けして彼を騙そうだとか、不義を働こうだとか、ましてや嫌われようなんてみじんも考えていなかったのは、誓って事実である。恋人に対する感情は付き合いたてのころから変わらない。いつだって彼に対してはひとりの男性として見る前に、ひとりの人間として、つまびらかに言えば、かのメロピデ要塞の看守長の座につく人として、畏敬や憧憬の念ばかり抱いていた。
 ただほんのすこし、わたしたちの関係性に新しい刺激があればと欲が出てしまったのだ。
 現状に不満を感じていたわけではない。ただ、あわよくば、もっと彼の胸中を暴いてみたかった。つねに隙を見せない彼の余裕を崩してみたかった。

 事の発端は一ヶ月ほど前になる。
 その日もいつもと変わりなく、メロピデ要塞の玄関口で水上からやって来る配達員の相手をしていた。囚人たちの生活に必要な、食糧や医療品や娯楽の数々は、たいていここの正面玄関で日々受け渡されていく。その巨大な積荷に不備がないかを確認し、納品書やら請求書やらを纏めて公爵に受け渡すのがわたしの仕事である。
 日の光が届かない水底においては、今日の天気というのも馴染みない概念だ。わざわざ地上に出かけなければ知ることはないけれども、その日はなんとなく強い日差しに恵まれた快晴だったのではないかと察しがついた。荷車を引く運搬人の男性の顔には水漏れしたパイプ管のように脂汗がしとどと流れており、長袖の作業服は見るからに暑苦しそうだったからだ。
 渡された書面を流し見て必要なところにサインを書きながら、ちらりと彼のかんばせを盗み見た。長身で体つきがよく、わたしと歳は変わらないだろうか、何度かここで会ったことがある。目深につば付き帽子を被った彼の表情ははっきりと認識できなかったものの、やはり炎天の下の重労働だったからか、普段見るものよりもいささか困憊の色を浮かべているように見えた。
 数名の刑務官が積荷の山を手際よく崩していく。サインした伝票を返すと、彼はわたしに軽く会釈をした。それから空の荷車を引いて地上への道を戻っていく。
 頑丈そうな肉体がたやすくしなだれる。まるで溶けかけの氷のような呆気なさで、地に沈んでいくようだった。すっかり精気が失われた彼のとぼとぼとした後ろ姿に、わたしは目を離せなかった。
 要塞にとっての大事な加担人の役目を全うしている彼だからこそ、さすがに哀憫の情を抱かずにいられなかった。差し出がましいとは承知の上で、彼の体を労わってあげたいと思ってしまった。
「あの」
 気がついたら彼を呼び止めていた。
 音もなくこちらを振り向くふたつの目がわたしを即座に捉える。よもや呼び止められるとは想定していなかっただろう。わたしだって完全に意志を決めて声を出したわけではなく、本当に、気がついたら彼を呼び止めていた。呆然とした表情の彼がこちらをじっと見つめているものの、しかし肝心の二の句が喉から出てこない。
 二秒、三秒と視線が交わりつづける。彼に怪訝に思われる前になんとかしなきゃ……。焦燥だった脳の滑車をぐるぐると回して言うべきことをようやく見つける。
「あの、よかったら、部屋で涼んでいきませんか?冷たいお水もありますし、すこし休まれてはいかがかと」
 内容もさることながら、自分の口から発せられた声はたどたどしく、怪しさが募るばかりだ。
「えっ」
「あ、もしよければの話ですので……いきなりすみません」
「いえ、そんな……むしろ有難いくらいです。いいんですか?」
 たしかに、いくら出入りを許可されている身分とはいえ、要塞には属さない余所者である人物を勝手にもてなすのは、果たして許されるのかどうか。一抹の不安がある。
 されども意外とここの職場は寛容で、ルールさえ守っていればある程度の勝手は放任されていた。問題が起こらないかぎりは干渉されない、それが公爵のスタンスであり、今の監獄の常識になっているのだ。
「はい、問題ないと思います」
 それに日がな懸命に働いてくれている配達員に水の一杯くらい、だれかに知られたところで咎められはしないだろう。
 一転、嬉々として顔をほころばせる彼をスタッフ用の部屋へと案内し、清冽な飲み水を用意する。そのうち彼は英気を取り戻して、自分の仕事のことや身の上話などぽつぽつと語りはじめた。業務上でしか関わることのなかった彼の素の一面を知れたのは、なんとなく得をした気分になる。

