スメール北部の宮殿、アルカサルザライパレスに旅人一行が出向いたのは、なんてことのない一日の真昼間のことだった。
 パレスはつねに変わらず、荘厳な造営のなかに平穏と美しさが混ざりあっていた。空は晴れ、透き通るような青色が広がる天蓋から、真っ白な日の光が辺り一面に燦々と降り注いでいる。点々と行商や教令院の関係者が往来する庭園を、青々しく漲る緑樹が取り囲んでいた。
 忙しなく回る世界から切り取られたように、時がゆっくりと流れていく心地良さに身を包まると、パイモンと旅人の体は大きく伸びる。ふたりは宛もなく石畳の道なりを歩いていた。
「あれ?あれってカーヴェじゃないか?」ふと、自分たちの前方に身知った金髪の青年がいることに気づき、パイモンは旅人に声をかけた。旅人も彼を見つけてこくりと頷く。ふたりは視線の先を追いかけるようにその彼の元へ歩み寄った。
 庭園のはずれに位置した石造りのガゼボで、カーヴェは行儀悪くテーブルに肘をつけて顰めっ面をしていた。その不機嫌な顔つきは、まるで尾を踏まれて逆毛立つ野良猫のようだ。
 旅人は、いったいどうしたのだろうと思考を巡らす。この青年、カーヴェの抱える不平不満の種には、これまでの経験上いくつか思いあたるものがあった。いつものように、理屈的な同居人と不毛な口喧嘩をしてきたとか、彼の信条を無視した依頼が飛び込んできたとか、など。
「おーい、カーヴェーー!」旅人が思案しているそばで、パイモンが大きな声で彼の名前を呼んだ。即座に、完熟したザイドゥン桃の果皮のような瞳がふたりをしかと捉える。「そんなとこでなにやってんだ?」象牙色に艶出された滑らかなテーブルの上には、彼の気を晴らすような酒も、素人には難読な設計図も、なにも置かれていない。パレスのはずれに位置するこの辺鄙な場所で誰かと待ち合わせているようにも見えず、パイモンは当然の疑問を口にした。
「あなたたちか……」カーヴェがため息まじりにそう零すと、パイモンと旅人は反射的に顔を見合わせた。それは、体じゅうの生気を搾り取られた半死人のような声音だった。どうやら彼は日常的に発生する不平不満を飛び越えた、深刻ななにかに直面しているのかもしれないと、ふたりが考えるのは容易い。
「ど、どうしたんだ?おまえ、すっごく元気がないぞ」
「ああ、まあ……」カーヴェは歯切れ悪く口淀む。宙に視線をさ迷わせてすこし逡巡したあと、言葉を続けた。「そうだ。今まさに僕自身に関わる重大な問題に直面していて、打開策に頭を悩ませているんだ」
「ふうん?また建築依頼の話か?」パイモンは先ほど旅人の脳裏に浮かんでいた原因のひとつを口にする。
「いや、今回は関係ないんだが……」
「なんだよ!もったいぶらずに教えてくれ」
「僕は別に話してもいいんだが、これにあなたたちを巻き込んでいいのかと悩んでいるんだ」
「水臭いんだぞ。オイラと旅人の手にかかればどんな超難関任務だってすぐに解決できちゃうんだからな」パイモンは得意げにとなりの旅人を見やった。「な?旅人!」
 それらの任務はほとんど旅人ひとりの力量で解決しているようなものだったが、旅人はあえて口を挟まずにパイモンの言葉に頷いてみせた。依然悩ましげの表情をするカーヴェに、とりあえず話してみるように促すと、カーヴェはやっと意を決して重たい口を開く。ガゼボの軒桁の隙間から差し込んだ木漏れ日が踊る目の前のテーブル席に、流れるようにふたりは座った。

 余暇の延長の散策ついでにやってきた旅人たちとは違って、カーヴェがアルカサルザライパレスに立ち寄ったのには明確な目的があった。
 彼がパレスに到着したのは、今からおよそ一時間ほど前のこと。
「あらあらあら、まあ誰かと思えば。珍しいお客様ですこと。それとも、もしや返済のご相談かしら」
 このパレスの所有主であるドリーは、前触れもなしに自分の元を訪ねてきた金髪の青年に大袈裟な口調で挨拶をした。タイミングの良いことに、彼女はひとりだった。彼女のお馴染みの鼓膜をつんざく囂しい声にカーヴェは一瞬たじろきながらも、ひとつ咳払いして自分の用件を口にする。
「僕の借金のことについては改めて話そう!今日は別のことで相談があるんだ」
