その天井は真っ白と呼ぶには語弊があって、かと言ってシミで汚れているわけでも黄ばんでいるわけでもなく、何だか中途半端な白色だった。アイボリーやクリームなど、両目の瞬きを繰り返すたんびに天井の色が変わっているようにも見える。数秒の間ぼんやりと見上げていても自分の記憶の中に存在しない天井の色で、たしかに見慣れないものだったけれど、そこでふと気づいた。そもそも自分の記憶は空っぽだった。
 そぞろに足を伸ばすと、剥き出しの踵につるつるしたシーツの表面が擦れた。腕には点滴の針や心電図のモニターから伸びたコードがまとわりついている。ゆっくりと掛け布団をめくると、予想通りというか、簡易的な入院着を身につけた自分の体があった。
 ひとまず、なるほど、と息をつく。されどもこの状況については何も解明されておらず、依然として頭の中は十一月の朝のような重苦しい霧に一面を覆われていた。脳に酸素を送り込むように何度息を吸っても吐いても、霧が晴れていくことはない。
 ベットの上で半身を起こす。すると、静寂を煮詰めたような部屋の外から、にわかにひとの足音が聞こえてくる。コツコツと鳴るその軽い足取りは段々と大きくなって、部屋の前で止まった。思わず自分の体に力が入る。息を飲む前に開かれるドア。
「あ……」
 バチンとぶつかる。緑色の瞳が、大きく見開かれて、ゆらゆらと揺れ動いていた。
 音も光も吸い込むほど静けさが張り巡られた海溝の色のような緑だと思った。そこには若い男性がひとり、わたしを見つめ立ちぼうけていた。彼の唇から、弱々しい声が漏れる。わたしにはその緑色も口端から零れた単語にも覚えがなかった。
 いや、きっと違うのだろう。わたしは忘れてしまったのだ。きっと、わたしは彼と出会った記憶をすべて失っているのだ。わたしを見つめる彼の顔と、頭の中を覆い尽くす白濁した霧が、そんな絶望めいた予感を囁いていた。

 ▽

 「あなたは、激しい頭部外傷による脳しんとうの影響で──」白衣を着た壮齢の男性が静かに告げる。「一時的な解離性健忘の症状にあります」
「一時的?これは治るということですか」
「保証はできません。記憶を戻せるかは本人次第になります」
 はあ、とため息をついた。医師の口ぶりは、まるで決められた役者のセリフを読み上げるかのように淡々としていた。こんなドラマティックな出来事にも眉ひとつ動かさずに処理できる彼の胆力に感心したが、本来ならばこうして話を聞かされているわたし自身が取り乱すべきなのだろう。
「就業時間内の被災によるのであなたの勤め先から入院費と施術料が補填されます。疑問があれば受付で確認を」
 けれども、これが自分の身に降り掛かっている災難だとはまるで実感が湧かない。現在進行形でここがテレビの中のドラマの舞台だと錯覚しそうになる。
「あの、被災とは?何か起きたのですか?」
 診察室はわたしと医師のふたりきりだった。部屋の向こうからは慌ただしく走るナースシューズの音とひりついた声が、昼下がりの平穏を掻き乱している。うっすらと目の下を黒くした医師は変わらず生気のない声で告げた。
「ネイバーによる大規模侵攻がありました」

