いつ見ても、その艶めかしい髪が鏡のように光って、白く長くたなびいていた。わたしがいつものせまいベットの上で膝を抱え込んで寝ていると、ふと、視界の端っこから忽然と眩い光が差し込んで目が眩む。ちらりと光の方を見やれば、その白くて長い髪の彼がいた。
 物心ついたころか、それとも母がわたしを置いてメロピデ要塞を去っていったあの日からか、時たま彼はわたしの目の前に現れるようになった。獄中の、それも孤児となったわたしに、なぜか彼は寛大でここのだれよりも慈悲深く、親代わりに甘えることを許してくれていた。
 今思えば不思議で奇妙な関係性であり、そもそも彼の存在自体が謎めいていたのだが、わたしは彼のことを他のだれにも言いふらさなかったし、彼もきまってわたし以外の人間がいるときは姿を現さず一貫した態度をとっていた。わたしがつらつらと一方的に話すのをしずかに聞いてくれることもあれば、乾ききった涙の痕をそっとやさしく指でなぞってくれることもあった。
「きみはここで母親を待つのか?」
 それはわたしに対する純粋な疑問であり、ろくでもない母親に期待なんかするなと遠回しに勧告しているのだとは、幼いわたしにも理解できた。実の娘のわたしですら、あの母が一度捨てた子を拾いにメロピデ要塞まで戻ってくるとは本気で考えていない。ゆえに彼の慮る心情も理解できる。──それでも、わたしはなにも答えられず、ただ曖昧に笑ってやり過ごした。
「きみは一度水の上の世界を目にするべきだ。きみを受け入れてくれる世界がどれだけ広大で優美なものであるか、きみの目で見定めてから生きる道を探すといい」
「水の上はいい世界なの?」
「良いところもあればそうではないところもある。無論、この要塞では享受できない体験が溢れている。そういった意味では、生まれて一度も要塞から出たことのないきみ自身の成長に繋がるだろう」
「ふうん……たしかに、そうかもね。なによりここよりヒドイ世界なんてありそうにないもん」
 その時分のメロピデ要塞は、文字通りの無法地帯で、看守長含めここにいる人間のほとんどは皆私欲と暴力性に塗れた者ばかりだった。更生とは真反対に次々と罪悪に手を染めていく彼らの傍ら、だれからの庇護も得られずにひとりで生き延びていくには相当の胆力が必要で、なによりきっと別の世界では子どもがこんな過酷を強いられることはそうそうないのだろう。
 己の境遇を散々と呪った。この要塞から抜け出したいとも願った。けれど、自ら頼れる大人を見つけて助けを請うにはきっかけが足りなかった。もしかしたら、ここへわたしを迎えに来る人間がいつかやって来る可能性が、億万一にあるんじゃないかと……。そんな考えに縋ってしまうくらいには、やはりわたしはまだ子どもだった。
 彼の言う「見るべき水の上の世界」の理想郷も、わたしにとってはいつかの話だった。
「水の上に出てもやりたいこと見つかるかな」
 子供心を隠さずに投げやりに言葉を返せば、彼はすこし考え込むような顔を見せた。
「……ならば、私に会いに来るといい」
「……え?」
「きみに色々な景色を見させられる。そこにきみの欲しいものがあるかは保証できないが、少なくとも私の元にいて退屈な日々を過ごすことはないだろう」
 突然の彼の提案に、ほんの数秒呆気にとられた。彼の口からそんな言葉が出てくるとは想像もしていなかったし、彼が水の上の世界の住民だということも初耳だった。
「来いって言ったって、わたし、あなたの名前も何も知らないのに」
 彼について分かり得ているのは、その泰然自若とした振る舞いと絢爛な気風を纏った容姿だけだ。そして、つねに厳かにするどく光った瞳が、たまに、わたしを慰めるときだけは柔らかく緩められていくのを知っているだけだった。
「きみが成長すればいずれ知ることになる。……だから、安心して水の上へ来るといい」
 その自信の根拠はどこから来るのか。いい加減、名前くらい教えてくれてもいいのに……。消化しきれない感情が胸の中で渦巻いていたが、実際は、彼にそう誘われたのは素直に嬉しかった。