「まあ!新しいビジネスのお話?いいでしょう、お話になって」
「その……たとえば、あなたは宝石や貴金属の仕入れもしているのか?」
 カーヴェが慎重に尋ねると、ドリーは不覚をつかれ盛大に吹き出す。
「あらやだ、なにを仰るかと思えば……かの万能大商人サングマハベイにとって愚問中の愚問!勝手に侮ってもらっては困りますわ」
 生業に対する自尊心か、商人としての対抗心からか、ドリーの瞳がいっそう爛々と光り輝く。その金箔色の双眸は嫌でもカーヴェにモラの金貨を想起させた。ドリーはテイワットじゅうに犇めくジュエリーの商流を一束におさえることだってできると言わんばかりに、カーヴェに矢継ぎ早に問いかけた。
「まあいいでしょう。それで、商品のご希望は?観賞用?装飾用?実務用ですの?」
「なんというか、今回はひとにプレゼントをしたいんだ」
「まあ!」完全に商人としてのスイッチが入ったドリーは悲鳴のような声を上げ、前のめりでカーヴェの顔を伺った。「ちなみに参考までにお相手はどなたですの?」
「……僕の恋人だよ」勢いあまるドリーの迫力に気圧されながら、カーヴェはぽつりと話しはじめる。「彼女にプロポーズをしたいんだ」
 彼女と付き合いはじめてから、相応の月日が過ぎていた。
 最高傑作と呼べる偉業を成し遂げ、業界内で相当の名声を博したり、かと思えばその代償でスッカラカンの無一文に成り下がったり。そればかりだけでなく、思い返せば幼少のころからカーヴェの人生の幸福感のグラフは、天と地を行ったり来たりしている。彼女はその極端に難解で、嵐の夜の海のように波乱を呼び続けるカーヴェの生き方にとてもうまく適合する人間だった。
 彼女は教令院出身の学者の身でありながら、その知的好奇心と人当たりの良い温和な性格を除けば、なにひとつ特筆することのない平凡な人物である。同輩であり恋仲のカーヴェのように、学問史にその名を刻む功績もなく、家柄も血筋もありふれたスメールの平民のものだ。武術や芸術の才も、抜きん出た器量も持ち合わせていない。
 しかし、カーヴェという男に限ってはそうではなかった。彼の心の底に沈殿する苦悩や悔恨を認めながらも、彼の手を離さず、足元もおぼろげな混迷した道のりをともに歩んできてくれたのはナマエだった。自分のこの生き方も、過去に置いてきたどうしようもない懊悩も、未来へのわずかな憧憬も、すべてを受け止めてくれるのは彼女のほかにいない。彼女と知り合い距離を縮めていくなかで、カーヴェはいつの日からか、そう信じるようになった。
 そんな彼女が、自分と同じように順当に歳を重ね、平凡な日々を無作為に過ごしているうちに、どこかで漠然とした疑問が湧き出る。
 ──誠意と責任を示すべきじゃないだろうか。
 平凡に人並みの幸せを享受できる彼女が、ほかの誰でもない、己の手を取ってともに生きてくれること。自身の人生に絶望するほど悲観的なカーヴェにとっては、そのことが天地もひっくり返るほどの奇跡である。だからこそ、彼女にとって自分の想いを明確に示す、誓約のようなものが必要だと考えはじめた。彼女が自分に与えてくれたものに対する恩赦の念をこめて。
 つまり、プロポーズをすると。
「はぁ〜〜」ドリーは目を丸くして驚嘆の息を漏らした。「なるほどなるほど。ということはつまり、エンゲージリングをお求めということですわね?」
「そうだ。僕はアクセサリーには疎いから……まず、こういう指輪の相場のようなものが分かればいいと思ったんだが」
「使われる石の種類や装飾のディテールによっても変動いたしますから一概には言えませんけども」
「とはいっても大体の目安くらいあるだろう」
「まぁ流行中の定番なもので三百万くらいですかしら」
「さっ……」
 即座に言葉を詰まらせるカーヴェを追い込むように、ドリーはさっさと続けた。
「エンゲージリングというのは殿方からの愛そのもの、いわばこれからの生涯を担う覚悟の証ですわ。その愛と覚悟の強さをどうやって示すかなんて、モラの額以外に考えられませんことよ!生半可な金額でしか示せない愛なんて不要ですわ!」
