「あ」
 手の中から、マグカップがシンクに流れ落ちた。緩やかな放物線を描き、ガシャン、という疳高な音を立てて転がるのを、わたしは呆然と目の当たりにしていた。マグカップは静かに薄暗いシンクの底に佇んでいる。印字された、焦げ茶色のクマがこちらを見上げ手を振っていた。
 マグカップを拾い上げて確認すると、淵の一部が小さく欠けていた。欠けた先の陶器の破片は、シンクの中のどこにも見当たらない。飲み口がささくれてしまった。捨てた方がいいだろうか。ひとり暮らしを始めるときにホームセンターで適当に買った安価なものなので、特に思い入れはない。
「どうしたん」
「カップ、欠けちゃったみたい」
 キッチンコーナーに顔を出した水上は、顎を上げシンクの中を一瞥した。起き抜けでまだ頭が覚醒していないのか、減り張りの無いぼんやりとした顔つきをしている。背中を丸ませながら、のっそりとした動きで冷蔵庫の中から牛乳を取り出し、手元のタンブラーグラスに並々と注いでいく。
「大事なもんやないし捨てた方がええんちゃう」
「燃えないゴミっていつだっけ」
「知らん」
 捨てる日が分からないなら一旦保留にしておこう。マグカップは、取り敢えずシンクの蛇口のそばに置いた。破片は目に見えないが、念のためシンクの中を水で洗い流す。二、三秒、勢いのある水流が銀色のステンレスを強く弾いた。
「明日何時に行くん」
 水上は牛乳の入ったグラスに口をつけながら、冷蔵庫に背中を預け、もたれかかっていた。彼の言葉を噛み砕き、以前軽く伝えていた明日の自分の予定を聞かれていることを理解する。
「十一時に、駅前集合。ご飯食べてカラオケ行って、多分帰るのは十九時とか?かな」
「ほお。えらいベッタリ遊ぶんやな」
「みんな中学の友だちだし、ひさしぶりだから」
「はよ帰ってきな」
 水上は表情を変えずそう言うと、飲みかけのグラスを手にしたままリビングへと消えていった。さり気なく、いつもと変わらない声音で言われたが、その言葉はわたしに有無を言わせない効力がある。離れていく背中に言いかけようとした言葉が喉まで上がり、瞬時に腹の底へ消えていった。早く帰れって具体的に何時?とか、その日別に会う約束してないよね?とか、もちろん聞きたいことはいくつもある。
「うん、分かった」
 小窓から柔らかな薄明かりが差し込む、手狭なキッチンの中で、わたしはぽつりと呟いた。言いたい言葉は瓶に詰めて栓をする。これは貯金だ。ふたりが平穏に過ごすための、言葉の貯金。

「あんたの彼氏もボーダーなんだっけ?」
 数秒前まで、鼓膜を震わす音量の歌声とバックミュージックが流れていた空間で、スイッチの入ったマイクに乗せられそれは問いかけられた。わたしは、彼女の質問に素直に頷く。
「うん、そうだよ」
「へぇー。どんな人?」
「関西でスカウトされて、単身でこっちに来てるの」
「すごーい。ひとり暮らし?」
「わたしと同じボーダーの寮に住んでるよ」
 矢継ぎ早に続く友人たちの質問に答えながら、目の前のメロンソーダに口をつける。ストローの先がグラスの底に当たり、錆びれた換気扇が稼働し始めたような鈍い音が鳴った。
「いいなあ。お互いひとり暮らしだと楽しそう」
「ね。門限とか気にしなくていいし」
 門限かあ。それ、わたしにもあるけどな。昨日告げられた水上の言葉が脳裏に蘇る。ここで言い出しても空気が悪くなるだけなので、本当のことは甘ったるいメロンソーダの味と一緒に飲み込んだ。
 雑談が続くテーブルの下で、さり気なく腕時計のダイヤルを確認する。短針は数字の六を少し超えていた。まさに、その門限の時間が訪れようとしている。
「ごめん、わたし、このあとボーダーの仕事があるから、早めに帰るね」
「えー?そうなの?」
「そっかあ仕方ないね」
 自分の荷物をまとめ、財布からカラオケ代を抜いてテーブルの上に置いた。惜しむ顔をする彼女たちに手を振りながら、分厚い防音扉をゆっくりと閉めた。
