『その男はユニコーンに食べられないようにと、男を食べようとしているユニコーンから急いで逃げようとして、深淵に落ちてしまう。それでも男は潅木の枝につかまることができた。だが、彼の足は滑りやすく、もろい場所に置かれていた。(中略)ところが男が上を見上げると、灌木の小枝から蜜が一滴垂れているのが目に入った。そこで男は自分の身に迫るあらゆる危機を忘れて、その蜜の甘さに束の間酔いしれるのである。』
 ─ヤフゴス・デ・ヴォラギネ 『黄金伝説』 第一七四章 「聖バールラームと聖ヨサファート」より引用


 昼下がり、根付さんとわたしはいく度目かの打ち合わせを行っていた。議題は、わたしが運営しているボーダーのSNSアカウントについてだ。
「要するに、嵐山くんのファンを名乗るアカウントから頻繁に自殺をほのめかすメッセージが届いていると」
 根付さんは自分のこめかみを抑え、やれやれとため息をついた。彼の手元には、先ほどプリントアウトしてきたばかりの、ダイレクトメッセージのキャプチャ画像が数枚広がっている。
 『嵐山くんみてますか?』『お話して』『たすけてください』『会いたい』『会ってくれないと死んじゃいます』『本気です』……
 メッセージの内容はこのようなものである。ボーダーのアカウント宛へ百件以上送られているが、送り主は「愛深きジョセフィーヌ」というひとつのアカウントからだった。これまでも、嵐山くんを応援するアカウントから、一方的な愛のメッセージのようなものは届いていたのだが、自死をほのめかす脅迫めいたものはこれが初めてである。
「どうすればいいんでしょうか。ほっといても大丈夫なんですかね?」
「無闇に返信して相手を刺激することは避けたいですが、このままエスカレートしても困りものですね。なるべくおおごとにしたくないので、一旦様子を見ましょう」
 根付さんは、取り敢えず知り合いの弁護士に相談すると言った。「このことは他言無用ですよ、嵐山くんにも」わたしもそれがいいと思った。アカウントはわたしと根付さんしかログイン出来ないため、幸いまだこのことはわたしたち以外の誰も知らない。
「…何も起こらないことを祈りましょう」
 わたしは根付さんの言葉に深く頷いた。よく知っているからだ。行き過ぎた愛情は、時として人を殺す凶器となることを。

「貴女がウワサの?」
 SNSの新しい投稿のインタビューという、突然の依頼を引き受けた出水くんがラウンジに現れた時、彼は初対面のわたしにそう言った。わたしは首を傾げる。
「ウワサ?」
「ほら、おれ太刀川隊なんで。太刀川さんからたまに 苗字さんの話聞くんですよ」
 流れるように飛び出た彼の言葉に、得体の知れない汗が一気に体から流れ出した。一体、何の話を聞いている?あいつとは、夜な夜なウォーキング・デッドを観てセックスしてるんだぜ、とか?
 わたしの動揺も露知らず、彼は涼しい顔でそのまま続けた。
「太刀川さんの親戚なんですよね?」
「親戚……そう、親戚です。遠縁の」
「ボーダーって親戚関係多いですよね。三門市だからってのもあるかもしれないですけど」
 彼はそれ以上知ったようなことは何も言わず、平然としていた。内心、ほっと息を着く。どうやら、不要なことは知らないらしい。ただの親戚として認識してもらえるなら安全だ。
「すみません、脱線しましたね…それで?おれに何か仕事があるって」
「はい。SNSアカウントをやってて、ボーダーの…」
「あ、知ってますよ。あれってあなたがやってたんだ」
 出水くんは納得した顔つきで、その猫のような瞳を瞬かせた。
「学業と両立している若いボーダー隊員に話を聞きたくて……出水くん、A級でシューターとしても腕が立つって聞いたから、そういう話も聞ければと」
「そういうことっすね。ちゃんと両立出来てる自信ないっすけど、おれで良ければどーぞ」
 彼が快く受け入れてくれたので、わたしはそのままいくつか用意していたインタビューを行った。答えられたものをメモ帳に書きまとめ、最後にピンでの写真も撮らせてもらった。
 ひと通りの作業が終わると、タイミングを見計らったかのように着信音が鳴った。それは、わたしのケータイからだった。出水くんは出ていいですよと、促す。わたしは少しだけ逡巡したあと、その場で通話ボタンを押した。画面を見なくとも相手は何となく分かった。
『お疲れ様』
 電話機越しに嵐山くんの明るい声がする。
「うん、お疲れ様。どうしたの?」
『任務だったんだが、訳あって早く終わったんだ。本部にいるなら会えないかと思って』
「いるよ。今、ラウンジにいる」
『分かった。すぐ行くよ』
 電話が切れる。ふと前を見ると、出水くんがこちらをじっと見つめていた。
「ごめんなさい、電話出ちゃって…」
「いいですよ、別に。それより今の彼氏さんですか?」
「え?あ、うん。一応……」
 一応、とつけたことに深い意味は無い。わたしと嵐山くんは正式な恋人である。確実に、絶対に。
 出水くんは、へぇと相槌を打つ。
「じゃ、ふたりの邪魔はしないんでおれは退散しますね。また何かあったら言ってください」
「うん、ありがとう。出水くん」
 物分りのいい彼はきっぱりと言い放ち、わたしの元を立ち去った。それから数分も経たずに、少年と入れ替わるようにして、赤い隊服を来た彼がやって来た。彼はわたしの顔を見ると、八月のひまわり畑のような晴れやかな笑みを浮かべた。
「お疲れ」
 夕刻を過ぎたラウンジの中は、利用者も少なく、ここから離れた席に単生して隊員が座っていた。周りには誰もいない。天蓋のシーリングライトが、わたしを見下ろす彼の顔を白く照らしていた。
 嵐山くんは、わたしの顔の輪郭に手を添えた。骨のかたちを確かめるように、生温かい手のひらで包み込む。そして、わたしの頭のつむじに顔を近づけると、うんと、頷いた。
「合格だな」
 頭上の彼は満足気にそう言った。頭には、わたしの家のシャンプーの香りが付いているはず。だって、あの部屋には一週間立ち入ってないから。

