二十二歳、四月。何色もの憂鬱が塗り混ぜられ、不気味な色合いをパレットの上に光らせている。
 この月のわたしは、目に見えて体調が良くなかったのだが、それは重たい花粉症を患っていたわけでも、寒暖差で自律神経を乱されていたわけでもなかった。厳密に言えば、花粉や寒暖差といった、移り変わる季節の外的要因が、わたしのからだに影響を及ぼしていることは、あることにはあるのだが、それらは足のつま先ほどの小さな要因の一部に過ぎない。
 そもそもの元凶である、からだの機能を鈍くさせるほどの憂鬱の元は、まったく別のかたちをして、わたしの目の前に立ちはだかっていた。
 これは、決して比喩ではない。事実、わたしの目の前に今立ちはだかっている。
「おはよう」
 綿毛のような猫柳の花が、風に送られて飛んできそうな、のどかな午前のことだった。
 事務員室のデスクで、無機質な書類の文字を指の腹でこすりながら、不備項目の確認をしているところに、突然の来客があった。普段から人気の少ない事務員室は、心地のよい平穏で満たされているが、軽快に鳴らされた二回のノック音と、同時に覗かせたはっきりとした顔立ちの男に、わたしの身を包んでいた平穏が洗い流されていくのは、とても容易なことだった。
 ボーダーにいる、彼に憧れている女子職員や女子隊員であれば、歓喜の声をあげたり、顔を色づかせたり、歓迎するムードを自然と出せるはずだが、わたしの顔はピクリと嫌な引き付けを起こして、口から黄色くない悲鳴が出そうになるのを、すんでのところで飲み込んだ。
 彼は、そんなわたしの様子に気がついていないのか、気がついているけれどあえて触れないだけなのか、わからないが、わたしのデスクの元へつかつかと歩み寄った。日に透かしたビー玉のような翠の瞳が、緊張と焦りの表情を浮かべたわたしの姿を映している。
「嵐山くん、おはよう……」
 わたしの言葉に、彼は一瞬、眉根を寄せたが、すぐさま明るい笑みを浮かべた。雑誌のインタビュー記事に載っているのと同じ、人当たりのいい、実に多くの女性が好きそうな顔をしている。
「うちの部隊の経費申請を渡しに来たんだ」
「あ、経理担当の先輩、今日シフト休だから明日渡しておくね」
「そうか、ありがとう」
 彼の指先から、ホチキス止めされた申請書類を受け取り、デスク上の書類棚に流し込む。ごく普通の、事務的なやり取りとは裏腹に、不自然な汗が背中を伝うのに気づかないふりをしながら、どうか早く彼がこの部屋から去ってくれますようにと、祈った。
「おれも朝から本部に用事があったんだ」
「え?」
「出勤する時間が被ってると思ったんだが、会わなかったな」
 身勝手なわたしの願いは叶わず、目の前の彼はそのまま会話を続けた。業務に関係のない話題を、さも本筋のように話し始めるので、わたしは面食らった。
 わたしの住んでいる実家と、嵐山家は道路を隔てた斜向かいにある。わたしにとっては二十二年前から、嵐山家との親密な近所付き合いが、途切れることなく続いている。むかしから、ふたつの家族の大人たちは、子どもをひとまとめにあつかって、通園も通学も、ことある行楽行事も一緒くたにしていたから、わたしにとって嵐山家は、血の繋がりのない家族のような存在だった。
 お互いの生活パターンは、何となく頭に刷り込まれている。たとえば、副と佐補が部活を終えて帰宅する時間帯とか、おばあちゃんの通院日とか。わたしがわざわざ教えていなくとも、彼がわたしの通勤時間を知っているのは、特別に違和感などはない。
「……どうだろう、朝少し寝坊したからかも」
「そうか。まあ、別に大した話じゃないんだ」
 淀みなく流れる彼の返事に、なぜか尋問をされているような気分になり、丸椅子に凭れていた自分の背中の骨が、まっすぐと伸びていく。
 翠の瞳が瞬き、日に透かしたビー玉が陰りなくこちらを見据えてくるのに、居心地の悪さを覚え、目をそらす。デスクの表面は、何の変哲もないくすんだ鼠色をしている。彼の目を直視できなくなったのはいつからだろう。じりじりと首裏に突き刺す視線から逃げるように、そんなことを考えたが、見たくもない鍋の中身のために、みずから蓋を開ける必要はないはずだ。
 彼がまっすぐにわたしの名前を呼ぶ。わたしは今すぐ平穏で満たされたプールの中に身を投じたくなった。
「おれから逃げないでくれ」

