かつては同じ仙舟に生まれ、人が繁茂する街中をともに駆けまわり、大空を交う数多の星瑳を見上げて育った仲である。寿禍の王によって滅ぼされた故郷を後にして逃げのびた先は同じだったが、のちに鏡流は剣の道をたどり、わたしはべつの縁があって丹鼎司で医事を学んでいた。されども、切っても切れない彼女との関係は幾度と羅浮が戦禍に飲まれようとも疎遠になることはなく、端的に言えば古い腐れ縁のような、気恥ずかしさを抜きにして言えば血の繋がりのない家族のような、いわゆるそういう仲だった。
 お互いの近況を報せるために、長楽天の茶寮で落ち合うのが、月に一度か二度ある。その日も例によって揃って渋茶を啜り、顔色を変えることのないまま淡々と出された食事を口にする彼女をながめて、世間話も早々に、ぼやぼやと時間をつぶしていたところだったが。
「そういえばお前に話していなかったことがある」
 と、いきなり彼女は口火を切った。
「なにを?」
「我は弟子を取ることにした」
 一秒、二秒と思考が止まる。……でし、デシ、弟子?我武者羅に己の剣術を極め続けていたあの彼女が弟子を取ったのだと、理解するのにも数秒を要した。重大な発言と相反するように、彼女の頭上には澄んだ青空が一面に広がり、暖かな陽の光が氷のような白銀の髪先を眩しく濡らしている。
 まさに、青天の霹靂である。
「……それはまた、唐突に」
「そう異様なことでもないだろう。我に剣法を教え乞う者がいればそれに応えてやるまでだ」
「あなたの信条は疑ってはいないけれど、なんというか、師となるあなたの姿が思い浮かばなくて」
 鏡流は侮るように鼻を鳴らした。
「お互いさまだ。我とて、そそかっしい上に手先の不器用なお前が病人を看ているだとはいまでも信じ難い」
「もうそんなに抜けてないよ……それよりも、弟子になったひとはどんな方なの?」
「洟垂れの小童さ。武の才能はあるとは言えないが、端から弟子の功労で威名を残そうなぞ考えていないのでな。我にとって天武の有無は取るに足りないことだ。……ただ、そうだな。しいて言うならあいつは目が良い」
「目?」
「ああ。先見の明と言うべきかな。戦局を迅速に把握し、理論上最適解に繋がる活路を見出すことについては同輩の中でも頭ひとつ抜けている」
 あいつの真に恐れるべきところは武力よりも、頭脳と言えるだろう。そうつぶやいた彼女の言葉がやけに印象深くわたしの脳の深いところに刻まれた。唯一無二の朋友が弟子として受け入れた彼に、実直に言えば、興味をひかれはじめていた。
「いつかご挨拶させてよ」
「いずれ紹介する。前線部隊が丹鼎司に駐屯する機会があれば自ずと会うことになるだろう」
 とくに和気あいあいと顔をほころばすこともなく、あっさりと終えるべき報告を終えたところは、どれだけ羅浮の華々しい佳景のなかで時間を過ごそうとも変わることはないのだった。彼女のその何色にも染まらない剛健な性格は、弟子教育において悪いように作用していないか、いくばくか気がかりではある。
 はらりと色あせた樫の葉が頭の上からふり落ちて、からの中皿に横たわる。皿に染みた汁の脂が白く固まっているのを見て、ついつい、また今日も長居をしてしまったのかと気づいた。

 さて。件の弟子の彼とわたしが面識を持ったのは、あれからそうたいして日が経ったわけではないが、しかし、わたしの記憶からすっかりその存在が抜け落ちていたころだった。度重なる進軍の影響で兵士の医療衛生が危殆に瀕し、民間医の助手をしていたわたしに声がかかり、とつぜん雲騎軍に転職することとなったのだ。それから慌ただしく日々を過ごしていたからだろう。前軍が遠征の足がかりとして丹鼎司の近くを滞在しているのだとの伝聞は、忙しさのあまり聞き流してしまっていた。
