冷静に、冷静に、状況を正しく理解しなければいけない。誤った選択をしてしまう前に、心を落ち着かせて暴走する思考回路を冷却しなければ。頭をおかしくさせる熱はすぐに冷まさなくては。
 自販機で間違えて購入したホットコーヒーは、吐く息で十分冷まさなければ飲めたものではなかった。訓練室のそばにある小さな休憩スペースのベンチは濁ったモスグリーンの色をしており、固いプラスチックの表面はどうもわたしの臀部のつくりには適していないらしい。座り始めてから数分でお尻のあたりが痛くなってきた。ちっとも飲めやしない缶コーヒーを片手に、この場に座り続けるのも馬鹿馬鹿しく思えてきたが、ひとつ息を吐いて頭を落ち着かせる。
 そうだ、わたしは落ち着かないといけないのである。いわばこれはゲームでいうポーズの状態で、わたしはつい先ほど、突然見舞われたアクシデントから脱兎のごとく離脱してきたばかりであった。アクシデント、そう、あれは予期せぬアクシデントだった。

 今日はシフトは入っていなかったが、用があるためボーダーに来ていた。用というのはランク戦や訓練などではなく、ただ佐鳥に借りていたコミックスを返却するという瑣末な用事である。それから、気が向けば対戦ブースに出向いて適当に時間を潰そうとも思っていた。換装したわたしは、コミックス数巻分とコンビニで見つけた新作のじゃがりこを紙袋に入れて、嵐山隊の隊室へ出向いていた。ほんの、二十分ほど前のことである。
 ノックをしようとするドアの向こうから話し声が聞こえた。隊室なのだから誰かしらの声がするのは当然のこと、けれどその声の主は嵐山隊のメンバーではなく、この本部基地には姿をあまり見せない人物のものだったため、つい反射的にからだが静止してしまったのである。
「まだみんな来ていないんだね」
 迅の声だ。ドアを隔てていても、部屋の中から声ははっきりと耳に届いた。声の距離から、彼はドア一枚を挟んだすぐそこにいるらしい。
「ああ、木虎たちはまだ学校が終わったぐらいの時間だろう。それより、お前が本部に居るなんて珍しいな。何かあったのか?」
「うん、今日はちょっとね」
 迅と会話をしているのは嵐山である。ふたりの会話を盗み聞きしていると、どうやらこの部屋には迅と嵐山のふたりだけで、今手にしているこのコミックスの持ち主はまだボーダーに到着していないらしい。出鼻を挫かれたが、直接佐鳥にアポイントを取っていた訳ではないため致し方ない。それに、代わりに嵐山にこれを託しておけば解決できる話だ。気前の良い同年齢の男が隊室に居てくれて良かった。これが二宮さんとか東さんだったら、自分の頼み事(それも、ただの漫画の返却)をするには恐れ多いことこの上ないので。
 そうだ、迅も嵐山もお馴染みの同僚じゃないか。なぜわたしはここで彼らに隠れるように棒立ちしているのだろう。堂々とノックをして、彼らと挨拶を交わせばいい。そして、右手の紙袋を嵐山に押し付ければ一件落着のはずだ。
「今日は──に会いにきたんだ」
 昂然と振り下ろされた左の拳が、ぴたりと、ドアに触れる寸前に止まる。不意に出された自分の名前に咄嗟に反応してしまい、心拍が嫌なリズムを奏でていく。自分の耳を疑うが、迅が口にしたその音はたしかに間違いない。わたしの疑問を代弁するように、嵐山が「あいつに?」と聞き返したところで、やはり迅が話したのは自分のことだと認めざるを得なかった。
「あいつと何か予定があるのか?」
「うん。今日、告白しようと思って」
 ……迅は今なにを言った?
 隊室を満たす空気が固まるのが、ドア一枚を隔てた外側に居るわたしにでさえも感じ取れた。頭の中が真っ白になったわたしの耳許でも虫の羽音が届きそうな、不気味なほどしんとした静寂が続く。「………そうか」ようやく絞り出された嵐山の声には困惑がありありと滲み出ていた。
「そういうこと。もう少し彼女に意識してもらいたかったけど、おれの読みだとどうもこれが延長戦になりそうでさ。あのハイパー級の鈍感には一回告白した方が早いと思って」
 不思議と迅がテレビの内側にいるような感覚で、自分のことを指しているとは実感が沸かない。当然だ。延長戦やら、鈍感やら、彼の言うことにはまったく心当たりがないのだから。
「そうか……迅が決めたことなら応援するが」嵐山は少し口淀んでいるようだった。「それで、彼女がどこにいるかは知ってるのか?」
「ああ、それならもうここにいるよ」
 そのとき、ロックが解錠されたドアの開閉音と共に視界が一気に開けて、すぐそばに青い隊服を着た迅のすがたが飛び込んできた。それから奥にいる嵐山が呆然とした表情でこちらを見つめ、わたしもまた言葉を失くしたまま立ち呆けていた。この状況でふたりの男にかける言葉が見つからない。
「やあ」
 立ち聞きしていたわたしの存在を予知していたのだろうか……予知していたとしたら、一体どこから?
 迅は優雅な昼下がりだと言わんばかりに、涼し気な顔で挨拶をする。さっきまでの会話といい、わたしへの反応といい、迅の考えていることはまったくもって理解ができない。ただ、理解しようとしてしまうと、彼の真意のひとつひとつを分解し、自分に向けられてるらしい好意も認めなければいけない。それは今のわたしにとっては容量超過な問題だった。
 冷静に、冷静にならなければ……ひとまずわたしの脳裏に浮かんだのは、心頭滅却を念じるお告げである。それから、自分がこの場から脱却するための策戦を練った。この思考の切り替えと、結論を導くまでに要されたのはものの二三秒である。
「嵐山、これ、佐鳥に!」
「……えっ、あ、おい!」
 わたしは自分が手にしていた紙袋を嵐山に文字通りに押し付け、頭に浮かんだ三つの単語をその場で叫びながらくるりと踵を返した。その先はもう、まるで犯罪を犯した人間のように嵐山隊の隊室から走り去る。頭を冷却するにはすぐさまあの場、というより迅から離れる必要があった。
 転がるようにして辿り着いたのは、シューター用の訓練室である。ラッキーなことに無人だった。視界の隅に休憩スペースを見つけ、そそくさとパーテーションの奥に隠れる。喉がカラカラだったので、ポケットの小銭で冷たいロイヤルミルクティーを買おうと自販機のボタンを押したつもりが、ガコンと吐き出されたのは熱々の缶コーヒーだった。