 彼の声を聞いたのはそれが最後であった。その後、わたしは三日三晩ひどく魘されるほどの熱を出し、医務室のベットで不味い薬さじを舐め続けることになる。四日目の朝、憑き物が取れたように清々しく目覚め、体調はすこぶる良くなった。けれども、それから今に至るまで、彼がわたしの目の前に現れることはなかった。
 いや、都合のいい幻覚を見なくなったと言うべきか。名前の知らない彼の正体は、孤独な幼心から創り出した幻なのだと、薄々はどこかで気づいていた。気づかないふりをしてやり過ごしていた。熱風邪がなんらかの引き金になって、理性的な自我がつよく芽生えたんだろうと納得した。
 だって、この暗澹とした水底の要塞にあんなにきれいな光が射すことなんてありえない話だ。

 あれから十数年ほどの年月が経った今、ふと、彼の存在が脳裏に蘇った。何種類かの虫を練り潰したような苦ったるい薬の味に、そういえば昔も同じものを飲んだことがあることを思い出したのだ。たしかに、あのときもスペシャル調合の解熱剤の味に苦しんでいた気がする。
「あら、目が覚めたのね。気分はどうかしら?」
 看護師長の声がする。ゆっくりと声の元へ頭を傾けると肌触りのいいシーツが起き抜けの体と擦れ合う。下着がじんわりと寝汗で滲んでいた。
「……気持ち悪い感じはしないかも」
 二、三時間は眠っていただろうか。看護師長に飲まされた薬の苦味が舌根にべっとりとこびりついて、未だに飲む唾さえもまずく感じるのをのぞけば、体調は至って良好だ。勤務中に突然倦怠感と寒気を覚え、ふらつきながら医務室に飛び込んだわたしを、彼女は快く受け入れてくれたのだった。
 薬がちゃんと効いているおかげか、頭のなかははっきりと冴え渡っている。もう手足の先の感覚も軽やかだ。
「よかった〜!でも、もう少しここで安静にしててね。ただの季節風邪だと思うけど、ムリしてまた熱がぶり返すといけないから」
「あの、やりかけの仕事が心配なんだけど……」
「それは大丈夫。さっき公爵が心配してここに訪ねてきたんだけど、ウチから話しておいたから」
 今日はたっぷり休んでいきなさい。看護師長のあたたかい声が胸に溶け込んで、自然と体の力が抜けていく。要塞内に配置されたマシナリーの整備作業は、わたしひとりだけで担っている仕事ではないし、一日休んだところで大して支障はない。リオセスリさんの許しが出たなら、なおのこと仕事のことは考えなくていいのだろう。
 この場所も、ずいぶん住みやすくなったと思う。急に仕事を休んでも怒鳴られることはないし、手癖の悪い囚人に怯えながら眠ることもなくなった。彼、リオセスリさんが看守長の職に就いてから、安全で快適で、身の丈にあった幸福を享受できる理想郷へと変わっていた。
「あ、脈だけ測らせてくれるかしら。左腕をまくってね」
 言われるがままに制服の裾を折り返す。──折り返した瞬間、思わず、目を見張った。白い手首の上には、きつくなにかで締め付けられたような、不自然な赤い痕が刻まれていた。
「あら?どこかでケガしてきたの?あなたって見かけによらずお転婆なのね」
「……そうなのかも?」
 彼女はとくに気に留める素振りもなく、わたしの手首にその小さな親指を押し付けて脈拍を測る。わたしは彼女に掴まれた手首の赤い痕をじっと食い入るように見つめた。いつの間にか出来ていたその身に覚えのない痕は、見ているだけでなんだか不気味で、まるで不吉の予兆みたいだとぼんやり思った。

 勤務日報を看守長の執務室へ届けに行くと、ちょうどリオセスリさんは紅茶を淹れて寛いでいたところだった。出直すべきかと聞けば人当たりのいい笑みを浮かべて止められる。
「あんたも一緒にどうだ?新しい茶葉なんだ」
 わたしはすこしだけ躊躇いながらも、デスクの前のソファに腰を下ろした。
「体調はもう大丈夫なのか?急に熱で倒れたと聞いたときは驚いたが」
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました……」