 まるで演説台のマイクを握るように、ドリーは高らかに声を上げて講釈をたれた。凪いだ空気がゆるやかに流れるパレスの地で、自分への罵声ともとれる抗議を受けながら、カーヴェは呆然とその場で立ち尽くすしかない。
 本来ならば、ドリーがふっかける金額には易々と受け入れずに、落ち着いて熟考と検証をするべきことをカーヴェは分かっていたつもりなのだが……ドリーが言論中にやけに強調した「愛」や「覚悟」やらのキーワードが、カーヴェの理性的な判断を鈍くさせていた。ドリーの言説に則れば、婚約指輪に大枚をはたけないのは、相手に対する「愛」や「覚悟」が足りないのと同義であると。あたかも自分がナマエに対してそれらが足りていないのだと言わんばかりに、彼女は責める。
 ──そんなワケないだろう。………いや、でも、もしかしたら一理あるのかもしれない。
 婚約指輪は、女性にとって生涯を飾る贈りものになる。ひとりの女性である、ドリーの意見もまったく参考にしないのもどうだろう。もし、あまりにみすぼらしい指輪を贈ったら、彼女は戸惑ってしまうのではないだろうか。それこそ、恋人からの「愛」や「覚悟」が感じ取れないために。
 そもそも、プロポーズ自体、快諾されることが確実に決まっているものではない。ふたりのあいだに別れ話は出る影も見せていない、けれども、結婚を仄めかした話題もなかった。彼女の結婚観や、今後自分とどう過ごしたいと考えているのかも確認していない。ただぼんやりと、これからも彼女は自分のそばにいてくれるだろうという確証のない希望的観測がカーヴェを動かしている。
 であれば、ことさら、中途半端なプロポーズでは彼女に快諾してもらえないのではないだろうか。もちろん、手を抜くつもりなんて最初からさらさらなかったが、多少の無理をしてでも彼女の琴線に触れるようなプロポーズの場をつくるべきではないだろうか……。
 悶々とひとり思考を巡らすカーヴェは、そして、結論にたどり着く。
 なんとしても、大金が必要だ。

「──と、まあ、ことの経緯はこんな感じだ」
 カーヴェは一連の流れを話し終わると、ふうと長い息を吐いた。これまで黙って彼の話を聞いていた旅人とパイモンは揃って顔を見合わす。
「それでカーヴェはモラを稼ごうとしてるのか。でも、そんな都合よく稼げる方法なんてあるのか?あったらオイラが知りたいくらいだぞ!」
「だから、ここで悩んでいるんじゃないか。僕の今の所持金はゼロどころかマイナスなんだから」
「うーん、でも三百万モラなんてどうやって稼げばいいんだ?」パイモンは宙に浮かびながら小首を傾げる。「旅人、おまえはどう思う?」
 旅人は、頭のなかで件のカーヴェの恋人のことを思い浮かべた。スメールシティの南にある診療所に住み込みで働いている彼女と旅人は、何度か顔を見合わせた仲である。道端話に興じているうちに、恋人であるカーヴェがアルハイゼンの家に居候していることも、膨大な借金を抱えこんでいることも、良い意味で彼女は気にしていないことを感じ取った。醜聞を気にして周囲に自分の失落を隠したがるカーヴェとは裏腹に、彼自身の生き方すべてを肯定しているような寛大さが彼女にはある。
 そのことを強く感じたのは、教令院によるアーカーシャ端末を悪用した一連の騒動のあと、冒険者教会からの依頼任務の一環で診療所を訪れたときのことだった。

 その日は不意を狙ったような篠突く雨が街を襲い、旅人とパイモンは一時的な雨宿りとして診療所内の憩いの間に避難していた。
「大変な雨でしたね」手早くふたりを所内に案内した彼女はそう言いながら、ガラスのティーポットを丸テーブルの上に運ぶ。傍近の手狭な畑で摘まれたばかりのミントの葉が爽やかな香りを放ち、旅人の鼻腔を柔らかくくすぐった。彼女はミントティーをグラスにていねいに注ぎ、客人であるふたりに配る。
「サンキュな!ところで、仕事は大丈夫なのか?」
「今はちょうど非番の時間なので気にしないでください」彼女はゆっくりとふたりの正面に腰をおろした。それから、すこし躊躇いがちに旅人の顔をちらりと見やる。「……それに、以前から旅人さんたちの話を聞いてみたくて」
