気づいたころにはもぬけの殻だった。篭居の気晴らしに飼っていた小鳥が、鳥籠の金具の締め具合が甘かったのだろうか、忽然と姿を消していた。あいにくなことに、部屋の窓も開けっ放しにしていたものだから、わたしが部屋に戻るころにはすでにどこか遠くの空へ飛び立ってしまっていた。
 餌入れを触ればピーっと元気よく鳴く、賢く愛嬌のある小鳥だった。……それを、飼い主であるわたしのミスで逃がしてしまった。空っぽの鳥籠を見つめ、出てくるのは自己嫌悪の色をしたため息ばかりで、星瑳の行き交う雑踏に揉まれ怪我をしませんようにとか親切な誰かに保護されますようにとか、そんなことを祈るしかできない。
「そうか、逃げてしまったのか」
 将軍の前に力なく項垂れるわたしはこの世の絶望を煮詰めたような悲痛な面持ちをしていただろう。将軍はわたしの過失を責めず、ただただそばに寄り添い、その肉厚な手のひらでわたしの頬を包みこんだ。外出から戻られたばかりの将軍の手は、夜の冷気がかすかに宿されていた。
「気に病む必要はない。小鳥にとってはあの狭い鳥籠の中よりも、広大な宙で飛び回りたかったのだろう。帰るべき場所へ帰ったと思えばいい」
 小鳥は、将軍からの贈り物だった。風切羽が瑠璃のようにあざやかなあの鳥は、仙舟でも、はたまたどの星でもものめずらしく、たいそう貴重なものだったに違いない。
「……将軍さま」
「きみは存外気に入っていたようだからな。落胆するのも無理はない」
「たしかにそうなのですが、将軍さまからいただいたものでしたので……大事にできなかったのが悔しいのです」
 わたしを見やる双眸は、凪いだ朝明けの空のようにきわめて閑やかだ。彼は本心から小鳥を逃がしたわたしのことを咎めようとする気がないのだろう。
「こうなることもまた小鳥の天命だったのだよ」
 将軍の口からそう言われてしまえば、二の句が告げない。天命を口にする彼こそ、この羅浮において、生きとし生けるものすべての天命を操れる立場なのだと思い出されるからだ。ここで寝食を与えられているわたしも、例に漏れないように。
 小鳥はしあわせになるでしょうか。
 ふと、頭によぎったその問いかけは、突然引っ張られる腕の力によって遮られた。あっけなく懐に雪崩込んだわたしを、瞳の奥を光らせた将軍が見下ろしている。──悲しいなら、私が慰めてあげよう。耳のそばで低くささやかれたその言葉に身を固くさせる間もなく、彼の指がわたしの顎先をそっと持ち上げる。寝台の敷妙と、どちらかの衣服の裾が擦れ合う音を聞きながら、しずかに目を閉じた。

