となりに置いていたスクールバックの中から、天使のような少女の歌声が流れ出した。決して怪奇現象などではない。わたしが直近で観た映画の主題歌を着信音に設定しているためだ。アニーが三回目のトゥモローを叫び終わるのと同時に、発信源のスマートフォンを手に取った。電話は当真勇からだった。
「もしもし」
『おう。お前どこいる?』
「隊室だよ」
『ちょうどいいや。ラウンジ来いよ。今みんなでテスト範囲確認してるから』
 みんな、と言われるメンバーは具体的に誰が含まれているのか少し気になったが、電話口で事細かに教えてくれそうな相手ではない。定期考査は来週に控えている。今夜の防衛任務が始まるまでに考査範囲に手をつけようとしていたので、まさに渡りに船の電話だった。
 当真から勉強の誘いが来るなんて槍が降ってきそうだなと思いつつ、「いいよ」と返事をすると、電話口の彼はおーと気の抜けた声で相槌を打ち、「ついでに冷蔵庫からモンエナ一本持ってきて」と言った。ついでと言うが、実はそっちが本題なんじゃないだろうか。それを指摘する前に逃げるように電話はあっさりと切られた。仕方なく、部屋の冷蔵庫の中からそれらしきものを取り出して、スクールバックを肩に掛けた。

 ラウンジの一角のファミレス席に、特徴的なリーゼント頭を見つけた。こういう時に奇抜な髪型は便利だなと思う。
 本来その席は四人がけなのか、六人がけなのか、設計者の想定は分からないけれども、五人の男子高校生が密集するには些か窮屈そうに見えた。恰幅のいいゾエも加われば、なおさら。机の上には複数の教科書とノートが開かれている。意外にも、当真はこちらが近づくまで手元の教科書に視線を落としていた。
「当真」
「おう、来たか」
 モンエナを当真の方へ傾けると、彼は「サンキュ」と呟きながらそれを手にした。同時に、残る四人の顔が一斉にこちらを向く。「お疲れ〜」ゾエが穏やかな声で挨拶をする。その声には少し疲労の色が混じっていた。
「いつからやってるの?」
「んー一時間くらいか?お前も座れば」
 座れば、と当真に指さされた場所は村上のとなりだった。真向かいのソファにはすでにカゲと穂刈と当真が座っているため、必然的に空いている席はそこしかない。村上は気持ちゾエの方へ身を寄せて、座席のスペースをわずかに開けてくれた。
 促された手前、断る理由がない。僅かに空いたソファの表面に、恐る恐るお尻を落とす。座った途端に、となりからはっきりと鼻の奥をツンと突くシトラスのような制汗剤の香りと、衣服に染み込んだ柔らかい生活臭の匂いが運ばれて、覚えず生唾が喉を下った。村上のとなりに座ることぐらいどうってことないですよと、平然な顔を取り繕っているが、内心どぎまぎとしていた。やはり、この席は窮屈だった。
 適当にペンケースと共に世界史の教科書を取り出してみたが、視線は教科書の中身ではなく、机の滑らかな角に落とされた。自分の心臓がもたないので、最低限の隙間を確保しようとするばかりに、椅子の外に体が三分の一ほどはみ出している。
 ここは範囲だったっけ?いや、あのセンコーならそこは出されねーと思うぞ。張るのか、ヤマを。
 どうやら男子たちは真面目にテスト対策をしている。している、というのも変だ。わたしもここに来て座っているのだから、本来の目的通り一緒に参加すればいいはずなのに。さっきからとなりの村上に意識がいってしまい、勉強する頭に切り替えられない。わざわざ隊室からスクールバックを持ってやって来たばかりであるのに、未来に起こる定期考査のことなど半ばどうでも良くなりつつあった。
「体調悪いのか?」
 心配そうに村上がわたしの顔を覗き込む。至近距離に現れる彼の顔に、思わず悲鳴に近い声が出そうになるのを、すんでのところで食い止めた。つい、舌を噛みそうになる。
「い、いや、大丈夫!ちょっとぼーっとしてただけだから」
 もごもごと言い訳めいたことを並べ、彼の手元のノートを見つめた。螺線上に等間隔に並ぶ、流れるように払われた文字の数々を視界の端に捉え、村上らしいノートだと思った。
「村上は……順調そう?」
「ああ、何とか」
 それから彼の綺麗な口元から、苦手な科目だとか、明日の授業の内容だとかの話が飛び出していたが、わたしは滑車の回りが遅い頭でそれを聞きながら、そうだねだとか、そうなんだとか、ろくな返しをしなかった。器用な人間ではないので、平常心を保とうとすると、肝心の会話はほとんど身の入らないものになってしまうのが情けなくなる。孤月とライフルの両刀は出来ても、冷静と恋心の両立は出来ないのだ。
 村上との会話中に、ふいに向かい側の当真と目が合った。当真は何故か口の端を吊り上げて不敵な笑みを浮かべたあと、平然な顔つきをして穂刈にテストとは関係の無い話題を投げかけていた。
 背中をつうっと生暖かい汗が走る。村上への気持ちをひた隠しにして生活しているわたしにとって、距離感が近く無駄に敏いところがある当真は厄介である。あの不敵な笑みがどうかわたしの杞憂でありますように。