「そうなのか!なんでも話してやるぞ。なんだってオイラたちは巨龍を倒したこともあるし、神の死を見届けたことだってあるんだ」
 パイモンが胸を張ってそう告げると、ナマエは純真に目を輝かせた。生まれてからスメールから出たことのない彼女にとって、テイワット大陸を探検する勇ましいふたりの冒険譚は、どんな娯楽よりも刺激的らしい。
 あなたはずっとここで働いているの?旅人がふと疑問に思ったことを尋ねると、彼女はなんてことのないように頷いた。
「元々、教令院では生論派を専攻していたんです。植生物が動物に与える効能を研究していて、その延長で今は薬草を煎じてここで治療薬を処方しています」
「カーヴェと同じ妙論派じゃなかったんだな」
「そうですね。カーヴェは選択科目の授業で一緒になることがありました。はじめて知り合ったのもその授業だったな」彼女は遠い日を懐かしむように視線を落とし、自分の丸い膝頭を見つめた。「そのときからカーヴェは成績優秀で、私たち同学年のなかでは有名だったんです。あっという間に数々の実績を作って、妙論派の革命児なんて呼ばれてもいました。建築デザインに関しては当然コンペで競り合うものもあるけれど、国のインフラ開発のような重大な案件のコンペに声がかけられること自体、並の学生ではありえないことだった」
 彼女の言葉の端々から、カーヴェを慈しみ、心から敬う気持ちが感じ取れる。まるで、カーヴェがこの世界に産み落とされて、苦節ある生涯を彼なりに歩んでいることに感謝さえしているように。カーヴェという人間自体の欠点や、呼び寄せる不幸や、巡り会う災難のすべても、愛しているかのように。
 それと同時に、旅人は、彼女がカーヴェとどこか一線を引いているような感覚を覚えた。恋人なら少なくとも対等な立ち位置であるはずなのに、自分にはもったいない人だと自らを大袈裟に卑下して、諦めている。カーヴェの名を呼ぶ彼女のおもさしにかかる翳りが、あたかもそう訴えていた。
 自分からしたらあなただって……人のために役立つ仕事を選んで、好きな研究を熱心に続けている、立派な生き方をしている。旅人は本心からそう伝えたが、彼女は曖昧に笑うだけだった。パイモンが三杯目のミントティーを飲み干したころ、雨雲は過ぎ去り、ふたりは診療所を後にした。

 あの人はそういう指輪はいらないと思うよ。
 頭の片隅で彼女との邂逅をつまびらかになぞった旅人は、目の前の青年にはっきりと伝えた。それが旅人の結論だった。カーヴェから与えられるものなら何だって彼女は喜ぶのだと、世辞や気休めでもなく、本心からそう思う。
 旅人の言葉を聞いて、カーヴェは口許を固く噤んだ。幾度とナマエと面識のある旅人からの言葉は、魔法のような説得力を帯びている。
「それは……僕だってそう思うが」カーヴェの口からは、溌剌さもすべて失われた弱々しい音の並びが溢れる。
 実のところ、カーヴェも気づいている。彼女は、煌びやかな宝飾品よりも、カーヴェが与える愛の込められたことばや仕草を求め、心の拠り所にするだろう。ドリーの言葉にヤケになって、見栄えあるプロポーズに固執していたが、それはきっと彼女が本当に望むものとかけ離れていく可能性が高い。
「だけど、僕から彼女にあげられるものなんてなにも思い浮かばないんだ。愛してるとささやいて抱きしめても、死ぬまで一緒にいてほしいと跪いても、それはただの僕の自己満足な気がする。誠意を表した贈りもので、せめて彼女の人生に真摯に向き合うことを誓いたかったんだ」カーヴェはふと、言葉を区切り、項垂れながらかぶりを振った。「思えば、この贈りものだって僕の自己満足でしかないのかもな。プロポーズ自体、僕の傲慢な希望的観測の上でしか成り立たないのに」
 ピクリと、旅人は自分のこめかみがひくつくのを感じた。どうしてそこまで卑屈になれるのか!彼女があのときどんな顔をしてカーヴェの話を旅人にしていたのか、カーヴェは知らないからそんな馬鹿なことが言えるのだ。それなりの付き合いのある恋人の男があまりに的はずれなことを考えていることに、旅人は腹底から沸く苛立ちを隠せずにいた。静かに怒気を顕す旅人の様子に気づいたパイモンは、慌ててふたりの顔色を見比べる。
