雄ライオンは、敵に勝つ度、たてがみが黒く染まっていくという。敵を倒し、自分に自信がついたときに分泌されるテストロンホルモンが、自然とそうさせるらしい。たてがみが黒ければ黒いほど、自分の強さを誇示することができ、雌のライオンはより黒いたてがみを持つ雄を求めるのだ。
 雄の人間の強さは、一体どこで分かるのだろう。自分にはない逞しい筋肉の隆起や、硬質な肩部の骨格を下から見上げ、そんなことを考える。その首元には、当たり前にたてがみは生えていない。
「じろじろ見てどうした?」
 ベットの枕側に添えられたサイドチェストの引き出しから、必要なものを取り出した彼は、わたしの視線に気がつくと、口許の端をゆるやかに上げた。暗がりの中で、殊更に黒く光る彼の瞳と、ビニールの個装のピンクの文字が揺らめく。
「ううん。何でもない。観察してただけ」
「ふうん」
 強さを明確に表す隊服を脱ぎ捨て、強力な技を振るう武具を外し、無防備な裸に剥かれてしまえば、至って普通の男子大学生がそこにいる。他の追随を許さないほど、圧倒的な強さを持つ彼には惹かれているが、わたしの体を跨り、ままごとのような乳繰りに興じる彼もまた女心を擽る。征服など出来るはずないのに、彼と繋がっていると、女の優越感と支配欲が混ざった感情が、胸の中をいっぱいにする。それは決して、愛情と呼ばれる純潔な感情とは違う。
 息を潜め、彼が自分の中に入ってくるのを、わたしの体のすべての神経を使って感じていた。脈動も、肉感も、かたちも、呼吸も、憶えておきたいものはたくさんある。肉体を襲う律動にわたしは集中していた。けれど、彼がひとたび奥を突けば、理性の壁も壊されて、たちまち哀れな動物のような姿になる。愉しい。愛情もないのに、わたし、この人とのセックスに幸福を感じてる。何度目か分からない迫り来る快感に体の芯を震わせながら、白く波立つシーツを掻き集めた。


 二十二歳の春、ボーダーに就職した。ボーダーは、元隊員でもない新卒の採用はやっていなかったのだが、父が、昔、前職で働いていた根付さんの面倒を見ていた関係から、就活に行き詰まったわたしのことを頼み込んでくれた。いわゆる、親のコネ入社となる。
 本来不要なリクルート人材として採用されたわたしの元には、当然のことながら、ボーダーの生存戦略に関わるような重大な仕事は降ってこなかった。お茶くみ、コピー取り、誤字脱字訂正といった、生産性のないアルバイトのような仕事が続く。退屈な日々だけれど、ちゃんと正社員分の給料を貰ってる手前、文句は言えない。
 上司の根付さんに呼び出されたのは、入社して二ヶ月が経った頃だった。「貴女にピッタリの仕事をあげましょう」彼は淹れたてのコーヒーに口をつけ、得意のすまし顔でそう言った。
「ボーダーのSNSアカウントを作ろうと思います」
「はあ」
「週に何回か、隊員の活動や基地内の様子を投稿してもらいます。目的としては、国民の組織理解の向上と、スポンサー企業や新規隊員の見込み層に向けたPR。もちろん、守秘義務があるので限定されている範囲となりますが。また、投稿する内容は事前に私がチェックさせてもらいます」
 根付さんは捲し立てるように告げると、ボーダーのロゴが記されたタブレット端末を渡してきた。何がわたしにぴったりなのか分からないが、コピー用紙の左隅にホチキスを当て続ける作業より、魅力的な仕事に違いない。それに、雑誌の記者みたいで楽しそう。元々、就活中はマスコミ系の会社を志望していたこともあった。
