わたしがこの部屋のとびらを開けるのは、これで何回目だろう。 
 たしか、彼の部屋のキーのスペアをもらったのは、付き合って二ヶ月が過ぎた、夏休みのことだったと記憶している。記念日でもなにかの節目でもなく、太刀川の八割くらいの気まぐれで不意に渡されたものだった。
 自分のキーケースから取り出した裸のままの鍵を、部屋の鍵口に突き刺す。無人の廊下に施錠が解かれる固い音が響いて、わたしはだれの断りもなく彼の部屋のなかへ踏み入った。
 玄関で立ち止まる。黒いエアフォースが吹き飛ばされたように横転しているところを見るに、昨夜は飲み会だったのだろうか。なんとなく、予想はしていた。 
 廊下を突き進み、リビング兼寝室であるワンルームへ向かうと、案の定。太刀川はベットの上でからだを大の字にひろげ、くかぁと大きな寝息を立てながら眠っていた。彼のベットの周りには、ジャンバーや革財布、片方しかない靴下などが散らばっている。
 ベットで安らかな眠りについている男に近づく。「太刀川」声をかけてみるが、その平和を象徴したような寝顔は一切崩れない。「太刀川!」顔のそばで声を張ると、ようやくくぐもった呻き声のようなものを発し、太刀川は目を覚ました。
「…………ああ、なんだおまえか」
「昨日飲み会だったの?」
「んー……そう」
「だれと」
「あー、諏訪さんと風間さんと、あと冬島さん?もいた気がする」
 太刀川は掠れた声でそういうと、物憂いそうに上体を起こした。判然としない顔つきで空虚を眺めている。
「太刀川」
 三度目の名前を呼んだ。ベットに波立つ皺の狭間に腕をさまよわせて、おそらくスマホを探しているのだろう、彼はこちらも見ずにおうと気の抜けた返事をする。わたしは口のなかの生唾を飲み込み、静かに息を吸い、彼のからだを見下ろしながら吐き出した。
「ねぇ、別れよう」
「ん?」
「鍵、テーブルの上に置いていくから。さよなら」
 銀色の鍵を投げつけるようにローテーブルの表面に押しつけて、未だ夢と現のちがいもわからない男の顔も見ないように踵を返した。
 足早に部屋を去る。もうこのとびらを開きに来てはいけないと、自分に繰り返し言い聞かせながら。