「お、ようやく来たか。すこし見ないうちに細くなったな。軍医として着任したばかりだと耳にしたぞ」
 丹鼎司の中枢にある大樹のそばに、わたしを呼び出した鏡流はふとこちらを見やり、さばかりか心配の色を滲ませてそう告げる。即座に威勢よく返事をしようとした矢先、彼女の後ろにぴったりと見知らぬ子どもがついているのに気がついた。
 重たげな前髪の奥から、不安げな、けれどもじんわりと好奇心の色を隠さない幼げな瞳が、こちらをじっと見上げている。あの鏡流が身近に佇むことを許しているからには、どうやら彼女の知り合いであることは間違いなさそうだ。食い入るように視線を離さない彼へ声をかけるより先に、鏡流は「師の友人をじろじろ見回すものではない」とたしなめた。
「あ、前に話していた弟子の……」
「そうだ。ほら、挨拶なさい」
 師の影から一歩、兵士用の十文字槍の刀身に届くか届かないかの背丈である少年が、前に出る。
「景元と申します」
 存外、あどけない見た目に反して、凛々しく淀みのない声である。
「景元、よろしく。わたしの名前は──」
「存じてます。師匠が稽古の合間にあなたの話をするので」
「待って、一体なにを話しているの?鏡流」
「さあ、どうだったかな」
 はぐらかすように空を見上げる鏡流をじとりとにらんでいると、やにわに手を握られる──景元だ。彼は、わたしの無防備な手を取り、ぎゅっと両手で挟みこんだ。はっとして顔を見やれば、爛々と光る丸い目がこちらを見上げている。
「けっ景元?」
「お会いできて光栄です。師の足元にも及ばぬ未熟者ですが、あなたのお力になれることがあれば何なりと申し付けください」
「はぁ……」
 初対面にしては、やけに熱意が込められた慇懃な態度をとられる。将校や軍の重役ともなんの関わりもない凡俗のわたしと、昵懇にしても得られるものは限りなく無に近いだろうというのに……。最近の士官学校では年長者に対する景仰を徹底的に教えているのか、はたまた、彼自身の性格が由来しているのか。
 などなど、彼の腹の中を読もうと思案を巡らせても、にかりと子犬のように愛嬌よく笑う顔を前にしてしまえば、どうだってよくなるのだった。なんだって、ずいぶんと可愛い弟子じゃない。
「鏡流にこっぴどくいじめられたら、わたしに言ってごらん。彼女はわたしに甘いから」
「余計な世話を挟むな」
 今度は鏡流がわたしをじとりとにらみつけると、困ったような笑みを浮かべる少年の丸い頬をつめたい木枯らしが撫で去っていく。彼の瞳は丹鼎司の街並みに溶けこむ大樹の葉の色とまさしく同じ色をしていた。

 鏡流も、鏡流の師匠も、貪欲に剣の道を極め、無数の忌み者の屍の上に立ちながら天照らす星を落とさんと剣を突きつける者だった。敬虔と言えばそれまでだが、こと鏡流に関しては、まっとうな民衆への庇護心だけが彼女に血に濡れた剣を握らせつづけているのではないのだと思う。わたしはそれを是とも非ともしない。
 彼女が武の才能がないと断言した景元は、それでも四六時中剣を振り、過酷な訓練を耐え続けているようだ。時たまふらりと顔を見せるが、手のひらはつねに赤く腫れ上がっているし、軍装の下から覗く体には切り傷も刻まれている。たやすく予見できたことだが、天の星々を斬り落とさんとする彼女の元ではたとえ未熟な子どもでも甘い厚遇は受けられないのだろう──彼女がそうだったように。
「指、ささくれていて痛いでしょう」
「もう慣れました」
「放っておいたら皮が剥けちゃうよ。こっちにおいで」
 豆汁を飲んでいた彼の指先に目が止まり、ふと思い立って戸棚から手製の軟膏を取り出す。仕事柄まめに手を洗うので、こういった保湿剤の類は多く揃えていた。