 心機一転、わたしは新しい仕事に前のめりで挑んだ。ボーダーに居ながらボーダーの人間とはほとんど接点が無かったわたしにとって、未知のジャングルを開拓するような毎日である。ラウンジや共用施設に足を踏み入れ、渡された端末で写真を撮ったり、ボーダーで働く人たちの一日の様子をつまびらかに記録していた。

「新しいメディアのお仕事ですか?」
 自分の職権を使って、はじめて嵐山准に会った時、彼は本当に実在する人なんだ!と感動してしまった。どこかで見かけた等身大パネルの通りに、目や鼻がきちんとくっ付いている。健康的で綺麗な顔立ちの青年だと思った。
「はい。ボーダー用のSNSを作ることになりまして…」
「そうなんですね。おれ、そういうの疎くてよく分からないですけど、出来ることがあれば任せてください。あと、年下なので敬語じゃなくていいですよ」
 嵐山くんはごく自然に、にこやかな笑みをわたしに向ける。大人っぽいなあ、こういうの慣れてるのかしら。堂々とする彼に少し気後れしながら、あらかじめ用意していた原稿を手に、インタビューを十五分ほど行った。終わりに、スナップ写真を二、三枚撮影させてもらった。それからオフィスに戻ってアカウントに投稿したら、今までのどの投稿よりも反響があった。アイドル並みの人気である。
 根付さんの部屋を訪れると、たまに打ち合わせをしている嵐山くんに遭遇する。廊下を歩けば、書類の束を運んでいる嵐山くんが前から歩いてくることがある。本部の中を徘徊するようになってから、彼の顔を見る機会がその後も続いた。彼は顔を合わせる度、カメラに向けるような笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。学校にも行って隊長職も務めて、任務と取材といつも忙しそうにしているのに、一瞬も疲れた表情を見せない。どこを切り取っても、映画の中のスターみたいだ。彼に熱狂的なファンがついているのも頷ける。
「反響は良さそうですね」
 一ヶ月分の投稿に対する反響をまとめた報告書を読みながら、ふむと根付さんは息をついた。
「あの、特に隊員のプライベートが垣間見えるものが人気でした。嵐山くんの家族の話とか、木虎ちゃんの私物チェックとか」
「公式のアカウントなので嵐山隊の特集ばかりやってもねえ…ファンの気持ちは分かりますが」
「あとはボーダーの福利厚生の投稿ですかね。この食堂の人気メニューの投稿は、ボーダーの人達にもよく見られていたみたいです」
「組織理解としてはそういう方向性が妥当でしょうね」
 アカウントは徐々にフォロワーを伸ばし、開設一ヶ月を迎える頃には五万人のフォロワーがいた。たまにボーダーに対する誹謗中傷のようなコメントも来ているが、マーケティングとしてはまずまず成功しているのではないかと思う。
 根付さんは、部署ごとの責任者の連絡先をわたしに預けた。ネタを見つけに行きなさい、と言う。本当に、何かの記者みたい。


「良かったじゃん。お前、そういうのやりたかったんだろ」
 すべてが終わったあと、太刀川慶はわたしの近況報告を聞きながら、ペットボトルの温い水を飲んでいた。わたしはセミダブルのベットの上に四肢を投げ、ごくりと上下するその喉仏を見つめた。お水ちょうだい、と上体を起こしている彼の腰をさすると、水を口に含んだままの彼の顔が近づいてくる。舌で口をこじ開けてねじ込まれた水は、口内を経由して、さらに温くなっていた。
「ねえ、嵐山くんってどんな人?」
「なんだ。ついにあいつのファンになったのか」
「ファンってほどじゃないけど、かっこいいなあとは思ってるよ」
「お前なあ、俺がいるベットの上で他の男を褒めるなよ」
 白々しいため息が降ってくる。微塵も傷ついてないくせに、演技くさい。