 新卒でボーダーの正社員になったが、この街の安寧を掲げた大層な理念や志しが、一般市民のわたしにあったわけではない。大学卒業までに具体的な進路を見つけられなかったわたしに、長く用務員のパートをしている叔母から、ここの募集を教えてもらったのがきっかけだった。仕事内容に惹かれて面接を受け、いざ就職が決まれば、わたしの家族は医者や弁護士と比肩する勢いで喜んでいた。身近に嵐山准というスターの存在がいることもあって、わたしの身内は、ボーダーを強く信頼しすぎている。
 本人から指摘されたように、わたしは嵐山准のことを避けている。だとしたら、やっぱり、ボーダーに来てはいけなかったのだと思う。たとえ、しがない事務員のひとりと広報部隊の看板隊長でも、彼が事務員室を訪れる理由をつくれば、わたしの抵抗は意味をなさないものになるのだから。
 二十二歳、四月。今更どうしようもない後悔の念に苛まれていた折に、さらなる憂鬱を引きおこすかのように、上司の沢村さんから呼び出される。
「留年対策?」
 自分に告げられた言葉をくりかえすと、目の前の彼女は若干呆れた顔をしながら、ええと頷いた。いつもきっちりとスーツを着こなして、歯切れよく話す上司が、こんな顔をするところは珍しく、わたしは少し呆気にとられた。
 つまるところ、彼女の話はこうだった。ボーダー隊員のひとりに、来年度の進級、しいては大学卒業までもが危ぶまれているものがいて、本部はその人物の進級を何とかしないといけないらしい。やけに過保護だと話を聞けば、トップ部隊のトップ隊員である彼が大学進級につまづいたことが大っぴらになれば、ボーダーの沽券に関わる事態となり、もれなく根付さんの胃に穴があくのだという。その対策係にわたしに選ばれた理由は、単純にわたしがくだんの彼と同じ学部のOGであり、わたしの業務内容がほかの隊員や職員と比べ、みっちりと詰まっているものではないからだ。
 最近、卒業したとはいえ、ひとに何かを教えられるほど……尻込みするわたしに、沢村さんは留年阻止が目標だからと、だれを励ましているかわからないことをいい、結局流されるがままその仕事を受諾した。
 その話があったのは、四日前。
「あなたが俺のセンセイ?」
 これからわたしの生徒となる太刀川慶は、事務員室の備え付けのチェアに座り、真っ暗な夜の海のような瞳でわたしを見上げた。どんな光も吸い込んでしまいそうな黒は、翠のビー玉と真逆みたいだと思った。
 はい、これからわたしが太刀川くんの教育係となった……。へえ、よろしくお願いします。ていうか、センセイ若いな。いくつですか?ええと、二十二だけど。
 事務員室には、わたしのほかに二名ほど職員が在籍しているが、シフトが被らなければひとりで黙々と仕事をすることが常だった。新卒のこの時期だからか、わたしの業務量は、おそらく他の事務員よりだいぶ軽く、たとえば太刀川くんの予定に合わせて時間をつくることは容易だった。
「太刀川くんの履修科目見たら、取ってた授業がだいたい被ってたから家からノート持ってきたんだけど」
「おお」
「テスト範囲のところには付箋してるから、そこを重点的にやっていけば点数取れると思う……」
「おおお」
 くたくたになったキャンパスノートを捲りながら、太刀川くんは中身を斜め読んで、感嘆の声を漏らしていた。
 夏休み前の期末考査と提出課題と小テストの出来栄えが、各授業の単位取得に紐づいているが、このマンツーマンサポートは、どう進行していけばいいのだろう?それと、もし、太刀川くんが単位を落としたら、わたしのボーナスも減らされてしまうのだろうか……。肝心なことをいくつか確認し忘れていた。