 固く、太く、節ばった子どもの指だ。彼の手を取り、軟膏を指先にうすく伸ばしていく。指の一本一本を包み込むように塗りたくると、正面の喉仏がゆっくりと上下した気配がした。
「ちゃんと手当しないと大事になるからね」
「………………はい」
 と、景元は処置された手元の指を見下ろしたまま顔を上げない。
 弟がいればこんな気分になるのだろうか。なにかと他人に世話を焼きがちな性質なので、彼のことをつい弟のようにとりあつかってしまう。彼とわたしの関係性は鏡流を起点に置かなければ説明のしづらいものだったが、景元は彼女を連れずにわたしの元へやって来ることもしばしばあり、いたいけに喜楽をありありと顔色に映し出すので、どうやらうまく懐かれているらしい。──思えば、はじめて会ったときからなぜだか彼はわたしを慕っていた。まるで飼い慣らされることを望む子犬のように。
 ふいに彼が顔を上げてわたしを見やる。
「またここへ来たら手当をしてもらえますか」
「えっ?わざわざここに来なくても、その軟膏ならあげるけど……」
「いえ、その……あなたにやってもらいたいと思っていたのですが、やはり迷惑でしょうか」
「そんな!わたしでよければいつでも歓迎するよ。景元なら非番の日でも来てもらって構わないし」
 伏せられた瞳が悲哀を帯びているようにも感じ、慌てて声を張った。親元離れてきびしい軍事生活に身を置いているのだ。せっかく甘えに来てもらってるのに、突っぱねるのは無慈悲だろう。
「それは良かった。温情ある施しに感謝します」
 先ほどとは打って変わって、にっこりと顔をほころばせてみせる。はて。これは、言質を取られてしまったのだろうか。
 そんなこともあり、景元は休暇のたびに我が家を訪ねてくるようになった。後日、馴染みの茶寮で会った鏡流に、そういえばと報告すると、彼女は一瞬動きを止めて、それからふふと面白おかしく笑いはじめる。
「あいつめ、お前の前ではただの犬っころだと思えばとんだ獣のようだ。まんまと牙にかからないように用心しろよ」
「弟子のあつかいがひどくない?きっとまだだれかに甘えたい年頃なんだよ」
「景元を子どもあつかいするのはお前くらいだぞ」
 鏡流の言葉も、その通りだ。軍に身を置いてからというものの、景元の輝かしい功労の話は何度となく聞こえてくる。いまや彼のことをただの新兵として見る者はおらず、軍の上層部さえ彼の才能を注視しているくらいだった。
 ただし、それは雲騎軍として、戦地に赴くときの彼の話だ。わたしの元を訪れるのはただの一介の少年である。ふたりで過ごすときだけは、薬師滅却など血のにおいのする使命も忘れて、姉弟のように甘え甘やかしていた。牙よりも垂れ下がった犬の耳が見えるくらいだ。
 弁明しようにも弟子に手厳しい彼女が受け入れることはなく。「あれが粗暴な振る舞いをすれば斬り捨てるだけだが」となにやら物騒なことを宣うので、やはりなおさら、彼を守ってあげなくてはと思う。

 いつしか景元から手土産としてもらった苗木を家の裏庭に植えていたが、あれから数年、幹はどっしりとふとましくなり枝先は家の雨樋に伸びかかるほど成長していた。緑の葉の奥にあんずの実が黄色く色づきはじめたのを見つけ、ふと、遠征に出かけた彼の瞳が思い浮かぶ。
 現地からの報せによれば、敵部隊の器獣殲滅に成功。帰還は今日の正午すぎだと聞いていた。ともすれば、もうじき艦隊が到着するのだろうか。
 しばらくぶりの休暇中のため基地の方には用がない。ので、彼らと鉢合わすのも明日以降になるだろう。家にいるうちに庭の伸びきった雑草を刈り取ろうと軍手と桑で格闘してから一時間は経過した。日照りの元で黙々と作業をし続けた結果、肌着の下はぐっしょりと汗で濡れている。