「提出するのはこれで全部か?」
 重厚な書斎机の上に並ぶのは、湯気のたったティーカップと今日の朝刊、年季の入った羽根ペンとインク、それから数枚の書類。公爵はおもむろにそれを手に取ると、その鋭利な瞳で中身を吟味しはじめた。
「はい。内容物確認しましたが、とくに不備はありませんでした」
「そうか。ご苦労だったな。他に変わったことはないか?」
 彼は書類の文字を目で追いながら、深々と椅子に腰掛ける。アンティーク調の大ぶりの椅子が彼の体重を受けて、ぎぃと軋む音を鳴らした。
 変わったこと、といえば、あった。汗だくの配達員をここで休憩させたこと。しかし、その待遇はわたしが勝手にしたことで、業務には直接関係のないことだし、わざわざ公爵に報告する必要があるかと問われるとなんとも言えない。
 悶々と頭の中で考えているうちも、公爵は目線は手元に置いたまま、話を聞く姿勢を崩さない。依然とわたしの返事を待っているようだ。
 そも、いっときの雑談が許されない間柄でもない。仕事上では一種の緊張感を持ち接しているが、わたしと公爵は職場の関係性からは一段踏み抜いたところにいるのだ。なにも遠慮することはないはずだ。
 しばしの逡巡ののちに、事の顛末をすべて公爵に話した。彼はしずかにわたしの話に耳を傾け、ほうといつもの相槌を打った。
「で、その彼は回復したのか?」
「はい、そのまま戻りました」
「たしかに最近のフォンテーヌは強い日照りが続いているようだ」と公爵は机上の新聞を一瞥した。一面記事には大きな見出しでフォンテーヌ廷の猛暑について取り沙汰されている。
 海中の暗澹たる冷気に覆われた要塞に長く居ると、地上がそんな騒ぎになってるのだとは実感が湧きずらい。まるで遠い異国の出来事のように感じる。
「人助けは悪いことじゃない。あんたの好きにすればいいさ。要塞内はどこも涼しいからな」
 予想どおり、咎められることはなかった。
 ……でも、これだけ?
 好きにすればいいと言い放った公爵に対して、釈然としない感情が呼び起こされ、なぜだかすんなりと溜飲が下げられない。いや、むしろ、なにも咎められないのならそれに越したことはないはない、はずなのに……。彼に対して何を求めているのか?と自問しても、上司としてはあれは最適な回答だったと認められる。
 では、上司ではなく、恋人としては?
 ひとつの疑問が頭に浮かぶ。わたしがモヤつく不満の種はそこにある気がした。
 けっして公爵を試そうとか、揺さぶってみようとか、はなからそんなつもりで宅配員の彼の話をしたつもりではない。けれど、まったく触れられないとなると、なんだか肩透かしを受けた気分になって、無意識のうちにわたしは公爵に関心を持ってもらいたかったのだとわかった。
 自分の関与しない場所で、恋人が密室で男女ふたりきり、しかも相手の男は素性をよく知らない外部の人間で……。恋人としての嫉妬心を擽る最適なシチュエーションのはずが、公爵からは何の追求もなし、信頼任せに放任されている。
 つねに紳士然として怜悧な振る舞いを崩さない彼が、付き合いたてのティーンエイジャーのようにいたいけな悋気を露わにすることなんて今までになかったし、想像もつかない。だとしても。わたしは勝手に期待してしまった。勝手に期待して、勝手に落胆している。

 公爵の性格と矜恃を鑑みた上でも、やはり恋人としてはさみしさを覚えてしまったのである。
 めんどくさい人間だと自負しているが、わたしは公爵に嫉妬してほしかった。こんなことをそのまま本人に伝えても、悪戯げな顔をして謝られ、甘い口先やらとっておきのデザートやらでわたしの機嫌を取って終わるだろう。それはそれで釈然としない。
 親愛なる恋人が、まるで難攻不落の城のようである。時間が経つにつれて、支配欲か意趣返しのつもりか、どうにかしてあの城を討ち取らんと意欲に燃えはじめた。
 均一に糊付けされたシャツに爪を立ててシワをつくるように、あの揺らぐことのない理性をめちゃくちゃにしたかった。つねに隙を見せない公爵の余裕を崩してみたかったのだ。

 翌日、予定の時刻にまた積荷が届いた。運んできたのは前日と同じく、あの長身の彼だった。
 彼はわたしの姿を見つけるとわずかに微笑んで会釈をする。
「昨日はどうもありがとうございました」
「いえ、大したことではないので」
