本当に、おまえは、手のつけられない子。母は静かに涙を流し、縋るようにわたしの小さなからだを抱きしめた。ごめんね、おかあさん。わたしは彼女の腕の中で、何度目か分からない拙い謝罪の言葉を口にする。しかし、胸の中は、場違いな歓喜と興奮に満ち溢れていた。わたしは、母の苦痛の涙を流す貌が好きだった。
 わたしは、母の言う通り、手のつけられない子どもであった。秩序を嫌い、整列を乱し、綺麗なものは壊したくなる──そんな衝動が、つねに胸の中に潜んでいた。わたしが他の子どもとは違うことに周りが気づきはじめたのは、祖母がわたしの五つの誕生日に、十二インチのビスク・ドールをあげたときだった。ガラス玉のような瑠璃色の瞳と、さらさらと流れるブロンドの髪が特徴的で、幼いながらもそれは高価で特別なものだと理解していた。なんて素敵なお人形さん!わたしがもっと素敵にしてあげよう……。気づいた時には、祖母は怒り狂ってわたしを詰り、母は泣きながらわたしを抱きしめていた。足元には、乱雑に髪を毟られて、四肢が強引に拗られたビスク・ドールが倒れている。
 それから大人たちは、わたしを矯正しようとあれこれ試みたが、中々これは治らず、わたしの見かけばかりが成長していった。今年、十八歳となる。
 三門市にボーダーが設立されたとき、両親はすぐにわたしを送り込もうと考えた。合法的に、斬ったり撃ったり殺したり、何か破壊し続けていれば、わたしの欲求も満たされるのではないかという話だ。当初は、わたしもいいアイディアだと思い、そこそこやる気で入隊試験を受けに行った。しかし、わたしたちの目論見は外れた。ボーダーに入ったところで、自分の欲求は何も変わらなかったのである。だって、あんな不細工な化け物を斬ったり、換装された偽物の人間のからだに穴を開けても、意味がない。まったく美しくないし、ちゃんと壊したことにならないから。
「おれたちは似てると思う」
 つらつらと、わたしが一方的に語り出した身の上話を聞いて、犬飼澄晴は涼し気な顔つきでそう言った。えっと、どこが似ている?
「……猫かぶってるところとか?」
「うわっ、はっきり言うね」
 ひどいなあ、なんて責め立てるようなことを口にするが、目の奥の色は変わっていない。彼は何が面白いのか、勝手にこの目の前の席に座った時から、いや初めて出逢った時から、にこにこと笑っている。犬飼澄晴の似顔絵を描けと言われたら、わたしはそのうっすらと膨らんだ目元や、三日月のように歪む口元を必ず描くのだろうなと思った。
「ところで、犬飼くん。自分の席に戻らないの?」
「えー?休み時間はまだあるよ?」
「わたし予定があるの」
「それってここから荒船を観察すること?」
 すかさず目の前の男を睨む。しかし、彼は気にもとめず平然としていた。
 木曜日の三限はB組が体育なのだ。彼らはグラウンドを使う。窓側の席のわたしにとって、今はとても貴重な時間だった。
「分かってるならどっか行って」
「あ、否定しないんだ」
「否定してもしなくてもどうせ関係ないでしょ」
「冷めてるなあ。もっとおしゃべりを楽しもうよ」
「そんなヒマない」
 しっしっと、邪険にするように手を払う。彼は大袈裟な動きで肩を竦めた。
 日の光に照りつけられるグラウンドの上を、人影がぞろぞろと流れていた。目を凝らすと、その有象無象の中に、目当ての彼の姿を見つける。すらりと背すじを伸ばした、悠々とした佇まいに、ほうと釘付けになった。ほかの人間とは空気が分かれたように、彼の周りだけが華やいでいて、色鮮やかだった。
「あ、荒船だ」
 犬飼くんは身を乗り出し、窓の外を眺めた。その時、一瞬、グラウンドにいる彼がこちらを見上げたような気がした。犬飼くんはすかさず手を振ったが、彼は数秒と経たず立ち去ってしまった。
「荒船こっちに気づいたかな」
「遠いから分からないんじゃない」
「気づいてたら面白いのにな」
「なんで?」
 犬飼くんは、何かを企むように喉を鳴らして笑った。
「別に?ただの嫌がらせだよ」

 荒船くんを見ると、わたし、どきどきして、おかしくなるんです。頭も混乱して、自分が自分でなくなるみたい。こんなことになったのって、わたし、はじめてで。どうしたらいいと思いますか?
