傾国傾城とは、なんとも畏れ多く仰々しい二つ名だと思う。世の人が不老長生を求めるのと同等に、商いであれ詩藻であれ技巧であれ、何かの分野にて脚光を浴びることのできる才能は焦がれ妬ましく思われるものだろうが、わたしにとってはそれが容姿であったらしい。
 わたしというのも、前世の『わたし』の話である。
 当然のことながら、脱鱗する前の前世の記憶は持ち合わせていない。持明族とは本来誰とも血縁関係を結べず、永遠孤独に輪廻転生を繰り返す生き物であるゆえに、どの生涯もほとんど己の力のみで生き抜くことを求められている。己の力とは、運の巡り合わせも往々にしてあるが、運もまた前世で積み重ねた徳から生み出されることもある。人倫が生む因果の面白いところで、前世に良くしていた仙舟人から、今世になって助けてもらうことは珍しくない。
 珠守り人の庇護のもと卵から孵ったわたしは、見た目は学童期の女児になり、通算何度目かになるだろうこの羅浮の新生活にも慣れてきたころだった。丹鼎司の市外に小さな住まいを借り、つつがなく日々を暮らしている折に、前触れなく、狐族の女がひとり訪ねてきたのだった。
 戸口に立つ女の顔に覚えはなかったものの、彼女は開口一番にわたしを探していたのだと告げた。彼女は、前世のわたしに長らく仕えていた付き人だったという。突然の来訪に困惑の表情を浮かべるわたしに、彼女はあどけなく笑った。目元の皺がいっそう深くなるその笑い方は彼女の顔にずいぶんと馴染んでいるように見えた。
「前世のあなたがどんなお方だったのかを知りたいなら、お名前をお教えしましょう」
 思わず教えてほしいと請うと、彼女は惜しげなくひとつの人名を口にする。わたしは口の中でその単語を何度か唱えた。
 それから彼女は小ぶりの麻布の風呂敷を渡してきた。これは前世のわたしが来世のわたしに遺した唯一の遺品であり、彼女はこれを届ける使命を受けていたのだという。わたしがしかと受け取ると、彼女は家に上がって茶を飲むこともせずにすんなりと立ち去った。ひどくさっぱりとした振る舞いには情緒も未練も一切感じ取れなかったけれども、前世と今世では明確に別人として接してくれているのだろうか。それはこちらとしても気が休まる。
 さて。部屋に戻りさっそく風呂敷を開くと、手のひらに乗るほどの小さな長方形の木箱と一葉の写真が現れた。
 写真に映されているのは、豪華絢爛に着飾ったひとりの若い女だった。その見目麗しく整った顔立ちはまるで御伽噺の挿絵に出てくる姫君そのもので……わたしはしばらく言葉を失い、呆然と写真の中の彼女に見蕩れていた。
 そして木箱の中には、目の奥を突き刺すくらいに煌めいた紅い碧玉の花が咲く簪があった。目利きの出来ない素人のわたしでも、これが甚だしく貴重で値の張る代物であることは察するに容易い。
 写真の中に映る彼女が、これとまったく同じ簪を髪に結いていることが、自ずと示された答え合わせだった。写真に映るひどく美しい女、おそらく前世のわたし。その『わたし』が身につけていた簪が今世に遺されたものなのだ。
 たちまち胸中に不可解な感情が薄暗い靄として立ち込めて、喉の奥を苦しくさせた。──これをわたしに託したところで一体どうしろというのか。今のわたしは何の才能も人脈もない凡人であり、ましてやこの簪が似合うような美しい貌の女でもないのに。
 覚えたばかりの彼女の名前をつぶやいた。呼びかけたところで、写真の中の彼女は凛とした眼差しをこちらに返すだけであった。