 ■

「太刀川さんとまた別れたんですか?」
 テラス席には、秋暮れの重みのない透明な光が淡く刺しこみ、そこはかとなく周りから夕暮れの気配が立ち込めている。くつろぐには肌寒く、アスファルトの上を小さな木枯らしがくるくると駆け回っていた。
 出水は、砂糖が舌根に粘りつきそうなホイップ乗せのフラペチーノを啜っている。わたしが注文したのはSサイズのホットコーヒーだった。テーブルに並べていると、お互い真反対に位置するような飲み物を買っていると思った。
「今度はいつもとはちがうから。本当に別れたの。もう復縁も仲直りもなし」
「またそんなこと言って……毎回同じようなこと言ってる気がするんですけど?」
「気のせいじゃない?」
「太刀川さんと別れて復縁するのだって五回も繰り返してるし」
「……正確には、六回」
 渋い声で訂正をする。真正面に座る出水が呆れたように乾いた笑い声を漏らした。
 不意に、足の隙間を突風が過ぎていく。思わずホットコーヒーを手のひらで包み込んで、カイロ代わりに暖を取った。帰路の途中で出くわした出水に誘われるがまま、目抜き通りのカフェに入ったものの、長居をするつもりはなかったものだから見晴らしのよさを選んでテラス席に座ってしまった。今になってミスだったと気づく。
「寒いの?上着貸しましょうか」
「出水は寒くないの?」
「だってここ日当たりいいから」
 彼はなんてことのないように自分が羽織っていたブルゾンを脱ぎ、わたしに手渡した。そのまま自分の肩にかけると、幾分か風よけのましになった。
 出水は凍える様子も見せずに、それでと話を続ける。
「今度はなんで別れようと思ったんですか?」
「……寝坊でデートをすっぽかされた。昨日飲み会だったんだって」
「あー……」
「太刀川にだって予定はあるのだってわかってるし、もしそれが任務とか関係あるなら文句はないよ。でも、こういうのははじめてじゃない。何回言っても太刀川は変わらない」
 つらつらと不満を言い続けたところで息を吐く。一体、自分より年下の後輩に向かってなにを話しているのだろう。それでも、わたしの口から飛び出す言葉は、倒れたグラスから水が滴るように止めることができない。
 太刀川が寝坊でデートの時間に間に合わないことも、そのたびにわたしがあの部屋に赴くことも、これまで数え切れないほど繰り返している。約束を忘れる、反故にする……そんな太刀川の身勝手で、恋人であるわたしが蔑ろにされ、こころが傷つくことも、いつの間にか受け容れてしまっていた。
「今まで我慢してきたんだもん。もう太刀川とは終わり。わたしはちがうひとと恋愛をするし、今後太刀川がだれと遊ぼうが関係ないから」
 毅然と言い切ったわたしを、出水はへぇと興味深そうに見つめていた。その瞳には、仲間の門出を祝福するような交情の色が含まれている。太刀川は出水の直属の隊長ではあるが、かといって出水が毎回太刀川の肩を持つわけではないのだと確信した。
「おれは応援しますよ。でも、そう簡単に見切りつけられるかなぁ?なんだかんだいって、累計したらふたりが付き合ってた期間は長かったし」
「それは……そうだけど」
 出水の言う通り、太刀川にほとぼりが冷めて別れを切り出しては結局また元鞘に戻るという一連を繰り返していた期間は、トータルで見積もれば二年弱くらいだった。わたしの人生において太刀川慶が占めていた領域はほかのなによりも大きく、格別だ。
 そこがいきなりぽっかりと空白になってしまうのだから、わたしは一体なにをもって埋めていけばいいのだろう。
 出水の疑問に答えられないまま、ぼんやりとするわたしに、嬉々とした声で彼は話を続けた。
「だったら、ほかの男で忘れません?恋人の穴は恋人で埋めるのが手っ取り早いでしょ」
 名案とばかりに提案する出水に、顔の筋肉が固まる。
「そう簡単に好きなひとできないよ」
「あなたがそう思ってるだけで、実はそんなことないんじゃないですか?今まで太刀川さん以外の男を意識してなかったから、太刀川さん以外のひとと恋愛ができないと思い込んでるんですよ」
 まるで種明かしをはじめるマジシャンのような口ぶりで出水が語り出すのを、わたしは呆然と聞いていた。年下の、しかも元彼ととても親密である間柄の男から、わたしの恋愛について進言されるのはおかしな感じがする。けれども、言っていることはただの正論なのかもしれない。
「だから、おれで試してみれば?」
「え……」
 出水の予期せぬ言葉に思考が停止する。わたしは思わずまじまじと出水の顔を見つめた。彼は秋空の下のコーヒーブレイクにふさわしく、至って落ち着き払った顔をしていた。
「わたしが……出水と?」
 状況が飲めず混乱しているわたしに、出水はからからと笑った。「そうですよ。おれ以外にだれがいるの」なんだか出水の言い方は、そんなひと存在しないでしょと暗に告げているようだった。
「……でも、別れたばっかりだから今すぐほかのひとと付き合うのは……」
「それでもいいですよ。答えは『保留』ってことで。関係は今までと変わらなくても、おれのことを意識してくれればいいです」
 わたしは唖然とする。『保留』とは、出水からの提案、つまり出水とわたしが付き合うということを指している。しかも、その変更権はわたしにあるようだった。──なぜ出水が彼の利得にもならない誘いをするのか、まったくわからない。
 不自然に固まるわたしに気にもとめず、出水は「日が落ちるのが早くなってきましたね」と別の話をはじめた。彼のこがね色の髪先に、突き刺すような西日がやおらに溶け込んでいくのを認めて、わたしは気を落ち着かせようとすっかりぬるくなったコーヒーに口をつけた。