「あれ?」
 通路を過ぎて、無人の受付の前を横切ろうとしたときだった。後ろから、聞き覚えのある声に名前を呼ばれる。
「犬飼」
「奇遇だね。ここに居たんだ」
 犬飼は、フードの付いた白地のパーカーに、空色のジーンズを履いていた。空のグラスを手にしたまま、愛想のいい笑みを浮かべている。
「犬飼は学校のメンバーで来てるの?」
「そうだよ。そっちも友だちと?」
「うん。もう帰るけど」
「へえ。ひとりで?」
「……用事があるから」
 同じボーダー隊員の犬飼に、さっきのような嘘の理由は通用しない。出来るだけ曖昧に、明言を避けた形で伝えたが、彼はますますその笑みを深めた。咄嗟にその笑みに嫌な寒気を覚える。
「水上関係?」
 犬飼は的確に答えを当てにくる。曖昧にすることは、却って彼の興味を注ぐだけだし、興味を持たれたら、曖昧なまま突き通せるほど彼は甘くない。そういう邪智深い男の思考回路は、すでに今の恋人で学んでいるはずだったのに。
 どう答えるべきか悩んでいると、犬飼はグラスを受付のカウンターの上に置き、わたしの顔を覗き込んだ。ウィローグリーンの前髪の隙間から、爛々と光る瞳と目が合う。
「きみたちってさ、実は上手くいってないんじゃない?」
「な、何を……」
「自分でも分かってるくせに。ねえ、付き合っててさ、本当に幸せ?」
 鋭利なピアノ線がわたしの首元を締め付けているようだった。店内の無味乾燥なダウンライトの光を浴びて、犬飼は晴れ晴れしい面差しで、わたしを見つめている。こんな顔で死刑宣告をする人間は、この男ぐらいなんじゃないだろうか。
 口を開きかけて、閉ざした。自分が今何を言おうとしたのかも分からない。弁解?否定?果たして犬飼に何を言えばいいのだろう。居心地の悪い沈黙に被さるように、天井の備え付けのスピーカーから、音程の外れた反町隆史が流れている。『真っ直ぐ向き合う現実に 誇りを持つために 戦う事も必要なのさ』最悪なタイミングの選曲に、いきなり叱られている気分になった。
 突然、ショルダーバッグの中から、着信が鳴った。それはわたしにとっての助け舟であり、犬飼への答え合わせである。急いでケータイを確認すると、案の定着信は水上からだった。着信音は三コール目で呆気なく切れる。
「あれ?出なくて良かったの?」
「鳴らすだけ鳴らしているだけだから」
「何それ。アラームみたい」
「アラームだよ。だから帰らないと」
 わたしが踵を返そうとしたと同時に、廊下の奥から乾いたスニーカーの足音が聞こえる。「お、犬飼」知らない顔の男子が犬飼の名を呼んだ。
「中々帰ってこないと思ったらここに居たのか」
「うん、ごめん。偶然会ったから話し込んじゃった」
 犬飼と話す彼は、一緒に来ていた連れのようだった。彼はわたしの顔を見ると、目で軽く会釈をした。
「えっと、知り合い?」
「そ。ボーダーのね。でも帰っちゃうみたいだから、おれも戻るよ」
 犬飼はわたしから離れて、カウンターの上のグラスを取った。空のグラスを見て、彼は何を飲むのだろうと気になった。
「シンデレラは魔法が解ける時間だからもう帰らないといけないんだって」
 胡散臭い科白を吐きながら、からかうように笑う犬飼をきつく睨んだ。むかつく男。自分のパンプスを脱いでにへら顔に投げつけてやりたいが、取り合うのも馬鹿馬鹿しいので辞めた。たとえガラスの靴じゃなくても、犬飼に拾われるのは何だか癪である。
 わたしは、彼らに挨拶もせずカラオケボックスを飛び出した。彼の言う、魔法が解ける時間までに帰宅しなければならないので、急ぎ足で帰路を辿る。

 同じ学校で同じクラスで、ボーダーで同じ寮にも住んでいる水上とは、恋人という肩書きを捨てても接点は多い。防衛任務やランク戦で一緒になる回数も合わせれば、一週間の大半は水上がそばにいる。さらに、水上は自分の時間も割いてわたしとの時間を作ってくれるので、彼と過ごしている時間は十分すぎるほど多い。恋人冥利に尽きるとは、このことを差すのだろう。