 人名を元に調べていくと、やはり予想されたように前世のわたしは羅浮ではすこしばかり名を馳せていた者であった。
 傾国傾城の絶世の美女。ほんの十数年前まで、仙舟の宝玉のごとく嘆美されていた女がこの羅浮に居たのだという。当時のアーカイブに残された肖像画はたしかに手元の写真の顔と同じものであり、何度見てもその引っかかりのない美しさには生唾を呑む。
 そして何より──唖然としたのは、彼女の人生である。
 羅浮の重鎮、かの景元将軍からの寵愛を受ける者として天上の宮殿で生涯を全うしたとか。わたしを訪ねてきた付き人の女、見るからに高価な簪、写真越しでも漂う彼女の本物の気品、どれほど優雅で贅を尽くした生活を送っていたのだろうか……辺鄙な田舎で質素な身なりで暮らしている今世のわたしとは雲泥の差がある。
 その時分のふたりの馴れ初めも将軍の思惑も、はっきりしたことは分からない。しかし、わざわざ不妊で短命な持明族の女を手元に置いたのは、将軍が一種のトロフィーワイフとして愛でたかったからではと不躾な邪推をしてしまう。仙舟じゅうに取り沙汰された美貌の女であれば、愛玩として愉しむのも、大衆の前で連れ添うのも、いくばくか彼に都合がいいだろう。
 ともあれ、今になっては……今のわたしにとっては、一切関係ないことだ。将軍が愛した女はすでに死んだ。今生きているのは、非力で取り立てて噂になるような佳処もない、凡俗の徒である。同じ魂の器とはいえ、前世と今世では似通う点も見当たらない、まったくの別人なのだ。
 深く息を吐いて、自分の薄白くかさついた膝頭を見下ろす。先週、小さく不器用な手で握った鉄鋏で髪を切り揃えたが、切り方が甘かったのか、髪先がぱさぱさと首筋を不愉快に撫でていた。ひび割れた窓ガラスにぼんやりと映るのは、ざんばらに傷んだ髪の、貧相な体つきをした少女だった。
 ……あの簪は、質に入れてしまおう。どうせ手元に置いていても、今のわたしには持て余すだけだ。前世のわたしにとって思い入れのあるものかも知れないが、あくまでわたしは他人である。ここから長らく戸棚にしまっておくよりも有用な使い途は換金するほかない。

 質屋の店主の男は、わたしの身なりを一瞥するなり嘲るように鼻を鳴らした。とうてい値のある品を抱えているようには見えなかったのだろう、そう判断されるのはいたし方ないことだ。
 しかし、台の上に置かれた木箱を開けた瞬間、男の瞳孔が丸く見開かれた。
「……これをどこで手に入れたんです?」男は訝しげに尋ねる。わたしはどこまで正直に話すか迷い、「知人から譲り受けた」とだけ答えた。男はそれ以上追求せず、希望の買取価格を提示する。なんと、星槎海の中心街に家を買えるくらいの金額だった。見たことのない数字の列挙に心臓が止まりかける。
 激しい動揺を顔に出さないように努め、わたしは無事に簪を売却した。一目散に家へと戻り、大金の入った包みを調味料棚の奥に布を被せて隠した。何はともあれ、僥倖だ。前世のわたしに感謝するしかない。
 当面二、三十年は安泰に暮らせるだろう生活費を手に入れたが、いきなり派手な生活をしてしまえば周りに変な勘ぐりをされてしまうし、やはり質素倹約が性に合っている。それからも丹鼎司のそばで細々と暮らし続けるのは変わらなかった。

 その日、近所の埠頭に、高貴な風格の男が立ち尽くしているのを見かけた。
 一点物のように見られる漢服には大袖の鎧が付いており、雲騎軍の重役だろうか、珍しい出で立ちの彼をしげしげと遠目から観察した。しかし探るように眺め続けるのは無礼だろうと、帰路を辿るべく踵を返そうとする……が、それよりも早く、彼は振り返ってわたしを見やった。
 ふたりのあいだの距離も気にすることなく、彼は霜が光を浴びて水へと溶けるような穏やかな笑みを浮かべる。
「こんにちは、お嬢さん。今からどこかへ行くのかい?」
 突然、話しかけられたわたしは、呆然と固まる。その間に、彼はゆっくりとこちらへ向かってきた。見かけからは予想つかない彼の柔和な口調と雰囲気に飲まれつつあった。
「ええ、えっと……これから家に帰るところです」
「そうか、地元の者だったか」彼は埠頭の辺りを見回して、わたしに告げた。「この場所はとても静かで心身ともに休まるようだ」
「はあ、たしかに、そうですね」
「ここは長いのか?」
「……孵化したのもわりと最近のことです」
「なるほど。持明族か」
 単なる気まぐれか、物好きな性格なのか、雑談をする彼の腹の中が掴みきれないでいた。こちらが戸惑っていることが分からないほど愚鈍なはずはないだろうに、もしくは人が戸惑う様子も楽しむ質なのか、彼はわたしに微笑み返すだけだった。
「また話そう。その時にはきみの名前を聞かせてもらいたい」
 まさかこんなみすぼらしい少女の見た目のわたしを口説いているとも思えない。