 昔さ、副と佐補が小さい頃、よくおもちゃを取り合って喧嘩してたんだ。交代で遊べって言っても、聞かなくてさ。そういう時は、おれが冷蔵庫に隠していたミルクプリンを出すと、すぐ機嫌を治すんだ。喧嘩の原因も忘れてな。だから、おれ、人のワガママに対応するのはとても上手いんだ。

「可愛い顔してる」
 わたしを見下ろす彼はそう囁いたあと、唇に軽やかなキスをいくつか落とした。触れ合う体熱が、じわりとわたしの中へ染み込んでいき、法悦した感情が胸底から沸き起こる。ああ、わたし、この人とのキスが好き。それって、多分、この人のことが好きってことだと思う。
 彼は前戯をこよなく愛する男だった。凹凸の物的な繋がりよりも、わたしのからだを入念に点検し、確かめることを優先していた。何かの実験のように、かき混ぜられ、かき乱されるわたしが喘ぐ姿を、彼はじっくりと観察するのだ。だらしなく開いた口から声にならない声が出る度、今、この瞬間、わたしはこの男に支配されていると、脳の中枢で理解する。わたしの生殺与奪権は、この男が握っている。
 張り詰められた糸が、限界に近づくことを察すると、わたしは瞼を閉じる。そして、その瞼の裏にあの白い火花を探すのだ。けれども、いくら待っても、その火花は現れることが無い。
「何考えてるんだ?」
 どうしてこの人のことが好きなのに、実態のない虚像を思い浮かべてしまうんだろう。分からない。わたしは必死に首を横に振る。彼はいきなり奥を突いた。別の男が、わたしの耳の底で笑う。お前って本当に馬鹿で可愛いよ。好きな男に抱かれているのに、何故か心が摩耗していく。終着点の見えないバスに永遠と揺られているような、得体の知れない不安にいだかれる。
 心と分離する女のからだなど、穢らわしい。奸邪な毒に犯されている。はやく、わたしのからだを、そのユニコーンの角で清めてくれ。
「嵐山くん、好き。大好きだよ」
「うん。おれもきみがすごく好きだ」
 殺したいくらい。その時、ふたつの息が止まる。わたしは彼が吐き出すすべてを受け止めた。
 正常に夜が更ける。ベットに沈むふたりは知らない。
 その夜、「愛深きジョセフィーヌ」より、鋭く光る刃物の写真が送られていた。