「あら、恋バナ?いいわね、どんどん続けちゃって」
 自分のからだがおかしくなったことを、まずは、大好きな先輩の加古さんに、こっそりと打ち明けた。彼女は切れ長の瞳を瞬かせたあと、その綺麗な口元を緩ませた。
「素敵。アオハルってやつね」
 学年で言えば二歳しか変わらないはずなのに、加古さんは、遠い昔を懐かしむような顔つきをしていた。大人びた仕草も相まって、わたしには彼女がとても達観した女性に見えた。
「あなたは彼とどうなりたいのかしら?」
「どうなりたい……」
「想像してみて」
 言われるがまま、自分の彼への欲望を頭の中で具現化する。わたしが彼に望んでいること……。まずは、もっと仲良くなりたいし、色々お話がしたい。彼のためなら、興味の無いアクション映画の知識も勉強する。あとはそう、ふたりでどこかへ遊びに行ったり、手を繋いで、ご飯を食べて。そして、何より、あの綺麗な顔を……。
 いけない!だらりと、冷えた汗が首筋を通る。わたしは激しくかぶりを振った。
「あら。あなたには刺激的だったかしら」
 加古さんは、勝手に何かを納得したように小さく笑った。わたしが考えていたことと、彼女の予想は違うような気がしたが、わたしの習性を説明しても引かれるだけなので、わざわざ触れなかった。
 そのあと、加古さんへ荒船くんへの思いの丈を、取り留めなく話し続けた。彼女は最終的に「その様子じゃ脈アリよ。押しなさい」と告げた。そうだろうか。そうだったらいいな。すっかり浮かれた頭で、彼女に相談してよかったと思った。
 これは、わたしと加古さんだけの秘密で、あとのボーダー隊員はもちろん、わたしの友だちや家族も知らない。わたしも、荒船くんと接するときは気持ちを表に出さないよう、冷静な態度で挑んでいるので、まさかわたしが荒船くんに片思いしてるとは、誰も予想しないだろう。
 しかし、ある日同じクラスのボーダー隊員に簡単に気づかれてしまった。
「いいじゃん。おれ、応援してあげるよ」
 彼はどうしてか、わたしが荒船くんのことが好きなのを知っていた。さらに、わたしの恋を応援してくれるという。にこにこと笑みを続ける彼を見つめながら、もしかしたら、いちばん知られてはいけない人に知られてしまったのかもと、今更ながらに思った。
「どうして?」
「んー面白そうだから?」
 年頃の男の子の動機って、はっきりしてて分かりやすい。かっこいいから、強そうだから、面白そうだから。基本的にそういう理由で、彼らの世界が回ってる。
「きみは荒船とどうなりたいの?」
 いつしか加古さんにも尋ねられた問いを、彼は繰り返す。恋バナの聞き手のマニュアルには、はじめにこの質問をぶつけることが決められているのだろうか。
「それは……仲良くなって、手を繋いだり」
「手?」
 こうやって?と犬飼くんは、わたしの両手の上に自分の両手を重ねた。突然始まる知らない体温の感触に、わたしは目を丸くする。
「えっ何?」
「手を繋ぎたいんでしょ?だったら練習しなきゃ」
「練習……」
 当たり前のように、犬飼くんはわたしの手をにぎにぎと握っていた。猫が暖かい毛布の上で足踏みするように、彼の十本の指が、ばらばらにわたしの皮膚に押しつけられる。はたして、これもマニュアルに書いてあるのだろうか?
「それで?あとはどんなことしたいの?」
「あとは、どこかに遊びに行ったり」
「どこ行きたいの?」
「うーん……どこか、うるさすぎなくて楽しい場所」
 曖昧なわたしの答えに、彼はふうんと相槌を打った。
「じゃあ探しておいてあげるね」
「え?ありがとう?」
「今度の日曜日空いてる?」
「え?うん……」
 よかったと、彼は口の端を上げた。場所が決まったら連絡するね。彼は呆気なく握っていた手を離し、爽やかにそう告げながらわたしの元を立ち去った。残されたわたしは呆然としながら、彼の後ろ姿を眺めていた。はて。これは一体どういうことだろう?