 傍から見れば、わたしは、順風満帆な生活を送っていると思う。実際、ボーダーに入隊してから何の障害もなく生活していて、人間関係にも恵まれている。好きな人の恋人にもなれて、大きな喧嘩も起こさず平和に暮らしている。これ以上何かを望んだらバチが当たる。わたしが現状に満足すれば、日常の均衡を保つことが出来るのだから。
「あ、 ミョウジ ちゃんじゃん。これから自主練?」
 訓練室の前を通りかかった犬飼が、わたしの姿を見るや否やそう話しかけてきた。
 接点の話でいえば、同じガンナーのポジションにいる犬飼とは、こういう場所で話すことも多々ある。社交的な彼が、自ら隊員に話しかけに行く姿はよく目撃するが、例に漏れず、彼は同学年のわたしにもよく話しかけてきた。大抵は、緊急性のない雑談のようなものだった。
「うん。シフトの時間になるまで」
「ふうん。予定が無かったらランク戦お願いしようと思ったのにな」
「犬飼が?何の風の吹き回し?」
「えー?特別な意味は無いよ。きみと戦ってみたかっただけ」
 犬飼は翻すようにそう言うが、どれくらい本気で言っているのか分からない。きっと嘘は言っていないが、本心も言っていなさそうだ。
 わたしの警戒心が顔に出ていたのか、犬飼は乾いた笑い声を立てた。
「仲良くなりたいだけだよ、きみとね」
「今でも十分、仲良いと思うけど」
「そう?」
 わたしは犬飼の言葉に頷いた。正常な会話頻度と距離感で、彼との関係性は構築されている。これで十分だというのは、率直な感想であり、自衛でもある。それ以上ぶれてしまったら、きっと何かがおかしくなるから。
「この前のカラオケのこと、怒ってない?」
「……別に」
「怒ってるじゃん」
「怒ってないよ、ちょっとムカついただけ」
 そっかあと、犬飼は呑気に笑っていた。自分で掘り返してきた割には、特に謝罪するつもりではないようだ。一体何がしたいのか、まるで意図が読めない。
「ちゃんと傷ついてくれたら良かったんだけど」
「……なに?」
「水上と付き合ってるきみ、おれ好きじゃないんだよね」
 さらりと飛び出た犬飼の言葉に、唖然とした。固まったまま、何も発せないわたしを犬飼は面白そうに眺めていた。
「そういうことだから」
 犬飼は何も無かったような顔つきで、颯爽と場を離れた。犬飼の背中が見えなくなったあとも、わたしは訓練室に入らず、この場で立ち尽くしていた。
 こめかみに鈍い痛みが走る。仲良くなりたいと言ったくせに、傷ついてほしいとか、水上関連の話になると攻撃的に突っかかってくるところとか、犬飼のことがまったく理解出来ない。いや、きっと、理解してはダメなんだ。
 はっきり分かるのは、犬飼と接近することはわたしにとって身を滅ぼしかねない。日常の均衡が崩れてしまう。彼とは今まで通り、正常な関係性を維持しなければ。そして、何より、水上に悟られてはいけない。絶対に。

「明日、夜予定あるわ」
 しなびたクッションを枕にしながら、文庫本の古典落語を読んでいた水上が、おもむろに声を上げた。
「マリオの誕生日パーティがあんねん。イコさん張り切ってるから俺らでサプライズの準備せなあかん」
「そうなんだ。仲良いね生駒隊。わたしも明日は夜まで任務だよ」
 水上の話に返事をしながら、ポットの中を浄水で満杯にして、麦茶の水出し用のパックを浮かべた。ふと、先日シンクに落としたマグカップが目に入る。そういえば、まだ不燃ごみの日を確認していなかった。
「ちゃんとまっすぐお家に帰りや。悪さしたらあかんで」
「悪さって」
 そんなことする訳ないのに。軽く笑いながらリビングへ入ると、水上が手元の文庫本から顔を上げ、こちらをじっと見つめていた。
「な、なに?」
「なんも」
