片手で布を押さえ、糸を通した針を表から突き刺し、つるりと飛び出した銀色の先っぽを人差し指で捕まえる。無心で針を通し続け、一直線に並ぶ縫い目を指の腹でなぞっていく。凹凸のある、この点の整列が好きで、一心に針を通しつづけていくあいだは余計な感情に支配されず、平穏な時間を過ごせるのだった。できれば、わたしの心の状態がつねにこの点の並びのように整然として落ちついていればいいのにと、馬鹿なことを願わずにいられない。
 今はまるで、針のむしろの上を素足で歩いているような気分だ。神策府の門をくぐるたびに、肺に酸素が巡りきらない苦しさを覚えて立ちくらんでしまう。忘れようと意識をすればするほど、過去の出来事が鮮明に思い出される。とっくに風化させていた記憶が次々と蘇っては、朝も夜もひっきりなしにわたしの頭の中をかき乱す。
 さりとて事態はわたし自身で解決しなければいけないのだ。過去は過去、今は今として決別をつけ、別人として生まれ変わった彼を別人として見るために、亡霊のようにわたしに纏わりつく不要な感情を追い払わなければならなかった。景元将軍に、大丈夫だと言い切ってしまったのだから。
 とりあえず、職場で彼を避けるのはもうやめよう。ごく自然に同僚として接していれば彼に対しての免疫もつくかもしれない。それに避ければ避けるほど、頭が余計に彼を意識してしまう。
 そう決心してから、なるべく普段通りの生活をするように心がけた。定刻通りに出勤し、日中はまめまめしく書類を捌く。ただただ目の前の仕事に集中する。青鏃から使い走りを頼まれればそれに従い、用があれば将軍や衛兵らと会話をする。──もちろん、彦卿にだって。
「前回の遠征で出た経費はもうない?」
 きょとんと丸い瞳がこちらを見上げる。胡座をかきながら握り飯を頬に詰めこんで、まさか話しかけられるとも思わなかった相手の登場に呆気にとられているようだった。数秒経っても返ってこない返事に、ねぇと催促しようとした矢先、彼の硬直がとけた。
「あ、うん!この前出した領収書が全部だけど……」
「そう、ならよかった」
「…………」
 なぜだか釈然としない顔をしている。わずかに開きかけた口の隙間で、わたしに言うべきか躊躇している言葉がぐるぐると巡回しているようで、しずかに待ってみてもとうとう彼が言葉を発することはない。
 だとしたら、確認するべき事は済んだし、ここに居続ける理由もない。無事に平静を装えているうちにこの場から立ち去りたかった。部屋の出口の方へ足を一歩踏み出した、その瞬間、勝ち気な少年にしては頼りない声が耳に届く。
「待って」
 呼び止められた。彦卿に。
「あの、すこし話したいんだけど、いい?」
「……話って?」
「……わかんない。何を話したらいいんだろう」すっかり参ってるように見える。彼は何かと葛藤して、挙句に支離滅裂なことを口走っている。「きみと話したいと思ったんだ。最近きみのことばかり頭に浮かんでしまって、でも僕はきみのことをよく知らない。これって、もっときみのことを知りたいって……僕が思ってるからだよね?」
 耳を疑った。今自分に向けられた言葉の内容を理解しようとしたとたんに、体のすべての機能が静止してしまった気がした。……彼は、何を言っているんだろう?
