犬飼澄晴とはじめて会ったのは二年前、彼がボーダーに入隊した時だった。入隊式の式典で、沢村さんから場所誘導の係をお願いされたわたしは、新入隊員と一緒にだだっ広い会場で入隊説明を行う嵐山くんの話を聞いていた。
 たしか、その場所にいたのはひとクラス分ほどだった。ほとんどが自分よりも年下の中高生の集まりだったものだから、ボーダー入隊希望者の低年齢化に呆気に取られたことは鮮明に記憶に残っている。といっても、当時のわたしもギリギリ高校生の身分だったのだが。
 犬飼ははじめから目立つ人間ではなかった。個人ポイントを荒稼ぎするような抜きん出た記録を打ち出すこともなければ、基地の壁に穴を空けて鬼怒田さんに雷を落とされることもなかった。そこそこ優等生で、人当たりも良く、誰とも不要な軋轢を起こさずに過ごしているように見えた。最初から彼のことを注意深く観察していた訳ではないので、わたしの見解が間違っているかもしれないが……少なくとも、ボーダーの中で犬飼澄晴が取り立てて何かの噂になったことは当時、耳にしたことはない。

 ほどなくして、犬飼はわたしの弟子になった。
 彼が入隊してひと月経ったか、経たないかの頃だったと思う。ガンナー用の訓練室でひとりでいたところを、たまたま居合わせた彼に声を掛けられた。そのまま、ライフルの照準の合わせ方やトリオンの効率のいい生成方法を話しているうちに、いつしかわたしたちのあいだに師弟関係のようなものが結ばれていた。
 彼から直接弟子にしてくれと頼み込まれたわけではない。わたしも彼の師匠を名乗ることには抵抗はあった。
 ボーダーには、後輩の面倒見が良く教育熱心なタイプと、自分の技を磨くのに手一杯なタイプが散見されているが、わたしは間違いなく後者の方である。もちろん自分の実力も底が知れているし、無駄な先輩風を吹かせたい理由もない。
 そのため、わたしは師匠という位置に自分が立つことは消極的だったのだが、物好きな犬飼は嬉々としてわたしを師と仰いでいた。訓練室でも基地の中でも、その名が指す犬のようにひっついて回る彼に、わたしは少なからず手を焼いていた。
 犬飼は戦闘員としての素質がある男だった。知り合った当初、彼は無所属のC級隊員だったが、B級に上がるのも時間の問題、A級になるのも想定の範疇だと予測していた。地形を使った戦略や実践を想定した戦術においては、経験の多いわたしの方が上だったが、純粋なガンナーとしての撃ち合いに関しては、数ヶ月もあればわたしも優に越されるくらいには才能の開きがある。
 わたしには勿体ない、とても腕のたつ弟子だ。自分の不甲斐なさが恥ずかしいが、悲観的にはならなかった。後輩の成長を見るのは微笑ましいことだし、手を焼きつつも、純朴に慕ってくれる彼のことは十分気に入っていたから。

 ある日、ボーダーで小さな事件が起きた。犬飼がランク戦でとあるB級隊員のポイントを根こそぎ奪ってしまった。どうやら売り文句に買い文句から戦闘が始まって、犬飼が一方的に相手の体に穴をあける光景が延々とランク戦会場で繰り広げられていたという。
「だってさー、おれの師匠を変な目で見てたんだもんアイツ。弱いのにいきがっちゃって本当笑えるよ」
 悪びれる様子もなくけらけらと笑う犬飼に、わたしは頭が痛くなった。
「暴力的な方法じゃなくて、もっと穏便に済ませられないの?」
「暴力的?ボーダーに決められたルールに則って公式に戦っただけだよ」
「いくらなんでもやりすぎだよ」
「なんで?弱いやつなんか好きじゃないよね?」
 犬飼は心底不思議そうな顔つきで尋ねてきた。「そんなことよりおかわりちょーだい」わたしが手に持つココアシガレットの箱を指さす。わたしは自分のこめかみを抑えながら、棒状のシガレットを一本、彼に手渡した。甘やかしてしまっている自覚は大いにある。
 わたしは後輩の育て方に頭を悩ませていた。仲のいい諏訪さんに助けを求めたが、「痴話喧嘩に俺を巻き込むな」とズレた解釈で一蹴されてしまった。それから数日後、風の噂で犬飼に全てのポイントを奪取されてしまった隊員はボーダーを辞めてしまったと聞いた。わたしはため息をついた。
「おれのことちゃんと見張っててよ」
 犬飼は言う。
「……悪さをしないように?」
「そうそう。きみはおれの師匠なんだから、おれの面倒見るのは当たり前でしょ」
「そんな当たり前嫌だよ」
「つれないなぁ」
 犬飼澄晴はそこそこ優等生で、人当たりも良く、誰とも不要な軋轢を起こさない人間だと決めていた当時の印象はがらりと崩れた。彼は鋭い牙を隠し持つ、首輪の着いていない獣だった。常に人畜無害な笑みを浮かべているが、わたしの預かり知らぬところで勝手に牙を剥き、ふとした拍子に化けの皮の奥の本性をあけすけにする。底知れない男だ。