 

 たとえば、わたしの恋を誰かが文字に書き起こし、一本の小説を編んだとして。始まりのページには何が描かれるのだろうか?この恋は一体いつから始まったものだろうか?彼のランク戦を観戦していた時か。食事中の細かで綺麗な箸使いを見つけた時か。街路樹のイチョウの葉っぱが彼の頭から音もなくふわりと舞い落ちた時か。物思いに窓の外をひとりで眺めているのを見かけた時か。初めて目が合った時、それともふたりが知り合った時?
 ──決定的な一つなどないのだ。すべてのときが、恋の始まりに向かって、そうして用意されていた。
 始まりはすべて続きでしかない。

 警戒地区と呼ばれる閑散とした住宅街に、固い靴音だけがこつこつと鳴り響き、建物の影に反響して吸い込まれていった。侘しい橙色の街灯が俯いて、自分の足元だけを仄かに照らしている。地平に敷き詰められた暗がりの中を、訳もなく慎重に歩を進めた。日が沈んでからネイバーの出現報告は受けていない。出てこないなら出てこないでそれに超したことはないし、平穏な静寂が続くのは何よりだ。しかし、何も無い数時間を無作為に散策し続けるのは気がおかしくなってくる。
 当真は今ごろ、どこかのビルの屋上にいる。狙撃待機という名目で、恐らく午睡を取る陽だまりの猫のように寝っ転がっているだろう。冬島さんも隊室で暇そうにモニターを眺めていそうだけど、理佐ちゃんがとなりにいる手前だらしない格好は出来ないかもしれない。

 ──門発生、門発生。座標誘導誤差6.15
 けたたましい音量のサイレンが鼓膜を震えさす。息をつく間に、出現先の座標と距離を視覚情報に転送し、通信越しに冬島さんがスイッチボックスを起動する掛け声が届く。目の前に現れたナイトのエンブレムに触れると、体は何とも言い難い浮遊感に包まれ、一瞬の間重力を手放した。ワープされた先には、バムスターが一体、横長な口を開けてこちらを捉えていた。無機質な灰色の図体に向けて、わたしが孤月を構えるのと同時に、その大きな頭の上から火花のように揺らめく白い光が見えた。
「あらよっと」
 鋭い槍の刃先が、躊躇いなくバムスターの脳天を突く。頭蓋を割られ、体制を崩したバムスターの足元を、別の刃が切り込んだ。ふたつの斬撃によって呆気なく活動が止められてしまった。
「あ!もしかして手柄横取りしちゃった?」
 呆気に取られるわたしの前に、バムスターの頭の奥からひょっこりと米屋が顔を覗かした。倒れ込む鼠径部の辺りから三輪も孤月を握り、こちらをじっと見ている。そういえば今日は三輪隊も同じシフトだったと頭の中で思い出し、しかしながら、槍が降るという表現はボーダーの中では割とありえることだから、別の言い方を考えないといけないなとどうでもいいことを考えていた。
「なんだよ、せっかく来たのに一体だけか」
「冬島隊はすぐに飛べるんだからいいじゃないすか」
 いつの間にかとなりに現れた当真と軽口を叩く米屋を他所に、斬られたばかりの死骸を眺める。息絶えた兜のような頭蓋骨が道路の真ん中に重々しく鎮座していた。恐ろしくつらびやかな表面を東から上り始めた日が撫であげて、灰色の勾玉に朱が混じったように溶け込んでいる。
「あと五分で交代の時間よ」
 理佐ちゃんが通信越しに声を掛けると、気の抜けた当真が大きな欠伸を空へ放った。米屋と三輪は二三言会話をした後に、斬った本体には目もくれず、さっさと踵を返していった。
「明日は休みだから十分寝られるな」
「うちらにはテスト勉強があるでしょ」
「なんだよ、お前そんなこと言うキャラか?勉強ならさっきちゃんとしてたじゃねーか」
「さっきって…」
 ラウンジの一角に集められたメンバーの顔ぶれを頭の中に思い出す。結局、となりに座る村上のことばかりを考えていたから、自分がどの教科書を読んでいたかも覚えていない。役得ではあったものの、あの時間は決して勉強時間には換算されない。
「鋼と色々話してただろ、お前」
 何かを企むように薄く笑う当真に、頭の奥から警報が鳴る。警戒警戒、この男にバレたら危険だ。
「…別に?そんな大したこと話してないよ」
「ふーん。せっかく俺がアシストしてやったのによ」
「何?アシスト?」
「おっと、いけない」
 わざとらしく手を挙げて翻す当真に詰め寄ろうとした瞬間に、任務時間の終わりを告げる通信の声が耳に入った。当真は飄々と笑いながら緊急脱出をし、煙幕を張る忍者のごとくその場を逃げ去ってしまった。取り残されたわたしは地団駄を踏むように、そばにあるバムスターの死骸に靴先で蹴りを入れた。

