ゆがんだ楕円形のような白い斑点。独特なフォルムをした黒いボディ。その白と黒のコントラストはなだらかな曲線に縁取られている。
 白と黒しか色がないのは、たとえば絵を描いたりするときに簡単で便利だと思った。人間だとほら、より写実的に描こうとするとさまざまな色のグラデーションを付けないといけないから。
 小さなシャチのキーホルダー。人差し指と親指で摘めるほどの大きさだ。
 水族館の売店でそれを手に取ったのはわたしだった。キーホルダーの種類は多種多様な海の生き物があった。イルカ、ペンギン、カワウソ、クラゲ、イソギンチャク……それらすべてがその日の水族館に実在していたかは憶えていない。彼らは小さなマスコットとしてデフォルメされ、頭に銀色のチェーンを繋げられて、整然とした棚に陳列されていた。
「なんか可愛いモンでも見つけた?」
 店のなかで別行動をしていた米屋が、不意に後ろから声をかけてきた。彼はわたしの視線が投げられていた先を確認する。それから、おもむろに棚にぶら下げられていたキーホルダーを指で撫でた。
 彼の指摘はすこし外れていた。可愛くマスコット化された水棲生物たちに、胸をときめかせていたわけではない。
 ただ、米屋とデートをした証拠を残すための手土産を探し、店内で見つけたのがこのキーホルダーの群れだった。キーホルダー自体に魅了されたわけではないが、この場で入手するにはとても最適な記念品だと感じた。ふたりお揃いのキーホルダーを見たら、誰もが判然とわたしたちの仲を認識するだろう。
 米屋はキーホルダーをひときしり触り、やがて満足したのか、となりのわたしの顔を窺う。
「記念にふたつ買ってく?好きなの選んでよ」
「えっ」
「ん?モノ欲しげに凝視してたから欲しいのかと思った。違った?」
 米屋の問いにわたしは首を横に振った。たしかに買うことを考えていたが、上手く思考を読んだような米屋の言葉に面食らった。
「あんたはなにがいいの?」
「米屋は?」
「オレはなんでもいーよ。あんたの好きなものにして」
 彼自身もキーホルダーに魅力を感じていない。それは自然なことだ。彼は別に海の生き物に熱心なわけでも、マスコットを蒐集する趣味があるわけでもない。都合よく考えれば、わたしがこの場で足を止めているから彼も関心を持つようにしてくれている。
「じゃあこれにする」
「シャチ?イルカじゃなくて?」
「うん、シャチがいい」
 米屋は特に否定も肯定もしなかった。会計後にラッピングされたそれを渡すと、彼は「いつものバックにつけよっかな」と呟いた。その場の気まぐれで発せられた言葉かとも思ったが、後日宣言通りに彼は自分のスクールバッグにその小さなシャチのキーホルダーを吊り下げていた。
 彼のバックで揺れるシャチのキーホルダーを見つけたとき、わたしは秘かに胸を撫で下ろしていた。あの白と黒はふたりでデートをした実績だ。たしかにあった。たしかに、わたしたちは付き合っている。
 ──おかしな話だ。お揃いを付ける目的が他人に恋仲を認知させるためでなく、自分が認知し安心するようなものへとすり替わっている。ちゃちなキーホルダーひとつで自分の心の安寧が保たれている。

 相対するふたつの質量が釣り合わないと、当然天秤の均衡は保たれない。ひとつは底へ深く沈み、もう片方の視界からとうとう消えてしまう。
 米屋と付き合いはじめてから、ボタンを掛け違えたままシャツを着ているような違和感を覚えている。ただの気のせいかと錯覚するくらい些細な違和感だ。けれど、常にそのシャツを着ていると身の動きに小さな不自由が起こるのは当然で、小さな不自由が積もれば頭のなかはその違和感だらけになる。
 彼とわたしのお互いに対する気持ちの質量は、天秤に乗せて較べるまでもない。その気がなかった彼に、長らく拗らせた片思いの弾みで告白をしてしまったのはわたしの方だ。純粋な先輩後輩の関係性を崩したのはわたしである。
 米屋のわたしに対する感情も、きちんと理解していない。ただ、米屋が好きでもない相手と付き合うような怠惰な人間や、物好きの粋狂な人間だとは思っていない。お揃いのキーホルダーを付けてくれるくらいには大事に思われている。しかし、彼のなかの優先順位をリスト化したときに、片手の指に入るところにわたしの名前があるのだとも言いきれない。
