彼との邂逅は、自分の背後に大きな稲妻が落とされたような、心臓の動きも止まるほどの言葉にできない衝撃を受けたのである。
 教令院の正面口から蛇行するように伸びた石畳の通路から、一本片道に逸れた脇のところにある小さな池のほとりに彼はいた。ずいぶんと重たそうな市女笠を被り、教令院の制服でも傭兵団の武装でもない、その珍しい布地の羽織に身を包んで。
(……あれは、だれだろう?)
 静閑な空気で満たされるこの場所にとって少年の存在は明らかに異質だった。その風景に混ざりきらない異色な出で立ちを、わたしはしばらく呆然と眺めるしかなかった。なぜ自分が彼から目を離せないのか、わからない。けれど、彼からはなんとも形容し難い特別な気迫があって、それは超俗的にも牧歌的にも感じて……わたしは見蕩れていたのだと思う。刻一刻と、平常にこの世界の時間が過ぎていくのを実感するまで、わたしは立ち尽くしていた。
 街のシンボルでもある青青した大樹から降り注がれた木漏れ日が、彼の足元の池の表面をてらてらと光らせている。したたるような新緑の香りを運ぶそよ風が、傘から伸びる二枚の紐をゆるく靡かせていた。
「──………」
 こちらの不躾な視線があからさまだったのか、ふいに彼が振り向いた。藤色の瞳が聢とわたしの姿を捉える。まずい、と思う間もなく、彼はわたしを値踏みするかのようにじっとりと見つめた。
「この場所は予約制なのかい?それとも僕になにか用があるのかな」
 幼げが残る見た目とは裏腹に、刺々しい物言いを皮肉でくるんでいる。まっすぐにこちらを見据える彼の雰囲気に気圧され、わたしはたじろいだ。
「えっと、ごめんなさい……ここに人が来るのは珍しくて、ついジロジロと見てしまって」
 この池までに続く道なりが表通りからだと分かりにくいのか、わたしがこの場所を見つけてから誰かに出会したことはなかった。これまで鉢合わせたのは無害な小鳥やカエルぐらいだ。そのため、うっすらと自分だけの秘密基地のように思い入れていた場所に、いきなり人の来訪者が現れたので面食らってしまった部分もある。
 彼はわたしの言葉にふうんと気怠げな相づちを打ってから、すぐに興味をなくしたようにわたしから視線をはずした。突然見知らぬ女に話しかけられてもなお、この場から離れるつもりはないらしかった。わたしはその白く透き通った目鼻立ちをちらりと覗いて、怒ってるわけではないのかも、と安直に考えた。
「あの、旅人の方ですか?」
 彼はわたしの質問をつまらなそうに鼻で笑った。
「昔は各地を転々としていたさ、『放浪者』という肩書きでね」
「今はちがうのですか?失礼ですが、教令院の来賓の方でしょうか」
「さあ、どうだろうね?もう一度きみに会うことがあったらその時にでもわかるんじゃないかな」
 彼はそれだけ告げて、風を切るように踵を返していった。一瞬のつむじ風のようだった。
 取り残されたわたしは彼の言葉の真意に頭を悩ませていたが、その意味はそう遠くないうちにわかるようになった。まさに彼の言葉通りだった。
 因論派の学術室に出自不明の学生が出入りしていると噂を耳にしたのは、それからすぐのことだ。噂の人物の特徴を聞けば、どうやらあの池のほとりで見かけた彼であるようだった。先日の学院祭も、なんとその彼が因論派代表として参戦していたらしいが、祭事のあいだ自分の研究に没頭していたわたしにとっては寝耳に水である。
 こうして、わたしは教令院で彼とまた再会することになる。今度は、埃臭い図書館の背の高い本棚の郡勢のなかで。
 偶然見つけた彼は、背表紙の名前をなだらかに視線でなぞり、ひとつ本を手に取ってはパラパラとページを捲り。パタンと閉じて、元の棚に戻していた。三度、四度、その一連の流れを繰り返しているのを、わたしはよりによって近くの棚の影から観察していたのだが、やはり彼には筒抜けだった。
「コソコソしてないで出ておいでよ」
 彼は振り向きもせず、呆れるような声でわたしに告げた。声をかけられた途端に自分の肩がぎくりと跳ねるのが、なんとも間抜けだと思う。わたしは恐る恐る彼の元へ踏み寄った。
「あの……因論派の学生だったんですね。この前はすみません、そうとは知らないで頓珍漢なことばっかり」
「べつに構わない。身のほど知らずな知的好奇心にいつも振り回されているのがきみたち学者だろ?」
 パタンと、手元の分厚い本を閉じて、彼は静かにこちらを見た。無機質な照明の光が白い肌を滑っていく、まるで、生気を感じさせない人形のようだと思った。