 彦卿が、自分の発した言葉の意味をきちんと理解しているのか、意味を理解しているならなおさらわたしに向けて言うべきではないのではないか、これは意図的なのか偶発的なのか。頭の中が混乱で渦巻く。目の前にいる少年の意思が何ひとつ読めない。
「なんか、おかしいよね」
 おかしくなっちゃったんだ。僕にもわからないけど、きみのことをずっと考えてしまって頭から離れないんだ。
 ぽつりと呟かれた彼の言葉が耳の底にこびりつく。脳がゆっくりと咀嚼をして内容を理解するのに時間をかけていた。わたしが彼のことを考えてしまうように、彼もわたしのことで悩み苦しんでいるというのだろうか。
 もしかしたら魂が、持明族としての彼の魂がわたしを憶えている?輪廻転生を経てもなお、前世で愛していた人間に惹かれてしまっている?──だとしたら、わたしは……いや、だとしても……。
 答えを言ってはいけない。わたしたちは前世で結ばれた仲だと種明かししてはいけない。もし彼に告げてしまったら、いずれ将軍の耳にも届くだろう。わたしたちが昔の恋人の残像を追って苦しみあっていると知られたら、一体どうなってしまうのか。
「……わたしにもわからないよ。でも、わたしたちは一緒にいすぎてはいけないと思う」
 声が震えていた。意思というより決意だ。
 これがわたしたちの最善の選択なのだ。さもなくば、わたしたちの関係性がおかしなことになってしまう。嘘は方便であり、城を守るための砦になる。たとえこの先ずっとふたりに隠すことになろうと、わたしは間違っていないはずだ。
 彦卿は何も言わず、ただ呆然とわたしの顔を見ていた。わたしの言葉に頷くことも、何かを尋ねることもなく、その瞳には一種の諦観さえ浮かんでいた。彼のその目つきは、昔の恋人が夢半ばに死期を悟ったときのものと残酷すぎるほど似ていて、やはりどうしても彼は生まれ変わりなのだ。
 振り返らずに、その場から駆け去った。彦卿がわたしに声をかけてくることはなかった。 

「葡萄の美酒、夜光の杯、飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す……か。今日は夜風が凪いで宙も澄んでいるように見える。こういう夜はつい酒を煽りたくなるな」
 景元将軍は窓枠に肘をつきながら外を一瞥し、硝子のお猪口を仰ぐ。振り向きざまに、きみも一杯どうかい?と誘う彼にやんわりと断った。
「夜酒はめずらしいですね」
「ああ。随分と溜まっていた仕事がある程度消化できたからね。軽い祝杯をあげているような気分さ」
「あまり飲みすぎると明日の公務に響きますよ」
「ははっ、公人らしいことを言う。今のきみは私の恋人ではなかっただろうか──ほら、こっちにおいで」
 彼の手招きに呼ばれるまま、裸足で床の木目を蹴る。そろそろと歩み寄るわたしの右手を引いて、彼は自分の大きな胡座の上に招いた。ツンと度数の強い酒の匂いが鼻腔を突く。
「ついでくれるか?」と問いかける将軍に、こくりと頷く。将軍の手の中にあるお猪口に冷酒を継ぎ足すと、つがれたとたんに彼はまた一口酒を仰いだ。
「お酒のアテはいらないのですか?」
「きみがいれば十分だ」
「……もう酔われてます?」
「手厳しいね。きみを口説きたくなるのは酒がなくとも変わらないさ」
 将軍の瞳が、窓辺からこぼれる月の光のようにきらめいている。彼はゆっくりと眼を伏せて、その犀利な視線でわたしの体の輪郭をなだらかになぞっていく。肩にかけられた髪先を彼の節榑立つ指が払う。
「もうあの羽織を着ないのか?」
「え?」
「きみが最近選んだ青い花の絵柄のものだよ」
 どくんと、一際大きい鼓動の音が体を揺らした。思わず将軍の顔を凝視する。
「とても似合っていたのに。しばらくきみが着ているところを見ていないね」
「それは……理由は、とくにないのですが」
 まるっきり嘘だ。あの羽織を腕に通すことは意識して避けている。あの花の柄を、彼の、彦卿の前で身に纏いたくなかった。『彼』がわたしに遺した桔梗に似た花を、彦卿の視界に入れてしまったら、なにかを思い出させてしまうのではないかと怖いのだ。
 将軍は表情を変えないまま、わたしを見下ろしていた。とくとこちらを見つめる瞳に引き込まれそうだ。雑音が遠くなり、焦燥しきった自分の心音がやけにうるさく響いている。ゆっくりと生唾を飲み込む。窓の外から射し込むつややかな月の光が大きく伸びて、窓辺に振り落ちるふたりの影をより一層濃くしていく。
「であれば、私からきみに新しいものを贈ろうかな。今度は私がきみに似合う花を見つけてもいいだろう?」
 分厚い指がわたしの後ろ髪を掻き分けて、直に晒されたうなじを撫でる。
「そんな、わざわざ見繕わなくても」
「私が選んだものをきみに着てもらいたいんだ。嫌かい?」
「嫌なんてことはないです」