 嵐山くんは、しばらくボーダーの仕事を休むことになった。
 彼が休むこととなった本当の理由を知っているのは、あの写真を確認したわたしと、嵐山隊のメンバーと、根付さん含む幹部の人間だけだった。嵐山くんは外出をせず、自宅の中だけで過ごすことを要請された。根付さんが対策会議を取り仕切っているのだが、具体的にどういう措置を行うつもりなのか、わたしは聞かされていない。
 いつ、どこで、あの匿名ストーカーが刃物を持って現れるか……気が気でならない!彼が安全な自宅に居るとはいえ、わたしは心配だった。軽んじられていた事態は一転し、人の生死が危ぶまれる危険な状況に陥ってしまった。
「お前、いつ続き見に来るんだよ」
 本部の通路を歩いていると、何も知らない慶ちゃんと出会う。彼の顔を見たのはとてもひさしぶりだった。
「先が気になってんだ。早くうちに来い」
「そんなの慶ちゃんがひとりで観ればいいじゃん」
「そしたらお前が置いてけぼりで可哀想だろ」
 俺は仲間思いだからな。彼は得意げにそう言ったが、わたしは理解出来なかった。はあ、とため息をつく。
「あのね、今色々あって、そういう気分じゃないの」
「なんだ、もう別れたのか?」
「別れてない!」
 わたしの威嚇は、太刀川慶には何の効果もなさなかった。彼は常に砦の上からわたしを見下ろし、強者の飄々とした笑みを崩さない。
「ま、それはどうでもいいけどさ。で?お前今日ヒマか?」
「話聞いてた?行きたくないって言ってるよ」
「嘘つき」
 嘲笑うような獣の瞳がわたしを捕捉する。音もなく、愉悦の色を浮かべたかんばせが目と鼻の先にやってくる。わたしは、ごくりと自分の唾を飲み込んだ。
「やっぱりお前も分かっただろ。俺から離れられないって」
 蜜のように、甘い。このまま聞いていてはダメだ。彼の言葉は、わたしの本性を暴き出す呪文となる。
「あいつはお前のことが大好きなんだ。だから、お前のワガママだってきっと許してくれるさ」
 この誘いに乗ってはいけないと、わたしを咎める声がする。一歩進めば陥落し、深淵の中で彷徨い続けるだろう。行かない、行かないよ。わたしは震える声で呟いた。慶ちゃんからの遊びの誘いは、もう断る時なのだ。けれど、それはただの保身をするための虚勢であると、この男とわたしは知っている。わたしは今も、もう一度、あの白い火花を目に焼き付けたいと願っているのだから。

 目が覚めたのは、インターホンの音が鳴ったからだ。
 混濁する頭の中に、無機質な呼出音が繰り返し鳴り響いた。眠りから叩き起されたわたしは、ゆっくりと上体を持ち上げる。ベルはかしましく鳴り続いているのに、ベットの中にも、部屋の中にも、男の姿は見えなかった。
「太刀川さーん?いるんですか?あ、鍵開いてる……」
 ……え?
「え」
「あ」
 布団に包まる裸のわたしと、部屋に上がってきた少年が見つめあった。彼は、あちゃーと声に出して、苦笑いを浮かべる。使っている傘の骨が折れた時のような、そんな笑い方だった。
「おう、出水。来てたのか」
 浴室から、部屋の主が現れる。トランクス一枚の慶ちゃんは、髪の先から水を滴らせ、呑気な声で挨拶をした。
「キングダム直接借りに来ますって、昨日連絡したじゃないすか」
「あーそういえばそうだったな」
「鍵も開いてるし。しっかりしてくださいよ」
 男たちは、わたしの存在が見えていないかのように普段通りの会話を始めた。わたしは、今すぐこの場で吐きそうになった。
「あ、あの、出水くん」
「ん?」
「その、慶ちゃんとは、家族みたいなもので…」
「やだなあ。普通は家族とセックスなんかしませんよ」
 出水くんは正しい教育を受けている。慶ちゃんが嬉しそうに笑っている。言ったろ?こいつ、本当に馬鹿で可愛いんだ。
 わたしはどこにも逃げられなかった。慶ちゃんがわたしのそばに近寄り、首元に顔を近づけても、それを出水くんがため息をつきながら見ていても、やはりどこにも逃げられなかったのである。
「はぁ。太刀川さん、そういうのはおれが帰ってからやってくださいよ」
「出水も交じるか?」
「イヤですよ。嵐山さんに殺されたくないんで」
 傍観する少年は肩を竦め、壁際にかけられた本棚から目当てのコミックスを手に取った。首元に鋭い牙が当てられる。痛い。痛さのあまり、涙が出そうになった。
「なあ、お前を今抱いているのって誰だ?」
 馬鹿な女にも分かるほどの、簡単な問いかけを男は囁く。わたしは何も喋れない。きっと、わたしがその問いに答えられなくとも、男には関係ないのだ。だって、ライオンは、自分の種を残すなら他の雄の子どもだって殺すのだから。本能に従って自分の望みを叶えるためなら、あとのことはどうでもいいんだ。
 部屋のドアが開いて、ふたたび閉まる。けれど鍵は開いたまま、閉める人は誰もいない。