「……最近、犬飼のやつと仲良いんだな」
 個人ランク戦のブースでばったり、荒船くんと鉢合わせた。わたしがお疲れ様と声をかけたあと、彼は少し口篭りながらそう言った。
 仲が良いと言えば、良いのかもしれない。犬飼くんとは最近、学校でも基地の中でもよく話すようになった。週末は水族館や映画館に遊びに行ったりもする。彼は、練習の一環だと言っていた。そしてその練習に彼が付き合うのは、面白そうだからだと。彼のすべての行動は、面白そうという単純な動機で片付けられるらしい。
「そうだね。最近はよく一緒にいるかも」
「付き合ってるのか」
「まさか!」
 わたしは声を上げて否定した。よりにもよって、荒船くんに誤解されてはたまらない。わたしが有り得ないときっぱり言い切ると、彼はほっと安堵したような表情を浮かべた。それから、一瞬の間を開けたあと、すうっと息を吸って、目線を遠く彷徨わせた。最後に、わたしの顔を真っ直ぐに見つめる。
「あ、あのさ、来週定期考査あるだろ。一緒に勉強しないか」
「えっ」
「嫌だったら別にいいけど」
 なんで?そんなことある訳ない!わたしは必死に首を横に振って、縦に振った。彼は「どっちだよ」と吹き出した。
 ……奇跡だ。これは夢?荒船くんに勉強会に誘われてしまった!テンションが上がりすぎて、食事の味もよく分からない。興奮が抑えきれず、キッチンの戸棚に隠されていた江戸切子のグラスを叩き割っていたら、また母に泣かれてしまった。
 早速、犬飼澄晴に報告してみた。わたしの恋の見届け役は加古さんではなく、今では犬飼くんに一任されている。
「面白そうじゃん。おれも行っていいよね?」
「絶対よくない」
 わたしは憮然として断った。けれども、彼はそんなわたしの態度にも意に介さずに、初夏のコテージでボサノヴァのメロディーでも聴いているような顔をしていた。
「いいじゃん。荒船の家で勉強するんでしょ?個室でふたりっきりは流石に身が持たないって」
「うーん」
「おれがいた方が下手な失敗はしないし、会話も盛り上がるよ。荒船だって、誰かいれば気が楽になるだろうしさ」
「そうなのかな……」
「そうそう。おれのことはそこら辺に生えてる木だとでも思ってればいいよ」
 だからさ、ね?彼はわたしのケータイを、人差し指で軽く叩いた。確かに彼の言う通り、初回でふたりきりは緊張しすぎるから、同行してもらってもいいのかも。犬飼くんはよく口が回るし、気まずくなったときも助けてくれそうだ。それに、次はわたしからふたりきりのデートを誘えばいいんだし。
 わたしは彼に促されるまま、荒船くん宛のメッセージを作成しはじめた。勉強会、犬飼くんも一緒に行っていいかな?しばらくして、オッケーの旨の返信が届いた。


 勉強会の前夜、わたしは昔の夢を見た。ぐちゃぐちゃに壊れたビスク・ドールと、静かに泣いている母の夢だ。そのふたつは夢の中で見ても、うっとりするほど綺麗で、すべてが完璧だった。

 駅前で待ち合わせし、わたしたちは荒船くんの自宅へ赴いた。今日は他の家族が在宅していないという。犬飼くんがいなかったら、本当にふたりっきりの世界だった。惜しいことをしたかもと少し悔やんだが、実際、私服姿の荒船くんに連れられて自宅に足を踏み込んだ瞬間、やはり犬飼くんがいて良かったと考えを改めた。彼の家の生活臭や、ありありと見せつけられるプライベートの領域が、わたしの情緒を滅茶苦茶にしたからだ。犬飼くんは自分を木だと思っていいと言っていたが、わたしはその木の葉陰に身を潜めていないと呼吸が続かないくらい、緊張してしまっていた。
 そして、彼の部屋に入った瞬間、わたしは本当に具合が悪くなった。
 今までの緊張感とはまた違った居心地の悪さが、わたしのからだを芯から蝕んだ。彼の部屋はとても整えられていた。壁際のラックにはDVDのラベルがタイトル順に整列されていて、カーペットやベットの上には余計なものは一切置かれていなかった。すべてのものに番号が付けられて、その場に待機させられているかのように、整理整頓されていたのだ。
 ところで、わたしのいちばん嫌いな四字熟語は「整理整頓」である。わたしは、この部屋を今すぐ引っ掻き回したくなってむしゃくしゃとしていた。そわそわと、小さく身をよじらせ始めるわたしに、となりの木が忍び笑いをして囁いた。ねぇ、しっかりしてよ。今は勉強会だよ。その通り、わたしは勉強をしにここへやってきたのだ。小さく深呼吸をして、何とか気を収めようと努力をした。