「この仕事に就いて長いですが、あそこまでお気遣いいただいたのははじめてでした」
 伝票の束にサインを書きながら、いまだ感激している様子の彼の話に耳を傾ける。
 あの日、いくつか他愛ない会話をしていたからか、わたしと彼の距離感もいくばくか縮まったように感じる。どうもわたしに話しかけることに対する抵抗感はなくなったらしい。
 ──これは、チャンスかもしれない。そのとき、悪魔的な発想がわたしの頭をよぎる。
「……このあとは急がれますか?」
「いえ、ちょうど昼休憩の時間になりますが」
「食堂で食べていかれませんか?わたしもこれから休憩に入るので、もしよければ一緒にどうでしょうか」
 彼の瞳が大きく見開く。突拍子のない申し出に呆気にとられているようだ。焦りと緊張が入り交じる。心臓の音が喧しくわたしの体の内側を震えさす。
「えっと、こちらは問題ないです……」
 彼の困惑した声とわたしの安堵したため息が宙で溶けあう。ちくりと彼を利用することに対しての罪悪感が胸のはしっこをつついたが、もう後には引けなかった。

 食事に誘う、立ち話に興じる、ふとしたときに目が合えば親密な笑顔を浮かべて気さくに挨拶する……。一ヶ月、わたしと彼の関係性は今までよりも輪をかけて深く濃くなっていた。ふたりの変化については、傍から見ても明確だろう。
 正確に言うならば、そう見えるようにさせたのである。紛れもなく、わたし自身が。
 彼と仲睦まじく会話をするのは、もちろんメロピデ要塞内にかぎったことだ。しかし、それで十分なのだ。食堂や通路や正面玄関で、わたしと彼が和気あいあいとしていれば、わたしが関与せずともいずれ公爵の耳にも届く。このメロピデ要塞で起こりうるすべての変化を、公爵が知らないなんてありえないのだから。
 計略をめぐらしたと言うと聞こえが悪いが、あの彼が着火剤になればと思いついたのは事実である。不落の城が落とせないなら城のまわりで怪し火をたてるべく。しかし恋人の余裕をぐらつかせるためにあの彼とべったり仲良くするなんて、なんとも幼稚なことをしている。
 「変わったことは?」と公爵に尋ねられるたび、わたしは「特にありません」とだけ答えた。されど公爵は、そうかと頷いたきり追求しない。彼のことを知らないはずもないだろうに相も変わらず泰然自若とした様子の公爵に、わたしは内心悶々としていた。
 自分の愚かな計画のために善良な彼を利用しているのも、さすがに気が引けてきたし、もう止めるべきだろうか。
 そんなことを考えていた折に、突然その誘いは来た。
「あの、よければ休日に歌劇を観にいきませんか?気になる公演があれば僕がチケットを取りますよ」
 わずかに頬を上気させ、真摯な目つきで彼はそう言ったのだ。
「……え?えっと、それは……」
 想像だにしない事態に思考が止まる。
 いや、想像が足りなかったと言うべきか。それは、今まで自分の思うがままに彼を利用し公爵を揺さぶろうとした傲慢なわたしの頭を急激に冷ますものだった。危機管理が足りず、知らぬ間に自分の足元が泥濘に浸っていたのだ。
 当然、断らないといけない。断る以外の選択肢はない。
「ごめんなさい、観劇はちょっと……」
「なら、行きたい場所はありませんか?」
「えっと……その、ふたりでどこかに行くというのは……ごめんなさい」
 今にも消え入る声で告げる。告げた、というよりも、呟いたの方が近しい。とうてい彼の顔は直視できず、ひたすら自分の靴先を眺める。
 耐え難い沈黙が肩にのしかかり、息をするのも慎重になる。これほどまでに逃げ出したくなるような時間が今まであっただろうか。傷つく必要のない人を傷つけた罪悪感がずしりと質量を伴って体に被さる、罰を与えられている気分だ。すべて自業自得の他ならない。
「…………そうか」
 ぽつりと呟かれた彼の言葉に反射的に顔を上げた。ばちんと目が合う。──瞬間、彼の目尻は鏃のような吊り上がって、こちらを鋭く睨みつけていた。
「そうか、俺を騙していたんだな……」
「その……」
「俺を嵌めてコケにしようとしていたんだろ……そうだろッ!この魔女め!」
 突然襲い来る罵声に、ひぃと間抜けな声が零れた。今までの温厚な雰囲気から一変、彼は鬼神のような顔立ちをしておじけるわたしを見下ろしていた。彼のただならぬ雰囲気に気圧されて、思わず半歩ずつ後ずさるも、彼の腕がわたしの手を強引に掴みあげた。
