たどたどしく復唱されたその言葉の拙さにわたしが小さく口を緩ませたのを認め、ヒュースはむっとした顔つきをして、垂れ目がちな瞳の奥から不平の色を隠さなかった。
 どちらかと言えば、彼の母星の人名とかにありそうな単語だ。その単語の意味がわからないゆえの不安たっぷりの発音の仕方に、意図せず笑ってしまったのはけっしてバカにしようとしていたわけでもなく、異星人の文化に新しく触れたときの彼のすがたが新鮮で好ましいものだったからだ。されど、それを根っからの生真面目な性格の彼に十分理解してもらうのは多少骨の折れることだとも思い、わたしはなあなあにするような笑みを貼り付けてひとまずやり過ごした。
「どういう意味だ」
 彼は痺れを切らしたようにそれの意味を尋ねる。
「うーん、日本で広く伝わってる季節行事かな。伝統というより、お菓子会社の販売戦略が発端となったものだけど。おもに女子が自分の大切な人とか好きな人にチョコレートを渡すイベントが二月十四日にあるの」
「だからヨータローはあんなことを言っていたのか」
「あんなこと?」
「明日、獲得したチョコの数で勝負だと言われた」
「ああ……ふたりはたくさん貰えそうだもんね」
 彼らと親密な玉狛支部の女子群のほか、ボーダーにはなにかと気配りのできる知り合いも多く、さらに異性の同輩から影で持て囃されているヒュースに至っては、彼の意思関係なしに下心やら恋心やらが含まれたチョコレートが贈られるにちがいない。異星人の彼がこのイベントに対する理解を得ようが得まいが関係なしに、なかば強制的に巻き込まれていく光景がたやすく頭に浮かぶ。
「男子は数で競い合うものなのか」
「いや……数よりも気持ちが大切だと思うけど」
 ヒュースだって、よく知らない人たちからもらうより本当に貰いたい人から貰った方が嬉しいでしょ?──そう持論で諭してみたものの、果たしてアフトクラトルにも似たような文化の概念はあるのか、彼が腑に落ちてくれるのかは謎だった。なんとなく、陽太郎に数勝負をけしかけられたとしても、彼はバレンタイン自体には関心を示さないまま、そのチョコレートの意味をひとつずつ理解せずに、無頓着に口のなかに放り込んでいきそうではある。
 思案するように空色の眼が二度まばたきをして、そして机の上を見下ろす。透明なビニールに小分けされたものがずらりと整列している。それらは玉狛支部とか、仲良しの女友達とか、ボーダーでお世話になった人たちに渡される。
 二月十四日まであと一時間だ。
「ヒュースにもあげるつもりだったんだけど、チョコ食べられる?」
「問題ない」
「よかった。今ここにあるから食べる?明日でもいいけど」
「じゃあ、いただく」
 椅子の足が床に擦れて、静寂が広がる夜のリビングにやにわに音を立てた。黄土色のはねっ毛を真向かいからしげしげと見つめる。こうしてヒュースとふたりきりで時間をともに過ごすのはじつにめずらしく、たまたま彼がリビングに降りてこなければ同席することもなかったし、なんとも不思議な心地がした。今この空間にふたりきりなのだと意識してしまう。集団のなかで過ごしていたときに感じていた慣れ親しさが剥がれ落ちて、いくばくかの緊張を覚える。
 ぺりとマスキングテープを剥がし、内包されていた茶色い正方形をひとつ摘んで無表情で口に入れる。きれいに咀嚼する彼を観察しながら、おいしい?と聞けば、まあまあだと返ってきた。
「やわらかくてすこし甘ったるいな」
「生チョコはそういうものだよ」
「ここにあるものは全部同じなのか?」
「まあ、いちばん大量生産しやすいからね」
「じゃあ、アレはなんで包みがちがうんだ」
 ヒュースの視線が指し示す先を見て、あっと掠れかけた声が喉の奥から零れた。
 背中を冷たい針で刺され、そのまま静脈から心臓が凍らされていくようだ。焦燥しきって固まるわたしを置いて無情にも時計の針は進み、彼は依然として不可解な表情を浮かべながらわたしが答えることを待っていた。