 そう日のあかないうちに、『また』の機会は訪れた。宿屋の賄方の仕事を終えて帰宅する道中で、また同じ場所に、あの男が立っていた。
「やあ。また会ったな」
 こちらが素通りすることも許さない早さで、彼はわたしを呼び止めた。依然として彼が何者なのかは見当がつかない。怪しさは募るものの、敵意や悪意など、こちらを傷つけようとする意図はまるで感じなかったので、にべもなく無視することははばかられた。
「……あなたは何用でこちらを訪れるのですか?」
「体が悪くてね、定期的に竜女様に診てもらっているのだよ」
「そうだったんですか」
「大したことではない。少しばかり日々の過労が溜まっているだけで持病でも何でもない」
 その言葉が真実である確証はないが、わたしを相手に嘘をついて得るものなんて思い浮かばない。分厚い前髪の隙間から鋭く光った鮮黄色の瞳が、わたしを見つめ、ゆるやかに細められていく。目を合わすたびに、彼はこうして優しげな顔つきをしてくる。
「たまの息抜きというやつさ。仕事場にずっと拘束されていたら新しい発見も何も生まれないだろう。頭を切り替えるためにも、ここで景色を傍観しながら自己を滅却している」
「ずいぶんと多忙なお方なんですね」
「まあ、つねに時間に追われる生活をしているな」彼は小さく口の端で笑みを零した。「きみに関心を持ってもらえるのは嬉しいな。どうやら嫌われてはいないようだ」
「嫌うだなんて……あなたのこと、何も存じていないのですから」
「……それもそうだな。きみは私のことを何も知らないし、私も然りだ。果たしてきみの名前は教えてくれるのかな」
 彼の要望にわたしは言葉を詰まらせた。素性の知らない相手に名を晒して、その無防備さが収拾のつかない結果を引き起こすのが怖い。誰だってこれくらいの警戒心は備えられているだろう。
 数秒、どうしたものだろうとわたしが押し黙っていると、彼はからからと幼子のように笑った。そう思い詰めた顔をするな、無理強いはしないよ、今後もし教えてくれる気になったら言えばいい。穏やかな声でそう告げられ、わたしはつい曖昧に頷いてしまったが、その言い草はまるで次もふたりが会うことが確定しているようだと、彼と別れたあとに気づいたのだった。

 ふと、瞼を開いた先に広がるのは、しんとした暗闇だった。
 音も光も殺す静寂がわたしを包み込んでいた。暗がりの中、そぞろに足をたじろかせば、つるりとした朱子織りの生地が剥き出しの踵を舐める。いいや、足先だけでなく、体全体が心地よい重力に引っ張られていた。自分は今寝台の上に横たわっている。………それは、どこの?
 起き抜けの頭が冷水をかけられたように一気に冷えていく。慌てて半身を捩ろうにも、自分の体躯にきつく纏わりついたドレスが水を吸ったように自由を奪っていた。意識ははっきりしているはずなのに、こんなにも、動くことがままならないことなんて有り得るのだろうか……。はなはだ不可解に思っていると、視界に広がる闇が蝋燭に炙られたように歪み始める。幻覚を見ているようだ。地に足がつかない浮遊感でふわふわとする。
 恐怖でも焦燥でもなく、自分の体を支配しているのはなんとも形容しがたい不思議な感覚だった。きっとこれはこの世の出来事ではないのだと、漠然とした予感が耳元で囁いている。
 きっと、わたしは夢を見ている。
「おや、起きてしまったのか」
 声の元を視線で辿ると、いつの間にか寝台の脇には燭台が灯されていた。頼りなく揺らめく火の向こうに、貪婪な獣のような金色の瞳が闇に浮かんでいた。重たく絨毯を踏みしめる足音とともに声の主の面差しがくっきりと照らされ近づいてくる。
 わたしはその顔によく見覚えがあった。しかし、声帯は震えることも叶わず、声を出そうとも喉が切り裂かれたように痛む。この夢の中では悲鳴すら発することができないのだと悟った。
「まだ夜も遅い。これから寝直すといい」
 その瞬間、猛烈な眠気がわたしを襲った。頭が思考を止めて強制的に制止し、先程まで健全だった意識が不明瞭になっていく。彼の言葉は人に暗示をかけるまじないのようだった。
 ぎしりと寝台が鳴く。混濁する視界の中に彼の顔が大きく迫っていた。それはとても優しく……優しくわたしを見つめていて……ああ、その瞳の中にいるのは、たしかに『わたし』だ。
「きみは私から離れることなんて考えてはいけないよ」