 太刀川慶とは、ベットの上で愛を囁きあうような恋人関係ではない。遠い遠い親戚にあたる。昔、母が家族アルバムを開き、慶くんはね、お母さんの妹の夫の兄の……などと言ってきたことがあるが、具体的に何頭身の親戚なのかは分からない。そもそも遠すぎて血も繋がっていないし、親戚と呼んでいいのかも怪しい。けれど、他人に関係性を説明するには勝手がよく、一言で便利な言葉だから、わたしは彼を親戚と呼ぶ。セフレなんて響きより風紀を乱さないし。
 慶ちゃんとの歴史は長い。わたしが幼稚園児の頃、新品のクレヨンを貸してくれなかった彼を叩いて泣かせたことがある。小学生の頃、ふたりで潰れたレコード屋に忍び込み、古びたレコードを叩き割って遊んでいた。わたしが中学生になると、流石に一緒に遊ぶことは滅多に無くなったが、髪を切ってくれと頼まれて、たまにわたしの部屋で散髪をしていた。
 わたしが高三で彼が中三の夏、わたしは彼に処女を捧げた。なあ、お前、セックスしたことあるか?やってみようぜ、俺たちで。土手で爆竹の投擲に誘ってきた、いつかの夏休みのあの場面とまったく同じ声だった。中三なんて子どもに出来るわけないじゃん!と侮っていたけれど、お互いはじめてにしてはしっかり盛り上がったし、爆竹を投げた時より愉しかった。そこから大学に行っても、大学を卒業しても、わたしは慶ちゃんと寝ている。その間彼氏もいい感じの異性もいなかったので、慶ちゃんとしか寝ていない。あちらはどうだか知らないが。
 ちなみに、わたしがボーダーに就職することが決まった時、彼の反応は「へえ、マジか」だった。驚きも喜びも感じられない、マニュアル通りの反応。
「嵐山くんって優しいし、何でも許してくれそう。付き合った女の子みんな幸せにしそう」
「それは嵐山に夢見すぎだろ」
 慶ちゃんは乾いた笑い声を立てて、わたしの髪を指で梳いた。太くて長い男の指によって、白いシーツの上を黒い川がとめどなく流れていく。快適な空調の温度と、重力に従って深く沈んでいく体の重さと、安定した彼の手の動きが相俟って、意識が泡沫へ柔らかく誘われていた。毎回、事後の彼は丁寧だ。その丁寧さを普段にも拡張していけば、A級一位の慶ちゃんだって親衛隊のひとつやふたつ、作れるんじゃないのかな……。
 瞼が、落ちる。
「あいつはそんなに可愛い奴じゃないぞ」


「絵とか好きなんですか?」
 食堂の新メニューの写真を撮っているわたしの元へ、どこからともなくやってきた嵐山くんがふらりと立ち寄った。彼は、お疲れ様ですと朗らかに挨拶をしたあと、三つの質問をわたしに問いかけた。今、何しているんですか?おれもここ座っていいですか?絵とか好きなんですか?
 机の上には、タピスリーの「貴婦人と一角獣」がプリントされたクリアファイルが寝ている。実物が初めて日本で公開された時に、足を運んだ美術展で買った土産品だった。貴婦人の両脇を、ライオンとユニコーンが旗を掲げて跪いている。タピスリーは六枚で構成されていて、一枚目から五枚目では、視覚や聴覚などの五感がテーマになっている。クリアファイルに描かれているのは、最後の六枚目の絵だった。確か、タイトルは、「我が唯一の望みに」。
「詳しくは無いんだけど、観るのは好きだよ」
「へえ。おれも絵とかは上手くないけど、興味あります」
「嵐山くんが?」
「はい。この絵、何だか不思議だけど綺麗ですね」
 嵐山くんは、クリアファイルを眺めながらそう呟いた。彼の伏し目がちな瞳の奥から、翠色の虹彩が一閃した。綺麗なのはきみもだよと、心の中で付け足しておく。
「美術館とか今でもよく行くんですか?」
「そうだね。気になる展示があれば」
「今度、おれも行ってみたいです。一緒に行きませんか」
「え?」
 今、何を言われたんだろう?