 わたしと太刀川が別れたという噂は、たちまちボーダーじゅうに流れていた。しかし、だれも慰めや労りの言葉をかけてはこない。これが彼との七回目の別れとなるわけだから、当たり前に皆の反応はひどく冷めたものだった。
 気がついたら別れていて、かと思ったらまた付き合っている。わたしと太刀川は大半の人間からそう認知されている。よく同じ職場のカップルが別れたりすると周りが気を使うなどと言われたりするが、わたしと太刀川がこんな馬鹿げたことを繰り返しているのにわざわざわたしたちに気を使う人間も、今ふたりの関係が『どっち』の状態であるか確認してくる人間もいなかった。
 基地内で偶然すれ違った諏訪さんも、例に漏れず。
「あいつ、飲み会でキャップ忘れてったから渡しといてくれ。隊室に置いてあるんだが」
「あの、諏訪さん。わたし太刀川に会う用事ないです」
「あぁ?……そうか、お前ら今は別れてる状態か」
 諏訪さんはひとりで納得したようなため息をつき、大儀そうに頭の後ろを掻く。普段と変わらない諏訪さんの反応に、わたしは反論の声を上げた。
「今は、じゃなくてこれからもずっとです。未来永劫!もう太刀川とよりを戻すことはありえませんから」
「は?どうしたお前」
「わたしは先に進むって決めたんです。断捨離ですよ。今流行ってるでしょ」
「流行ってても人間関係までは含まれてねーだろ」
「ともかく、これからわたしは太刀川の元カノだけど彼女になるつもりはないですから。ほかのひとにもぜひ伝えておいてください」
「やだわめんどくせぇ」
 諏訪さんと通路で別れたあと、ラウンジで出水と会った。出水はひとりで黄昏れていたわたしを見つけると、茶目っ気な笑みを携えながら話しかけてきた。
「あれ、訓練終わりですか?」
「そう。シフトまで休憩中」
 そげなく返事をすると、出水は向かいの席に腰をおろした。通りすがりの彼が、まさかこの席に座るとは思っていなかったので、わたしは一瞬面食らった。
「じゃあシフトまでおれとお喋りしてましょうよ。ね?」
「え、ああ……いいけど」
 出水は至って平然と、ハマってる動画や新作のお菓子のフレーバーの話をした。わたしは彼と会話を続けながら、こんなに長く彼の声を聞き続けているのははじめてのことだと思った。
 そういえば、わたしたちは今『保留』の状態にあるのだ。出水とわたしは恋人ではないが、それにもっとも近い位置にいる。仮にわたしが出水にやっぱり付き合おうと告げれば、日付変更線を超えるよりも容易くふたりの関係性は変わるだろう。
 けれども、出水はわたしのことが好きなのだろうか。先日の提案が本当に彼なりの愛の告白だったのか……。出水の言動を分析して理解するには、わたしは出水のことを知らなすぎている。
「どうしたんですか?ぼーっとして」
 出水の野良猫のような瞳に、天蓋のシーリングライトの白光が吸い込まれてきらりと光る。
 いきなり話を振られたわたしは、考えていたことを率直に本人に伝えられるわけもなく、すこし口澱んでから先ほどの諏訪さんの会話を思い出した。
「そういえばさっき諏訪さんに会ったけど、太刀川が飲み会で忘れものしてたんだって」
「へぇ。このあと太刀川さんに会うから伝えておきますよ」
 出水が気前よく引き受けてくれたので、わたしは「ありがとう」と礼を述べた。すると、なぜか出水が可笑しそうに声をたてる。
「なんでお礼言ってんの?もう先輩は太刀川さんとはなにも関係ないのに」
 変だなぁ。出水はひとりで笑っていた。まるで、左右の柄が違う靴下を履いているところに気がついたような、そんな笑い方だった。