「こっちは平気だ。むしろ俺こそ申し訳なく思ってるよ。看護師長殿にはあんたに無理をさせ過ぎてるんじゃないかと散々怒られたもんでね」
「えっ!全然そんなことないのに」
 とっさに身を乗り出して声を荒らげるわたしを、達観した双眸が柔く受け止めてとりなす。ブルーパールの色の瞳だ。惹きつかれるくらいにつよく透き通っている。──いけない、彼の顔を見すぎてしまった。慌てて手元の紅茶に口をつけ、まろやかなバニラの余韻を舌先で味わい気を紛れさせる。
 彼がわたしに向けてくる親愛の仕草は、疑いの余地がないほどあけすけで、けれどそれをたやすく受け入れ続けることは恐ろしくもある。勘違いしてしまうのが、こわいのだ。
 牢舎生まれという特殊な出自、身よりのない孤児という同情を引く境遇。自分を捨てた罪人の母親へのしがらみゆえにここを離れることもできなかったわたしが食い扶持を稼ぐために、看守長の権限で整備工の仕事を与えてくれたのは彼である。
 義務か、正義心か、親心に似た関心か。リオセスリさんがわたしに向ける親愛の中身はそれらのどれかだと思っている。だとしたら、そこでわたしが誤った感情を抱くのは茨の道を裸足で駆け抜けるくらい無謀なことだ。いくら足の皮を厚くしても、傷つくのはこわいし、刺さった棘がちゃんと抜けてくれるのかもわからない。
 とはいっても、自ら上司部下という立場を弁えていれば、なんら支障は発生しない。後ろめたさがなければ関係性も健全だし、なによりこうして彼と飲む紅茶は美味しい。
「好きか?」
「……えっ」
「この紅茶だよ」
「あ、ああ、そうですね……好きです」
 一瞬、目的語の抜けた質問に心臓が止まりかけるも、つとめて冷静に答える。彼はそれはよかったと機嫌よく笑った。
「ところでなんだが、あんたにお願いしたいことがあってな」
「なんですか?」
「明日からしばらく記者が滞在する予定なんだ。看守の仕事風景を取材したいらしくてな。あんたに案内役を頼みたい」
「はい、大丈夫ですよ。朝執務室に伺いますね」
「助かるよ。……そういえば、スコーンを温めていたんだったな。あんたも食べるだろ?地上に出かけたときルツェルンで買ってきたものだ」
「いいんですか?」素直に喜んでいると、彼はわたしの目の前に置いてあった中皿にスコーンを置いた。こんがりと小麦色に膨らんだ三角のスコーンが、ふたつ……。
 あれ、と不可解に思う。ティーセットもスコーンも、事前にふたり分が用意されていたかのようだ。
「あの、もしかしてだれかとお茶を飲む予定だったんですか?」
 疑問をそのまま口にすると、彼の垂れ目がちな瞳が丸く開かれて、それからおどけるように微笑まれる。
「さあな。俺はただあんたがそろそろ日報を届けに来る時間だと知っていただけさ」

『水の上に出てもやりたいこと見つかるかな』
『……ならば、私に会いに来るといい』
 なつかしい声がする。
『……え?』
『きみに色々な景色を見させられる。そこにきみの欲しいものがあるかは保証できないが、少なくとも私の元にいて退屈な日々を過ごすことはないだろう』
 彼とわたしの言葉はあの日のものと一語一句同じものだった。昨日も医務室で蘇った遠い昔の記憶。今日もまた同じシーンの同じ光景が繰り返されている。
 目の前の彼から発せられる言葉は、台本で決められたセリフのように先が読める。わたしは当時のわたしの姿かたちをしていて、けれども自分の意思で動くことも喋ることもできず、これもまた決められたセリフを読み上げている。わたしはわたしが喋るのを聞くしかない、まさに夢の世界でしか起こりえない体験だ。
『来いって言ったって、わたし、あなたの名前も何も知らないのに』
 不貞腐れたような幼い自分の声が薄暗い居房のなかに反響する。彼はまっすぐにわたしを見つめ、さらにその眼はその場しのぎでたしなめるような適当さはまるでなく、ただ真摯にわたしに向かい合っていた。