「一緒に?」
「はい、一緒に」
「えっ、わたしと嵐山くんとってことだよね?」
「…ダメですか?」
 そのようなこと、滅相もない!不安げにこちらを見遣る彼に、慌てて首を横に振り続けた。すると、嵐山くんはたちまち晴れ晴れとした顔をした。
「良かった!じゃあ、今度の週末行きましょう。予定、どうですか?」
「あ、うん。わたしは大丈夫…」
「決まりだ。そういえば、あなたの連絡先知らないんです。教えてください」
「う、うん」
 頭の処理が追いつかないまま、いそいそとケータイを彼の元へ提示する。はて。ここまで数分の間に一体何が起こったんだろう。地球の裏側にでも隕石が落ちてきたかもしれない。
「……香水変えました?」
「え?いや、付けてないけど…」
 そういえば、シャンプーは慶ちゃんの部屋にあったものだ。嵐山くんは鼻が利く人なのだろうか。シャンプーを変えたと伝えると、彼はへぇと表情を変えずに相槌を打った。
「おれはいつもの香りの方が好きだな」
 
 かくして、わたしは嵐山くんとデートに行くことになった。わたしが近隣でやっている、良さそうな美術展の情報をいくつかメールで送ると、彼はその中から行きたいところを選んだ。三門市から電車で三十分のところでやっている、現代アートの展示会だった。
 その展示は、虹色のスペクトルがテーマになっていた。絵画や版画、立体のすべてが、七色の色彩を帯びて、館内をかしましくさせていた。鑑賞後には目頭を抑えたくなるような、一方的な色の暴力に遭った。流石にこれは、視覚が壊れてしまいそう。
 嵐山くんは平然と、初夏のバラードでも聴くような涼し気な顔で展示を眺めていた。彼との違いは若さなのか、素質なのか、感性の違いなのか、よく分からない。
 展示を見終わったあとは、美術館に併設された小さなカフェレストランで食事をした。わたしは左巻きのシナモンロールを、嵐山くんはほうれん草がたくさん入ったキッシュを食べていた。
「甘いものが好きなんですか?」
 わたしがアイスコーヒーではなく、アイスカフェオレを頼んだことを、彼はさり気なく触れた。
「そうだね。甘いものは好きかも」
 彼はわたしの答えを聞くと、満足気に笑った。当たり前のように真向かいに座っているが、こうして嵐山くんと一緒にいることに、未だ現実味がない。嵐山くんはわたしにとって、まぼろしのスターのような存在だから。私服を着ていても、ボーダーとは関係の無い場所に来ていても、嵐山准であることは間違いない。
「この曲、知ってます?」
 ふと、彼は店の内装を見渡すように、どこか遠くの一点を見つめていた。店内には少し昔に流行った、J-POPがかけられていた。
「うん、知ってる。ドラマの主題歌にもなってたよね」
「おれ、このグループの曲好きなんです」
 嵐山くんは、とっておきの秘密を教えるように囁いた。帰りの電車で聴かせてあげますね、と。
 電車に揺られた三十分間、わたしの左耳に白いイヤホンが繋げられた。嵐山くんの好きなグループの曲が、とても大きな音量で流れ出して、わたしの鼓膜を突き刺す。その音楽を聴き続けていると、自分の左耳が歪に変形してしまいそうだった。


 新しい投稿のネタ集めとして、ボーダー寮の寮母さんとお茶を飲みながら話を聞き、オフィスに戻った。最近のわたしは活発に活動しているものの、他の職員と比べたら大学サークルのような自由度がある。この働きぶりで、正社員分のお給料?根付さんはわたしの父に弱みでも握られているのだろうか。
 オフィスに戻ってしばらくすると、嵐山くんが訪ねてきた。彼は先の用事のついでで立ち寄ったようだった。
「手を出してくれ」
 言われた通りに従順に、仰向けの手を差し出すと、彼は隊服のポケットから小さな石ころのようなものを取り出した。よく見るとそこには、赤い舌を出したペコちゃんがいる。
「甘いもの好きだって言ってたから、良かったら食べてください」
「ありがとう…」
 気が利くし、優しいし、やっぱり嵐山くんと付き合う子は幸せになれるんじゃないか?慶ちゃんは否定気味だったけれど。
「そういえば、今夜空いてますか?良かったら夜ご飯食べに行きませんか」
 嵐山くんの言葉に、自分の予定を思い出す。確か今夜は、慶ちゃんの部屋でウォーキング・デッドの続きを観る約束をしていた。
 どうしよう。先に約束していたのは慶ちゃんだけど、ウォーキング・デッドはいつでも観られる。あの部屋に行くことは、日常生活の一部のようなものだ。嵐山くんとディナーに行く方が、はるかに魅力的に感じている。ここで嵐山くんを優先しても、慶ちゃんはどうせ怒らないだろう……。
 意を決して、空いてるよと伝えると、嵐山くんは嬉しそうにはにかんだ。またあとで、連絡します。彼はそう言って立ち去った。赤い隊服姿が遠ざかっていくのを見つめて、貰ったばかりのミルキーを口の中に放り込んだ。甘ったるい、粘着のある固形が口の中にへばり着く。舌根に練乳の風味の汁が染み込んで、味覚を奪われていった。
 バックの中から私用のケータイを取り出す。
『ごめん、今日行けなくなっちゃった』
 ほどなくして、太刀川慶から返信が届く。
『おーわかった』

 ところで、人と付き合うまでにどれくらいの回数のデートを積んでおくのが理想なのだろう?