「それは、その………」
 わたしが続けるべきその言葉の先を、バレンタインという概念の知識を植え付けられたばかりの彼に限っては、たやすく察してもらえるはずもない。逃げ場をなくした。正直に本命だと答えたところで、さらに本命とは何であるかを明瞭に話さなければならなかった。
「えっと、つまり」飲み込んだ唾が苦い。「……特別に作ったものをあげたい人がいて」羞恥心に襲われながら、なかば弁明のように言葉を紡いだ。
「だれだ?」
「えっ……聞くの?」
「聞いてはダメなのか?」
「いや、べつにいいけど……」ヒュースならべつにいいけど、なんだろう、すごくいたたまれない……。そうなるのも、当然かもしれない。今までだれにも明かすことのなかった自分の秘密を言葉にして認めるのは、普段使わない勇気が必要だった。「京介だよ。──でも、多分あげないかも」
 一瞬、呆気にとられたような沈黙がわたしたちを撫で去り、なぜだと食い気味に彼は尋ねた。
「京介はどうせ今年も抱えきれないほど貰ってくるから、わたしがあげても迷惑かなと思って」
 すらすらと自分の口から出てきた言葉は保身のための白々しい言い訳のようで、格好がつかないばかりか己の未熟な部分をさらけ出してしまっている。貰う数よりも込められた気持ちが大切だと高説を垂れていたのはほんの数分前のわたし自身だ。だのに、いざ出来上がったものをラッピングをしてしまうと、とたんにそれを相手に渡すことに臆病になり、彼との関係性に変化を生み出すことにこわくなり、そんな生半可な覚悟なら渡さなければいいとさえ思ってしまう。
 チョコを渡さなかったときの後悔よりも、渡してしまったときの後悔の方に深く傷つけられて、いっそうみじめな気分になるだろう。ろくな勝算がない今のわたしがそう考えるのは自然なことだった。
 ヒュースはなにも言わず、ただじっとピンクの包装紙を見つめて、それからおもむろに手を伸ばした。
「じゃあ、食べていいか?」
「……えっ?」
「だれにもあげる気がないんだろ。今食べたやつとちがう味なら食べてみたい」
 わたしがいいともいやとも言わないうちに、彼の細長い指先が紙をてきぱきと剥ぎ取っていた。数十分に包んだばかりのそれがみるみるうちに裸の箱に戻されたのを、虚しさも悔しさもなく、ただ呆然と目の当たりにした。
 ヒュースは箱から焦げ茶色の長方形を摘んで、口のなかに放り込んだ。黙々と咀嚼する彼に、味はどう?と聞けば、それなりだなと返ってくる。
「これはなんて言うものなんだ?」
「ブラウニーだよ」
「ふうん」
 手のなかにあった一片のブラウニーがあっという間になくなった。すると、彼は箱のフタを閉めてわたしに手渡してきた。箱のなかにはあと四つ同じものが入っている。
「もう食べないの?」
「オレが食べてもよかったのか?」
「だって、先に食べちゃったじゃん……」
 わたしが手放すか迷っていたものをやや強引に手を付けたのは、ヒュースだ。結局彼が開けてしまったこのブラウニーは、今この瞬間からだれにも渡すことはできなくなったのである。
「そうだな」
 そう言いながら、悪戯げに口の端を上げたヒュースから、わたしは目を離せなかった。ぎいいと椅子が床に擦れて、彼が立ち上がる。
「バレンタインとやらは気持ちが大切なんだろ?オレに対する気持ちを込めてくれたら、ちゃんと最後まで食べる」
 じゃあなと彼はわたしを残してリビングを去っていった。彼に告げられた言葉が胸のなかを渦のように掻き回している。彼はどういう意味で言ったのか──その意図を汲み取ろうとしても、頭がうまく働いてくれない。
 ぼやぼやとしたまま、ちらりと、彼に返された箱を見下ろす。行くあてのないブラウニーをひとつ口に入れて噛み締めてみた。散々味見をしたはずなのに、今はこれが甘いのかもよくわからない。

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