 ■

 太刀川と別れてから二週間が経った。
 あんなろくでもない男でも、一緒に過ごした思い出が美化されて蘇り、だいたい別れて一、二週間は大きな喪失感に襲われることが今までにあった。どう取り繕うと、わたしが太刀川が好きで付き合っていた事実は変えられない。その事実に飲まれて、結局彼のことを許し元の状態に戻ることを、六回も繰り返しては学ばなかった。
 けれども、今回はちがう。太刀川と別れてから、人肌が恋しくなるようなさみしさはあれど、胸にぽっかり空洞が空いたような、耐えられない孤独も絶望も感じない。過去の甘美な思い出が蘇っても、今まで積み重なってきた太刀川の過失も同様に現れるから、またあのころに戻りたいなんて、これっぽっちも思えない。
 わたしがこんなに正常でいられるのも、出水のおかげなのかもしれない。彼の言った通り、今まで太刀川慶に固執しすぎていたせいで狭まっていた世界も、出水と仲を深めていくうちに徐々に全容が変化していた。そして、その変化にも居心地の良さのようなものを感じている。
 わかりやすく言えば、わたしは出水に惹かれているのである。
「へぇ。じゃあ、付き合いますか?」
 わたしがありのままに出水が気になっていることを伝えると、彼の反応はとてもさっぱりしたものだった。恋人になるかならないかの話をしているのに、役所の事務手続きをしているかのような温度感だった。
「出水はわたしのことが好きなの?」
 この奇妙な距離感がはじまった当初から感じていた疑問、かつとても重要な確認事項を口にすると、出水は目を数度瞬かせて、非難するような声を出した。
「えー?先輩、おれのこと今までなんだと思ってたの」
「なにって……」
 太刀川の隊員。思ったことがそのまま口から滑り落ちそうになり、慌てて飲み込んだ。今のわたしは太刀川とは無関係の人間のはずである。
「おれは好きでもないひとにこんなにアピールしませんよ」
「だって……出水がいつから好きだったのかも、よくわからないし」
 尻すぼみに言い訳めいたものをつぶやくわたしに、出水はふうんと息を漏らした。
「まあ、過去のことなんてべつにどうだってよくないですか?大事なのはこの先でしょ」
「この先……」
「だから付き合いましょう、おれたち」
 にこりと愛想良く笑う出水に気圧されるように、わたしはゆっくりと頷いた。嫌だったわけではない、むしろその言葉を望んでいた。
 次の日から、わたしと出水が付き合いはじめたという噂がボーダー内に流れはじめた。諏訪さんからは「お前本気だったのかよ」と意外げに言われ、二宮からは「ようやく目を覚ましたのか」とわたしにも太刀川にも失礼なことを言われた。
 ともかく、これで完璧だ。わたしは現状にとても満足している。出口の見えない蟻地獄のような恋愛からも、わたしは脱却することができた。世界は正常にまわりはじめている。

 ■

 わたしは太刀川以外の男と付き合ったことはないし、特定の異性と親密な関係になったこともない。だから、比較対象が必然的に太刀川となってしまうのだが、出水は中々どうしてとてもよくできた彼氏だ。
「日曜日空いてます?」
「日曜日?」
「どこか遊びに行きましょうよ。あ、映画館なんてどうです?」
 今、なにがやってたかな。機嫌がよさそうな出水が、自分のケータイで調べはじめる。わたしは主体的に動く彼に感心していた。
「出水、ちゃんと彼氏みたい。えらいね」
「うわっ、子ども扱い」
「えっ、そんなつもりじゃなくて……」
「あはは、冗談ですよ。別におれが好きでやってるだけです」
「そうなの?」
「はい。だから先輩は気にしないで」
 そう出水が無邪気に笑っているので、わたしはただ彼が候補に出したデートのプランを聞いていた。こんなに自分がなにもやらない状態には慣れていないので、どこか身の置き場がなくなっている。
 出水は、さり気ないエスコートも、年下を感じさせない気配りもしてくれる。太刀川と付き合っていたときは、どちらかというとわたしが彼の諸々の面倒を見るかたちとなっていたが、出水は正反対だった。
 出水とどんなくだらない会話をしていても、退屈な気分にはならなかった。今のところ、喧嘩もすれ違いも生じない。
 どうして今まで出水のことをなんとも思っていなかったんだろう?と、過去の自分に疑問が生じる。今まであんなに太刀川と付かず離れずを維持していた自分が、本当に不思議でたまらない。