「おい、具合悪いのか」
 三人が真面目に勉強に取り組み始めてから、およそ三十分が経った頃だった。一向に、ペン先が進まないわたしに気がついた荒船くんは、心配そうに声をかけてきた。思わず、どきりと心臓が跳ね上がる。
「えっと、文字ばかり見てたら頭が痛くなっちゃって」
「そうなのか、大丈夫か?」
「うん、少し経てば平気だから」
 わたしは嘘に嘘を重ねた。具合が悪くなったのは文字列のせいでは無いし、これは時間が解決するような話でもない。わたしの本音を知っているだろう犬飼くんは、素知らぬ顔で教科書を眺めていた。
「わりぃ、うち今常備薬ないんだ。近所にドラッグストアあるから、俺買ってくる」
「え!?いいよ、そんな!気にしないで」
「でもこのままだと勉強どころじゃないだろ」
 彼はそう言って立ち上がり、ラックに掛けられたスクールバッグの中から財布を取り出した。流石に申し訳なくなり、咄嗟に阻止しようとするが、今まで沈黙していた犬飼くんが声をかけた。
「荒船が行くって言うんだからいいんじゃない?そうだ、ついでに何かお菓子買ってきてよ」
「図々しいなお前は」
「おれの分だけじゃなくて三人で食べる用だよ」
 荒船くんは、はぁとため息をついたあと、「行ってくる」とだけ残して部屋を出てしまった。バタンと部屋の扉が閉まる。どうしよう、わざわざ買いに行かせてしまった。わたしが焦ったように犬飼くんを見ると、彼は相変わらずにこにこと笑っていた。
「ねぇ、この部屋落ち着かないでしょ。ぐちゃぐちゃにしたい?」
 犬飼くんはすべてを見透かしている。彼の青緑色の瞳が部屋の光を吸って、わたしの姿かたちを捉えていた。ここにあるどんな問題集よりも、わたしのことがいちばん分かりやすいのだと言われているような気がした。彼はわたしのそばに手をつき、じっと顔を見つめている。わたしは何か声を出そうとしたが、乾いた唾が口の中で絡まって言葉にならなかった。
「おれもね、ぐちゃぐちゃにしたいんだよ。きみのこと」
 犬飼くんの顔が近づき、あっと思う頃には、わたしはキスをされていた。唇と唇が、隙間を縫うようにして、塞がれる。わたしの唇の表面を食み、彼は口を開いて、固い舌先を縫い目にねじ込んだ。動転したわたしは、必死に、腕を前に伸ばし彼を止めようとする。けれど、そんな抵抗は彼の片手によって封じられ、わたしは簡単に固い床へ突き落とされた。
「ん、ねぇっ、なに」
「ねぇ、きみって処女だよね?」
 このまま身を暴かれる。わたしがそう理解する前に、彼はわたしのサマーニットを捲り上げた。朝日を浴びて蓮の花弁が開くように、わたしの肌が剥き出されあらわになっていく。彼は、わたしのブラジャーにくるまる胸を見下ろしながら、可愛いねと呟いた。羞恥と恐怖で、ひぃと声にならない音が、喉からこもれ出た。
「犬飼くん、やめて……なんで」
「なんで?なんでだろう。なんでだと思う?」
 頭の先で、彼の言葉の意味を考え続けた。考え続けたけれど、わたしには、彼が笑いながらわたしを襲っている理由が、全く分からなかった。これも、面白そうだから?そういう単純な動機で及ぶにしては、ジョークがキツすぎる。
「あー、分からないかな。残念。かなしいなぁ、おれ。今更だけどさ」
 犬飼くんは壊れたラジカセのように、意味の通らない台詞を繰り返していた。彼の生あたたかい手のひらが、下着からこぼれる乳房を撫であげられ、ぞわりと、鳥肌が立つ。思い出したように、抵抗として身を拗らせるが、彼のからだの重みがわたしの動きの自由を奪っていた。
「やだ、やめてよ。こんなの、面白くない」
「そう?おれは愉しいよ。一緒に愉しもうよ」
 彼はそう言いながら、わたしの胸の先を指で弾いた。段差を引っ掛けるように、指の腹で愛撫を繰り返す。得体の知れない感覚に、徐々に頭の中が支配されていく。逃げたい、逃げなきゃ、でも、からだが水を吸ったように動かない。
「ね、あいつが帰ってくるまで何回イケるか試してみよっか」

 わたしは、彼が階段を上ってきた音にも、部屋のドアが開いた音にも気づかなかった。けれど、頭上で何かが床に落とされた音には、気づくことができた。