 インターネットによれば、三回だという回答が多い。三回目のデート後に告白して、お互いの想いを確かめるという訳だ。わたしもそれくらいがベストだと思う。
 嵐山くんが三回目のデートに誘ってきたときも、彼はミルキーをわたしの手のひらに乗せた。目が合えば、鳥の餌やりのように彼は決まって隊服のポケットから、楕円形の包みを取り出す。
 その週の日曜日は、ショッピングモールに入った水族館に行った。彼は無地のキャップを目深に被り、わたしの手を繋ぎながら、てらてらと光るアクアリウムと、紺と銀色が混じり合った魚の群れを眺めていた。
「あなたが使っていたクリアファイルの絵、調べてみたんです」
 喧騒に溶け込むように、嵐山くんは目の前を泳ぐ魚と関係の無い話をはじめた。
「五感のあとに来るものは何だと思いますか?」
 五枚のタピスリーのあとは、「我が唯一の望みに」。ユニコーンとライオンに挟まれた貴婦人が、さいごに何を望んだのかは、誰にも解明されていない。
 嵐山くんは答えを知っているかのように、小さく笑った。穏やかな瞳の奥には、 水槽の中で消える泡のような揺らめきも一切許さないような、しんとした闇が広がっていた。月白の照明に照らされ、彼の頬と頬が光陰のコントラストを映やす。
 繋がれた手を解かれ、わたしの頬から耳先へ、するりと指を滑らせていく。自分が触れていることを記憶させるよう、厳かに。彼の分厚い指の感触が、わたしの皮膚を撫で上げる度、体の芯が微かに震える。まるで触覚を犯されているみたいに。
「好きです」

 嵐山くんと付き合うためには、やるべきことがある。
 二週間ぶりに、慶ちゃんの部屋に上がった。ウォーキング・デッドを観るためではなく、話したいことがあると連絡を取った。にも関わらず、わたしが部屋に上がるなり、寝っ転がっていた慶ちゃんはシャワー先に浴びてくれば?と言った。
「今日はシャワー浴びない、するつもりもない」
「何?どうした」
「慶ちゃんちのシャンプー使うと、嵐山くんが嫌な匂いって言うんだもん。わたし、嵐山くんと付き合いたいから慶ちゃんと寝るのやめる」
 一瞬の間、静寂が流れた。けれど、その静寂は本当に一瞬の間だけだった。
 何かがはち切れたように、慶ちゃんは大きな笑い声を上げた。わたしはぎょっとした。彼は、笑い過ぎて死んでしまうくらい、口を開けて大笑いしていた。それは、わたしと慶ちゃんの長い歴史の中でも、最も笑っていた姿だった。
「はあ、面白いなあ。お前って本当に馬鹿で可愛いよ」
「……何の話?何言ってるのか、分からないよ」
「だってお前が今更俺とするのをやめられる訳ないだろ。嵐山とセックスして満足出来るのか?」
 有り得ないと、言わんばかりに慶ちゃんはわたしを見つめた。黒い瞳には、縄張りに迷い込んだ獲物を捉える肉食獣の矜持が、確かに灯されていた。どうしても、彼の首の周りに、黒いたてがみが生えているような気がしてならない。
「なぁ。自分の本当の望みに従順になれよ」
 ゆっくりと、獣が起き上がる。彼はわたしの腕を掴み、宴を張る魅惑の寝台へと、わたしを導く。深い白濁の海の中に体が沈み、呼吸が苦しくなる。けれど、頭の裏にはいつだって、あの爆竹から弾けた火花が散っている。ここで始まるままごとから、わたしは何年も抜け出せない。


