この世のどんなものも還る場所というのが存在していて、人であれ無機物であれ、それがきちんとあるべきところに還っているとすっと心が落ち着くものである。言い換えれば、還るべき場所に還っていないのを見つけると、わけのわからない苛立ちが胸の奥にわく。たとえば、図書室の棚にねじ込まれた毛色違いの本のラベルとか、食堂のテーブルに放置された空の配膳トレーとか。
 となりの列の席に四人組の女子隊員が座っている。彼女らはランチタイムで混み合う食堂にはふさわしくない話題を、周囲にも微塵も配慮しないような声の大きさで話していた。新しくできた彼氏とのカラダの相性がどうとか、新入隊員に顔のカッコイイ外国人がいたとか、そんな非生産的でくだらない話を。
 食事中に聞く彼女らの声は決して耳障りのいいものではなかった。わたしは座った席を間違えたと思った。しかし、一度箸をつけた御膳を持ってわざわざ空席を探しに行くのも憚られて、とりあえず自分が速やかにこの場を立ち去ることを考えて食事を続けた。よりによって注文したのは中華丼で、具が十分に冷めるのを待つ前に掻き込んだため、湯気が纏わる餡に舌先がぴりぴりと痺れた。
「あれ、ぼっち飯?」
 急いで水を口内に流し込むわたしの頭上から、暖気な声が降りかかる。コンビニの袋とレギュラーサイズのアイスコーヒーを手にした犬飼がこちらを見下ろしていた。彼は食事中のわたしにも構わずに、悠々とした動きで私の目の前の椅子を引いた。
「ここ空いてる?座ってもいい?」
「空いてるけど」とわたしが返事をする前に、彼はすでに腰を下ろしていた。わたしの同意なんか得なくても、わたしの答えなんて容易く読めてしまえるのだろう。だったらはじめから黙って座ればいいのに……。怪訝に眉を顰めるわたしを他所に、犬飼はガサガサとビニール袋の中からサンドイッチを取り出した。
「なに食べてるの?」
「中華丼定食」
「うわ、ヘビーだ」
「うるさいな。朝食べてないの」
 うずらの卵をレンゲで掬って口の中へ放り込む。終始、真正面から無遠慮にこちらを観察する視線が突き刺さるが悉く無視を決め込んだ。せかせかと具と白米を口に運んでいると、不意に犬飼が言葉を発する。
「食べるの早くない?なにかこれから予定でもあるの?」
「早くここから出たいだけ」
 犬飼が質問を重ねるより先に、彼の背後から姦しい笑い声が一層と沸き起こる。犬飼はちらりと目線だけを動かして、声の主である彼女たちを見やった。そして、納得したような笑みを浮かべて手元のパンを齧る。
 彼女たちの話題が、来週に迎える彼氏の誕生日プレゼントで盛り上がる中、釈然としない苛立ちが胃の中で燻っていくのが分かる。ごろごろと消化しきれない中華丼の具材が焦燥と共に煮立つようだった。犬飼の手前、舌打ちをしたくなるのを堪えて黙々と箸を進める。
「そんな顔して食べるんだったら最初から選ばなきゃ良かったのに」
「……中華丼を?」
「わざととぼけてる?」犬飼は大袈裟にため息をついた。「きみって人並みに傷つくくせに頑なに認めないところがあるよね。いかにも自分は誰にも傷つけられてませんって顔してさ」ずけずけと失礼なことを言う。この男は遠慮という言葉を知らないのだろうか。一言皮肉の効いた文句を返したかったが、悔しいことに犬飼の分析は的中していた。
 箸を止めて、食堂の奥のカウンター席に視線を滑らせた。無人の席に空っぽの配膳トレーが未返却のまま置き去りにされている。あるべき場所に返されなかったその塊を気にする人間は誰ひとりとしていない。無責任に放置されたままの状態を見続けていると、何故だか無性に焦れったい気持ちになる。
「ああいうのちゃんと返却しないひとってなに考えてるんだろう」
「ああいうの?」犬飼はわたしの視線の先を追った。「さあ?なにも考えてないんじゃない」
「見ているとお腹の底がむかむかしてこない?」
「それってきみ特有じゃない?」犬飼の言葉の端々にくつくつとした笑い声が滲んでいる。「ああ、でもおれ、多分言いたいことはすこし分かると思う。食べかけの劣情にラップをかけたまま別のものをつまみ食いする男がいるのも、同じことだよね」その声が一層大きく耳許に届いたので、思わず彼の顔をまじまじと見つめた。