 ■

 むかしの夢を見た。
 むかしから、人見知りで、引っ込み思案な性格だった。外へ出て、子どもたちの群れに混ざりこみ、空き地のボールを追いかけて走り回るよりも、家のなかに篭って、絵本や児童書を読んで空想することが好きだった。
 そんな子どもに、同い年の友だちができるはずもなく、わたしはどこに行ってもひとりでいることが多かったのだが、四つ下の、幼なじみの彼は、つねにわたしにべったりとくっついていた。明るく活発な彼こそ、輪の中心でボールを蹴り飛ばしているのが似合うというのに、一体何がおもしろいのか、ヒマがあればわたしの部屋のドアを叩きにやってくる。外で遊んだら、とやんわり突き放したのも最初の数回で、強情をつらぬく彼にわたしがすぐに根負けしたのは、性格の相性から見て自然なことだ。
 本のなかでも、とりわけ童話が好きで、とくに母が買ってくれたグリム童話全集を、何回も読み返していた。子ども向けに訳された文章のとなりに、モノトーンの挿し絵が挟まれていて、ただその絵を眺めて時間を過ごすこともあった。イバラ姫や白雪姫など、プリンセスが出てくる挿し絵が好きで、となりにいる彼にプリンセスへの思いの丈を話すと、彼は不満も言わず、ただにこにことしながら話を聞いていた。
 わたし、どうしてもお姫様になりたいの。
 彼はこう言う。じゃあ、おれが王子様になるよ。

 きっと、あの事務室での邂逅が、無意識にむかしの夢を見させたのかもしれない。彼、嵐山准とまともな会話をしたのは、とてもひさしぶりのことだったから。

 基地の入口にある、桜の木の枝に青青した葉っぱが広がりはじめ、事務員の仕事に就いて数週間が経った。一般事務の業務は繁閑の波も来ず、ただひたすらに決められたデスクワークをやりこなす平穏な日々を送っていた。新卒の身で訪れたこのボーダーという組織に、からだが徐々に馴染んでいく。
「なあ、いつヒマなの?」
 エクセルシートに数字を打ち込む手を止めて、頬杖をつきながらじっとこちらを見つめてくる、声の本人を見上げる。
 太刀川くんは最近、何の約束がなくても、わたしに会いに来ていた。一体何がおもしろいのか、ヒマがあれば事務室のドアを叩きにやってくる。
「ヒマっていっても……わたし社会人だし」
「それでも休みの日とかあるだろ。いつも何してんの?」
 休みの日のことを考えたが、自分が普段どのように生活しているのか、正確に思い出せなかった。平日のときにできなかったことを、空いた二日のなかでやり尽くそうとしているみたいで、活動的になにかをしようとしている訳ではない。少しだけ悩んだあと、わたしは話題を変えた。
「太刀川くん、それよりマケ論の小テストは?」
「バッチリ。体感でいうと九割は確実だな」
「本当?すごいじゃん」
「頑張ったからご褒美くれる?」
「ご褒美?」
「デートしてよ」
 思わず手元の書類から顔を上げると、いたずらっぽく口角を上げた、野心あふれる男と目が合う。そのまま見つめていると、黒い瞳に吸い込まれていくような気がして、慌てて視線を剥がし顔をそっぽ向けた。
 ここのところ、ずっとこんな感じだ。
「で、いつヒマなんだ?」
「……わたしの拒否権はないの?」
「生徒のモチベ上げるのもセンセイの役割だろ」
 さも当然のように言い渡される主張に、喉上まで出かかっていた言葉がつまる。自己主張を苦手としている性分なのに、なぜか相反する性格の男に懐かれやすい……勝てる見込みのない押し問答をつづける気力もなく、しぶしぶとスマートフォンのカレンダーアプリを開くと、目の前の男が愉しそうに笑みを深めた気配がした。
 トントンと鳴らされるノック音。ガチャリと開かれるドアの方へ振り向くと、太刀川くんと同じ隊服を着た少年が顔を覗かせた。
「太刀川さんやっぱりここにいた」
「おう出水」
「おうじゃなくて、スマホ見てくださいよー。太刀川さん、エンジニアチームに呼ばれてます」
 呆れた顔をした出水くんは、アメリカン・コメディアンのような大袈裟な動きでため息をついた。太刀川くんの周りにいる人間は、よくああいう顔をすることがある。
 なるほど、そうか。太刀川くんは状況を汲み取ると、デスクチェアから立ち上がった。事務員室のドアから出る直前に、こちらを振り向く。
「またあとでな。スケジュールちゃんと見ておいてくれよ」
 ひらひらと手を振りながら、立ち去っていく姿を呆然と眺めていると、出水くんが口を開いた。
「相変わらずしっぽ振ってますね、太刀川さん」
「う、うん……」
「あれ、もしかして照れてます?」
 カチコチと身を固くするわたしに、自販機のジュースが当たったような嬉々とした声で、出水くんはわたしに問いかけた。途端に顔が熱くなる。たまらず俯いたが、耳の端が赤く染まっているような気がしてならない。
 なあんだ、太刀川さんばかりかと思ってたけど、脈アリなんですね。出水くんの言葉が骨の髄まで反芻し、頭のなか一帯にぶちまけられる。
 出水くんのいう脈アリなのかどうか、自分のことなのに、よく分からない。太刀川くんと付き合いたいと思っているのかも。ただ、太刀川くんと話していると、羽がついたように心が軽くなって、くすぐったい気持ちになる。これは恋だろうか?
 童話の世界だったら、悩むことはなにもなかった。お姫様は王子様と結ばれるのが最初から決まっているから、お姫様はなにも悩む必要はないのだ。