 わたしが当真に知られたくない理由は、彼が何となく口が軽そうだとか、面白がってしつこく揶揄ってきそうだからだとか、挙げるとキリがないが、前提としては当真だけでなくボーダーの隊員全てに知られたくないのである。全員に当てはまることではないけれど、隊員の中にはボーダー内で恋愛事情を作ることを嫌う人種がいる。市民の命を預かる重責や、擬似ではあるものの日々殺戮のような討伐戦を行う隊員としての矜持のようなものがそう考えさせるのか、はたまた同じ職場で付き合ったり別れたりすると人間関係が気まずくなるから対象外としているだけなのか、それは人それぞれだろう。もちろん、そういう
のを微塵も気にしてない人種も多いと思うが、ひとりひとりの宗派もよく知らないので、恋心には蓋を閉じ、隠密に想いを募らせておくのが一番無難で安全だ。ちなみに、肝心の村上本人が恋愛する気が全くなかった場合も、この恋心は墓場まで持っていくと決めている。
 もしわたしがボーダーとは関わりのない、ただの一般生徒だったら。もしくは彼がその立場だったら。他人の目も気にせず、仲のいい女子にも打ち明けて、放課後はデートに誘ったり、めくるめく青春を謳歌出来たのかもしれない。けれども、空想は空想だ。学生のくせに戦士の真似事をしているからたまに生きづらくなる。この隊服に染み込んだ規律と使命が中途半端にわたし達を大人に昇華させる。

 

 いやお前、その言葉の使い方間違ってるだろ。敢えて言うなら、雨が降るとか雪が降るとかなら分かるけどさ。槍が降る、だと別の意味になるぞ。
 槍が降るが使えないなら他に良い表現は無いだろうかという、先般感じたわたしのしがない疑問点に、荒船は懇切丁寧に回答したあと、わたしの国語力に呆れ返った表情を浮かべた。彼の表情に言われずとも、すでに今日返却された現代文の点数は見るも無惨なものだった。現代文なんて一番テスト勉強が不要そうな科目でありそうなのに、日本人として日本語が使えないのは致命的である。
「映画とかは好きなんだけど、本を読むと…頭が痛くなって」
「脳筋か」
 荒船には言われたくない、と即座に反論をしようとしたが、逆に彼は論理的に考えるタイプだし、わたしより成績が良い。仕方なく下唇を前歯で抑え、弱々しいことしか言えない口を噤んだ。
「ちなみにそういうのは青天の霹靂って言う」
 それくらいは聞いたことがある。へきれきという字はどういう風に書くか分からないけれど。
 例外はいるものの、同い年の男子たちは割と活字好きのインテリが多いのかもしれない。王子、水上あたりはどことなく図書室の古ぼけた本棚が似合いそうだし、蔵内の鞄からボードレールの詩集が飛び出しても驚かない。
 村上は……真っ白な木漏れ日を受けるテラス席で、すらりとした背筋のままソフトカバーの小説を読んでいて欲しい。薄汚い願望だ。