 そうだ。彼はいつだってわたしに真剣に向き合ってくれていた。泣きべそをかくわたしの頭を撫でることはあっても、希望だの勇気だの気休めだけの嘘はけっしてつかないひとだった。それでも、まあ、わたしの妄想の産物がわたしに都合がいいのは当然だろうけど……。
『きみが成長すればいずれ知ることになる……だから、安心して水の上へ来るといい』
 彼がその言葉を告げた瞬間、ぐにゃりと、視界が眼鏡のピントをずらしたみたいにぼやけて歪む。ふたりの姿は変わらずここにあるのに、わたしの意識だけが体から引っ張られて宙へと飛ばされていくような感覚だ。不鮮明になる視界のなか、わたしの意識だけが浮遊して、真正面から対峙する少女と男の光景を見下ろす。──徐々に、視界が真っ黒に塗りつぶされる。深い闇に覆われていく狭間で、彼のするどい瞳が、なぜか少女ではなくわたしの方を見上げているような気がした。

 一人前になるため勉強中のアマチュア記者だという。彼女はネリーと名乗った。来て早々に要塞内で働く警備ロボに興味を惹かれていたので見晴らしのいい通路を案内すると、彼女は興奮気味に起立型の写真機を設置し始めた。
「ああ、やっぱりこの角度だとダメね、画角が収まりきらないから──」ネリーはひとりでブツブツとつぶやきながら、レンズの前で格闘している。「ねえ、そういえば、あなたはメロピデ要塞に勤めて長いのかしら?ここのことをよく知ってるって公爵様が仰ってたわ」
「……そうですね、よく知ってると思います」
「ともあれ、頼れる協力者がいて助かったわ。あ、そうだ、そこに置いてあるノートを取ってくれる?」
 開けっぴろげにされたカバンからそれらしきノートを見つけ、彼女に手渡す。「ああ、ありがとう……って、その手はどうしたの?」「手?」彼女に言われるがまま自分の手元を見下ろした。──すると、ノートを持った左手の手首に、赤い痕が、以前よりもさらに色濃く印されていた。昨日まではただ漠然とひも状のなにかに巻き付かれてしまっただけのように見えていた痕が、今ではその輪郭がくっきりと残されている。
 鮮明に残る五本の指。それは、まるでだれかに力強く手首を掴まれたような痕だった。
「これ、なんで……」
「もしかして、普段から乱暴な囚人もいるんですか?女性にも手を上げるなんて非道な人間もいるんですね」
 そんな記憶は一切ない。なによりわたしは刑務官ではないから、囚人と接する機会なんて限られている。仮にだれかに手荒な真似をされたら、その場で自分の傷跡には気がつくはずだ。
 ばくばくと心臓が不気味な音を奏でていた。じめっとした手汗でぬるくなった手のひらのふもとから、身に覚えのない赤い痕がこちらを見上げている。わたしを捕まえようとしたのか、それとも、どこかへ攫おうとしたのか?……だれが?
 頭のブレーカーが落とされたようにその場に固まるわたしを置いて、となりから、ネリーがノートのページを捲る音がする。ぱらりと、視界の端で一枚の紙切れがわたしの作業靴の上に落ちていった。四角く切り取られた新聞記事だ。ゆっくりとかがんでその記事を拾う。
 視線がかち合う。記事の中、小さく載せられたポートレート。呼吸をするのも忘れてその人物の顔に見入った。焼き付くように目から離れなかった。──まっすぐにこちらを見上げる彼の顔を、たしかに、わたしは知っている。
「……………あの、これは」
「あっ、それはね、スチームバード社の先輩のコラム記事なの。文章の書き方を参考にしたくていつもノートに挟んでるのよ」
 最高裁判官の激動の一日に密着って。なかなか興味深い内容でしょう?なにより、ヌヴィレット様がよくきれいに撮られているの。

「おっ、あんたか。お疲れさん、記者の彼女とは上手くやれたか?……どうした、顔色が悪いみたいだが」
 頭上から心配そうなリオセスリさんの声が投げかけられ、ぼんやりと上の空をさ迷っていた意識が現実に引き戻される。わたしの顔色を調べるように濁りのない瞳がこちらを見つめていた。
「いえ……その、なんでもありません」