 季節は巡り、ボーダーは目まぐるしい成長と変化を成し遂げていた。タームの区切りごとに新入隊員が増え、歴史の浅いボーダーの中でもわたしは古参と呼ばれる位置づけだった。
 そういえば。犬飼澄晴の顔をしばらく見ていない。
 わたしがそのことに気づいたのとほとんど同じタイミングで、二宮隊がB級に降格されたことと、ひとりの女隊員が除籍されたことを人づてに知った。誰もが明言はしないものの、勘のいい者は何かが起こったことを察しているようだった。
 犬飼は数日、本部でも顔を出さなかった。彼が何をしているかは分からなかったが、特別な仕事が彼にあることは容易に想像された。
「動物ってなんで帰属意識がないんだと思う?」
 ひさしぶりに会った犬飼は出会い頭にそんな話をわたしにしてきた。脈絡のない突然の問いかけに、一瞬戸惑う。彼は人との会話を楽しむ人間だが、今までわたしに自分の講釈を垂れたことはない。
「……?群れをつくる動物だっているでしょ」
「動物の群れと、帰属意識は少し違うよ。たとえばサルは自分の群れから一度出ると、元いた群れには愛着も何も持たないんだ」
「……人間でもそういうケースはあると思うけど」
 口に出してから、随分と空気の読めない返答だったと後悔したが、犬飼は平然とした顔つきをしていた。
 なぜ犬飼はこんな話をするのか分からなかった。いきなり消えた同隊のメンバーにショックを受けているのか、責任や始末を負わされたことに腹を立てているのか。目の前にいる犬飼は恐ろしく淡々としていた。疲れているようにも、何も感じていないようにも見える。
「でも、全てに当てはまる訳じゃないよね?人間はどんな環境でも自分のアイデンティティを見つける訳で、少なからず愛着も持つ」
「それが動物と人間の違いなんじゃないの?よく分からないけど。何でかって聞かれても性質が違うって話じゃない」
「そうだね。動物と人間は全く違う生き物だ」
 要領の得ない犬飼の回答に、わたしは少し苛ついた。
「まどろっこしいのは嫌い。何が言いたいの?」
「きみはほんとに単純だよね。人類がみんなそんな感じだったらムダな戦争も無くなって平和に共存できそう」
「喧嘩売ってる?」
「まさか。おれがきみに歯向かうなんて有り得ないよ」
 のらりくらりと翻す犬飼にため息をついた。犬飼は手の中のペットボトルをぱしんぱしんと、小さくキャッチボールをするかのように弄んでいる。彼の手の中で上下する温くなったココアを、わたしはじっと見つめていた。
「おれは動物じゃなくて人間なんだなって思ったってことだよ」


「あの、教えてほしいことがあるんですけど」
 訓練室で無為に時間を過ごしていたわたしに、C級隊服を着た新入隊員が話しかけてきた。
 彼は犬飼よりも幼く、まだ戦士にもなりきれていないあどけない少年の顔つきをしている。無意識に、名も知らないC級隊員の彼に昔の犬飼の面影が重なった。
「狙撃のことだったらわたしより諏訪さんとかの方が教えられること多いと思うよ」
「いえ、あなたがいいんです。ダメですか?」
 食い下がる後輩に、はっきりと無下に断るのも忍びなかった。少し考えたあと、わたしは彼の訓練に付き合うことにした。
 犬飼と出会ってから、犬飼以外の後輩にまともに何かを教えたことはない。ボーダーでは影の薄い先輩隊員としてなりを潜めていたのだが、何故か彼は教わるのならわたしがいいとこだわっていた。