「そういえば、お前って彼氏とかつくんないのか」
「な、に……急に……」
 村上のことを考えていた最中に、彼氏の話題に急に転舵され口がまごついた。
「いや、ただ気になっただけだ」
「気になる?荒船が?何で」
「いや、何となく」
 荒船はふと視線を右下にずらし、遠くのものを凝視するような目をしていた。荒船から恋愛の話を持ちかけられることが、まさに青天の霹靂じゃないだろうか。荒船なりの体を張った芸なのかもしれないと内心穿った見方をしていたが、彼は手の中のペットボトルを落ち着きなく触り直すだけで、何も言わなかった。
「もしつくれるなら……欲しいけど、でも任務とか忙しいし学校にも良い人居ないからね」
 本音を隠す時は全てを嘘に塗り固めず、事実を織り交ぜることは、一般的な常套手段である。半袖のブラウスの中に、ドライヤーの熱風のような生暖かい感触が肌一面に纏わりつき、皮膚の産毛が逆立てされるような感触を覚えた。突然、座り慣れたラウンジのソファが、自分の体に合っていないように感じる。
「だったらボーダーでつくればいいだろ」
「まあそうなるよね、うん」
「なんだよ」
「自分がそういう気があっても相手にあるかどうか分からなくない?ほら、ボーダーって恋愛したがらない人多いし」
 荒船はそうか?と腑に落ちない顔つきでわたしを見つめていた。
「要するにそういうのを許容してくれる相手ならいいってことだろ」
「そうだけど…」
「だったら難しい話じゃねぇな。ちなみにミョウジはどんなやつが好きなんだよ」
 すべてを洗いざらい吐けと言わんばかりにこちらを見据える荒船の姿は、楽しく恋バナに興じる高校生ではなくまるでゴシップ記事を担当している記者のようだ。何が彼をそう駆り立てるのか、よく分からない。
 好きなタイプ……好きな人はいれど、わざわざタイプに当て嵌めたことはなかった。異性との交際経験も乏しいため、今までどんな人が好きになるかと聞かれても、共通項を見つけ出すのは難しい。村上だけにフォーカスして考えれば、誠実、寡黙、勤勉、穏やか…だいたいそんなイメージだろうか。局所的に村上の好きなポイントは点在しているが、すべてを挙げていたら日が暮れてしまう。
「好きになった人がタイプかなぁ」
 てらてらと白い光を放つ天井のシーリングライトを見上げながらそうぼやくと、視界の端で荒船が微妙な顔をした。どこかのチームのランク戦が終わったのか、ラウンジに木霊する喧騒が大きくなった。騒がしい人々の声の隙間で、あいつに何て言えばいいんだ、と彼がため息混じりに呟いた言葉の意味は分からない。

 どんなところが好きかと聞かれると難しいが、彼と過ごした中で一番お気に入りの思い出は答えられる。
 それはわたしが「アルマゲドン」を観た直後、あのエアロスミスの有名な主題歌を着信音に設定していた頃の話だ。その日は村上も本部に用事が合って、下校のタイミングが重なった折でふたりで本部までの道なりを歩いていた。すでにわたしは村上のことを意識していたから、となりに並ぶ彼に対していつも以上に緊張し、内心とてつもなく舞い上がっていたのはよく覚えている。
 他愛のない会話をしていた最中に、いきなりわたしのスマートフォンからエアロスミスが流れ出した。二、三秒メロディーを奏でたあと、着信は簡単に切られる。慌てて中身を確認すると、当真から間違えて通話ボタンを押してしまったという内容の文言が送られていた。
「今の歌、聞いたことある。好きなのか?」
 となりにいた村上から投げかけられたごく自然な質問に、わたしは冷や汗をかきながら頭を悩ませた。よりによって村上に聞かれるとは、非常にタイミングが悪い。脳内で当真の胴体にライフルで無数の穴を開けて懲らしめる。
「好きっていうか…最近観た映画で、その…わたし、既定の着信音って嫌いだからいちいち変えてるの」
「着信音?」
「あの音階が階段みたいに行ったり来たりするやつ。よく分かんないけどシャトルランを走らされてるみたいになって、焦っちゃう」
 ただでさえ欠乏している国語力に加え、好きな相手に自分のくだらない趣向を説明するとてつもない羞恥が掛け合わされて、自分でも理路整然としない内容のことを話していた。しかし、村上はわたしの取り留めのない話にも真面に耳を傾けてくれたのだ。
「ああ、確かに。あの音ずっと聞いてると落ち着かないな」
 瞼の裏で閃光が走った。静かに微笑む村上の周りに発光する星屑が散りばめられて、体から眩い光がわたしを照らしあげるように爛々と放たれていた。視界の中で、村上だけが光を纏っていた。