「きゃっ」
 ぎりぎりと手首を締め付ける強さは尋常じゃない。振りほどくことも許されない、手加減のない力の強さに愕然とする。痛い、と声を漏らしても、彼の殺気混じる怒気は鎮まりそうにない。完全に理性のタガが外れている。
 視界の端で、彼がもう片方の腕を振り上げている。恐怖で頭が混乱していても、その屈強な腕がなにをしようとしているかなんてすぐにわかってしまった。固く閉ざされた握りこぶしがわたしの顔に勢いつけて飛び込んでくる。──きゅっと、目を固く閉ざした。
「…………?」
 けれども、痛みはいつまでもやってこない。そればかりかわたしの手首を掴む彼の腕が一瞬戦慄いた気がした。
 おそるおそる目を開いた。予想外の光景に息を飲む。
「こ、公爵……」
「よお。なにやら楽しそうに話しているのが聞こえてきたんだが。俺も混ぜてもらえないか?」
 口をあんぐりと開けた彼の拳を、背後から公爵が手のひらで止めていた。突然の看守長の登場に固まるふたりを前に、公爵は常時と変わらない悠揚迫らぬ様子で、それでもアイスブルーの瞳をぎらりと光らせている。
「宅配員くん、仕事中のきみにこんなに体力が有り余っているとは驚きだな。きみさえ良ければ特別にウチの決闘場を利用することも許可しよう。……もっとも、きみが暴行の罪で裁かれてメロピデ要塞に収容されるならいつでも利用可能だ」
 歓迎するさと言いながら、公爵は口元だけに笑みを携えた。
 激昂していた彼とはまた違う、べつの怒りだ。氷のように鋭くて身の芯から凍えそうな怒り……。
 我を忘れた状態であっても公爵の力には勝てないと悟ることができたのか、彼の腕の拘束がいともたやすく外れた。生気を失ったかのように項垂れる。
 それから彼はこちらを一瞥し、とぼとぼと踵を返してく。呆気ない退場だが、彼とはもうこれで顔を合わせることはない気がした。すっかり気迫を失った彼の後ろ姿は、フォンテーヌが強い日照りに見舞われたというあの日のものとよく似ていた。
「あ、あの公爵……」
 口の中で言葉の断片と唾液が絡まってうまく発せない。まず、なにを言うべきなのだろう?お礼と謝罪と説明とそれから……。言いたいこと、言わなければいけないことがありすぎている。
 公爵はわたしを見下ろし、ふぅと長い息を吐いた。眉間に皺を寄せたまま、ケガは?と尋ねられるので、わたしは勢いよく首を横に振った。
「念のため看護師長に診てもらうといい。その前にまず執務室に来てもらうがな」
 拒否する権利はない。わたしは首輪を繋がれた犬のように恭順に頷いた。
「詳しい話は後にするが……まったく、あんたは俺をどうしたいんだ?俺がここに来なかったらどうするつもりだったんだ」
「それは……考え及ばなくて」
「その考えなさで身を危険に晒すのか?」
「……ごめんなさい」
「はぁ……」
「……怒ってますか?」
「怒ってるさ。当然だろ」
 いつから?と聞きたくなるのをすんでのところで止めた。さすがに反省していないと思われかねない。しかし、公爵が怒りを覚えていたという事実にわたしは飛び跳ねたくなってしまう。つい数分前まで命の危険に脅かされていたとは考えられないほど、お気楽な恋人煩悩である。
 喜びたくなる気持ちを自戒の意思で押さえつける。ともあれ、しっかり反省するべきだ。もう二度とこのような馬鹿な真似はしないように。
「悔いているのは自分に対してもだな」
 公爵の言葉に、首を傾げる。
「従順に懐いているかと思えばこうして牙を剥かれるんだから、侮っていたな。ここまで頭に血が上ったのはひさしぶりだ」
「えっと」
「どうやら俺は恋人の教育を誤っていたらしい。そこに関してはこちらも反省の余地がある」
「あの……」
「不満があるから最初から俺に打ち明ければいいだろ?回りくどいことをして、よその男にベタベタ触られるのを許すなんて愚行をてっきりあんたがするとは思わなかったな」
「…………」
「だから、これからはっきりと覚えてもらおうか」
 なにを、とか細く零したわたしの言葉に、公爵はにこりと笑う。変わらず、その瞳はまっすぐにわたしを見つめて離さない。噛みつくことなんてけっして許さない。それは、わたしを飼い慣らそうとしている男の眼だ。

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