 ボーダーの公式SNSの評価もよく、根付さんからはまともな仕事も少しずつ貰えるようになって、わたしの社会人人生は順風満帆に進んでいるように見えたが、実のところ胸中はずっと晴れないままだ。わたしは未だに嵐山くんの告白に何も回答していない。イエスとも、ノーとも。それなのに、夜はあの部屋にウォーキング・デッドを観に行くのだから、最低な女だと地面を引きずり回されても致し方ない。いっそ、殺してくれと思う。嵐山くんのファンにでも刺されれれば、安寧は取り戻せるだろうか。
 十六時半頃、電話が鳴った。嵐山隊の取材に同伴していた先輩からだった。
『──あ、ごめんね、まだ退勤してなかった?実は今特集の取材に来ているんだけど…うちの子どもが熱出しちゃったみたいで…申し訳ないんだけど代われない?……場所は──』
 電話口でビルの名前のメモを取り、デスクトップを片付けた。ホワイトボードの名札の下を「社外」に変えて、何も考えず車を目的地まで走らせた。
 ビルのエントランスに着くと、焦燥しきった顔の先輩が、わたしの顔を見るや否やパタパタと駆け寄ってきた。
「ああ、ごめんなさい、急に来てもらって。あと少しで対談は終わるから、そしたら嵐山くんを家まで送っていって欲しいの」
「……嵐山くん?他のメンバーは?」
「今日は一対一の対談だから嵐山くんだけよ。一人だけだから楽ね」
 思考が固まった。てっきり、他の隊員の子たちもいると思って駆けつけたんだ。嵐山くんしかいないんだったら、わたしも熱を引くなり何なりして、この場所には来なかった。だって、耐えられない。
 彼と気まずい原因はわたしにあることは分かっているけれど、この場に呼び付けた先輩へ恨み言が止まらない。逃げられないまま、どうしようかと、気もそぞろにエントランスで待ちぼうけていると、エレベーターからあの赤い隊服の彼が飛び出した。ひさしぶりにあの瞳と目が合い、息を飲み込む。
「お疲れ様です。代わりに送ってもらえるんですよね?ありがとうございます」
 彼の言葉に、ううんと力なく首を振った。それから、地下の立体駐車場に停めてある自分の車まで向かい、乗り込んだ。彼は当然のように助手席に座った。
 キーを差し込み、エンジンをかける。シートベルトが嫌によそよそしく、座席の居心地が悪い。
「……嵐山くん、お家どこらへん?」
 エンジンの待機音と車内の空調の稼働音が、ふたりの体を包み込む。べったりと肌に張り付く、不快な感触だった。素肌に直接レインコートを着ているみたいに。
 嵐山くんは、真っ直ぐに正面を、駐車場の中を見つめている。わたしは今すぐにラジオをつけて、かまびすしいMCの声でも聞いていなければ耐えられないと思った。
「おれ、あなたのこと許してあげようと思ってるんだ」
 彼の言葉が重く響く。車はまだ走れない。目的地を入れないと、走ってくれない。
「正直、自分の中の怒りが、腸が煮えくり返るくらい抑えられないけれど、ちゃんと沈めることにしたんだ」
「何を……」
「なあ。あなたにおれは殺せないよ」 
 助手席から左手首を掴まれる。力強く握られたそれは、鉛のように冷たく重い。
 わたしは理解した。この男をどうすることも出来ないと。ユニコーンは優美な姿と裏腹に、非常に獰猛で危険なのだ。ユニコーンを殺すには、処女ではないと。
「そっちの望みはちゃんと叶えてあげたぞ。す
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