 きれいになった庭をぼんやりとながめていると、にわかに外門の施錠が外れた音がした。そのまま振り向けば、ざくざくと重たい足音が近づいて、男が顔を見せる。
「景元」
 思いもよらない来客に呆然とする。彼は涼しげな笑みを浮かべて挨拶をした。
「こうして会うのはひさしぶりですね。息災だったでしょうか」
「ええ、わたしはなんとも……それよりどうしてここに?」
「つい先刻に港に着いたのです。あなたがここに居られると聞いてやって参りました」
 彼の返答はわたしがすんなりと納得しきれるものではなかったが、客人を棒立ちさせるわけにもいかず、とりあえず縁側に座らせた。武装の痛み方を見るにどうやら基地に戻らずここへ直行したのはたしからしい。
「相変わらず立派な庭ですね」
「ただの趣味だよ」
「たとえ趣味の範疇だろうと、この粋美と荘厳を保たれていることは賞賛に値することです」
「それは、どうも……」
 歯切れ悪く返事をすると、彼はわたしに向けて人当たりのいい笑みをこぼし、それからまた庭を見回した。
「たいそう植物がお好きであるようだ」
「そうね。あれらはわたしの理想でもあるから」
「理想?」
「さいごはみな花を散らして種を残し、しずかに枯れて朽ちる様子がとても美しいと思うの」
 ないものねだりだった。気がおかしくなるほどの長生の末に、化け物としてしか生を終わらすことができない。祝福を呪いとして自覚しはじめてからは、短く美しく死んでいく植物に惹かれて、いつからか庭で数多の種を栽培するようになった。
 災難なく、順当に寿命をたどれば、わたしは景元を置いて魔陰の身に落ちていく。なんて酷くて、おそろしくて、救いのない結末なんだろう。体から金色の枝を生やして自我を失うくらいなら、最初から…………。
 ぐるぐると余計なことを考えていると、とつぜん、となりから名前を呼ばれた。
「あなたの最後の花を摘むのは私でありたい」
 庭の雑音がぴたりと消える。
 重たげな前髪の隙間から、まっすぐにわたしを見据える眼が陽の光を浴びて優美にきらめいている。それはあのあんずの実よりも、大樹の落葉よりも、一層まぶしく金色を宿していた。そして、そのまなざしはいつしかの少年のあどけなさをもう纏ってはいなかった。姉を見上げる弟の双眸ではない。女を見つめる男のものだと、気づいてしまった。
「………それは」
「おや、なにか不都合かな」
「不都合というか、その」
 そのセリフはまるで………。いいや、早とちりかもしれない。まるで、あたかも、わたしの人生が欲しいと言ってるように聞こえたのだけれども。
「はは。快諾してくれるまで駄々をこねることもできるが、もうそのような手段を取れる年齢ではないのでな。それにきっとあなたは私の願いを聞き入れてくれるだろう?」
 穏やかな声で尋ねられているのに、わたしの有無を言わせないようだ。一切臆することなく発する言葉の裏には、彼の策略めいた思惑が渦巻いている気がしてならない──遠い昔に軟膏を塗ってやる約束をした、あの日のように。
 師の影に隠れるほどだった小さな体はいつの間にかわたしの背丈すら超そうとしている。もうここには守ってやるべき子どもはいないのだと、逞しく成長した体躯を前にして息を飲む。……いや、はなから「守ってやる」なんてお門違いだった。わたしはこの生き物を侮っていた。彼は、あどけない子犬の皮を脱ぎ捨ててわたしに牙を剥く日を、何年も見定めながら待っていたのだから。

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