 旅人はカーヴェの名を呼んだ。カーヴェがゆっくりとおもてをあげ、自分を鋭く睨む旅人にようやく気がつく。二進も三進もいかない停滞した空気を切り裂くように、旅人は口を開いた。

「あれ?カーヴェは外出しているんですか?」
 カーヴェから告げられた約束の時間通りに彼(もとい、彼が居候している)家のドアを叩いた彼女を、休暇中のアルハイゼンが出迎えた。
「ああ。今日は朝からあいつの姿を見ていない」
「そうですか……あの、よければこちらで待っていても構いませんか?これからカーヴェと会う約束をしていて」
「べつに構わない」アルハイゼンはナマエを客間に案内し、上品なロココ調のソファに彼女を座らせたあと、キッチンの戸棚からブレンドティーのティーパックを取り出した。アルハイゼンに煎れてもらったばかりの紅茶の上澄みをすすりながら、自分をこの場に呼び出した不在の恋人のことを思った。
 カーヴェから連絡があったのは先週のことだったか。わざわざ仕事が休みである日を聞いてきたので、己は丸一日なにも予定のない日をカーヴェに知らせていた。どこかへ遊びに行くのかと尋ねると、カーヴェは途端に答えづらそうにごにょごにょと返事に窮していたため、不可解に思いながらもそれ以上の追求はしなかった。ただ、どうやらカーヴェがなにか計画していることだけは察している。
 壁を埋め尽くす分厚い本の背表紙を眺めながら、ぼうっとカーヴェを待つことにした。時計の長針が指す数字がふたつかみっつ増えたところで、玄関先の方から慌ただしい物音が聞こえる。
「まったく、客人を呼ぶならひと言俺に言伝しておくのが道理だろう。あと、自分が招いた客人くらい自分が面倒を見てくれ」
「予想外に時間がかかってしまったんだ。予知しないアクシデントにまで配慮できるわけないだろ。同居人の恋人をもてなすのも嫌なのか?」
「嫌かどうかの感情の話をしているわけではない。居候が勝手に招待客を呼んで不在にすることの非合理性を指摘しているだけだ」
「居候って……仮にも僕は先輩だぞ?思いやりのかけらもないのか、きみは」
「人に思いやりを要求する前に、まず自分が与えることを考えないのか?少なくとも、彼女を追い返さずに客間に通したことへ感謝の言葉はかけてほしいものだ」
 こちらへ近づくふたりの男の声は次第に大きくなり、客間のドアが開かれた。生意気な後輩にため息をついていたカーヴェは、ソファに座る恋人を見つけ駆け寄った。
「すまない、思ったよりも準備に時間がかかってしまって……待たせてしまったな」
「ううん。私は大丈夫」
 彼女はアルハイゼンに紅茶の礼を告げると、自分の手荷物を回収するカーヴェの後をついた。どうやらこの家は単なる待ち合わせ場所であって、目的地はちがうらしい。先ほどの「準備」というカーヴェの言葉に反応するのはよくないだろうなと、彼女はそぞろに騒ぎだす胸の音を無視して無難な内容の会話を続けた。
 カーヴェが彼女を連れ出した先は、シティの目抜き通りからはずれた、緑の原野だった。歩を進めていくたびに、四方に輪生した野草がくるぶしあたりを撫で回していく。なにもない緑の海原を一直線に進むカーヴェに、彼女は黙って着いて行った。
「これは……」
 なだらかに盛り上がった丘の上に、突然、花びらのカーペットが敷かれている。散りばめられた薄赤や橙はまあるい円を描くように配置されており、その円の中心には小さなテーブルが真っ白なクロスに包まれていた。テーブルには、夕風に煽られゆらゆらと炎を揺らすキャンドルと、ふたりぶんのシルバーが整列している。
 カーヴェは、あたりの光景に呆然と目を奪われているナマエの手をやさしく引いて、イスに誘導した。席に座ると、ちょうどスメールシティを象徴する大樹の枝先から、赤く燃えるような日の光が滑り落ちて、彼女の頬を淡く染める。
「……どうかな?やっぱりキザすぎるかな。いや、それよりも、突然すぎてビックリさせてしまったな」
 なにも言葉が出ない彼女のとなりで、カーヴェは落ち着きなくつぶやいていた。不安気味な恋人の様子に、やっと彼女は気を取り戻す。