 かつて幽獄の身であった持明族の龍尊が、銀河を流浪するナナシビトとして今世に生まれ変わっていたのだとは、内々にして然るべきことだ。わたしとて神策府に身を置いていなければ、知ろうとも知ることがなかっただろう。先代の龍尊、丹楓とは、幾度か話をした間柄だった。
 薬王秘伝との戦争が終結し、健木復活の阻止に助力してくれた彼ら開拓者を羅浮の貴賓として扱うようにと将軍からのお達しが下った。開拓者の一行はこれから羅浮一帯を散策するようだと、青鏃が言っていた。
 彼に会えないのなら会えなくてもよかった。旧知である丹楓と今の彼は別の人間だ。仙舟人ではなくナナシビトとしての生を選んだ彼に、わたしからなにを言えばいいかもわからない。思い出話を聞かせても、記憶のない彼にとってはきっと苦痛の時間だろう。
 ──諦めではなく、分別だ。持明族や短命種らとの離別と邂逅に未練がましくなる情緒は今さら持ち合わせていない。それほど、わたしは長く生きすぎてしまった。
 今世の彼の名を尋ねることもなく、羅浮に滞在中の彼らの動向もこちらから探らなければ知る由のないことだった。今日も平時と変わらず、ものものしい厳威がただよう神策府の一隅で青鏃が渡してきた経費書類をあくせく捌いていた。
 正午を知らせる呼び鈴の音で、ようやく机上とにらむ作業から解放され、そぞろな足取りで庶務室を出た。頭の片隅で、軍法会議に赴いた将軍が午後の戻りであることを思い出す。ひょっとしたら、着座の間に向かわれる彼と鉢合わすかもしれない。気まぐれに正面口の方へつま先を向けたものの、まさか本当に会えるとも思っていなかったし、結局のところ将軍のすがたは見えなかった。
 ところが、偶然にも──これがただの偶然なのか、人智を超えた力によって定められた己の天命なのか──わたしは出会ってしまったのだ。
「丹楓」
 気づけば自分の口から彼の名が出ていた。しかし、その名は『彼の名』であり、わたしの目の前にいる彼とはもう別の人間なのだった。
「……悪いが俺は丹楓ではない」
 ぶっきらぼうに返すその声さえそっくりだ。
「……ごめんなさい。今は違うのですよね」
「………」
「あなたの知るところではないですが、わたしは丹楓と交流があった者です。あまりに似ていたのでつい彼の名を零してしまいました」
 不快な気持ちにさせてしまったら、ごめんなさい。真っ直ぐに投げかけられる視線に耐えられずに、二度目の謝罪を口にした。ここで巡り会うとは青天の霹靂だ。たちまち焦燥と緊張が混じりあった汗が背筋を這っていく。
「丹恒だ」
「え?」
「今はそう名乗っている。あいにくここでは俺をそう呼んでくれる仙舟人は少ないが」
 丹恒……。今の彼の名を口のなかでそっとつぶやいた。気まずい沈黙が二人の間を通り過ぎていく。一体なにを話せばいいのかわからず、舌根に絡みついた唾がひどく苦く感じた。
「……きみにとって丹楓とはどんな奴だったんだ?」
 おもむろに発せられたその言葉に、息が止まる。丹楓とは、…………。思い出すのも久しい、古い記憶だ。わたしと丹楓との間にあったものなんて、雲上の五騎士の栄誉たる説話とくらべれば取るに足りない時間の蓄積だけれど……。不思議と、傾けられた水差しから水がこぼれ落ちる早さで、わたしの口から当時の思い出話が飛び出していく。まるで彼の、丹恒の強いまなざしがそうさせる引力を宿しているようだった。
 誰が通り過ぎるかもわからない神策府の入口の前だ。それでも、終始彼はわたしの話に真摯に耳を傾けていた。
「──長々と、つまらない話をしてしまいましたね」
「俺が聞きたいと言ったんだ。自分でもわからないが……個人的にきみの話に興味があった」
「そうですか」
「きみはずっとここで働いているのか?」
「はい、ずっとここにいます」
 先祖代々、後宮と縁のある一族だった。
 成人の儀を終えたばかりのわたしを羅浮の神策府の女官としてあてがえたのも、当主の意向だ。生まれてこの方、敷かれたレールから一歩もはみ出さずに歩んできた。この先も十王司の迎えが来るまで、この場所に居続けるだろう……それは占わずとも明らかな未来だ。
「あなたはまた旅を続けるのですね」
「ああ、そうだ」
「あなたが次に仙舟に戻られるときもまだわたしはずっとここにいると思います。もしくは、魔陰の身に落ちてるでしょう」
 彼はなにかを言いかけて、固く口を噤んだ。それからなにも語ることはなかった。その様子を見て、きっと彼は、もうこの場所に戻るつもりはないのだろうと悟った。彼の帰るべき場所はここではないのだ。

 三度夜が明けても、小鳥が籠に帰ってくることはなかった。
 地衡司にもそれらしき鳥の情報は入っていない。もうあの鳥とは二度と会えないのだろうと、漠然とそんな予感を覚えていた。もはや今となっては、この羅浮の地のどこかで無事に生きていれば、それでよかった。
 夜の帳が落とされた羅浮の佳景が部屋の窓枠いっぱいに広がっている。ひんやりと固くなった錠を回した。ひゅるると夜風が頬を撫で去って、わたしの体を通り過ぎていく。目下に広がる家屋や堂舎、風にそよがれる木々、荷物を運ぶ機巧鳥の影は見つけても、あの瑠璃色の風切は見つからない。
 ──ここから、列車は見えるだろうか。
 突然、そんな考えが頭に浮かんだ。常闇で覆われる天蓋を見上げ、じっと目を凝らしてみる。ここから宇宙船など今まで見えたためしもないのに……丹恒と話をしたせいだろうか。彼の乗っている列車というものに興味をそそがれてしまったけれど、やっぱり、ここからではなにも見えなかった。
「なにをしているんだ?」
 耳のすぐ後ろから声がした。こちらに近づく気配を感じないまま、いつから居たのだろう、将軍が背後に立っている。
「将軍さま」
「今夜は一段と冷え込むようだ。無防備に風に当たりつづけると体によくないだろう。それとも、なにか探しものかな?」
「……いえ、ただぼんやりしていただけです」
 小さな笑みの混じった吐息がうなじにかかる。くすぐったさで身をよじれば、はらりと髪先がこぼれ、その瞬間に顕になった肩を掴まれた。柔く、ていねいな仕草で、それでもけっしてわたしを離そうとしない男の力だった。
「お転婆はどうか閨のなかだけにしてほしいな。長生とはいえ、私の心臓はひとつしかないのだから」
 愉悦の表情を浮かべながら、その金色の瞳は薄暗い部屋のなかでもするどく光っていた。思考をめぐらすひまもないまま、まさにその閨へ誘われるため、わたしのやわな体は彼の元へ軽々と引き寄せられる。とたんに彼の分厚い胸板が視界を覆い尽くした。高潔な肉食獣のにおいがする。──にわかに背後から、窓掛けを下ろす音がした。彼にしてはめずらしく早急でぞんざいな音の立て方だった。
 