 夢の話にはつづきがある。
 彼は王子様になるとわたしに約束をしてくれたが、その約束は必要のないものだった。
 なぜなら彼は、わたしとの約束がなくても、自然とだれかを救い、だれかの光になる王子様として成長していったから。歳を重ね、わたしが童話ばかりを読むのを辞めたころには、彼を慕い、憧れる人間が周囲にはたくさんいた。
 そして、彼がボーダーに入隊し、メディアの第一線で活躍をはじめると、薄々と感じていた直感は、重みを増してわたしの胸のなかを占めていく。幼いころのわたしは傲慢だった。
 嵐山准は、わたしだけの王子様ではない。


 ■

 今まで、いい感じの雰囲気になったひとは何人かいたけれど、きちんとした付き合いをしたことはなかった。かといって別に、きちんとしてない付き合いをしたことがあるわけでもない。
 単純に、気になる相手と付き合うことがなかったのだ。元から人間関係が希薄な上に、気心の知れた友だちと一緒にいるときでさえ疲れやすい体質だから、わたしにとって恋愛は、言葉の通じない国で親友をつくるのと同じくらい難しい。
 太刀川くんの恋愛遍歴は、少し前に聞き及んだことがある。あまり褒めらないトピックが多かった。だいたいいつも命を狙われそうになってるんですと、出水くんはおどけた顔で物騒なことを言っていた。それは、留年よりも大事な危機ではないのだろうか。