 教令院に通っている学生であれば、学者を馬鹿にしたような物言いはなんだかおかしい……彼の言い方は卑下とも違っていた。一介の生徒ではないのだろうか。彼と会うのは二度目だが、わたしのなかでは彼は他の人間とは違った、特別な存在であるような気がしていた。
「なにか探されてるのですか?ここらへんの棚のものだったら、一度論文作成で使ったことがあるのでお役に立てるのかもしれません」
「探しものはないよ」彼は壁一面に広がる本の群れを眺めた。「高尚なスメールの学者どもの叡智の中身がどんなものか、試しに見てみたかっただけだから。ここに来たのも気晴らし代わりの散歩みたいなものだ」
「それでは、あの日も散歩を?」
「そうかもね。二度も同じ邪魔が入るとは思わなかったけど」
 彼はふんと嘲るようにわたしを見た。初対面(今回は二回目だが)にも構わない辛辣な物言いは、彼の性格由来らしい。
 初対面といえば、わたしは彼の名前を知らない。それどころか今までお互いの自己紹介のようなものをすっ飛ばして、立ち話に興じている。興じている、という言い方も変かもしれない。どちらかと言えば、わたしが一方的に話しかけていて、彼は皮肉や無愛想な返事を寄越しているだけだから。
 すこしだけ躊躇して、わたしは口を開いた。
「あの、お名前を伺ってもよろしいですか」
 彼は一瞬静止したあと、すぐにつっけんどんな答えを返した。
「相手の名前を聞く前にまずは自分が名乗るものだと習わなかったのかい?」
「あっ、そうですよね、ごめんなさい」
 しどろもどろに自分の名前を告げたが、彼は果たしてわたしの名前を覚えてくれるのだろうかという疑問がある。案の定、彼はあっそうと無下に返事をして、手にしていた本を棚に戻した。
 すこしの静寂のあと、ぽつりと、彼がそれを口にする。わたしが聞き返す前に、彼はそれが僕の名前だからと呟いた。わたしは淡々と呟かれたその単語を口のなかで復唱して、その陶器のような冷たさが宿る彼の顔を見つめた。

 彼を付け回しているつもりは誓ってないのだが、その後も、彼のすがたを時たまに見かけることが続いた。
 彼が何の講義を取っていて、どの先生の研究室に所属しているのかなどの情報はまったく知らない。遠目で見かけても意欲的に何かを研究している素振りはなかったし、散歩と称して図書館を徘徊するくらいだから、やはりここの一般的な学生とは違っているのだと思う。以前は、と言っていたが、今も「放浪者」の肩書きなのではないだろうか。
 胸のうちで彼についてあれこれ考えていても、それを直接口に出すことはしなかった。彼に聞いたとして、くだらないとげんなりした顔ではぐらかされるか、鬱陶しがられて距離を置かれてしまうのが目に見えている。(そもそも、勝手にプライベートを詮索するようなことを内心考えていると知られたらだれでも気味悪がるだろう)
 きっと、彼に対する興味は、そっと瓶に詰めて蓋をしたまま胸のなかに隠しておく方がいい。瓶から溢れてしまったら最後、今のような距離感で話すことも叶わなくなってしまうだろう。
 ──そうなってしまうのは、こわい。手に入れたわけでもないのに、こんな感情を抱くのは傲慢かもしれない。けれども、彼との接点がなくなってしまうのは嫌だ。
 彼と知り合ってからいくばくか月日が過ぎた。相も変わらず、友好的な態度を取らない彼との関係性は顔見知りに毛が生えた程度のものだ。
 執筆中の論文のテーマ発表会が目前に迫り、わたしはその準備やら最終的な推敲の作業に追われていた。文字通り朝から晩まで、食事もとることを忘れて図書館に籠城している。しかめっ面で自分の原稿を睨んでは、机に山積みの文献の束にため息を落とすことを繰り返している。
 ボーンと、閉館時刻を知らせる鐘が鳴る。遠い意識の外から呼び戻されたわたしは、慌てて資料をまとめて撤収作業をはじめた。気がつくと辺りは閑散としていて、この時間まで残っている人の影はまばらだ。
 早く帰って簡単な夜食でもちゃちゃっと作ってしまうか、それともランバト酒場で適当にお腹を満たす方が手っ取り早いだろうか……。頭のなかで考えを巡らせている隙に、人影がわたしの背後まで近づいていることにはまったく気がつかなった。
「遅くまでお疲れ様だな。原稿は進んだのか?」
 いきなりかけられたその声に驚いて、口の端から悲鳴のようなものが零れそうになる。声の先を振り向くと、同じ講義を履修しているひとつ上の先輩が暗がりのなかに立っていた。