 鬱陶しい熱はやっと手のひらに馴染んできた。コーヒーの上澄みを啜って、少しずつ喉の潤いの足しにする。元からブラックコーヒーの苦味は得意ではなかったが、気もそぞろな状態で飲んでいるためか、思ったよりも不快感はなかった。今ならなにを口に流し込まれても動じないかもしれない。
 息を吐く。息を吸う。天井の色を確認したり、壁の掲示物を流し見して、また深呼吸を繰り返した。だくだくと暴れていた心音も平静を取り戻しつつある。今、この場所がわたしにとって休息の場(用途通りの休憩スペース)になり得ているものの、これから先どこへ向かえばいいのかなんてまったくわからない。
「ここにいた」
 自分に向けられた透き通る声にからだが跳ね上がる。ぎこちない動作で声の元を見上げれば、悠々とした佇まいの青年と目が合った。
「……迅」
「なに、そのユーレイでも見たような顔」
 迅が笑いを堪えたような表情でベンチの端に腰を降ろしてきたため、思わず過剰に身を縮める。缶コーヒーが手のひらの圧で僅かに変形したような気がした。
「……なんでここにいるってわかったの?」
「逆に、おれがわからないってこと有り得る?」
「ああ、そう」
 当然のこと、聞いたのが間違いだった。迅はすべてを見通している。
「コーヒー?珍しいね」
「なんとなく……気分で」
 間違えて買ったとは言いづらく、適当な嘘をついた。迅は「ふうん」と気の抜けた相槌を打った。
「それで、さっきの話の続きだけど」
「……続くの!?」
「だっておれまだお前に告白してないし」
「えっと……もう言ってるような気もするんだけど。迅だって、わたしが隊室に来るのを見たからあんな話はじめたんじゃないの?」
 さっきの嵐山立ち会いの告白まがいのようなものが、わたしの中ではすでに告白としてカウントされているのだが、まだこの話には続きがあるのだろうか。突然の羞恥で居た堪れない心地になっている身としては、これ以上の攪拌には頭がショートしかねない。
「そうだね。お前が来るのも知ってたし、逃げられない状況で追い詰めようと思った」
 男女間の告白云々の話題にしては、物騒な物言いをする。まるで、穴場に獲物を追い込んだ狩人のようだ。そして、実際、わたしはこの無人の訓練室のパーテーションの奥に追い詰められていた。
「つ、続きがあるなら、どうぞ」
「続きというか、前提の話だけれど……おれがいつから好きだったのかとか気にならないの?」
「いつからでしょうか」
「ずーっと前から」
 答えになっているような、なっていないような、はぐらかされたような返答に唖然として迅を見やる。すると、意外にも彼は照れくさそうにそっぽを向いていた。
「……ずっとおれが特別扱いしても、どっかの誰かさんはまったく気づかないようだし。ふたりでって誘っているのに嵐山とか他のメンツにも声かけちゃうし。小南から冷やかされたときだって、『迅はスタイル抜群の美女と付き合う予定だから』とか意味わかんないこと言ってるしさ」
 迅のほとんど愚痴のような独白を聞けば、確かにと思い当たる節がいくつかある。桐絵ちゃんからは『あんたたちさっさと付き合っちゃえばいいのに』と呆れた顔で言われたことがあったが、そのときのわたしにとっては寝耳に水というか、有り得ない組み合わせだと思っていた。今でも、半信半疑ではある。
「こんなに鈍感でも、惚れた弱みだから。仕方ないよね」
 ぶっきらぼうに言い捨てる迅の横顔は、愛おしいものを見つめるような優しい表情をしている。わたしはごくりと生唾を飲み込んだ。気がそわそわして、コーヒーを胃に流し込む。コーヒーは熱を失ってすっかり温くなっていた。そして、迅が言葉を続ける。
 冷静に、冷静にならなければ……。頭の中でそう必死に念じていても、茹だるような熱を灯した心臓はどうしようもないくらい走り回っていた。

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