足音が聞こえる。わたしのすぐ後ろから、アスファルトを踏む靴の音がする。
 最初はそれに気づきもしなかった。暗闇に溶け込むように自然でいて、でも、ふと耳をすませば不自然さが際立っていた。人の足音にしてはまるで機械的で、偶然にしては音が揃いすぎている。それは、わたしの足音とぴったり重ねて歩いてるかのように。
 自然な動きを装って、肩にかけたトートバッグに手を入れて中身をまさぐった。背後の何者かに悟られないように、右手にスマートフォンを、左手にトリガーを回収し握りしめる。
 スマートフォンのロックを解除すると、未送信の状態のトークルームの画面が開かれる。ゼミの発表会に入る直前までやり取りをしていた出水くんに、わたしはまだ返信を送っていなかった。
『いずみくん』
 彼の名前を呼ぶ。誰でもいいから身知った誰かと会話をしたかった。
 足音は依然とわたしに着いてくる。辺りはやけに閑散としたビルと空き地が続き、ふたり分の足音が響き渡るだけで、人も車も犬でさえ姿を見せない。こんなときに酔っぱらいのひとりでも寝っ転がっていればいいのに、治安良く整備された帰路はまるで何者の気配も感じられず、異世界の閉鎖空間にいるようだった。アパートまでは、ここから走っても五分はかかる。
『なんです?』
 出水くんから返信がきた。ポップアップされた新着メッセージに、安堵するように息が零れて……それから、どうしてわたしは出水くんに連絡をしているのだろうと思った。今更だが、自分の手の中の選択肢は、彼との連絡以外にも何通りかは存在しているはずなのに、わたしは彼を選んでいる……。頭の冷静な部分がそのことにすこしのおかしさを覚えながらも、この場の状況がそう駆り立てるのか、指は早る気持ちを鏡写すように小さく震えながら取り留めのない文章を打っていた。
『だれかにつけられてるとおもう』
『足音がきこえてくる』
『すぐうしろにいる』
 息つく間もなく、既読になる。
『位置情報送ってください』
 即座に、また指を動かした。送信ボタンに触れた瞬間、ごとんと、体が大きく傾いて、でこぼこした道路の上にすっ転がる。顔を打ち付けられる衝撃とともに、唇の内側が錆びた味がして、すこし遅れて自分が今だれかにはっ倒されたのだと気がついた。
 暗がりの中、咄嗟に左手の指の先を動かそうとした。しかし、それよりも先に踏みつけられたような鋭い痛みが走る。手の中からは、するりとトリガーが落ちて、目ざとく見つけられたらしい、さらに暗闇の奥に蹴っ飛ばされてしまった。スマートフォンもトークルームの画面を開いたまま手から滑り落ちたらしく、頼りのすべを失ってひそかに絶望した。
 必死に、無我夢中で体を捻り顔を上げた。まじまじと、頭上にある顔を確認すると、知らない、まったく見たこともない男がこちらを見下ろしている。
 男はなにかを口にしている。わたしに対する釈明なのか、興奮したまま支離滅裂なことを口走っているだけなのか、もごもごとした音量ではわからなかった。わかりたくもないし、それをわかろうとする精神的な余裕は残されてなかった。今この身の骨の髄まで埋めつくしているのは純粋な嫌悪と恐怖だ。
 予想しうる最悪の近未来が頭の中にちらつきはじめ、焼けるように熱い汗がどくどくと首筋を走っていった。どろどろした黒い目に睨みつけられて、手の先も足の先も凍りついている。助けを呼ぼうとした口からは、ひゅうと弱々しい息がかすかに零れるだけだった。
 男は、こちらに手を伸ばす。頭を掴まれる、そう思った瞬間にわたしは目を瞑ってしまった。
 しかし、一向に手の感触はやってこない。
「………?」
 ゆっくりと、目を開ける。
「先輩、大丈夫ですか?」
 よく知っている声。木犀の花みたいに明るい髪色が視界の中で音もなくはためく。心配そうにこちらを見つめる瞳に、なにかがはち切れたように泣き出したくなって、そのままぷつんと途切れた。
 暗転。

 泡沫の眠りの世界から、やおらに意識が浮き上がっていく感覚がした。徐々に、自分の体を包んでいるのが慣れたマットレスの感触であることを思い出して、目を開ける。視界に飛び込んできたのは、カプチーノに注がれたミルクのような白色の、自分の部屋の天井だった。
 上体を起こす。やはり、わたしは自分の部屋で寝ている……どうして?どうして、わたしはここに居るのだろう……おぼろげな記憶を辿っていくと、なんともあやふやな、どこまで現実かもはっきりしない出来事だったが、最後に見た光景はしかと覚えている。暗闇に現れた彼の姿を。
「あ、起きました?」
 ベットの横から声がする。わたしの部屋に、出水くんが居た。
「出水くん、あの、一体……」