 彼はまだ新芽の戦士のひとりだったが、戦闘員としては相応しい人間だった。彼の訓練に付き合う度、何でも取り込む吸収力と冷静な分析力に、犬飼と同等の才能を感じていた。着実に訓練を積み重ねていけば、いつしかわたしと犬飼の脅威にもなるだろう。
 犬飼の指南役から降りたわたしは、彼の成長が楽しみだった。わたしは新しくできた可愛い弟子を気に入っていたし、彼もまた子犬のようにわたしに懐いていた。
「的打の精緻が上がったね」
 わたしが褒めると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ありがとうございます。あなたの指導のおかげです……」
 恥ずかしそうに礼を伝える彼を可愛い小動物のように思いながら、わたしはココアシガレットを一本彼に差し出した。彼は遠慮がちに受け取ったあと、タバコを吹く真似をするように口に含んだ。
 優秀な戦績を残せなくても、輝かしい戦功をあげられなくても、わたしはこの平穏で充実した日々が繰り返されればそれでいいと思っていた。今は自分が上を目指すことよりも、後輩が強くなっていく様を見届けることが生きがいだ。年々体内で補給されるトリオン量が減っていくわたしたちが、前線に立てる時間も限られている。後を続く者のことを考えるのは自然の摂理である。

 その日は、三門市全域に大雨警報が出されていた。どんなに天気が崩れようが任務に早上がりの概念はないので、いつものようにトリオン体で防衛任務をこなし、基地へ帰還した。傘も吹き飛ぶくらいの雨風の強さに、基地の中で雨雲が通り過ぎるのを気長に待つか、車を持っているメンバーに送迎してもらおうかなどとひとり思案していた。
 自販機で飲み物を買うために、休憩室に向かっていた時だった。わたしは固まった。パーテーションで区切られた狭い通路の一角に、ずぶ濡れの少年が顔を下げてベンチに座っている。──少年は、わたしの弟子だった。
「どうしたの?こんなにびしょびしょになって……風邪引いちゃうよ」
 わたしが彼に声をかけると、彼はハッとした表情でわたしを見上げた。指先で触れた青白い頬は氷のように冷えきっている。
「何があったの?」
 わたしの問いかけにも、彼は力なく笑い首を振るだけだった。何も発しないまま、関節の折れた人形のように佇む彼にわたしは不気味さを覚えた。
 わたしは彼の手を無理矢理掴み、強引に立ち上がらせると、隊室へ向かった。部屋の空調の温度を上げて、自分のリュックサックに入っていたハンドタオルで彼の髪先を拭いた。彼の頭から垂れた雫が部屋の床を濡らし続けていたが、彼は何も語らなかった。
「温かい飲み物でも飲もう」
 そう言って、電気ケトルのスイッチを入れようとその場を離れるわたしの手を、彼がやんわりと掴んだ。やはり、指の先も凍っているかのように冷たかった。
「あなたのことが好きです」
 か細く、今にも風で折れてしまいそうな小枝のような声がわたしの耳元に届いた。彼はわたしを見つめていた。そのまま、視線を外そうとはしなかった。

 彼を見たのはそれが最後だった。
 翌日、彼の同期から突然彼がボーダーを辞めたことを聞かされたわたしは、目の前が真っ暗になった。

「辞めちゃったんでしょ?新しい子」
 放心状態のわたしがラウンジでひとり黄昏ていると、にこにこと笑みを浮かべた犬飼が真正面の席に座った。
 犬飼はコンビニの袋から紙パックのココアを取り出して、わたしに差し出した。一応犬飼なりに慰めようとしてくれているのかと捉え、有難く水滴のついたココアを受け取る。
「ヒマになっちゃったね。たまにはおれの訓練にも付き合ってよ」
「わたしが犬飼といても何も教えらんないよ」
「でもおれの師匠はきみだけだよ。この先もずっとね」
 犬飼はスプライトのキャップを空けて口をつけた。ごくごくと上下する喉仏と、蜂蜜色の髪先。犬飼はいつもと変わらない。彼と話していると、どこか古巣へ戻ったような居心地の良さを感じる。
「犬飼この後ヒマ?十本やろうよ」
「いいね。食堂の定食賭けようよ。勝った方は一週間奢りで」
「分かった」
 わたしと犬飼はラウンジを出た。
 犬飼がとなりにいるのは少しひさしぶりだった。けれども、やはりピッタリと嵌る感覚がする。
「きみの居場所はここだよ」
 上機嫌な犬飼の声が弾む。
「だからおれのことちゃんと見張ってなきゃダメだからね」

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