 『しかし、蜜は、この世のはかない快楽である。この快楽に人間はふけり、全ての危機を忘れるのだ。』


 嵐山くんは数日ぶりに姿を見せた。例の刃物の写真を送ったアカウントの持ち主が、優秀な大人たちの力によって、何の被害も起こさずに身柄を確保されたからだ。彼曰く、ボーダーに「何でも分かる凄いやつ」がいて、それにより迅速に解決に向かったという。取り押さえられた女性は、嵐山くんと同じ大学に通う生徒だというが、彼とは面識が無かった。彼女は、大学を辞め、三門市から遠く離れた親戚の家に送られ、嵐山くんを含むボーダー関係者との接触を禁止された。下っ端のわたしが介入する間もなく、「愛深きジョセフィーヌ」事件は呆気なく幕を閉じた。
 ところで、かのジョセフィーヌ皇后は死の間際、愛する夫ナポレオンの名を告げたという。彼女もまた、すべてが終わる時、彼の名を口にしたのだろうか。
 はたして、わたしは最期に誰の名前を叫べばいいのだろう?
「被害届は出さなくて本当に良かったの?」
「うん。おれはそこまで望んでいないしな」
 ひさしぶりに会った彼は、自分が危機にさらされていたにも関わらず、いつも通りの表情をしていた。
 備え付けのシェルフからマグカップを取り出し、電気ケトルのお湯を沸かす。平穏な時間が流れる部屋の中で、嵐山くんはラグに足を伸ばしてくつろいでいた。
「でも、何も起きなくて本当に良かったね。ああいう人って、何をするか分からないし」
「そうだな」
 行き過ぎた愛情は人を殺す。誰だって知ってるはずなのに、彼はまるで他人事のように頷いた。それよりも、何か言いたいことがあるように。キッチンカウンターの奥にいるわたしを、静かに見つめていた。
「おいで」
 従順に、彼の元へ歩み寄る。彼はわたしの腕を取って、強引に自分の方へと引っ張った。体勢を崩したわたしは、彼に覆い被さるように倒れ込む。
「嵐山くん」
「なあ。首、ケガしたのか?」
 首元には、獣に噛まれ負傷した痕がある。彼はその貼られたバンドエイドの、エクルベージュ色の表面を、指でなぞった。指は慎重に丁寧になぞっていくのに、掴まれる腕の力はどんどんと増していく。彼は虚ろな瞳で痕を見つめたまま、何も言わない。わたしの中の動悸が激しくなる。逃げられない。逃がしてくれるはずが無い。
「あ、あの、ごめんなさい、その、まだ関係を切れなくて」
「分かるよ。家族は大事だもんな」
 彼の声はとても穏やかだった。けれど、わたしはその穏やかさに不気味な感触を覚える。まるで、泥の中にゆっくりと顔を沈められているようだった。
「おれって優しいんだ。顔も知らないやつからの殺意も、きみのワガママも、何でも受け止めるから」
 ピーーーと、警告音を鳴らすように、キッチンの奥から、電気ケトルが声を上げる。
 彼は、バンドエイドの上から、自分の爪を鋭く立てた。爪の先はかさぶたをこじ開け、肉の内側へ突き刺さる。親指は止まることを知らず、わたしの首元を掘り続けた。痛さと、おぞましさで、今度は本当に涙が溢れ出る。鋭い刃物を振るっていたのは、彼女ではなく、この男だった。
 赤い血が皮膚をくだり、胸の頂を目指して流れ出す。彼はシャツの肩口に顔を寄せて、舌先を滑らせ血を舐めとった。親指の動きは止まない。わたしのからだの血がすべて流れ出たら、彼は満足してくれるだろうか。きっと、彼は、わたしを愛しているし、殺したがってる。
 彼の機嫌は治らない。キスをしても、セックスをしても、冷蔵庫に隠されたミルクプリンをあげても。わたしのからだが治らない限り、彼の機嫌も治らないのだ。
「嵐山くん、ごめんなさい」
「うん」
 嵐山くんは、ワガママを許してあげると言った。けれど、それは二つの意味で間違っている。彼は本当は許せていないし、また、誰も、わたしのことを決して許してはいけないのだ。

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