 太刀川くんはヒマなとき何をしてるの?と尋ねれば、考える素振りも見せずに、だいたい本部に来て個人戦をしていると単純な答えが返ってきた。
「あとはあんたのこと口説きにいってるな」
「はいはい」
「出た塩対応」
 そげなくあしらっても、太刀川くんはへこむどころか、愉快そうににやにやと笑っていた。わたしはため息をついた。瞳の深いところに宿る好戦的な熱情は、冷たくされればさらに熱くなるようだった。
「……太刀川くん、軽薄そうなんだもん」
 脳裏に出水くんの言葉が蘇る。想像したくないが、わたしも深みに嵌ってしまうと、目の前で焼き鳥を頬張る男のことを、刺したくなるときがくるのかもしれない。
「ケーハク?」
「軽そうってこと」
「重いのが好きなの?」
「うーん、軽いよりはいいかな……」
 そう言ったものの、ひとと付き合ったことがないから、重い軽いの好みなんて想像でしかない。そもそも、愛情の質量に好みが別れることなどあるのだろうか。
 太刀川くんは、きっと重たくなさそうだと思った。この数ヶ月そばで見てきて、彼の戦闘以外に無頓着なところや、現実主義な考え方を知ると、ひとへの愛の激情に狂う姿は想像できない。それこそ、付き合ってる相手が浮気なんてしたら、そうか、じゃあ別れるか?と具体的な提案をしてきそうだ。
 太刀川くんは、へえと間延びした声で相槌を打った。そして、はだかになった串を取り皿の上に並べて、また新たな焼き鳥を口に加える。わたしは太刀川くんの取り皿の上に寝かされた串の本数を数えて、よく食べるなと感心した。
「それって、俺が重かったら俺と付き合うってこと?」
 淡々と呟かれた言葉に、からだのすべての動きが静止した。呆然と口を開けたまま、正面を向く。まるで、明日の天気の話をするかのような顔をしている男が焼き鳥を食べていた。
「……気持ちの重さって、コントロールできるものなの?」
「わからん」
「じゃあなんでそんなこと言ったの?」
「それであんたと付き合えるならそうするだろ」
 さも当然のような口ぶりに、脳がフリーズする。少し遅れて、粗めな布に全身の肌をこすられているような感触がして、硬い木製の長椅子の上で身をよじらせた。あけすけに伝えられる好意に、わたしはどうしていいのかわからなくなる。
「どうやったらケーハクじゃなくなるのか、わからないから教えてくれよ。あんた、俺のセンセイだろ?」
 テーブルの上に置かれていたわたしの手の上に、太刀川くんの厚い手のひらが覆い被さる。瞬時にわたしのからだがびくつくが、それを気にすることなく、肉の厚みと、骨のかたちと、自分とは違う体温が、そろりとわたしの手の上を滑るように包み込んで、やさしく握られていた。指のつけ根に彼の指先が潜り込んで、一本ずつ輪郭をなぞっていく。ただ手を撫でられているだけなのに、執拗で、じっとりと舐めまわすような動きに、頭のなかがかぐつぐつと沸き立って、わたしのなかの大事な理性の紐を解きほぐされていった。
「……太刀川くん、やめて、」
「本当に?」
 でも、全然嫌そうな顔してないじゃん。
 店内の喧騒に紛れるぐらいの大きさで、太刀川くんはささやいた。声のなかに、余興を愉しむ強者の驕りが滲み出ているのを認めて、わたしはどうすることもできないことを、早々に理解する。年下だろうが、そんなものは関係なく、従順な口ぶりをしても、いつだって強いのは彼の方なのだ。口説いているといっていたのは、彼自身のはずなのに……。
 繋がれた手を握りかえすことはしなかった。あの黒い瞳に溺れてしまうのが、怖い。後戻りができなくなりそうで、でも、わたしは太刀川くんにすでに惹かれてしまっている。だから、手は振りほどくことができない。完全に拒絶することはできないけれど、彼にすべてを委ねる勇気もないから、わたしはどうすることもできず、崖の先に立たされている気分になる。
 店を出たあとも、太刀川くんと手を繋いでいた。突き刺すような夜の風が、からだから出る食熱を冷ましていくのに反して、繋がれた手はやけに生あたたかく感じた。
 手を取り、先に進んでいく太刀川くんに、どこへ行くの?と聞くと、俺の家とだけ返事があった。
 わたしは黙ったまま太刀川くんに着いて行った。コンビニでペットボトルの水とカップスープを買って、はじめて太刀川くんの家へ上がると、部屋のドアを開けられた瞬間に、雪崩込むようにキスをされた。口のなかで激しくうねる舌先は、わたしの言葉も呼吸も奪う。ほのかに香るアルコールと、いやらしく鳴るキスの音が、わたしの五感を犯しているみたいで、未知の感覚に対する好奇心が胸のなかで高まっていくのを、たしかに感じていた。溺れるのは怖い、けれど、彼に暴かれてみたい。深い口付けを受けながら、ゆっくりとからだの重みを玄関の壁に預けると、さっきまで繋いでいた大きな手が、わたしの顔をするりと撫でて、首元へ落ちていく。
 まぶたを閉じる。わたしのからだは太刀川くんの手によって、一枚ずつ丁寧に暴かれていき、そのままなし崩しの夜を迎えた。