 音がした方向へ、視線を動かす。白いレジ袋の口から青いバファリンの箱と、じゃがりこの新パッケージが飛び出していた。ハニーバターチキン味。美味しいのだろうか。口の中で味を再現しようとしたが、上手くできなかった。
「あ、おかえりなさい」
 犬飼くんはみずみずしい面差しで、荒船くんを出迎えた。わたしも荒船くんに声をかけたかったが、犬飼くんの指が激しく中を掻き回しているせいで、言葉が繋がらなかった。
「処女なのに感度が良くてさ。ほら、指だけでこんなにぐずぐずになってる」
「犬飼、お前、何やってんだよ」
「何ってセックスだよ。荒船もこの子とやりたかったでしょ」
 荒船くんは絶句した表情で、わたしに覆い被さる犬飼くんを見ていた。
「……は?いや、何やってんだよ。やめろって」
「やだな、素直になれって。意固地になっても損するだけだよ」
「いや、意味わかんねえって」
「きみは分かるよね?気持ちいいからもっと続けたいでしょ?」
 悪魔のような囁きが降り注ぐ。同時に、わたしのいちばん弱いところを爪の先で引っかかれた。無様な喘ぎ声が部屋の中に木霊する。
「ほら、続けたいって」
「…………」
 荒船くんは押し黙り、魂が抜けたようにわたしのからだを見つめていた。とめどなく押し寄せてくる快楽とヤケで、白んだ頭では、ほとんどどうでも良くなっていた。好きな人の部屋で別の男に襲われているとか、好きな人に自分の痴態を見られてしまっているとか。それって、この六畳間の部屋の中だけの話で、わたしたち以外の世界は通常通り作用している。だったら、もう、いいんじゃない?ちょっとおかしなところを見つけても、目を瞑っておけば。
 犬飼くんはわたしの顔を眺めたあと、わたしの唇の表面を舌で舐めとった。ざらついた舌の表面が擦れあって、わたしはそれに焦れったくなり、自ら口を開いた。彼は嬉しそうにして、舌を混ぜあい、二本の指を走らせる。ナマエちゃん、可愛いね。悦に浸った彼の声が、断続的な水音の隙間から聞こえてきた。
「おれも鬼畜じゃないから、この子の処女は荒船にあげるよ」
 犬飼くんは、立ちぼうけたままの荒船くんに呼びかけた。荒船くんの喉仏が動くのが見えた。
「ね?きみもそれがいいでしょ」
 犬飼くんは、今度はわたしに問いかけた。わたしは口の端から声を漏らしながら、こくりと、確かに頷いた。奪われるなら、荒船くんがいい。きっと、これまでは練習だったのかもしれない。
 その時、耳の奥で、ぷつりと線が切れた音がした。あのビスク・ドールの関節が切れた音のようにも、母のせき止められていた涙腺が壊れた音のようにも聞こえた。どちらにしても、それは、わたしの気分をとても高揚させるものだった。
「──ん、あっ」
 荒船くんは、わたしの両足首を掴み、一直線にわたしの中を突いた。重たい肉のかたまりが、脆い膜を貫く。自分も知らないからだの構造が、彼の一部によって作り変えられていくようだった。痛いというより、熱いと感じた。熱と熱がぶつかり合って、繋ぎ合わされた部分から、どろどろに溶けていってしまいそう。
 ゆっくりと、からだが上下に揺らされる。揺らされた弾みで、わたしの左手が、ローテーブルの足に当たった。テーブルの上に衝撃が波たって、広げられていた教科書やノートが数冊、カーペットの上に落っこちた。あんなに整えられ過ぎていた部屋を引っ掻き回すことができて、わたしは誇らしい気持ちになった。
 わたしは、荒船くんの顔を見上げた。そうだ、この顔だ!わたしは彼のこんな顔が見たかったんだ。恍惚とした感情が、からだの隅々まで満たしていく。すき、すき、荒船くん。回らない舌先で、必死に想いを告げた。彼はますますその綺麗な顔を歪めて、腰の動きを続けた。
 波が引いて、押し寄せてくる。その波の高さが一定を超えたとき、堤防は崩されて、彼の吐き出すすべてがわたしの中へ注がれた。わたしは甲高い声を上げて、からだのふしぶしを反らした。荒船くんは繋がったまま、わたしのからだを抱きしめた。視界の端で、犬飼くんが愉しそうに笑っている。それは、ビスク・ドールを壊したわたしの顔と、まったく同じものだった。

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