「よかった。では、楽しみに待っていてくれ」
 ふと笑った将軍に、なんだか彼らしくない強引さを感じる。わたしが将軍からの贈り物を拒否できるわけないとわかりきってるはずなのに。その上で将軍は、将軍が手ずから選んだものをわたしが身に纏うことを望んでいる。まるで、あの青い花の羽織はもう不要だと告げられているようだった。

 朝目覚めると、体の感覚がはっきりとしない違和感を覚え、ゆっくりと起き上がっても頭が冴えない。体がずいぶんと重くなったように感じて、二本の足で踏ん張ることも疲れてしまう。気だるさと、視界の不明瞭さと、それから寒気も感じるし……。体温計を脇に挟むと、近年見たことのない数字が現れた。
 職場に休みの連絡をすると、二つ返事で了解を得られた。それから寝巻を着替えて、戸棚に常備していた丹薬を飲む。しばらくは横になっているべきだ。ふたたび寝床に戻って、そっと目を瞑った。
 熱風邪にうなされているうちは、時間の経過というものがよくわからなくなる。ここで目を瞑ってからどれくらい経ったのだろう。ものの数分のようにも、それとも記憶が飛んでいるだけでけっこう時間は過ぎたようにも感じる。さっきまでぼんやりと浅い夢を見ていた気がするが、それが高熱がもたらす妙な妄想なのかもわからない。
 意識だけが重たい体から浮上してゆらゆらと浮遊していく感覚。不明瞭ささえも気持ちいい。まるで、服を着たまま冷たい湖畔で水浴びをしているような。
 うつらうつらとしていると、突然、部屋の外から物音が聞こえる。──近くに誰かがいる。反射的に体を起こした。音の鳴るほうへ引き寄せられる。戸を開けた。
「────?」
 彼がいた。とうの昔にいなくなった恋人の男が。
 はっとした表情をする彼と目が合う。驚きに満ちたその瞳が戦慄く。
 もう一度、彼の名前を呼んだ。呼ぼうと意識していたわけではなく、自然とそれが口から飛び出していた。彼の驚愕した表情がやがて確信を得たものに変わる。その顔には怒りも悲しみもない。ただ、わかってしまった、という顔をしている。
 こうして彼の名を呼んだのはいつぶりだろうと数え始めて──気がついた。なぜ、ここに彼がいるのだろう。どうして、わたしは彼の名を呼んでいるのだろう。
「……将軍の代わりにお見舞いに来たよ。薬と食べやすいものと……あと、道中で花を摘んできたんだ」
 紙袋と、それから。
「めずらしい花だよね。どこかお姉さんに似てると思う」
 無垢な桔梗の花が彼の手の中で微笑んでいる。
「……あ」
「ねぇ、さっき呼んだのは誰の名前?」
「え?」
「呼んだでしょ、僕の顔を見て」
 その瞬間、血の気が引いた。冷水を頭からかけられたように意識がはっきりとしていく。熱で混濁した脳が正常に動きはじめた。わたしは、何をしてしまったんだ。今、目の前にいるのは彦卿だ。彼ではない。
「前にも話したけど、僕ずっと不思議だったんだ。お姉さんを見てると、なんだか気分が落ち着かなくなるし、つねに気になってしまうし。お姉さんも僕を避けたり、かと思えば普通に接してきたり、最後は突き放したり、よくわかんないなって思ってた。……でも、やっぱり僕たちはただの知り合いじゃなかったってことでしょ?」
「なにを……」
「僕たちは昔出逢ってるよね。僕が『彦卿』じゃないときに」
「…………」
 彼の問いには何も答えなかった。答えられなかった。しかし、沈黙は肯定と同じだ。
「ねぇ、昔の『僕』もお姉さんに花をあげたことがあるのかな」
 彦卿は手元の桔梗を見下ろす。花を通してどこか遠い遠い場所を見ているような目つきで。──その横顔は、玉兆を弄りまわしていた昔の彼にそっくりだった。
 とたんに、自分の視界が歪んでいくのを感じた。彼の輪郭が、まなざしも、眉の形も、唇の厚さも、あやふやになっていく。まるで、わたしの目の前で別の人間に変化していくように、ここにいるのが本当に彦卿なのかもわからなくなる。それは、ただ熱にうなされているからなのか、それとも……。
 一歩、彼が足を踏み出す。わたしと彼の間に引かれた境界線を易々とまたぐのを、わたしは呆然と目の当たりにしていた。体が動かない。ここまできて、はっきりと彼を拒絶せることができなくなっている。
 早く逃げなきゃ、と警鐘が頭の中に響く。でも、どこへ?この先はずっと針のむしろだ。三百年も忘れられなかった彼からどうやって逃げればいいのだろう。彼からも、彼が遺した傷跡を埋めてくれたあの人からも、今さら逃げることはできない。
「ほら、きみに似合うよ」
 ぱさりと、肩に髪先が触れる。まっすぐにわたしを見つめる純真な瞳。その瞳の中に、桔梗の花を耳にかけたわたしが映りこんでいた。


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