「あっ、はい。なんとか終わりそうです」
「そうか、それはよかった。よくきみがここで残っているのを見かけたから気にしていたんだ」
 この時期となれば徹夜で教令院に軟禁される学生も少なくないのに、つくられたようなやさしい声音に戸惑う。深い面識もない、何回か業務的な会話をしただけの先輩だった。しかし、立場上無愛想に接することも難しいため、そうですかと返す。
「もうこんな時間じゃないか。家は近いのか?ひとりだと危ないから送っていくよ」
「えっ、いや、そこまでしていただかなくても」
「いいから、遠慮しないで。なにかあったら危ないだろ?」
 そのなにかというのには、あなたも含まれているのではないだろうか。徹底して不気味な親切を押し出してくる先輩に、やんわりと拒否を続けても暖簾に腕押しだった。のらりくらりと躱されて、いいから、帰ろうと笑いながら肩を掴まれる。思わず、ぎょっとした。
「あの、先輩」
「きみはこの近くに住んでいるのかい?ひとりで下宿しているなんていつも心細いだろう」
 はたして、その言葉は最後まで続くことはなかった。突然、アンプのコードが途切れたように男の声が消えたのだ。
 はっとして、先輩の方を見やると、わたしから数メートル離れた部屋の隅にいつの間にか彼は移動していた。移動というより飛ばされたと言った方が正しい。先輩の体のまわりには小さな風の刃が数個発生していて、無防備な先輩を襲っている。先輩は、うわぁ、とか、なんだ、といった悲鳴をあげながら、身動きをとることができなかった。
 キョロキョロと辺りを見回した。呆然とするわたしと、その風の刃にやられている先輩以外だれもいない。一体、いきなりなぜこんなことに……と戸惑うことしかできない。しかし、遠くから見てもその風は止むこともなく、依然として先輩はひとり動転した状態でその場に閉じ込められていた。
「あの、だれか助けを呼んできます!」
 わたしは即座に自分の荷物を手にして、図書館を出た。近くの衛兵を探し、心許ない街灯を頼りに暗がりの道を辿る。すこし石畳の街道を進んだところで、見覚えのある人影が目の前に現れた。
「あっ」
 わたしが声を上げると、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。重たげな市女笠の影から、月の光も飲み込むような、うろんな瞳がわたしの姿を写す。
 彼の名前を呼ぶ。彼は、静かにわたしの元へ近づいた。
「もう遅い時間なのにめずらしいですね。今日もお散歩ですか?」
 彼はいつものように鼻で笑って、そうかもね、と呟いた。
 夜の光の下にいる彼を見たのははじめてだった。あの池のほとりで見かけた、神秘的な佇まいとはまた違うようにも見える。
「そんなきみは慌てて飛び出してどこに向かうんだい?」
「あっ……そうだ、じつは衛兵を呼ぼうとしていて」
「へえ?」
「図書館のなかで先輩がなにかに襲われているんです。わたしにはなんなのかよく分からないんですけど、だれか助けを呼ばなくちゃと思って」
 分かりにくい説明には彼を納得させる自信がなかったが、彼はそうなんだと図書館の方を見やった。
「その男はもう無事みたいだよ、ほら」
「え?」
 ほら、と指さした先、図書館の入口からは先ほどまで羽交い締めにされていた先輩がいた。そこに風の刃はない。真っ青な顔をした先輩は駆け足で道を下り、こちらとは真逆の方面へ去っていく。よほどの恐怖を植え付けられたのか、わたしが声をかけるより前に消えてしまった。
「あ、本当だ……自力で逃げられたのかな。よかった」
 ことの原因は不明だが、解決できたからよかったのだろう。そっと胸を撫で下ろしていると、正面の彼は呆れたようにわたしを睨んだ。
「きみのようなお人よしはすぐ有害な人間を惹き付けるからイライラするね」
「え、えっと」
「身の振り方をもっと気をつけた方がいい。それにあんな奴なんて、助ける価値もない」
 なぜか彼は急に機嫌が悪くなったようだ。いきなり刺々しい言葉を浴びせたかと思うと、すたすたと目の前の道を歩きはじめた。わたしは慌ててその後ろ姿を追った。
 夜の帰路に突然現れた彼の存在もまた不思議だった。不思議なこと、明かされない謎が多く、彼のことはなにもわからない。本当は実在しない妖精なのかもしれない。しかし、先ほどの彼のじっとりとした瞳には、たしかにひとの感情を感じたのだ。

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