 ■

 ところで、わたしははじめて男のひとと寝たわけだが、それ以前と比べて劇的に世界が変化するなんてことはなかった。それも、当然である。からだの一部の膜が生えているかいないかの違いだ。わたしの世界は正常に日が昇り、夜が更ける。動物は音楽隊を結成しないし、ひとが呪われてカエルになることはない。
 大きくはないが、少しだけ変わったことがある。まず、太刀川くんと一緒にいる時間が増えた。元から、太刀川くんとはよく基地のなかで会っていたのだが、あれから基地の外でもふたりで会うようになった。
 それから、ボーダーで太刀川くんと親交が深いひとたちから話しかけられるようになった。彼らはわたしを太刀川くんの彼女として扱っているが、わたしは正式に太刀川くんの彼女になった実感がなかった。
 わたしたち付き合ってるの?とバカみたいな質問を本人に投げると、なんで?ダメなの?とさらに質問を重ねられた。いや、ダメじゃない、と思うけど……。だったらいいじゃん、付き合ってるってことで。………。
 
 断続的な雨が地表を激しく叩いていた。空はのっぺりとした灰色の雲に覆われ、地中の根も腐るような、陰鬱とした天候が先週からつづいている。家の窓ガラスに雨粒の束が落とされていく雑音を、カーナビのラジオのように聞き流しながら、ベットの上に横たわる。休日はこれといって予定はない、いつも通り、記憶にも残らない無益な一日を過ごしている。
 ベットシーツの心地よい温もりに包まれて、うつらうつらと午睡の糸を引いていたとき、突然鳴らされたチャイム音で頭が覚めた。そのあと、すぐに階下の玄関が開く音がして、母が何やら甲高い声で話している。少しして階段を昇る足音に、わたしはからだを起こして、部屋のドアを見つめた。二回のノック音。わたしが声を出す前に開かれるドア。
「起きてたか?」
 彼は外の悪天候も感じさせないくらいのすがすがしい表情で、わたしの部屋に足を踏み入れた。わたしは呼吸も忘れて彼を見上げていた。
「え、なんで、ここに?」
「なんでって理由なんていらないだろ。おれはむかしからこの部屋に来ていたんだから」
 彼は呆れたような笑みを浮かべ、わたしのとなりのベットの淵に腰かけた。ぎしりと音をたてて、彼の体重の分だけマットレスが沈む。手が触れ合うほど近くなる距離に、得体の知れない緊張感に身を包まれ、鼓動が不気味なリズムを奏でていく。
「そうだけど、いきなりどうして……嵐山くんとはもう、」
「おれ、その呼び方嫌いなんだ」
 氷のような冷たさを帯びた声が、わたしのからだを突き刺す。足の先から、急に体温が奪われていく感覚を覚え、わたしは今この状況に、確かな恐怖をいだいているのだと気づいた。
「前みたいにちゃんと名前で呼べるだろ?ほら、呼んで」
「……准」
 乾ききった口から、掠れた声で名前を呼べば、彼はうんと満足げに微笑んだ。となりから向き合うように、わたしの頬に手のひらを添えた。柔らかく包み込む手のひらは、見えない力によってわたしの動きを封じ込めているようで、この場所から逃げられなくなる。
「さっき何を言いかけたんだ?」
「え?」
「おれとはもう、って言ってたよな」
 するすると、手のひらはわたしの左頬を撫でられる。翠の瞳が、静かにわたしの顔を見つめていた。まるで、何かの不具合を点検するかのように。
「……准とは、もうむかしみたいな関係じゃいられないから。わたしが、いつまでも准のそばにいちゃいけないと思って」
「……どういう意味だ?」
「わたしだけの准じゃなくて、みんなのものだから」
 この数年間、彼のことを避けながら、ずっと感じていたことだった。嵐山准は、わたしだけの王子様ではない。みんなが彼を求めているのに、何もしてあげられないわたしがいつまでもとなりにいてはいけないのだ。そんな傲慢、許されない。
 彼は頬を撫でる手を止めた。わたしの心臓の音が、不気味な静寂に満たされた部屋のなかで、唯一ばくばくと強い音を立てている。こんなに近くにいるのに、准が一体何を考えているのかまったくわからない。
 彼がこちらに手を伸ばした瞬間、こつんと、ひたいがぶつかる。鼻筋の先に、彼の顔が見えて、あまりの近さに退こうとするわたしの肩を、彼はしっかりと捕まえた。息が届く距離に、混乱と羞恥で固まるわたしの姿が、その瞳のなかに映り込んでいる。目をそらせない。
「でも、お前にはおれしかいないだろ」
 わたしが何かを発しようと開きかけた口は、彼によって塞がれた。静かだけれど強引で、やさしいけれどわたしの抵抗は許さない。息苦しさと、散り散りになった感情に胸が締め付けられて、自然と涙が出てくる。
 王子様のキスなんていう、甘いものではない。これは、わたしに呪いをかけるキスだ。