「先輩が気を失っちゃって、ここまで運んだんですよ。バックの中に身分証と鍵があったんで、勝手に住所調べて家まで送り届けちゃいました」
 すらすらと流れるようにされる報告に、まるでテレビを見ている感覚になった。こんなときでも動転している素振りを見せない後輩が、淡々と原稿を読み上げるニュースキャスターみたいで、彼が今どんな感情を抱えているのか微塵もわからない。
「そうなんだ……」
 未だぞわぞわとする胸のつっかえが気になって、ほっと深く息を吐く。出水くんと会話をしていると、だんだんと呼吸しやすくなっていく気がした。それは出水くんの言葉の内容というより、出水くんの声に、ここに今自分以外の人間がいることに安心感を覚えているようだった。この部屋にわたしひとりだけ残されていたら、夜が明けるまでどう過ごしていいのかわからなかったかもしれない。
「あ、そういえば喉乾いてません?お水いります?」
 そう彼が話しかけるので、
「……えっと、乾いてるかも……ありがとう……」
 と、すこし迷いながら答えた。手際よく手渡されたグラスを傾ければ、生ぬるい水が中途半端に体の中を潤していく。しかし、べつに喉が乾いているようには感じていなかった。ただ、心臓が未だ落ち着きなく騒いでいて、頭の中がミキサーで掻き回されたみたいにぐるぐると混沌としたままだったから、わたしが自覚していないだけで本当は喉が乾いているのではないかと思った。
「あの、それで、何があったの?わたしが眠っちゃったあと」
「チャットで送られた場所に向かったら、まさに襲われてそうになってたところを間一髪で止めたんです。連絡きたあとすぐにトリオン体になってたからギリギリ間に合ったみたいで」
「え、待って、換装してたの?」
「あー、もしトリガー使ったのが本部にバレても、きっと事情を話せば考慮してくれますよ。それに先輩だって、だれも来なかったら自分で使うつもりだったんでしょ?」
 そう言われて、部屋のローテーブルの上に置かれた自分のトリガーを一瞥した。あの場面で使うはずだったけれど、笑っちゃうくらい何もかもうまく出来なかった。そのせいで散々ボーダーで培ってきた戦闘員としての矜恃は萎みきっている。肝心なときに自分の身も守れない無力さが重りとなって、歪にわたしの心を軋ませていくのを感じる。
「もー、眉間にシワ」
 出水くんは笑い出すような明るい声でそう言って、ベットの淵に腰掛けた。
「心配する必要ないですって。おれが全部対処したから、あの男も今後一切近づくことはできないし、先輩が気に病むことなんてなにもないですよ。あんなの最低な当たり屋と一緒で、先輩は悪くないから」
 ……そうなのかな。そうなのだろう、きっと。なにかを言いかけて、わたしはやめた。出水くんが言ってることはすべて正しく聞こえる。
「それにさ、またなんかあったらおれを呼べばいいじゃん」
 出水くんは言う。
「出水くん」
「じつは、うれしかったんですよ。あのとき、先輩がおれに助けを求めてくれて」
 流行りのラブソングを口ずさむように彼は告げた。ぞわりと嫌な予感が肌を撫でていく。わたしは間違っていると思った。彼にそんな予感を抱くのは正しくないことだと、自分に言い聞かせる。
「そんなに頼りないんですか?今の彼氏って」

 ボーダーに所属していない今の彼氏のことを、無闇矢鱈に言いふらした覚えはないけれど、べつに聞かれれば隠すこともしなかったので周りの親しくしている人間には大方認知されていた。
 どんな人ですか?と出水くんに聞かれたときは、大学の同じ学部の人と答えた。やさしい?と聞かれたら、うんと答えたし、ふたりは仲がいい?と聞かれたら、またうんと答えた。答えを偽ったつもりはないのに、自分の言葉が嘘っぽく聞こえて仕方なかった。やさしいや仲が良いなんて条件は普遍的すぎて、自分の恋人を形容する言葉はもっとつまびらかに個を表すものじゃないといけない気がしていたし、それでも自分の付き合ってる人をどんな風に表したらいいかわからなかった。そういうわたしの心情を出水くんが悟ったのか、はたまた元々大した興味はなかったのかは知らないけれど、彼はふうんとだけ相槌を打ってそれ以上詮索することはなかった。
 ポジションも入隊時期も一緒の出水くんとは、ボーダーの中でもよく会話をする間柄だった。彼のそういう、相手の懐に入るのが得意な周到さや、人を不快にしない程度の面倒見のいい性格が、わりと内向的なわたしを懐柔していくのは容易かったのだと思う。懐柔と言うのもなんだかおかしな気がする、出水くんはわたしよりも年下だから。けれども、その表現はべつに間違っていなかったのだろう。訓練ブースの観覧席にとなりに座ってきた米屋くんに、一度言われたことがある。
「出水とどっちが年上かわかんないときありますよね」
