。しいて言うならこの前告白したけど」
「……はァ?告白?」
「それからずっと避けられちゃってるんだよね」

 口に出してから、ちょっと違うなと思った。告白前から若干避けられているような感じはした。恐らく、おれが頻繁に彼女の元へ訪れることに彼女自身が戸惑って色々意識してしまったんだろう。おれのことを意識してくれるのは万々歳なことだけど、あからさまに避けられるのは悲しい。最近はムキになって無理やり帰りのタイミングも合わせたりしていたが。

「おれは結構脈アリかと思ってるんだけどね。告白の返事聞かせてくれるまで押してくべきかなー」
「あ?知らねえよ。つうかあいつに迷惑かけんな」
「カゲは優しいね」
「うぜえ、思ってもねえこと口にすんな」

 カゲは吐き捨てるようにそう言うと、スタスタとどこかへ消えてしまった。ひとり残されたおれは、さて、どうしようかと考え始める。
 彼女の居場所は大体目星がつく。遊びすぎたから、そろそろ詰めてもいいだろうか。


 


 ピンクの綿菓子を買ってもらった時、手放しでその甘い味を堪能していた。ずっと憧れていたそのシルエットは、個体と言うにはあやふやな輪郭で、口の中で唾液と混ざり合えば途端に溶けて、固い紙屑のような歯ごたえがした。他には味わえない不思議な食感と、割り箸に突き刺さった雲がわたしの中で溶けていく感覚は、幼いわたしを虜にさせた。

 その綿菓子の味は、今ではもう二度と味わえない。あの大規模侵攻が起こった日、幼い日の記憶の詰まったショッピングモールは崩壊し瓦礫の屑となってしまった。ピンクの綿菓子も、七色のバルーンも、パンダの電動カートも、全てなくなった。なくなったものに格別悲しみや怒りは湧いてこない。わたしだけではなく、みんな同様に何かをなくしているから。綿菓子の味はわたしの中のいちばん深いところに置き去りにされて、ふとした時にその味が口の中に蘇る。
 例えば、そう、今みたいに。

「みーつけた」

 無人の訓練室の隅の一角で、膝を抱えてうずくまっていたわたしにその声は突然降り注いだ。反射的に顔を上げると、にこやかに笑う犬飼くんがわたしを見下ろしていた。まるでふたりがかくれんぼをしていたみたいな口振りで、用があると言って逃げたわたしを追い詰めていた。

「…犬飼くん」
「用ってこれから訓練でもするの?おれが付き合ってあげようか?」

 犬飼くんはしゃがみ込んだままのわたしと目線を合わせるように、となりに座った。いつものように涼し気な表情をしているけれど、彼はどこか怒っているような感じがした。わたしは必死に言葉を手繰り寄せながら、どう答えるか考えあぐねていた。

「えっと…」
「もうさ、辞めにしようよ。おれから逃げないで」
「……」
「おれのこと嫌い?」
「嫌いじゃないよ!」
「そう」

 犬飼くんはそれだけ呟くと、横からわたしにもたれ掛かるように体を預けた。犬飼くんのシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐった。彼と接している体の表面が、火傷を負ったように熱く感じる。自分の鼓動が、彼の耳にも届きそうなくらい、どくどくと大きな音を響かせている。
 汗ばむ手を隠すように握りしめながら、気を落ち着かせるように、あの綿菓子の味を呼び起こす。けれども、いっこうに綿菓子は現れない。口の中は乾ききっていた。

「…犬飼くんと一緒にいると、考えごとができない」
「考えごとって?」
「昔の、思い出」
「いつもそれを考えてるの?」
「うん」
「何で?」
「大好きな綿菓子の味がするから…」

 傍から聞いていれば理解不能なことを話しているのは分かっているけれど、別に彼に理解してもらえなくても良かった。犬飼くんはふうんと相槌を打って、自分の隊服のポケットから何かを取り出した。黄色い個包装の形がちらりと見える。「ラウンジで配られたんだ。熱中症予防だって」皮切りされたレモンのイラストと目が合った。彼は小袋を切ると、中の飴玉をひとつ自分の口の中に放り込んだ。

「でも、いつまでも過去に縛られてるのって良くないよね。ちゃんとおれのこと見てもらわないと困るよ」

 犬飼くんは体を起こすと、わたしの左肩を強く掴んだ。驚きもままならないまま、わたしは彼の顔を見上げる。怪しげに細められた翠色の瞳が、呆然とするわたしの姿を捉えていた。彼はそのまままっすぐに顔を近づけ、もう片方の手でわたしの顎先を捕まえた。彼とわたしの距離がなくなると思った瞬間に、わたしは彼に口付けられていた。触れるようなキスではなく、まるで動物の捕食行為のように、強引に舌が唇の合間を割って侵入する。押し戻そうとするわたしの抵抗も、彼の腕の力によって制されていた。わたしの口の中は、彼の自在に動き回る舌先によって支配されている。口の中を一巡舐め回された後、固い異物が舌の上を転がされた。ピリッとする酸味と、ほのかな果汁の風味が突として広がる。

「おれのこと考えたら今度からこの味がするね」

 犬飼くんは満足気に口許の端を吊り上げながら、わたしに囁いた。彼に渡されたレモンの飴玉が、わたしの口の中で異色な存在感を放っていた。「どう、味は?」わかりきっていることをわざとらしく尋ねる彼に、少し辟易としながら言葉を返した。「…すっぱい」不貞腐れたわたしの回答に犬飼くんは声を立てて笑った。顔が熱く、ばくばくと心臓が鳴り始めていたけれど、彼の思うがままに取り乱してしまうのは癪だった。自分の気を確かめるように、飴玉を舐める。カロンと、舌の上で玉が回る。
 綿菓子の味はもう二度と思い出させそうにない。思い出そうとする前に、このレモンの飴玉の味が舌背に粘りついて離れないだろう。

「もう、犬飼くんのことしか考えられなくなるよ」
「熱烈な愛の言葉だね。この前の返事ってことでいいのかな?」
「犬飼くんがそう思うならそれでいいんじゃない」
「あれ、なんか怒ってる?」
「いきなりキスされて、怒らない人ってあまりいないと思う」
「いやー逃げ回るきみにイラついてさ、つい」
「…犬飼くんってなんか怖い」
「え心外だな」
「何考えてるのかわからないよ」
「結構単純だよ。きみが思ってるよりもね」

 犬飼くんは立ち上がると、わたしに手を差し伸べた。黙って自分の手のひらを重ねると、体を上へ引っ張りあげられた。彼の奔放なペースに飲まれてしまっている。

「おれが今考えてること知りたい?」

 犬飼くんの言葉にわたしが頷くと、彼はわたしの耳元に顔を近づけた。今日はやけに犬飼くんとの距離が近くて、何だか現実味がない。訓練室は他に誰もいないが、基地内でこんなにくっついているのを誰かに見られたらどうしよう。犬飼くんはあまり気にしなさそうだ。それ以上に、彼に触れられても、いきなりキスをされても嫌じゃない自分がいる。

 わたしが起き臥しする間、考えごとをする時のクセは以前と変わらず、だけど脳裏に映し出される記憶と口の中に生まれるフレーバーは違うものになったせいで、いちいち小恥ずかしい感情に揺さぶられてしまうのも、その都度カゲからは気味悪がられて、犬飼くんが機嫌が良さそうに笑うのも、これから起こる未来の話だ。この後彼が耳元でささやいた言葉で、わたしが茹でダコのような顔で彼を引っぱたくのは数秒後。

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