 ひとの記憶というものは存在自体が曖昧で、昔あった出来事の朧気な輪郭を辿る作業は、うたた寝の時に見る夢のように不安定で不思議な感触がする。『ネイバー』やら『侵攻』やら、わたしの勤め先だという『ボーダー』やら、その単語を耳にすると、たしかにそんなものがあったような気もするし、突拍子のない夢の話を聞かされている気もした。あの日目覚めてから三度日が沈んでも、わたしの記憶は未だに深い霧に覆われている。
 ぼんやりと窓の淵に沈む夕日を眺めていると、コンコンとドアを叩かれた。反射的に振り返り、どうぞと呼びかける。
「お疲れ。気分はどうだ?」
 スライド式のドアが開かれると同時に、彼が足を踏み入れる。ゆっくりとベットのそばに寄る彼をわたしは見上げた。
「はい、大丈夫です」
「そうか。足のリハビリの方は?」
「まあ、なんとか」
 歯切れの悪い笑いが膝の上に落ちる。真っ直ぐにこちらを見つめる緑の瞳に息苦しさを覚えて仕方ない。何故だかわからないが、彼との会話はこの病院にいる人間の誰よりも緊張する。
「だいぶ回復したみたいで嬉しいよ」
 目の前の彼について、すでに彼から聞いた名前と職場以外に知っていることはない。およそ通りすがりの他人と同程度にしか人となりを理解していない。けれども、わたしに向けられるこの厚意は義務的な態度が含まれておらず、あたかも彼自らの親切心で成り立っているようにさえ感じた。確証のない、勘だけど。
 彼は毎日ひとりでこの部屋を訪れては、わたしの体調や天気の話など、取り留めなく当たり障りないことを話す。決まって朱色と黒の隊服を身につけており、よく見れば左腕には『BORDER』のエンブレムが刻まれている。
「……ここに来る時は、いつもお仕事帰りなんですか?」
「ん?ああ、そうだな。本部からここに来ることもあるし、ここから本部へ帰ることもあるよ」
 それより、きみに敬語を使われるのはすごく違和感があるな。ベッド脇に置かれていたパイプの丸椅子が床に引き擦られて歪な音が一瞬鳴る。彼は椅子に腰を下ろすと、観察するようにわたしの顔を見つめた。ふたりの間の距離が近くなる。
「すみません、あの……」
「うん」
「よく会話する仲でした?わたしたち」
「そうだな。きみと俺は同い年で、同じ大学に通って、ボーダーに所属していた。きみは本部のエンジニアで俺は部隊の隊長だけど、少なくとも俺は仲が良かったと思ってるよ」
「そうなんですね」
「まあ、いきなり知らない人間に仲が良かったなんて言われても困るよな」 
 彼はきまり悪そうに頬をかいた。ずいぶんと、感情が言葉や態度に出やすい人だ。
「でも……わたしもそう思う」
「え?」
「何となくだけど、あなたが病室に入ってきたときから、あなたのことよく知ってるはずだと思ったから」
 地平線へ沈みかけた西日が大きく背を伸ばして、部屋の中にいるわたしたちの体を熱く焦がした。彼の赤色の隊服はさらに燃えるように眩しく光り、何色かも分からない色になる。瞬きを繰り返すたび、全く違う色に移ろい変わっていく。
 星のような緑色の瞳が揺れ、静かに伏せられる。壊れそうなくらい優しい笑みと一緒にぽつりと零されたのは、あの日も彼が口にしたわたしの名前だった。

 ▽

 大規模侵攻のあった日から、つまりわたしがこの無機質な部屋で眠るのも一週間経った。
 その間、同居している家族や報せを聞いた友人がこの部屋を訪れたが、やっぱりわたしは彼らの名前も関係性も思い出すことはできない。わたしにとっては初対面の人物で、けれど彼らにとっては違う。事情を知っていく彼らの表情が落胆にも同情にも取れて、この無機質な空間がより一層居心地が悪くなった。
 話を聞けば、ボーダーはネイバーを討伐するための街の防衛機関らしいが、果たしてそんな大それたところでわたしがきちんと責務を全うできていたのか、エンジニアとはどういう職務内容だったのか、疑問は降り止まない。けれども、あの大規模侵攻の日(正確には第二次侵攻と呼ばれるらしい)以降、わたしの上司や同僚を名乗る人物が続々と見舞いに来ているため、どうやらわたしがボーダーにいたことは事実らしい。
「ここを退院したらきみはどうしたい?」上司である城戸司令は形式的にわたしにそう尋ねたが、もはや答えの分かりきったことを確認しているだけのようにも捉えられる。「ボーダーは辞めます。今までお世話になりました」ボーダーで過ごした記憶はないから悲しみや寂しさといった感情は湧かない。今のわたしにとっては最善な選択肢を選んだのだとさえ思う。「……守ってやれなくてすまない」とっさに気の利いた返しが出来れば良かったものの、乾いた笑いしか出てこない。

「記憶喪失なんて本当にこんなことが起きるなんてね……」
 みんな心配してたんだよ。わたしと同じボーダーのエンジニアだという彼女は、もの悲しげな表情でしみじみと呟いた。
「こんなこと言うのは不謹慎だけど、思ったよりも元気そうで良かった」
 彼女の言葉にゆっくりと頷く。その通りだと思った。連日報道されるテレビニュースの特集で、あの日の犠牲は死者も含まれていることを知っている。そして薄情にも、わたしはその死んでいった同僚らの顔も思い出せない。
「ごめんなさい、わたし……ボーダーは辞めるつもりで」
「そっか。こんな状況なら仕方ないよね。でもよく頑張ったよ」
「あの……変なこと聞くけど、わたしはボーダーでちゃんとやれてたのかな……なんか、自分があのボーダーにいたっていう実感がなくて」
 わたしはこの街を、国を、星を守りたいなんていう大義を抱いていたのだろうか。記憶を失う前の自分が、手の届かない鏡の向こう側にいる。姿かたちはわたしであるはずなのに、わたしはわたしの意思も感情も何も読み取ることができない。
「あんたとは高校からの付き合いだけど、ボーダーに入ることはあんたの目標でもあったよ」
「目標?」
「第一次侵攻のときの命の恩人がボーダーにいるから、その人に憧れてボーダーに入ったのよ」
 バチン。霧の奥で青白い火花が弾ける。