 だからこそ、違和感だった。その違和感を言語化して詳細に分解するのは難しいが、わたしは米屋と今に至るまで、順風満帆に恋人を続けられていることに違和感を覚えている。片方の行きすぎた感情によって険悪な空気になることも、ふたりの温度差で場が白けてしまうことも一度もなかった。マニュアル通りに彼は優秀な恋人として振る舞い、嫌な顔もせず、わたしの意図を汲んでわたしのために行動してくれる。
 ティーンエイジャーのカップルとは、こういうものなのだろうか?休み時間に聞くクラスメイトの愚痴やネットの記事の情報だと、付き合っているならふたりのすれ違いや喧嘩は避けて通れないものだと思っていた。
 米屋と付き合い初めて三ヶ月、軋轢も摩耗も感じないふたりの関係性に、やはりわたしはしっくりしない。わたしばかりが追いかける恋愛であれば、もっと過酷なものになるはずだ。
「休憩中?」
 突如、思考の外からかけられた声の方へ顔を上げる。昼下がりの陽気を引き連れたような青年が、わたしを見下ろしていた。
「出水……おはよう」
「おはようにしてはずいぶん遅めの時間ですよ。あ、ここ座ってもいいですか?」
 彼の言うとおり壁の時計はとっくに正午を回っていた。早朝のシフトから宛もなく彷徨うようにラウンジに行き着いてから、だいぶ時間が経っていることに今更気づく。
 テーブルの上の自分のバックを端に寄せると、出水は正面の席に腰を下ろした。彼は左手に黄色野菜と柑橘類のスムージーを手にしている。はじめて見かけるそのパッケージはどんな味がするか想像がつかなかった。
「あ、それ米屋もつけてたヤツだ」
 出水は、わたしのバックのファスナーに取り付けられたシャチのキーホルダーを見つけた。ちょうど米屋のことを考えていた先に出水の口から名前が出ると、ドキリと鼓動が不自然に弾む。
「ああ、うん。この前水族館に行ってきて、ほら、四塚の」
「知ってますよ。米屋から聞かされましたもん」
「そ、そうなんだ……」平然とスムージーを飲みながらキーホルダーを弄る出水に、わたしは静かに生唾を飲み込んだ。「それで、米屋はなんか言ってた?」
「なんかって?」出水は、はてと考えるような顔をする。「んー、水族館の冷房が強かったとか言ってましたけど」
「そ、それだけ?」
「ああ、そういえばこのシャチ、先輩が選んだんですよね。聞いたときは先輩みたいだと思いました」
 出水の言葉の意味がよくわからなかった。ただ、確実なのはさして重要なことを米屋は出水に話していなかったということだ。米屋と出水の性格上、デートの惚気話を延々と語るようなことにはならないのは理解しているが、なんだか期待してしまった自分がいる。
「水族館楽しかったですか?」
「わたし?もちろん、楽しかったけど……」
「そうですか。今はずいぶん悲壮感漂う顔してますけど」
 出水は軽快に口許を緩める。その笑い方は決して不愉快になるものではなかった。彼の言葉に、ぴしゃりとわたしの背後のなにかが割れた気がした。
「そんなに……そんな顔してる?」
「してるしてる。第一、午前中からずっとここに居るでしょ?悩みごとですか?」
 長閑な空気が飽和するラウンジの一角が、突如無機質なカウンセリングルームに一瞬で変容したようだった。聢とわたしを捉えるブラウン系の双眸が、天井の白色蛍光の光を吸い込んで反射する。
 悩みごとですか。的確に、急所を当てた彼の言葉に、からだの隅々まで呑まれていく。
 不思議だった。自分でも不思議に思うほど、するすると、わたしの喉元から悩みの種がこぼれ落ちていった。傾けたグラスから水が零れるような容易さで。
「──実は、ずっと米屋とのことで考えてるんだけど……どうしてわたしたちは付き合ってるんだろうって」
「どういう意味?先輩はアイツのこと好きじゃないの?」
「ううん、わたしは好き、だけど……わたしの方ばかり好きなのに米屋と付き合ってることに上手く馴染めないというか、順調に行き過ぎていて違和感があるというか」
「米屋と順調に付き合ってるのが悩みなんだ。贅沢ですねー」
 周りにはもっと重大なことで悩んでいる者もいるだろうに。彼の揶揄する口調はそう指摘しているようにも聞こえた。たしかに、毎日この街で化け物を斬ったり撃ったり殺したりしている人間が口にするには、あまりにも些末で贅沢な話だと思う。
 出水に話してしまったあとから、むず痒い気恥ずかしさがからだの外側をじわじわと包みこんだ。年下の、しかも彼と近しい友人に話してなにを解決してもらおうと思ったのだろう。順風満帆な恋人との毎日に懐疑的になっている自分が、異常でおかしいだけなのかもしれないのに。
 戸惑いがちに俯くわたしの頭上から、出水が言葉を続ける。
「あ、べつにあなたを責めてるわけじゃないですよ?むしろ、気持ちは理解できるし」
「本当?」
「米屋って自分の彼女にもベタベタしなさそうってか、そういう恋愛ごとに関してもサッパリしてそうですもんね。それで先輩が不安になるのも無理はないなーって」
「不安……」
 不安。この奇妙な違和感は、米屋の気持ちに対する不安が根底にあったのだろうか。わたしは頭のなかでは米屋との気持ちは釣り合っていないと言い聞かせながらも、どこかで彼がわたしに深い愛情を抱いてほしいと願っていたのだろうか。天秤の両端の均衡が保たれるくらいに。
「でも、米屋はわたしのことそんなに好きじゃないと思う……」
 消え入るようなわたしの呟いた言葉に、出水は目を丸くした。すると、数秒も経たずいきなり明るい声を立てて笑った。わたしは今の発言のどこに出水が笑い出すきっかけがあったのか、まったく検討がつかなかった。
「じゃあ、試してみます?米屋がそんなに先輩のこと好きじゃないのか」
「試す?」
「米屋の気持ちが露わになっているのが見たいんでしょ。だったら、アイツを揺さぶればいいんですよ」
 たとえば、そうだなあ。めちゃくちゃ嫉妬させるとか?
 唖然として出水の顔を見つめた。彼は変わらず冷静にスムージーの続きを飲んでいる。スムージーがストローのなかをのぼっていく濁った音がボトルの底で微かに聞こえた。わたしは少しだけ放心して、彼の言葉にどう返事をするか考えあぐねていた。
「それって……わざと米屋に嫉妬させるってこと?」
 彼の言葉を復唱するように確認すると、出水はにこやかに笑みを浮かべている。いや、彼はここに来た当初からにこやかにしていた。あなたにとって有害なことは一切ありませんよと、親しみを配り歩く好青年の顔つきで。

 出水の提案に従うように、わたしたちは密に連絡を取りあったり、ふたりで会話をすることが増えた。出水と過ごす時間の割合は大きくなった。それでも、以前から出水との仲は良い方ではあったし、気さくで話しやすい彼と一緒にいる時間は特別なことをしている感じもしない。
 わたし自身、これによって自分の恋人への策略を巡らせている自覚がない。策略として成り立っている自信もない。わたしが出水と一緒にいる時間が増えたところで、米屋の感情を揺さぶることができるとは思えないからだ。
 今日の放課後は、三輪隊のシフト当番だった。米屋は学校が終われば、そのまま基地へ向かうのだろう。いつも通りに。
 二年B組の教室の入口から覗き込む。窓側の席で椅子の背もたれに寄りかかりながら、談笑しているふたりを見つけた。二、三秒ドアの付近で立ち呆けていると、不意に出水がこちらを見た。彼は陽気な笑みを浮かべてわたしの名前を呼ぶ。つられて、米屋もこちらを振り向いた。
「あれ?どうしたの?」そろそろとふたりの席に近づくと、米屋が意外そうな声を出した。
「えっと、その」
「おれが買いたいものあって、先輩も誘ったんだよ」咄嗟に説明ができなかったわたしの代わりに、出水がすらすらと状況を伝えた。「ほら、お前は今日シフトだろ?三人予定ないときにまた行こうぜ」
「へえ、そーなんだ」
 わたしは急に胃の底が冷えつくのを感じながら、米屋と出水の顔を恐る恐る見比べた。しかし、彼らは至っていつも通りの他愛のない会話を続けているかのようだった。
 米屋は自分のスクールバッグを肩にかけ、わたしたちに別れを告げると、足早に教室を去っていった。出水は彼の背中を見届けて、わたしの方を振り返る。
「じゃあ、行きましょうか。おれ、駅前のツタヤ寄りたいんですけどいいですか?」
「う、うん。それは全然いいんだけど、今のって大丈夫かな?」
「大丈夫って?」
「いや、米屋の前で出水とふたりで出かけにいく感じになっちゃったから……」
「うん。でも、そうしようって言ったのはナマエさんでしょ?」出水は不思議そうな顔をしてわたしを見つめた。「なにも問題ないよね?今日はおれたちで出かけようって約束してたんだし」
「それは……」
 出水の言葉に中途半端な反論が喉を下った。口を開いたものの、出水に対してなにを言えばいいのか分からなくなり、わたしは「そうだね」とだけ呟いた。出水が喋ることが至って正論で、わたしが頓珍漢なことを言っているように感じたのだ。
 わたしがなにも言うことがないと分かると、彼は自分のバックを手に取った。となりに並んで歩く出水はどこか機嫌が良さそうに見えた。
 外に出ると、薄橙に燃える日が地平線に落ちかけていた。朗々と繰り出される出水の雑談に耳を傾けながら、そういえば、出水と下校をするのははじめてだと気がつく。シフトのないときは大抵となりには米屋が居たから。
 駅前の交差点は、帰宅ラッシュの人の群れで混雑としていた。目抜き通りに差し掛かれば、人と車の行き交いが多くなる。
 出水は右手を差し出した。
「はい」
「え?」
「はぐれるといけないでしょ」
 彼は当然のようにわたしの左手を掠め取り、しっかりと握りしめた。その振る舞いはまるで恋人のようだった。
「え、えっと、出水、わざわざ手繋がなくても……」
「ダメだよ。先輩はそそっかしいからね」
 わたしが次の抵抗を示す前に、目前の信号が青く光った。出水はすたすたと人波をかき分けるように先へ進んでいく。足元がもつれそうになり、思わず繋がれた手を強く握ると、彼もまた強く力を込めて返した。
 わたしたちは手を繋いだまま、目的のビルに足を踏み入れた。出水は店内で目当ての単行本をすぐに見つけると、「会計してくるから適当に待ってて」と言って離れていった。ぶらぶらと、新作の文庫本の棚を目でなぞり、暇を持て余していると、会計を終えた出水がとなりにやってくる。そのあとも、出水と店内で散策をしていた。
 じゅうぶんに時間を潰したあと、駅街には特段、これ以上の用事はなかった。「帰る?」とわたしが聞くと、出水は「そーっすね」と答えてわたしの手を取った。帰り道も手を繋ぐのかと、一瞬呆然としたものの、出水と手を繋ぐのは不快ではなかった。手を繋ぐだけではない。放課後に寄り道をするのも、どうでもいい会話を続けるのも。米屋といるときと同じくらい居心地の良さを感じている。
「家、どっち方面なんですか?」
「えっと、玉狛支部の近くらへん。出水の家と同じ方角?」
「おれはべつに気にしなくていいですよ。送ってから帰るから」
「えっいや、さすがにそこまではいいよ」
「なんで?」出水は立ち止まってわたしの顔を見つめた。「アイツには送ってもらってるんでしょ?」
「それは……米屋は、彼氏だから」
「彼氏じゃないと家まで送っちゃダメなの?」
「そういうことでもないけど……」
「じゃあ、なにも問題ないですよね」
 出水の溌剌とした声が耳の鼓膜を刺激する。わたしはなにも言えず、彼に手を引かれるまま帰路を辿った。
 なにも問題ないと断言されると、また自分の方が間違えているのかという考えが頭をよぎる。違和感を覚えているのは、本当にわたしだけなのだろうか。

 今朝は出水からメールが来た。彼は午前中でシフトが終わるらしい。その日はちょうどわたしも合同訓練があり、午後はなにも予定が入ってなかった。そのため、彼からの『ご飯いきましょうよ』という誘いには断る理由がなかった。
 隊室の近くで待ち合わせた方が早いと思い、先に訓練が終わって換装を解いたわたしは太刀川隊の隊室の近くまで来ていた。携帯電話に表示された時刻を確認する。そろそろ、防衛任務の交代の時間となる。
 待っていることを伝えた方がいいかと、出水の連絡先を開くと同時に、隊室のドアが開く音がした。中から出てきたのは太刀川さんだった。彼は壁にもたれ掛かるわたしに気づくと、おっと声を上げる。
「誰かに用か?呼んでくるか」
「いえ、待ち合わせしてるので大丈夫です」
「そうか。あ、彼氏待ちか」
 太刀川さんは勝手に納得したように独り言つ。わたしは一瞬思考が止まり、それから慌てて彼の言葉を訂正した。
「あの、太刀川さん、わたしと出水はそんなんじゃないです」
「ん?」
「出水じゃなくて、わたしは米屋と付き合ってるんです」
 太刀川さんはわたしの説明を聞き、ふうんと声を漏らした。それは意外だと言うように、自分の顎髭を撫で回す。
「そうか。俺が聞いていた話とは違うんだな」
「話?」
「お前は米屋と別れて出水と付き合ってるって聞いてたけど」
 頭の後ろを鈍器で勢いよく殴られたようだった。太刀川さんの言葉を咀嚼し、きちんと飲み込むには時間がかかった。
「えっと……聞いたって、誰から?」
 口のなかが急激に渇ききり、声を発すると唾液が舌に絡まった。嫌な拍がからだの内側を揺らしている。表情の固まるわたしを前に、彼は平然とした口調で先を続けた。
「誰って、米屋からだけど」

 話を続けようとする太刀川さんの顔も見ずに、逃げるようにその場を走り去った。首の裏から生あたたかい汗がつたっていく不快な感触がした。行く宛てもわからなかった。しかし、わたしは今すぐどこかへ行かなければならない。
 どこへ?廊下を数分突き進んだところで、足を止めた。立ち止まりながら、自分の息を整える。そうだ、わたしは彼のところに行かなければいけない。太刀川さんの言葉の意味を確認するために。
 訓練室のブースにも、休憩室にも、米屋のすがたは見えなかった。三輪隊のシフトは入っていなかったはず。休日でも彼はよく基地に顔を出している。ポケットの携帯電話で連絡を取れば早いが、今開いて、きっと出水から来ている連絡を見たくなかった。
 通り過ぎようとしたラウンジの、奥のボックス席にやっとその影を見つけた。米屋だ。彼は私服のまま、テーブルの上の雑誌のようなものに目を通している。わたしは声の届く距離まで近づき、彼の名前を呼んだ。
「あ」
 米屋は普段通りの表情でわたしの顔を見あげた。わたしの焦燥とは正反対に、彼らしく飄々として自適なおもさしだった。
「どーしたの?なんか疲れてない?」
「あの、米屋」
「ん?」
「……なんで、あんなこと言ったの?」
「あんなことって?」
「わたしが、米屋と別れて出水と付き合ってるって」
 米屋は黙った。ゆるやかにわたしの顔の輪郭をなぞるように、視線を滑らせていく。彼は静かにわたしの中身を見定めている。言葉に出さなくても、彼の冷えきった瞳を見ればわたしに抵抗する権利はないのだとわかる。
「それで?だったらなに?あんたはどうしたいの?」
「……わたしは、」
 言葉を紡ごうとして息を呑む。「……ごめんなさい」自分の口から出てきた声は、かろうじてふたりのあいだに届く大きさで零れた。
「あれ、悪いことしてるって自覚あったんだ?」米屋はわたしから視線を外し、自分の携帯電話を開いた。わたしの顔を見ずに、手元の画面で操作を続ける。
「まあ、あんたってつくづくそういうところあるよな。周りに鈍感なくせに、たまに獣みたいに牙を剥いてくるし」
「……ごめん、悪いことしてるって考えはなくて」
「マジ?無自覚って、本物の悪じゃん」
 米屋が静かに怒っている。自分の恋人に散々こき下ろされる悲しみよりも、米屋にそこまで言わせる自分はなんなのだろうかということばかりがわたしの頭を占めている。
 アイツを揺さぶればいいんですよ。いつか、彼に耳打ちされた言葉が頭のなかに反芻する。揺さぶっている。わたしは米屋を理性のタガが外れるくらい、揺さぶることに成功した。わたしへの愛情もそれほどないとばかり決めつけていた彼が、嫉妬からわたしの行動を責め立てている。米屋と付き合っているときに気づいた違和感は、わたしが彼の気持ちの質量を見誤っていただけだった。
「で、オレにどうしてくれるの?お詫びのしるしにさ」
「……」
「あんたが誠心誠意謝ってくれたら赦してあげるよ」
 誠意を見せろと言われている。ポケットのなかは、さっきからずっと着信を知らせるバイブレーションが震えていた。米屋への贖罪を考えなければいけないのに、わからない。べつの男の影が頭の隅にこびり付いて、言葉が出ない。違和感だ。自分のからだが思うままに動けない。
 混沌とした渦のなかで、白と黒のシルエットを見つけた。水族館の売店にいた小さなシャチだ。やっぱり白と黒しか色がないのは単純で、わかりやすくていい。わたしは今どちらの色に染まっているかもわからないから。

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