 ■
 
「あんたって結構可愛い趣味してるよな」
「え?」
「ほら、付箋とか」
 太刀川くんはわたしが貸し出したノートを開いていた。ページの端に貼られた、ラプンツェルのイラストが描かれた付箋に、あっと声が出る。
「それは……ほら、むかしそういうの好きだったから、無意識で選んじゃうっていうか」
「へぇ」
 まごまごと口淀むわたしに、太刀川くんは気の抜けた返事をした。自分のノートのページをめくり、休んでいたペンを走らせる。
 夜のラウンジは閑散としていた。シフト終わりの太刀川くんへ授業ノートを貸し出す用がなければ、わたしもまっすぐ帰宅していた。
 伏し目がちに手元のノートを眺める黒い瞳を、真向かいの席から眺める。太刀川くんはいつもと変わらない。わたしだけが、太刀川くんに対して罪悪感のような感情をいだいて、少しだけよそよそしくなってしまう。だけど、あの日のことを打ち明ける勇気もない。
 テーブルの上のスマートフォンが振動する。鳴っていたのは、わたしのものだった。視界の端で、液晶に映し出された文字を捉え、息を飲んだ。
「出ないの?」
「え、あっ、その……」
 鳴り続ける電話にわたしは出ることができなかった。普通に電話に出たって、なにも問題ないはずなのに。太刀川くんの目の前で、彼からの電話を取ることをためらってしまう。
 動揺しているあいだに、呼出音は切れた。突然静かになったスマートフォンを、呆然と眺める。
「出なくてよかったの?」
「えっと……」
「まあ、どうせあいつのことだから邪魔しに来るだろ」
 太刀川くんはノートを写しながら、こちらと目も合わさずにそう言った。わたしは彼の言葉の意味がわからなかった。頭の裏を思いっきり棒で殴られたように、状況を判断する脳が停止していた。
「……え?」
「俺もそろそろ終わりそうだし、これからどっか食べいくか?あ、また電話鳴るだろうから、電源切っとくか」
「え、待って、なんで」
「なんだよ。病人みたいな顔してるぞ」
 動悸が激しくなる。足元の床が抜け落ちて、そのまま奈落に引きずり込まれそうな感覚がした。わたしと太刀川くんのあいだに、不自然で不可解な違和感が横たわっているのに、太刀川くんは平然と、軽薄な笑みを浮かべている。まるで、わたしだけが違う物語の登場人物になったみたいに、この場所に取り残されていた。
「俺がいるのに俺以外の男たぶらかしてるんだろ。あんたってば、ゴーマンだよな」
 まあ、俺をイラつかせるところも、可愛いんだけどさ。
 わたしの右頬に厚い手のひらが添えられる。太刀川くんとの距離がどんどんとなくなっていっても、わたしは動くことも、瞬きすることもできない。 一瞬、視界の端に、赤い隊服のシルエットが混ざりこんだ。わたしが息を飲むのと同時に、目の前の男が笑う。唇が重なった。

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