「……なに?今日の犬飼、刺々しい。カゲとなんかあった?」
「さあ。いつも通りだと思うけど」
「うそだ」
「まあ、おれも我慢ならない質ってことじゃない?彼氏の浮気相手の女子の会話を盗み聞きしながらひとりでご飯食べてるところ見かけたら、声をかけたくなっちゃうってこと」
 咄嗟に四人組の女子の集団を見る。彼女たちは依然と自分たち以外の存在も認識せず、甲高い声をあげて笑っていた。正常通りに彼女たちの世界が自転していることにわたしは少し安心した。
「ちなみに犬飼はなんで知ってるの?」
「きみの彼氏と付き合ってるって、この前あの子本人が公言しているところを見かけたから」
「そう」ふと息を吐いてぼんやりと机の表面を眺めた。「そっか」こういうとき、喜怒哀楽のどれを表に出せばいいのだろうか。自分のことなのに今に相応しい感情の色がまったく見えない。胸の底にあるのはふつふつと湧き上がる激情ではなく、すっと冷えていく賞味期限切れの愛情のようなものだった。ただ、犬飼の瞳に自分がどんな姿で映っているか、それだけが気がかりになっている自分はどこか可笑しいのだろうか。
 考えるとすっかり食欲がなくなり、箸をトレーの上に置いた。犬飼はアイスコーヒーを啜って、二つ目の惣菜パンの包みを取り出していた。
 食堂に設置された壁時計から、木琴の音色のような時報が鳴り響く。それがなにかの合図のように、すぐ近くにいた例の彼女たちが一斉に立ち上がる。ぞろぞろと足並みを揃えて立ち去ったあとには、平穏な静寂が広がっていた。心の安寧を取り戻したはずなのに、犬飼とわたしのあいだに横たわる沈黙に気が遠くなるほど時間の経過が遅く感じた。
「……ごめんね、八つ当たりしちゃった」
 空気の密度がより濃くなったことを犬飼も感じていたのだろうか。先に口を開いたのは犬飼だった。彼はやるせない表情をして、息を吐く。「カッコ悪いね、おれ」珍しく自嘲気味に漏らした言葉に、わたしは唖然とした。
「えっ、八つ当たりって……やっぱりカゲとなにかあったの?」
 わたしの台詞に犬飼は目を丸くして、数度瞬きをした。それから、風船が割れたようにいきなり声を出して笑い始めた。
「あはは、はははは!嘘でしょ?ここまできて出てくるのがカゲ?」
「……なに?ちゃんと言ってくれないとわかんないよ!」
 背中を丸めて笑い声をあげる犬飼にムッとして抗議するも、わたしの質問は余程可笑しなことだったらしい、彼の耳には届いていない。彼はひときしり笑ったあと、不貞腐れるわたしを見て息を整えた。
「そうだね、ちゃんと言ってあげるよ。あ、でもその前にやってほしいことがあるんだけど」
「なに?」
「アイツの連絡先消してくれない?」
 今度はわたしが犬飼の台詞に呆気に取られる番だった。いつも軽口を叩く彼の冗談かと一瞬考えたが、それっきり犬飼はなにも喋らずわたしの顔をじっと見つめている。アイツ、というのは聞き返さずとも認識している。犬飼にわざわざ聞き返したところで、またはぐらかすなと小言を言われるのがオチだ。
「……いいよ。その代わり、ちゃんと教えてね」
 脂の浮いた中華丼の上に自分の携帯電話をかざす。自分でも驚くほどに頭の中がすっきりとしていて、連絡帳を開くことにもまるで抵抗がなかった。無駄なく指を滑らせて、『削除』のキーを押すと、一瞬にしてその名前は消えた。
「はい、これで消えた。……なに、その顔」
「……いや、ちょっと意外だったから」
「もうふっきれたの。わたしより可愛い巨乳の子にハイブラの誕プレもらうみたいだし?わたしには不要な存在です」
「ちゃんとあの子たちの話の内容聞いてたんだ」
 犬飼は喉を鳴らして笑った。目尻を下げて優しくはにかむ顔にドキリとして、わたしは慌てて顔を背けた。カウンター席の空の配膳トレーはいつの間にか片付けられていた。どうやら、還るべき場所へ還ったようだ。

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