「おう」
「………太刀川」
 太刀川はわたしの顔を見ると、よおと手を振り、いつもの様子で席に着いた。そこは、わたしのとなりの空き席だった。
 水曜日の三限は、太刀川と同じ授業を取っている。学部もゼミもちがう彼とは、この任意科目の授業でしか会うことがない。
 太刀川と付き合っているときは、こうして同じ机で授業を受けていた。しかし、彼がまともに授業に出席することは滅多になかったから、わたしはほとんどひとりで受けている状態だった。あの日、わたしたちが別れて以降、太刀川がこの授業に出席するのははじめてだ。
 ごく自然にわたしのとなりに座る太刀川に、声をかけようとしたが、一体彼になにを言えばいいのかわからなくなり、終ぞ口を閉ざした。出水と付き合い始めたことは、当然太刀川も知っているはずだ。わたしからわざわざ言うものでもない。
「なあ、これって課題提出あるってアナウンスあった?」
「先週、その説明のプリントもらったけど」
「まじ?写真撮らせて」
 机の上にプリントを滑らすと、太刀川は自分のケータイで写真を撮り始めた。ひさしぶりに会話をした太刀川は、いつもとなんら変わらない。一ヶ月前にわたしたちが別れたことも忘れているんじゃないかと疑うほどに。
 そういえば、太刀川と別れるたびに同じようなことを感じていた。別れを切り出したわたしがその後太刀川を避けていても、彼は決してわたしを避けなかったし、今みたいに、なんてことのないような顔をしてとなりに来る。
「お前このあと空きコマだろ?飯食い行こうぜ」
 呑気な太刀川の提案に、わたしは思考を巡らせた。なんてことのない昼食の誘いだ。恋人同士じゃなくても、たとえば同じボーダーの異性の隊員だって気兼ねなくするだろう。
 ──けれど、わたしはためらった。このまま太刀川のそばにいては、せっかく変化できたものがもとの状態へ戻ってしまう、漠然とした危機感がわたしのなかに芽生えている。正常にまわりはじめた世界が、また狂ってしまうのではないか。
「……行かない。もう、太刀川とは離れるって決めたし」
「ん?」
「太刀川とは別れてるの。だから、もう太刀川とは一緒にいない」
「なんだそれ?別れたら飯食うこともしないのか?」
 今までだって離れなかったくせに?太刀川はおどけるような笑みを浮かべて、わたしを見た。元はといえば別れた原因は太刀川にあるのに、いつだって余裕をかます彼の態度に、わたしはムッとした。
「もう今までとはちがうの!わたしは太刀川から離れるって決めたし、出水と付き合ってるから」
 荒々しく苛立つ声をあげたとたんに、教室に始業のチャイムが鳴り響いた。教壇で老君の教授が板書をはじめ、わたしと太刀川の会話は強制的に終わる。
 太刀川はふうんと相槌を打ち、それからなにも言葉を発しない。人生でいちばん長く感じた九十分が終わると、わたしたちは会話をせず、ろくに互いの顔も見ることもなく教室で別れた。