 米屋くんの言い方はさっぱりとしすぎていたが、わたしは特段いやな気持ちにならなかった。米屋くんの人柄を知っていればそういうものだとこちらで飲み込むことはできたし、なにより米屋くんの言った内容はまさにわたしも感じていたことだったから、なにもつっかからずに腹の底にすとんと落ちたのだ。
「うん。出水くんって気が利くし、わたしより周りをよく見てる気がする」
「そうですか?個人的には弾バカがというより、なんかこう……庇護欲掻き立てられるような感じしてますけど」
「そうなの?」
 驚いて米屋くんを見ると、そうですねと返ってくる。
「だって最初の頃なんかオレや秀次と目合わせて話せなかったじゃないすか。あと、トリガーオプションを間違えたまま出動した話とか噂でいろいろ聞いてたんで」
「うっ……それはたしかに、あったかも」
「ま、あえて言うなら相性がいいのかなと思ってますよ。あいつと」
 相性がいいと言われると、そうなのかもしれないと納得する自分がいた。自惚れを抜いても出水くんがわたしに友好的に接してくれるのは事実で、わたしも出水くんには他の同期や後輩よりもとりわけ心を許している。そこに今までなんの軋轢も不和も感じたことはなかったし、ふたりで居るときはずっと心地がいい。はじめて自分の体に合った椅子に出会ったときの快感に似ている。
「付き合わないんですか?」
 米屋くんがからかうように笑うので、たちまち顔が熱くなるのを感じた。
「そんなこと……わたしと出水くんはその、ただの友だちだし……そういう意味で大切なのは本当だけど、付き合うのは、その」
「こわいとか?」米屋くんは続けた。「今の関係が終わっちゃうのが」
「……そうだね」
「そういう男女の友情は一生続くものだって信じてる派です?」
「……わからないけど、少なくとも出水くんとはそうなりたいなといつも思ってるよ」
 出水くんの気持ちを確かめたことはないけれど、きっと彼も有り体に同意してくれるのではと信頼がある。わたしの願望でもある。彼もわたしと同じように、ふたりがなにかの弾みで引き裂かれたり破綻してしまうことを嫌だと思ってくれたら、それだけでよかった。
「──米屋くんは?」
「オレ?オレは……」
 米屋くんが口を開きかけたところで、対戦が終わったブースから出水くんが出てきたので、結局彼の言葉の続きを聞くことはできなかった。

「えっと、彼氏とは、今喧嘩中みたいな感じで」
 出水くんからの問いかけに、口篭りながらそう答えた。厳密には喧嘩ではなく、ただ連絡していない期間が空きすぎてしまって、わたしから連絡するのが憚られていただけだった。
「へぇ。肝心なときに使えないんですね、彼氏さん」
 普段は彼氏のことを、というか周りの人間のことを悪意的にこき下ろすことなんてしないので、吐き捨てるようにつぶやいた彼をわたしは呆然と見つめた。
「唇切れてる」
「え?ああ、転んだから……」
「痛い?」
 生あたたかい親指の腹が、わたしの下唇に押し当てられ、そのままじっくりと輪郭を撫でられる。突然の感触に、なにが起きているのかわからなかった。
「出水くん?」
「なんですか?」
「えっと、これは……」
「もしかして嫌でした?」
「えっ」
「嫌?」
「嫌、では」
「うん」
「……ないと思う」
 出水くんはにこりと笑った。ですよね、おれも同じだから。そう囁いたあと、彼の顔が前触れもなく近づいて──あっと思う間もなく、わたしはキスをされていた。
「……っん、むっ……い、いずみくっ」
 唇の狭間を舌で割られて、呼吸を奪うように口付けをされる。いつの間にかわたしの顔と右手を出水くんが押さえつけていた。わたしの抵抗を封じたまま、ちゅぱちゅぱと水音をたてて舌を絡められ、吸いつかれる。
「んんっ……ま、まって!」
 左手で肩を強く叩くと、透明な糸を垂らしてやっと唇が離れていった。乱れた息を肩で整えながら前を見やると、あだやかさも無邪気さも感じられるような笑みを浮かべる出水くんがいた。
「なに、急に、なんでキスしたの」
 出水くんはううんとすこし考えるような顔をして答えた。なんでって……ナマエさんにキスしたかったから。端的に告げられた言葉にわたしは絶句した。塞がらない口をぱくぱくとさせているわたしに、彼は否応なしに距離を詰める。
「ま、まって!出水くん、だめ、こんなことしたらダメだと思う」
「──それはおれたちがトモダチだから?それとも、彼氏のことが好きだから?」
「……え」
「ねえ、ひとに正しさを求めるんだったら、なにが間違いなのかをちゃんと説明しないとだめですよ」
「なにを、」
「きちんと理由を教えてよ。なんでだめなの?」
 おれたちがトモダチだから?彼氏のことが好きだから?