 ▽

 足のリハビリは上手く進み、他人の介助なしでも歩行が出来るようになったが、頭の方は変わらず全くダメだった。医師もこればかりは本人次第と言うし、わたしが記憶を取り戻せるのは医療技術の範疇を超えている。もはや神頼みである。
 今後の生活の中で色々と揉まれていけば、ふとした拍子に記憶が戻ることだってあるかもしれない。閉鎖的な病院の中で淡白な生活を送り続けるよりは、自宅に戻り大学に通いながら過ごすことの方が回復の兆しはある。
「退院日は決まったのか?」
「明後日だって」
「そうか。荷物とかあるだろう?俺、手伝うよ」
「えっ、でも忙しいでしょ」
 嵐山さんとお知り合いなんですか?と、聞いてきたのは担当の女性看護師だった。どうやら目の前にいる彼はただのボーダー隊員ではなく、一般市民からも認知されるほどの有名人らしい。
 そんな有名人たる彼が毎日この病室にやって来て他愛ない話を続けるのは、いったいどんな意図があってのことだろうとあれこれ思い巡らせても、答えらしきものは見つからない。手がかりとなるはずの己の記憶は、どんなに呼び戻そうとしても頭が割れるような頭痛を引き起こすだけで、わたしはあの日からずっと空っぽの人間なのだった。
「俺は大丈夫だ。それに、俺がきみを手伝いたいだけだから気にしないでくれ」
 まただ。その緑の瞳にまっすぐ見つめられると、思考を忘れてしまう。彼のつねに爽やかな笑みを浮かべた親身な振る舞いとは裏腹に、その目には有無を言わせないような力の強さが宿っている。
「もうボーダーを辞めるから、あなたに手伝ってもらう資格がないよ」
「俺がここに来るのは誰かに命令されたとか使命感で来てるわけじゃない」
「……じゃあ、どうしてわたしに優しくしてくれるの」
 夕日が激しく燃えている。炙られたように素肌が痛む。
 固く閉ざされた右の拳に、彼の手のひらが覆い被さる。わたしの力を解こうとするその手は氷のように冷たかった。
「きみのことが好きなんだ、ずっと前から」
 もし、わたしに記憶があれば、すべてが上手くいったのだろうか。最善の選択肢を選び最適な未来をつくることができたのだろうか。
 そんなの、空っぽのわたしには叶えられる自信はない。だって、彼に伝えるべき言葉も、なぜ彼がこんな表情を浮かべているのかも何も分からないのだから。

「やあ。これから退院?」
 受付で精算を終えたわたしの背後から突然声をかけられる。振り返ると、わたしと年の変わらない男の人がにこやかな笑みを浮かべていた。
 霞ひとつ棚びかない、突き抜けるように澄んだ春の空のような青色だった。その人の瞳を見た途端に、体の内側で何かが燃えていくのを感じた。
「……ごめんなさい。わたしの知り合いの方でしょうか」
「ん?そうだね、どこかで会ってるかもしれないし会ってないかもしれない」
「………」
「あはは、警戒しないでよ。おれはただの善良な実力派エリートだから」
「あの、何かご用でしょうか」
「用というか、ただ最後に顔を見たかったんだ」
「わたしの?」
「本当はもっと早く行けたら良かったんだけど、どんな顔できみに会いに行けば分からなくて」
「?」
「きみがこんな目に遭ったことも、おれに責任の一部がある。おれを追いかけてボーダーに入らなければあの場所にきみは居なかったし、おれがきみを救える未来を選択できたら良かったんだ。おれにはその力があったのにきみを助けられなくてごめん」
「すみません、言ってることがよく分からないのですが……」
 困惑するわたしに、その人は優しく笑いかけた。これで会うことは最後になることを予期させるような笑い方だった。
 静かに名前を呼ばれる。その人の口から零れたその声は周りの雑踏の音に埋もれるほど微かなものだったけれど、わたしはたしかにその人に名前を呼ばれた。
「過去は変えられないけれど未来はこれからつくっていける」
 あいつが守ってくれるならお前はきっと幸せになれるよ。
 その人の視線はもうわたしに向けられていなかった。視線の先を追いかけると、こちらから離れたところから辺りを見回している赤い隊服の彼がいた。おそらく退院の手続きを済ませたわたしを捜しているのだろう。
 言葉の意味を知りたくて、振り返ると、すでにその人はいなくなっていた。一瞬のつむじ風が頬を撫で去っていったようだった。
 青い瞳のあの人が一体何者であるのか、わたしとどんな繋がりがあるのか、どうしてもわたしは思い出すことができない。それでも唯一分かるのは、あの人がここに来た理由はわたしにさよならを告げるためだということだった。わたしに過去を捨ててもいいと告げるためだった。
 遠くにいた赤い隊服のシルエットがこちらに近づいてくる。呆然と立ち尽くすわたしに気がついた彼は、あどけない笑みを浮かべて駆け寄ってくる。

 頭の中は依然として深い霧に覆われている。足元も覚束無いほどの霧が視界を塞いでいた。
 そのとき、霧の奥から誰かがこちらに手を差し伸べた。導かれるようにわたしはその手を握り返した。果たして、その手の持ち主はどんな瞳の色だったのだろう。

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