 水上は寝そべっていた体を起こし、胡座をかいた。ひんやりとしたフローリングを足の裏で擦るように、彼の元へ歩み寄ると、水上はわたしの腕を強く引いて、自分の足のあいだに挟み込むようにしてわたしを座らせた。
 触れ合った背中に水上の体温が広がる。首の裏に彼の吐息が当たり、こそばゆさに肩を竦めた。緩やかな動きで襟足に指を添えられて、根元を掻き分けるように髪を梳かれる。水上の指は、わたしの髪の隙間を何往復も行き来していた。まるで決められた機械の動作みたいに、無機質に繰り返される。
「ええ子やから大人しくしとき」
 水上は、わたしのうなじに鼻先をうずめた。指先が髪から離れ、肩から下へと、わたしの体躯の輪郭をなぞっていく。すると、緩く口が開いたTシャツの裾から、ゆっくりと冷たい指先が入り込んだ。皮膚を舐めるように、水上の掌がTシャツの下で蠢く。針金が縫われた下着のストラップに、指を引っ掛けられた。
 彼の望むまま、わたしはいい子になる。不満も口に出さず、抵抗もしないまま、忠実に愛撫を受け入れる。時々、水上はわたしが喋らず動けなくなっても、変わらず愛でてくれそうだと思うことがある。わたしが今喋れたり、動けたり出来るのは、彼に対して無駄な反抗をせず、誠実にしているから、許されているのではないか……。何となく、そういう気がする。きっと、わたしのすべての何もかも、水上は支配したがっている。
 彼の手の感触を感じながら、静かに、瞼を下ろした。

 最近、指の感覚が鈍いのかもしれない。この前のマグカップもそうだった。無意識のうちに、手に掴んでいたモノがこぼれ落ちていく。
 任務が終わり、隊室のベットで起き上がった。換装は解かれている。あとはそのまま自分の部屋へ帰るだけなのだが、瞬きをすると目の中に違和感を覚え、近くにある女子トイレへ向かった。恐らくだけど、付けているコンタクトレンズがズレている。
「あ」
 外したばかりの左目のコンタクトレンズが、人差し指の腹から滑り落ち、洗面台へと落下した。蛇口の水を流しっぱなしにしていたばかりに、運悪く、そのまま排水溝へと流されてしまった。さらに運の悪いことに、替えのコンタクトレンズも眼鏡も持ち合わせていない。片目だけ付けているのも視界が不自然で、じりじりと目頭が痛くなってくる。わたしは、右目に付けていたコンタクトレンズをケースに戻した。寮はすぐそこだ。少しのあいだ、裸眼でいても支障はないだろう。
 いつもより、ぼやけた視界の中を進んでいた。寮の部屋までの道のりは体に染み付いている。だから、何も問題は無いと勝手に信じ込んでいた。
「危ないよ」
 突然、後ろから右腕を引っ張られる。引っ張られた弾みでよろめくわたしの体を、声の主が支えた。
「……犬飼?」
「何ぼーっとしてるの?そこ、床が改装中だけど」
 呆れたような犬飼の声が頭上に降ってくる。顔を上げ、焦点をじっくりと合わせれば、薄らと彼の顔のかたちが見えた。凝視するわたしに、怪訝な表情をしているのが分かる。
「ごめん、今コンタクトしてなくて」
「危なっかしいなあ。寮ってこっちの方だっけ?」
「えっ……そうだけど」
 犬飼はわたしの右腕を掴んだまま、歩を進める。先を進む彼に追いつけず、一瞬、足がもつれた。
「え、いいよ、ひとりで帰れるって」
「全然説得力ないけどね」
「さっきは、よく見えなくて」
「はいはい。別に何もしないから大人しく送られなよ」
 言葉が詰まる。そんなことを言われたら、わたしが勝手に何かされると勘違いしてる女みたいじゃないか。まったく釈然としないが、素直に犬飼に送ってもらうことにする。
「今日はアラーム鳴らないの?」
「……生駒隊で予定あるから。マリオちゃんの誕生日パーティ」
「そうなんだ。ラッキーだね、おれ」
 何がラッキーなんだ。会話の流れで聞こうとして、咄嗟に辞めた。深追いしていいことなんてない。これも貯金だ。平穏を貫くための貯金。
 犬飼はちらりとわたしの顔を見て、あははと声に出して笑った。