「カーヴェ……これ、あなたがセッティングしたの?」
「ああ。まあ、厳密に言えば色々な友人の手を借りたんだ」カーヴェは所在なさげに目線を迷わせて、テーブルに飾られた小さな花籠を撫でる。「たとえばこの花束はコレイのアドバイスも受けてさ」
 コレイだけではない。この舞台のセッティングには、なにより旅人とパイモンの協力が必須だった。旅人はパレスで自信を失っているカーヴェの尻叩きをした上に、カーヴェならではのプロポーズにすればいいと助言したのだった。限られた予算であったが、カーヴェの人脈と美的センスを活用してなんとか成し遂げられた。(ちなみに、旅人とパイモンは今夜のディナーも任されているため、今も少し離れた木陰で調理に勤しんでいる。)
「コレイさんに……」なおいっそうに不思議に思う。「どうしてそこまで?これはなんのために?」
「あまり気に入らなかったかな」
「まさか!感激して、その、現実味がないの。なんというか、夢じゃないかと思うくらい」
「そういう夢のような空間を演出したかったんだよ。きみがそう思ってくれたなら、よかった」
 カーヴェはやさしくはにかむと、足元からスパークリングワインの瓶を取り出した。手慣れた様子でワイングラスになみなみと注ぐ恋人のすがたに、彼女は放心気味に見守る。
「ほら、もうすぐ日が落ちていくだろう。僕は一日でこの時間がいちばん好きなんだ。赤と青の絵の具がパレットの上で混ざりきらないまま、眩しくグラデーションをつけていくみたいで」
 カーヴェの瞳のなかに、荒々しくひかめく空の色が落ちていく。神秘的で、そばにあるのに手が届かない、厳かな光。彼女はいつの間にかカーヴェの横顔に見とれていた。
「だから、その……」カーヴェは突然、自分のズボンのポケットをまさぐった。それからゆっくりと取り出したのは、手のひらに乗るほどの木彫りの四角い箱だった。
「これは?」
「あけてみてくれないか」
 促されるまま、彼女が箱のフタを持ち上げると、なかには鈍色の光沢を纏う指輪がクッションに埋め込まれていた。
 縁取る宝石も、凝らした美装もない、質素に形作られた指輪である。きっと目利きが悪い素人ですら、ろくな値打ちがつく代物ではないことが分かるだろう。けれども、彼女はこの指輪に託した彼の意志に気づき、慎重に指先で摘んだ。
「カーヴェ、これって」
「こんなものですまない。でも、これが今の僕がきみにできることなんだ」カーヴェは自分の声がわずかに震えていることに気づいた。散々格好つかない自分に舌打ちしたくなるのを我慢して、そっと彼女の手を包み込む。彼女の手は細い枝先みたいで、指腹には仕事場で作った手荒れの痕が残っていた。カーヴェの手汗でぬるくなった手のひらに、ほのかに熱を放つ彼女の体温が混ざりあう。
「これからもきみと一緒に生きたいんだ。こんな僕だけど、きみの生涯を僕に預けてほしい」
「……でも、わたしなんかが、カーヴェのとなりにいても、きっと役に立てないよ」
「きみなんかじゃない、きみがいいんだ。きみじゃなきゃいやなんだ」
 きゅっと、激しく脈打つ心臓を素手で掴まれた感覚がした。ナマエはカーヴェの瞳から目を離せず、また、カーヴェも彼女をじっと見つめていた。ふたりのあいだの余計なものが余すことなく溶けていく。はじめからそこにはふたりしかいなかったように、お互いがお互いを求めていた。
「僕にはきみしかいないんだ。だから、今さら自分を低く見積もるのはやめてくれ。僕もできるだけきみに似合う自信のある男になるから」
 カーヴェの長いまつ毛に、薄闇に呑まれはじめた夜の帳を飾る新月の光が降り注がれる。
「だから、どうか、この指輪を受け取ってほしい」
 自分の頬を冷たくてあたたかいものが伝っていくのを、彼女は感じた。柔らかく握られた手のひらを解いて、あるべき場所へ、指輪を通す。指輪は薬指の付け根までたどり着き、不格好にぐらついていた。その様子を見て、彼女は小さく笑った。サイズ直しが必要みたいだね。


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