 その時の村上の笑った顔は絶対に忘れないと誓ったし、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。そして、彼に対する自分の気持ちも再確認させられた。感謝の印に、当真の体は修復して周りに猫を生やしておいた。

 

 村上から、任務がないならご飯食べに行かないかと誘われた。すべての答案用紙が返却され、予想通りのテストの結果に意気消沈していたところに、突然提示された食事の誘いだった。これも、青天の霹靂というやつだ。つい、前のめりになりながら勢いよく頭を縦に振ると、村上はほっと安心したような表情で、じゃあよろしくと言って席に戻った。それから、放課後になるまで三回ほど頬を抓ってみたが、夢ではないみたいだ。

「あれ?カゲたち先行っちゃうの?」
 職員室まで日誌を届けに行っている村上を教室で待っていたところ、カゲと穂刈は鞄を背負い、手早く教室を出ようとしていた。声をかけられたカゲは怪訝そうな顔でこちらを振り返る。
「あ?何の話だ」
「え、だって今日ご飯行くんでしょ?てっきりかげうらかと思ってたんだけど」
「は?」
「さっき村上に誘われたんだけど…」
 カゲと穂刈は同時に顔を見合わせ、数秒間無言のままお互いの顔を見つめあっていた。わたしを疎外した言葉を介さない目線のやり取りに、一体何事かと首を捻る。すると、何かを理解したようなおもさしで、ふむと頷きながら穂刈は口を開く。
「おれらは行かないぞ、メシには」
「えっ」
「おーふたりで楽しく行ってきな」
 彼らは手をひらひらと振りながら、放心するわたしに構わず、あっさりとその場から立ち去ってしまった。訳も分からず斬り殺されたバムスターの気持ちになった。廊下の向こう側から、鋼のやつもやるな、なんて声が遠く聞こえてくる。首の後ろがちりちりと熱を帯びて、得体の知れないむず痒さに全身が浸った。
 ……これは巷の一般高校生たちが嗜んでいる放課後デートというもの、なんだろうか。今すぐ誰かに確認したい。この際バレてもいいから、当真にでも話がしたい。このままひとりで過ごすには、体の中を走り回る脈動も抑えきれないし、無防備でやわな身が持たない。頭の中が緩やかに白ばんでいき、耳の奥から赤毛の少女達がトゥモローを一斉に歌い出した。いや、明日のことなんかより、大事なのは今のこの状況なんじゃないか。
「ごめん、待ったか」
 壊れたロボットのように呆然と立ち尽くすわたしの前に、颯爽と村上が現れる。端なく、口の中を湿らせていた温い唾を飲み込む。口を開けば、変なことを口走りそうで怖くなり、黙って首を横に振った。
「そうか。じゃあ、行こう」
 ふたつ分の上履きがフローリングを擦る音が、誰もいない放課後の教室に溶けていく。廊下の窓ガラスから差し込む赤く燃える西日を、頬に滑らせながら、村上は優しい顔で笑いかけた。あの時と同じ、小さな星々が現れて瞬くように弾けて消えていく景色を、わたしは逃さないように目の奥に焼き付けて、そっと胸の中にしまいこんだ。

 これからどこへ行くのか、ふたりはどんな会話をして、どのように時間を過ごすのか。先来る未来のことは誰にも予測は付かない。けれど、今この瞬間からすでにわたしたちは始まってるのだ。すべての始まりは、始まりの前に、すでに始まっている。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -