アビディアの森の頭上を鈍重な薄灰色の分厚い雲が覆い尽くしてしまってから、もう五日は経つだろう。断続的な激しい雨音は一向にその勢いを止める素振りもなく、木造居宅の屋根や壁を淡々と打ち続けていた。ふと、見晴らしの良い小窓から見下ろした外の陸地は、わずかに浸水しぬかるんでいるのがわかる。
 向かいの家屋の物陰に、一羽の瞑彩鳥を見つけた。彼(もしくは彼女)は、その淡萌黄の風切を抱きかかえるように、自分のからだのなかへしまい込んでいる。せっかくの鮮やかな羽も、自由に広げられる空をなくしているようだった。
 (いつになったら雨は止むのだろうか)
 靄のような雨の弾幕の遠く向こうに、ぼんやりとしたオレンジランプの小さな点がまばらに続く。レンジャー隊の仕事は、急な河川の氾濫や水棲魔物の増殖に備え、今は必ずチームで行動するようにしていると、この前うちに立ち寄ったコレイが言っていた。さらには、わたしが外を出歩く用がある際は誰かを呼ぶべきだと、そのときに散々釘を刺されている。
 彼女が特別過保護なわけではなく、どうやらこれは村の慣例らしい。村のなかからはいつもの子どもらが囃し立てる声も、活気のいい行商の声も、なにひとつ聞こえてこない。足元が悪いせいか、商工人の荷車も見かけなかった。──鬱蒼とした密林に囲まれた小さな村は、長い雨のひとつで陸の孤島に成り代わる。最近都会を抜け出して村に定住しはじめたばかりのわたしは、そのことを肌身で実感したのだった。
 ひとり家に篭もるようになり、部屋の隅々を掃除したり、長めの入浴や睡眠をとったりして過ごしている。執筆中の論文のため、アビディアの森を探索しないことには先が進まないのだが、レンジャー隊から直々に不要な外出を止められてしまえばどうすることもできない。そもそも、一端の凡学者であるわたしに、あの繁茂した森のなかを突き進んでいけるほど胆力も戦闘能力も持ち合わせていないので、見回り中の彼らの目の届くところにいなければ論文も書けないのである。
 まるで、足の裏から根っこが伸びてからだの内側から枯渇していくようだった。研究も娯楽も、なにもすることがない日を二度三度繰り返して、ついにティナリに不満を喘げば、彼はそうだねとたしかに同調した。次の日、やはり雨は止むことはなかったが、朝からティナリが家のチャイムを鳴らした。
「うちにあった本をいくつか持ってきたんだ。きみの研究内容にも遠からず主旨は似たようなものになるから、役に立つかなって思ったんだけど」
 ティナリはそう言うと、テーブルの上に数冊の分厚い本をばさばさと置いた。昆虫、植生類、哺乳類……見ると、それらはさまざまな生きものの図鑑のようだった。わたしはありがとうとつぶやいて、背表紙に刻まれた題字をなだらかに指でなぞった。
「どうかな?これでヒマを潰せそう?」
「うん。たくさんあるからヒマはなくなりそう」
 ティナリはよかったとやさしく笑った。
 彼の聖人のような親身な性格にまざまざとあてられると、わたしは思わず固まってしまう。たちまちどうしていいかわからなくなる。結局、不格好な笑みを貼り付けて返すしかなかった。
 ティナリのこういうところは、わたしにだけ格別与えられているものではない。きちんと理解している。コレイやほかの村民に対しても分け隔てなく、彼の本心からの親切が平等に配られているさまを、この村に来てから幾度となく見てきた。
 ただ、単独で自分の好きな研究ばかりを続けていたわたしにとって、無垢で献身的なひとの厚意にはかなり不慣れで、ティナリのような同輩とは今まで巡り会ったことがなかった。
 そのためか、ふとした会話のときに、わたしのなかの緊張の糸がピンと張られるのを感じて、彼に対して戸惑いのような感情を抱いているのだと自覚するのだった。
 ……もっとも、ティナリに対してこんな風によそよそしくなってしまうのも、ガンダルヴァー村でわたしひとりだろう。彼は村のなかでも一番信頼と人望を集めているから。

 ティナリが貸してくれた本を順繰りに読み進めていき、しばらく経つと、とうとう窓を打ち続ける雨音もようやくその苛烈さを失いつつあるように聞こえてきた。窓をほんの少しだけ開けて鼻をすませると、水を吸った地面から熱気が空へ放たれる雨上がりのむわんとしたにおいが微かに届いた。部屋を充満する発酵された空気が、少しずつ甘露のようにゆるやかに溶け始め、足の裏に生えた根の鎖が解かれていく。
 昼すぎにはちらちらと白い日が雲の隙間から見え始め、村を飛び交う鳥の鳴き声も聞こえてきた。やっと長い雨が止んだのだ。ふと息を吐いて、リビングの壁に掛かった外套の袖を通し、玄関の扉を開けた。
 村の中心の、人が集まる広場の方へ行くと、年嵩のヴァナラが道端の落ち葉を掃除していた。ひとも動物もいつもの往来を続けている。
 平鍋を囲んで憩う旅客の集団のそばに若いレンジャー隊の男性が居た。彼はふいにわたしに気がつくと、会釈をしながら近寄ってくる。わたしは、こんにちはと軽く挨拶をした。
「これからどこかへ出かけられますか?ひさしぶりの外出でしょう」
「できれば洞窟の近くまで、様子を見ようと思っていたんですけど……」
「そうですか。先生はいつも研究熱心ですね」
 彼は大袈裟にわたしを褒めると、「では、ティナリさんを呼んできますね」と立ち去ろうとした。わたしは咄嗟に声をかけ、彼を止める。
「えっと……ティナリは忙しいんじゃないかな?ただのわたしの散策に付き合わせてしまうのは悪いような」
「ですが、豪雨の影響で今は地面が崩れやすいので、同行していただいた方がいいかと」
「でも、わざわざティナリを呼んでもらうのも……」
「ティナリさんは先生の護衛なので問題ないですよ」
「ティナリが?」わたしは目を瞬かせ、彼の顔をまじまじと見つめた。「わたしの護衛って決まっているの?」
「知らなかったんですか?てっきり、先生たちのあいだで決められたことなのかと……」彼は不思議そうに首を傾げる。「ティナリさんが直々に先生のことは任せてくれと仰っていたので、そういうものだと思っていました」
 彼の言葉には、なにも心当たりがない。ティナリがわざわざわたしの世話役のようなものを引き受けて周知していたとは、寝耳に水だった。
 たしかに、ティナリはよくわたしの顔を見に来ては、親切にしてくれることもあるが……。つねに忙しそうなレンジャー長から、ただの研究生のわたしが、そのような厚遇をやすやすと受けてもいいのだろうか。
「あの、やっぱりあとにしておきます。急な用でもないから」
 わたしの言葉に彼はそうですかと頷いた。彼は、あまり納得していないような顔つきをしていた。一体なにをティナリに遠慮しているのだろうと、心底不思議がるように。
 わたしは足早にその場を離れ、自分の家へ戻った。バスタブの蛇口を捻り、湯を張って、それから深く底へからだを沈めた。
 ティナリの親切を享受できない自分が、この村では異端であると思う。自分のなかにティナリに対しての抵抗があるのか、あるとすれば、それは何の抵抗なのか……思考を巡らせていても一向に答えは見つからない。ただ、湯の表面に歪む自分の顔は、とても臆病に見える。

 夕餉の支度をしている最中に、突然の来客があった。ドアを開けると、つい先ほどまで自分の頭のなかを占めていた本人が立っていた。わたしは驚きのあまりしばらく声を忘れて、彼を凝視する。
「ごめん、今取り込み中かな?家のなかからいいにおいがするね」
 ティナリは少しだけバツが悪そうな顔をして、わたしの顔を窺った。彼の言葉にはっと意識を取り戻し、わたしはふるふると首を横に振った。
「全然、気にしないで。もし良かったらうちで食べていってもかまわないし……」
「本当に?じゃあ、お言葉に甘えてそうしようかな」
 部屋のなかに招き入れると、ティナリはダイニングテーブルの席に腰を下ろした。彼は壁ぎわのシェルフに視線をやると、平積みに置かれた図鑑を見つけ、「本はどうだった?」とわたしに声をかけた。
「うん、なかなか読み応えがあったよ。図鑑はきちんと読んだことがなかったから」鍋にかけていた火を止めながら、ふと記述を思い返していた。「瞑彩鳥はほかのヤマガラとは違って舌の構造が大きく発達しているってあったけど、意識したこともなかった」
「ああ。ある論文によれば、かれらの鳴管と舌はひとの人語も発声可能であると言われているんだ。ただ、話す瞑彩鳥はスメールでは発見されたことないけどね」
「そうなの?知らなかった」
 そういえば。長雨の最中に見かけた雨宿りをしている一羽の瞑彩鳥を思い出した。とっくに、自由に外を飛び回っているだろうか。
 何となしに窓の外へ視線を滑らせると、ティナリが突然「あのさ」と声を発する。
「今日どこかに出かけたかったの?隊員からきみに会ったって聞いたんだけど」
 ティナリの言葉に不自然に鼓動が乱れ、生唾を飲み込んだ。うん、と小さく漏らしたわたしに、ティナリはへぇと相槌を打つ。
「明日にでも行こうか?洞窟のあたりだったら僕も見回りに行きたいから」
「いや、わざわざティナリのお世話になるのも、なんか」
「なんか?」
「……悪いなって」
「だれに?」
 こちらを見つめる青竹色の虹彩が、天蓋のランプの光を吸って一層と光る。ティナリの口調はいつものように穏やかだったが、彼のおもさしの影からどこか言葉にならない不吉な予感を感じて、わたしは口を噤んだ。
 ティナリを怒らせたことはない。少なくとも、今までは。しかし、わたしの発する言葉ひとつで彼の機嫌が揺れ動くほど、不安定な土台の上に立たされているような気がしてならなかった。
「その、ティナリはいつも忙しくしてるでしょう?わたしの行動にいちいち付き合わせてしまうのが、申し訳なくなるから」
「たしかに日々の予定は入ってるけれど、きみと出かけることもできないくらい多忙で切羽詰まった状況ではないよ」
「そうだけど、わたしのほかにもティナリを頼るひとがいるから」
「……僕の立場上それは致し方ないことだけど、そのことときみは関係ないんじゃないかな?」ティナリはおもむろに立ち上がり、キッチンの奥へ踏み入った。彼の悠然としたその動きを、わたしは呆然と目の当たりにしていた。「僕がきみにやさしくしたいのと、僕が周りから頼られてることはなにも関係ないだろ」
 ティナリは当然のようにわたしに告げた。でも、とか、それでも、とか、続きが見つからない言葉のかたまりがわたしの口のなかで沈んでいく。口に出してしまうのは、あまりに幼稚で無駄な抵抗だった。
 半歩ずつ後ろに後ずさるわたしの腕を、ティナリが素早く捕らえた。たしかに、男のひとの力だった。ティナリから与えられる強い感触と、彼の有無を言わせない雰囲気に、わたしは石のように固まった。
「逃げるな」
 赤く燃え上がるような夕日の光が部屋に射し込み、男と女のからだを照らしている。どこかで瞑彩鳥が翼をはためかす音が聞こえたが、聢とわたしの顔をまっすぐに見つめる彼から目を背けることはできなかった。

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