「もしかして、おれ困らせてる?」
「分かってるなら変なこと言わないで」
「別に困らせてるつもりはないんだけどなあ。きみが素直になればいい話じゃない?」
「わたしのせいなの?」
「だってそうでしょ?ずっと言いたいこと溜め込んでさ。そんなに辛そうな顔するなら、最初からぶちまけちゃえばいいのに」
 わたしの中の瓶を犬飼は揺らす。瓶の中には既のところで喉元を下った、発せられなかった言葉がたくさん詰まっている。平穏のために取っておいた言葉の数々を、犬飼はばらまけと言う。
 前方に、寮の入口が見える。突然、犬飼の足が止まった。腕を引かれ、彼との距離がなくなる。彼はわたしの耳元に顔を近づけた。
「おれと付き合った方が楽しそうって言わないの?」
 心臓が止まった。咄嗟に、犬飼の体を突き飛ばす。彼は上機嫌な顔色を浮かべて、じゃあねと手を振った。わたしは逃げるように部屋へと帰った。部屋のドアを閉めても、嫌な汗が全身を流れている。その夜は水上から連絡が来なかった。

 水上がわたしの部屋に来るとき、彼は事前の連絡をあまり寄越さない。彼自身、メールでのやり取りは面倒がって習慣化出来ていないし、部屋を何往復もする内にわざわざ約束をつけることに、わたしも面倒になっていた。だけど、お互いの予定は何となく頭に入っているから、来そうなタイミングというのは予知しやすい。
 今日はふたりとも一日予定が入っていなかった。ひさしぶりの土曜日に、お互い任務も何も入っていないのは珍しい。せっかくの機会にふたりでどこかに遊びに行くことも考えたが、外は生憎バケツをひっくり返したような篠突く雨が降っていた。
 水上は、いつものようにリビングで雑誌を読んでいる。わたしはふたり分の軽い昼食を作るために、キッチンに立っていた。
 シンクの奥に立てかけられたまな板を取り出すとき、手前に置かれていたマグカップに当たった。薄茶色のテディベアと目が合う。いい加減、これも捨てないと。マグカップを手に取って、側面を軽く撫でながら、頭の中でぼやいた。
 欠けた淵を眺める。中身の石膏が剥き出された、小さな窪みがある。人差し指で軽く周辺に触れると、しっくりと馴染む感覚がした。あたかも、前からずっとその状態だったような。
 ……そうだ。わたしは思い出した。マグカップは落としてから欠けたのではない。最初から、欠けていたんだ。
「昼、何つくるん?」
 わたしのすぐ背後から、水上の声がした。料理の様子を見に来たのだろうか。彼はわたしの肩からまな板の上を覗き込むように、後ろに立っていた。
「冷蔵庫の野菜、適当に炒めようと思って」
「これ、まだ捨ててなかったんやな」
 水上はわたしの言葉を遮った。マグカップに添えるわたしの手の上に、自分の手を重ねる。彼の指先は、いつも冷たく感じる。
「お前には要らんモンやから捨てような」
 ええ子やから大人しくしとき。彼の言葉が呪文のように、わたしの体の動きを止めた。
「あ」
 水上は、わたしの手からマグカップを抜き取ると、フローリングの床に叩き落とした。マグカップは粉々に割れ、破片が薔薇の花びらのように散らばった。テディベアの顔面に綺麗なヒビが走っている。
「あの、水上」
「お前の彼氏は誰や。言うてみい」
 凍てつく水上の声がわたしに突き刺す。水上は怒ってる。鼓動が激しくなり、酸素を取り込む肺が圧迫されそうだった。
 答えるべき解答は決まっている。それはわたしと彼の平穏を繋ぐものだ。臆病なわたしに、彼に抗う術など残されていない。
 バラバラにされたマグカップを見下ろして、わたしは少し、寂しくなった。自分の中の瓶もあんな風に割ることが出来たら、現実は変わっていただろうか。どうしようもない話だ。最初から、自分で落とす勇気などあるはずないのだから。

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