 ため池から跳ね返る日差しが、かすかに陽炎のようにゆらめいている。
 まばゆく光る水面に浮かぶ蓮の葉に、一匹の蜘蛛が佇んでいた。葉の先から銀色の糸をまっすぐに垂らしている。まるで、水底に沈むだれかを引き揚げようとするかのように。
 ふと、自分の名を呼ばれた気がした。面を上げて振り返ると、こちらをじっと見据える人がいる。
「丹恒……」
 彼は、わたしのそばに立ち寄った。旭光で輪郭を白く照らされるすがたは、まるで高貴さと儚さが入り交じって見えた。たしかに、彼は丹楓の生まれ変わりだった。
「……なにを見ていたんだ?」
「あそこの蜘蛛を」
「蜘蛛?」
「日がな一日糸を垂らして巣を張るのです」
「……それは、見ていておもしろいのか?」
「いいえ、とくに。でも、きっと、あの蜘蛛はあの場所でしか生きられないのでしょう。自分の糸にかかるものがいることを知ったら、他の場所に行く必要がないですから」
 そこが人と似ていて、おもしろいです。わたしの言葉に彼は怪訝そうな顔を隠さなかった。
「どんな人間だって、自分の生きる場所は自分で決められる。そういう権利がある。行動力があれば、どこへでも行くこともできる」
「……そうですね」
 彼の言うことはなにも間違っていない。けれども、その正しさは、わたしの人生にかぎってはどうしても適合されないのだ。
 生まれた家の決めた職に就き、毎日波音立てず規則正しい生活をし、何百年もの時間をこの仙舟だけで過ごしてきたわたしには、もはや広遠な宇宙を旅することなんて夢の御伽噺だ。どれほど鳥籠の外を夢見ても、飛び立とうしても、自分の足に無数の鎖がまとわりついて離れない。
「これから俺は列車にもどる」
 お前も乗りたければ乗ればいいと、告げているようだった。今、自分の顔を見ずともわかる。わたしは、丹恒や開拓者の彼らがうらやましくて仕方ないのだ。
「……では、さよならですね」
 結局、自分の足の鎖を解けないのは自分のせいだ。ここでやすやすと享受できる安寧を手放せない、臆病でさもしい自分のせいで、わたしはどこにも行けない。

「今日、彼らはここを旅立っていったそうだ」
 寝台の上で将軍は脈絡なくそう言った。
 彼らとはだれか、質問は不要だった。星穹列車が仙舟から遠く遠く、時空を超えてまた別の星へ飛び立つ光景が、ぼんやりと頭のなかに浮かんだ。丹恒と最後に会ったときに別れの言葉は済ませていたから、唐突な別れに今さら驚くこともない。
「置いていかれる側はさみしいだろう。私だって同じだよ」
 じっとりとわたしを見下ろす将軍から目を逸らせない。わたしの体は凍りついたように動かなかった。声を発しようとも、口のなかで唾液が絡まって、掠れた音の残骸が喉から弱々しく漏れた。
 声を出せたとして、なにを話せばいいのかわからない。いや、話す、とはちがうかもしれない。もしかしたら『弁明』や『嘆願』といったものが必要になるのではないかと、彼からただよう剣呑な空気にそう思わされた。
 彼の節榑立つ指がわたしの顔の輪郭をたどる。お互いの吐息がかかるくらいの距離で、彼はわたしがここにいることをたしかめていた。ほんの数秒しか経たない時間のうちに、自分の体が寝台に縫い付けられたような重みを感じる。顔を背けることも、身じろぐことも、許されない。
「将軍さま……あの、わたしは」
「うん?」
「わたしは、どこにも行きませんので……もう、将軍さまの元でしか生きられないんです」
 彼が垂らす糸をたどっていくのがわたしの一生で。つまり、彼からの溺愛の味とこの場所で暮らすことの安寧を知ってしまえば、もう彼の元でしか生きられないし、他へ逃げようとするなら無慈悲に噛み殺されるだろう。そんなことはとっくにわかりきっていることだ。わたしの天命はわたしではなく彼が握っている。
「そうだな。きみはずっと私の元でしか生きられない。きみもそう望んでいるだろう?」
 返事の代わりに目を瞑れば、かさついた唇を彼の舌が艶めかしく濡らした。精悍な舌先で口のなかをあつく蹂躙される。あっという間に、寝衣の帯がゆっくりとゆるめられていった。
 ふと、この部屋の片隅で眠っている鳥籠のことを思い出した。あれも早く捨てなければいけない。目にするたびに、きっと、わたしが手に入れられないものを持つあの小鳥が憎たらしくなるだろう……。体の芯まで焼き焦がすような彼の熱を肌に受けながら、そんなことを考えていた。

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