 珍しく、深い夢を見ていた気がするが、はてどんな夢だったか。内容は何も思い出せない。朝起きたときには背中をぐっしょりと寝汗が濡らし、まるで長い距離を走ったかのような疲れが体を襲っていた。
 幸運なことに今日は仕事がなく、部屋でゆっくり休むことがてきる。そう考えると外に出るのも途端に嫌になり、今から寝直すこともありだろうと平べったい煎餅布団の中で腿を曲げて丸まるように抱きかかえた。
 もう日もだいぶ高くなろうかという時間まで、うつらうつらと意識をぼんやりとさせ、半分夢のようなものを見ていたかもしれない。
 その時、突然、コンコンと門戸を叩く音で飛び起きた。覚醒しきれない頭のまま、反射的に布団を蹴っ飛ばして玄関に向かう。
 戸を開くまで、誰が来たのかも考える余裕はなかった。
「こんにちは、お嬢さん」
 そこには、彼が立っていた。
「……え、あの、どうして」
「ははは、目を丸くさせてそんなに驚いたのか?事前に断りなく来てしまったのは悪かった。けれど先即制人とも言うし、迎えに来るのはなるべく早い方がいいと思ってね」
「迎え……?どういうことですか?そもそも、あなたは一体誰なんですか」
「それはきみが思い出すんだ。私が誰なのか、きみは誰だったのか……ちゃんと思い出してごらん」
 胃の底から何かが込み上げてくる。触れたくもなかった場所を無理やりこじ開けられている気分だ。思い出せ、思い出せ、と彼の声が脳の髄に反響し、酸素も奪われる苦しさで自分の体重を支える足元がよろめいた。
 わたしは……『わたし』は、この男を知っている。前世での生涯で、誰よりも色濃く時間を過ごしきた、そんな走馬灯のような光景が視界の端にちらついている。目の前にいる彼と、自分の精魂に刻まれた古い記憶にいる彼の輪郭が、ゆっくりと重なっていき、その姿がはっきりとわたしの目に焼き付けられる。
 景元様……。かすかな音量でわたしの口から零れた言葉を、彼は喜ばしく認めた。
「いい子だ」
 どくりと、心臓が不気味な音を鳴らす。
 まるで彼に褒誉の言葉をもらい、慈しまれ、支配されることが、正しい在り方であるかのように。彼を突き飛ばせ、この場から逃げ出せと頭では警報が鳴り響いているのに、わたしの体はぴくりとも動けなかった。
「景元様……あなたは、ずっと……」
 わたしを捉う運命の枷をこの男が握って離さないのだ。彼は、ひとりの女が死んでも、またその死んだ女の生まれ変わりを追ってきた。女の生涯はあの日終わったはずなのに……人ひとりの生涯を終わらす権利を彼が掌握しているというのか。
「……わたしは、彼女ではありません。あなたが愛した彼女とは別の人間なのです。今のわたしは、あなたに愛されるような者ではないのです」
 喉の奥から絞り出した拒絶の声は震えていた。断頭台の上で陳述する人間のようだ。──そして、そんなわたしをいたくつまらない目で見下ろす彼は、まさに裁きを与える人間のようだった。
「何度も言わせるな。きみは私から離れられないのだ。この先またきみが死んで新たに生を亨けようとも、私と関わりを持たずしてきみが生きていくことはない」
 ゆっくりと、彼の手がわたしの顔を持ち上げる。またわたしは、溺れてしまうのだろうか。この苛烈に光る金色の瞳に。
「必要なものはあちらで揃えよう。そういえば、きみはあの簪を手放してしまったそうだな。また新しくきみに似合うものを贈ろう」
 前世のわたしがなぜあの簪を今世のわたしに遺したのか。それはきっと、この男の愛執からは決して逃れられないのだとあらかじめ警告していたからではないのか。──そんな考えが頭を過ぎったが、もう何もかも手遅れだ。

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