 ■

 雨音が際立ち、家の窓が風によってがたがたと震える。朝から気味の悪い風が吹いていたが、午後からは猛り狂う嵐となった。
 不運なことに、今日は出水と約束をしていた日曜日だった。前日から確認していた天気予報で、外出はやめましょうかと出水から連絡があった。そのまま流れるかと思ったデートの約束は、出水からの希望でわたしの自宅で過ごすことになる。
「へぇ、かわいい部屋に住んでるんですね」
 出水は部屋をぐるりと見回した。興味深そうに部屋のなかをさまよう出水の視線に、自分の隅々まで探られているような気分になり恥ずかしくなる。なんとか彼の気を逸らそうと、わたしは別の話題を探した。
「……出水、ドラマでも観る?テレビに録り溜めてあるけど」
「いいですね。その前に飲みものもらってもいいですか?」
「あ、うん。ちょっと待ってて」
 くつろぐ出水を置いて、わたしはキッチンに赴いた。食器棚からグラスをふたつ取り出して、冷蔵庫を開ける。冷やされた麦茶のポットを取り出そうと、していた。
「出水?」
「ねぇ、このグラス、太刀川さんも使ったの?」
「え?」
 出水は、シンクの向こうからわたしが並べたふたつのグラスを見下ろしていた。その瞳からは何の感情も読み取れない、淡々と事実だけを確認することに向けられている。
「えっと、これは……」
 ひやりと得体の知れない汗が、からだの外側を走っていくのが伝わった。言い淀むことで答えは出ている。ふたつ分の色違いの食器。これは太刀川が使っていたものだった。
 「へぇ」出水の声がすぐ近くに聞こえる。「じゃあ、もうこれはいらないですよね?だってナマエ さんは太刀川さんと関係ないんだから」すぐ近くにあるというのに、わたしは出水の顔を見ることができなかった。ただ、彼の言葉を聞き、ゆっくりと頷く。脳が、今の彼に決して逆らってはいけないと警告している。
 グラスは不燃ごみのポリ袋のなかへ消えた。彼は捨てられたのを見届けると、「ねぇ、ほかは?」とわたしとの距離を詰める。感じたことのない彼の態度に、わたしは恐怖で身が縮んでいきそうだった。
「い、出水……怒ってるの?」
「なんで?」
「さっきから、なんかこわいから……」
「だとしたら、そうさせてるのはそっちでしょ」
 出水は当たり前のことをなぜ聞かれるのだと言わんばかりに、わたしの顔を見つめた。
「ただの断捨離ですよ。ほら、今流行ってるんでしたっけ」
「それは……」
「それに、ちゃんと太刀川さんのものを排除しないと、いつまで経ってもあのひとも勘違いしちゃつから」
「え?」
「おれが先輩と付き合いはじめたことを太刀川さんに伝えたとき、あのひとなんて言ったと思う?」
 銀色のシンクの上を出水の指が滑る。彼は愉快そうに、もしくは苛立つように、人差し指でシンクの端を叩いた。タンタンと不気味な音が、緊迫する部屋のなかに響き渡る。
「『あいつが別れたとか言っても、あいつが俺のものであるのには変わりないしな』……だって」
 ごくりと生唾を飲み込む。何度別れても変わらない太刀川の距離感。わたしは太刀川から離れられないことを、彼は知っていたのだ。
 急に部屋のなかが冷たく感じ、からだがぶるりと震えた。すると、出水が「ナマエ さんは本当に寒がりですよね」と笑いながらエアコンを起動する。彼はいつだって凍えた様子を見せない。そして、壁に掛けられた時計に視線を向けた。
「あ、もうすぐ太刀川さん来ちゃうかも」
「……え?」
「先輩がなかなか捨ててくれないから、もう太刀川さんに直接引き取ってもらおうと思って。呼んだんです、ここに」
 ここに。思考が止まる。この場に起きている状況が、理解できなかった。出水が悠然と話している内容も、どうしてこのような事態が起きているのかも、わたしはこれからどのようにしていけばいいのかも。
「どうせ太刀川さんに合鍵渡したままでしょ?太刀川さんちの鍵は返したのに自分の家の鍵は回収しないなんて、とことん自分に甘いんだから」
 出水の言葉が終わると同時に、ガチャリと施錠が解かれる音が、玄関の向こうから聞こえる。とびらが開かれる。今度はあの男がわたしの部屋のとびらを開きに来たのだ。

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