 とうてい、リオセスリさんには打ち明けることなんてできない。幼少のみぎりに会っていた白くて長い髪の彼のこと。疑いなくわたしが生み出した想像上の人物だと思い込んでいたのに、なぜかその彼とそっくりの人間が水の上の世界に実在していたなんて。──そして、その彼との夢を見てから、わたしの左手首に掴まれたような手指の跡がおぞましく刻まれている。自分でもこんな話、気が触れてるとしか思えないが、このふたつの出来事は関連しているような気がした。
「気が紛れる音楽でも流そう」
 彼はそう言いながら壁際のシェルフから新しくレコードを持ち出し、古めかしい蓄音機の針を落とした。ぱちぱちと音を鳴らしながら黒い円盤が回り出す。静寂な執務室にクラシックが流れ始める。しずかなストリングスから始まり、それから重厚なホルンが加わる。
 ソファの背もたれがわたしの強ばった体を吸い込んでいく。曲が厚みを増していくにつれて、焦燥に駆られていた心が段々と落ち着きを取り戻していった。
「……ワルツですか?」滑らかに回り続ける鉄の針の先を無心で眺めながら、彼に尋ねた。
「好きだろ?」
「えっ……まあ、好きです」
「では、一曲どうかな。お嬢さん」
 彼は自然な動きでわたしの右手を取ると、恭しく礼をする。まっすぐに見つめられるその瞳の引力に従うように、わたしは小さく頷いた。
 指と指が絡み合い、隙間を埋めるようにふたつの手が重なる。抱きかかえるように彼の男性的な分厚い腕が腰に回されて、ふたりの間の距離が埋められる。ちらりと見上げると、やさしく微笑んだリオセスリさんの顔がすぐそばにあった。視線を合わせることも耐えきれずに、逃げるように彼のベストのボタンを眺めた。
 彼に手を取られるまま、支えられるがまま、ゆらゆらとそれっぽく動いているものの、優雅なワルツとは程遠いつたない足取りだった。踊り相手としては役不足だ。けれども、彼はなぜか愉しげに目元を細めて、繋いだ手の力を緩めようともしない。
「あの、踊り慣れてなくて……足、踏んじゃうかも」
「俺に任せればいいさ。ほら、ターンだ」
 突然、わたしの体はその場でくるりと回転した。一周回ったところで足がよろめき前方へ倒れかかる。「わっ」とっさに彼がわたしの手首を掴んだ。わたしの手は彼のシャツを鷲掴みしていて、まるで抱きついているような格好になった。
「…………」
「……あ、あの、リオセスリさん」
 お互いの吐息が触れ合いそうなくらい近い。服越しに伝わる体熱と、鼻をツンとさせる男物のオーデコロンの香り。彼から目を離せないまま、執務室にだれかが入ってきたらどうしようと、冷静な考えが一瞬頭をよぎった。どくどくと体が茹だるように熱くなっていく。気を抜けば心臓が破裂しそうだった。
 ふと、彼が目を伏せる。ブルーパールのきれいな虹彩が重たげな瞼に隠れ、目線は彼の手元に向けられているようだった。彼が掴んでいる、わたしの右手に。
「……あんたはここで俺とずっと踊ってくれればいいのにな」
「……え?」
 右手首が持ち上げられる。紳士がエスコートをするような緩慢な動きを、わたしは呆然と目の当たりにする。──そしてそのまま、わたしの右手首が彼の口元へ当てられた。「いっ、!?」予想だにしない薄い皮をえぐる痛みに声が漏れる。痛がるわたしにも構わずに彼の歯が内側へ食い込んでいった。
 いきなりなにを、と抵抗をする前に、噛まれた部分に小さな音を立ててリオセスリさんの唇が離れていく。
 白い手首の裏には、鮮明に歯型が刻まれていた。不自然につけられたその赤い痕はまるでここからわたしを離さない鎖のように、執務室のおぼろげなランプにまざまざと照らされている。
 彼の手が離れていっても、依然とそこに熱が宿るようにわたしの指先から痺れが走っている。愕然とその右手の痛みを受け入れるのと、同時に、彼のベストを掴んでいた左手首に異様な違和感を覚えた。あの赤い指の痕が、こちらをじっと見ているような気がしてならなかった。……左手と右手。水の上と水の下。わたしはだれと踊り続ければいいのだろう?

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