 出水くんの言葉が、頭のなかで反芻する。混濁した頭のなかでは、その問いの解答を考えることができなかった。
 ……いや、そもそも、それ自体が間違っている。できない理由を考えてしまっている時点で、わたしはすでに間違っているのだ。
「……わたしは、」
「うん」
「わたしと出水くんは、付き合ってないから、こういうことをしちゃだめなんだと思う」
 出水くんは面白そうに笑っていた。どうしてか、こんな状況でもわたしは出水くんと居ると呼吸がしやすい。出水くんと居るといつも居心地の良さを覚える。数十分前に暴漢に押し倒されたことも、わたしが別の男と付き合っていることも、全部まやかしだったんじゃないかって思えるのだ。いつだって正しいことを言うのは出水くんだ。
「だったら、おれたち付き合っちゃいましょうか」

「はぁっ……、ぁあ……んっ」
「気持ちいい?」
「うんっ、きもちいぃ……」
 左手で胸の頂を捏ねられて、右手で陰梃を爪で弾かれて、打ち上げられた魚みたいに背中がのけぞって絶え間なくやってくる快感に踊らされていた。ぎゅっと、指で押し潰されるように摘まれると、甲高い声がよだれまみれの口から漏れた。かわいい、かわいいね………出水くんはわたしの耳元でそう囁くと、うなじにキスを落とした。すでにこんなにぐちゃぐちゃにされてるのに、出水くんの息づかいが肌に当たるだけで気がおかしくなりそうだった。
「ねぇねぇ、おれたち両思いだね」
「うん……ぁあっ……」
「おれのどこが好き?いっぱい教えてよ」
 出水くんの、出水くんの好きなところ……蕩けきった頭で必死に考える。その間にも、彼の指がずるずると中に入ってきた。彼の指が無遠慮に蜜洞の奥を突いて、きゃんっと犬のような声が出た。喘いでばっかりいないでちゃんと答えてくださいよ。耳の裏からわたしを叱咤する声がする。指はもう一本増えて、出し抜きする動きは激しくなっていく。……えっと、出水くんの、好きなところ……困っていたらすぐに助けてくれるところ、なにも言わなくてもわたしの考えてることを読み取ってくれるところ、すごく器用でなんでも卒なくこなしちゃうところ、笑ったときの目が野良猫みたいでかわいいところ……。朦朧と口ずさんでいると、後ろからよだれまみれの口元にキスされた。ちゅうちゅうと唇を食みながら舌先を絡めてくる出水くんが喜んでるみたいで嬉しくなった。どうせアイツはこんなに気持ちよくできなかったでしょ。だって先輩、アイツの好きなところ全然言えないし。上からも下からも卑猥な水音が鳴っている。鼓膜が出水くんに支配されている。
「付き合ってよかったですね、おれたち。これからたくさんえっちなことできますよ」
 四肢の先に力が入らずほとんど人形のようになっていた。わたしは出水くんの言葉にこくこくと頷くことしかできなかった。ぼんやりしているうちに、滔々と愛液がしたたる肉洞にスキンが宛てがわれたそれが一息に押し付けられて、腰が大きく仰け反った。
「んぁあっ、ああぁ……っ」
「……はっ、ナカすげーあったかい」
「あっ、だめ、うごかないで」
「いやいや無理でしょ。一緒にイきたいからイくの我慢して」
「ぁあっんんぅ」
 熱量の塊がお腹の下を圧迫する。狭い隘路を掘り起こされる度に、電流のような甘い疼痛が走った。こつんこつんと奥を突かれるのがなんだか切なくて出水くんの背中に手を回したら、さらにぎゅっと奥まで密着した。汗と液まみれに体を重ねる行為が、肉体的な繋がりと精神的な繋がりが融合された厳かな儀式みたいに感じて、ふとこのまま死ぬのかもと思った。セックス中にそんなことを考えたのははじめてだった。
 片足を上げられて、律動の激しさが増す。馬鹿の一つ覚えみたいに喘ぎたてながら、薄目でわたしを揺さぶる男の子を見た。額からじんわりと汗を垂らして、穏やかな瞳の色でわたしの裸を見下ろしている。
「おれたちってやっぱり相性いいな」
 そうだね、と掠れた声でわたしは言った。出水くんもわたしもほかの誰だって、きっとずっとそう考えていた。

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