きっかけなんて覚えていない。ただそこに剣があるなら握るだけで、己の生きる道が剣を極めるためにあるのだとは、好きの過程で知ったまでだ。
 狐族発祥の習わしである「選び取り」では、幼児の周りに色々な物を置いて、そこからひとつ選ばせることでその子どもの将来を占うという。筆なら作家、そろばんなら商人、針と糸なら仕立て屋など。
 持明族である自分には当然ながら生まれの親なんていないから、そんな風習は受けたことがない。ただ、その「選び取り」の話を聞いたときは、僕だったら必ず剣を選んでいただろうなとぼんやりと思った。僕が剣以外の道を選んでいるすがたなんてこれっぽっちも想像できない。
 僕を拾った……僕の護衛先である景元将軍も、幼いときに同じ儀式をやって玩具の剣を選びとったらしい。やっぱり将軍だからというか、「選び取り」自体が必ずしも天賦の才が発見される信ぴょう性の高い儀式だとは思ってもいないけれど、そのとき将軍が剣を選んだことはきっと天理が定めた運命だったんじゃないだろうか。
「将軍は将軍になってない自分を想像したことある?」
 足のつま先に剣を立たせる。蹴鞠をあつかうように片足を上げ下げしてバランスを取ってみると、意外に体幹を使うもんだ。体の軸がふらついて千鳥足になる僕を将軍は木陰で涼みながら眺めていた。
「さて……将軍ではない自分のことはあまり想像したことがないが、もし雲騎軍での勤めが終えて羅浮を離れることができるなら、やってみたいことがある」
「へぇ。僕は兵士以外の職業なんて思い浮かばないよ。剣を極めること以外に興味がないからね」
「今はそうだろう。もしお前がこの先、剣魁の称号にも届くほどの実力をつけたとき、次なる夢は何になるのだろうね」
 まあ、今の実力では剣魁なんて夢のまた夢ではあるがな。景元将軍は余計な一言を付き足して揶揄うように笑った。
「……将軍、僕の実力を見くびっているといつか不覚を取るかもよ?」
「はは、口先ばかりが威勢よくなっても肝心の腕前がついてこないと意味がないぞ。まずは私から一本取ってみなさい」
 将軍はおもむろに立ち上がり脇に抱えていた剣を構えた。ゆったりと落ち着いた構え方に見えて、その重心は滅多なことでは揺らぐことがない。長尺の剣でさえ軽々と振り回し周囲を一網打尽に薙ぎ払うほどの剛力だ。
 柄に指を滑らせて散々と握りつぶされた痕をなぞるように宛てがう。ふたつの手で握られた剣を自分の眉間の前に構え、左足を半歩引く。白い陽の光によって濡らされた刃先を将軍に向けると、場の空気が打って変わってひんやりとして、鋭い冷たさを帯びて肌を撫で上げた。
 ──ああ、こうして剣を振るっているだけで僕は満たされるんだ。
 きっかけなんて覚えていない。いつからか僕は剣技の道を歩み、その極地を目指そうと決めた。重要なのは自分が抱いた野望で、自分が定めた目標だ。理想の未来を実現するために今の時間を費やすわけで、僕にとってはそれ以外のことはどうでもいい。
 求めているものは未来にあるのだから、役に立たない過去なんて振り返らない。まして自分の前世のことなんか眼中にもない。

 ▽

 花のような人だ。
 彼女を一目見たとき、ただ漠然とそう思った。まさか根っからの軍人である自分に、人を花に喩えるような風情があったなんてびっくりした。記憶しているかぎりでは今まで誰かをそういう風に見たことはないし、けれど彼女のその慎ましくありながら凛とした佇まいを目の当たりにすると、不思議とここにはない花のすがたが思い浮かんだ。
 花の種類には詳しくないけれど、ただ、ぼんやりとした形と色が見える。彼女を象徴する花。たとえばそれは、将軍の部屋の一輪挿しに生けられているような高貴な美しさを持った花でも、派手な花弁と香りで虫を誘う花でもなくて……。
「ねぇ、聞いたよ。お姉さんは将軍とそういう仲なんでしょ?」
 神策府に着任してから日も間もないうちに、お喋り好きの女官らが将軍のいわゆる女性関係の噂話をしているのをたまたま耳にして、それから話の中の登場人物の名前が初日に将軍から直々に紹介された彼女のものであることに気がついた。
 あの将軍がまさか自分の部下と恋仲になってるなんて寝耳に水だけれど、でも将軍もひとりの男なら恋愛のひとつやふたつ、おかしな話でもない。
 それにその相手が彼女なら……わかってしまうのだ。僕自身が一目見たときに感じた筆舌に尽くし難い彼女のあの雰囲気、人を惑わす魅力なのか人を惹きつける引力なのか、彼女の謎めいた力を将軍も気づいていたら。将軍が彼女のことを気に入るのも頷ける。
 偶然廊下で鉢合わせた彼女に挨拶をしたあと、ふと噂話の内容を尋ねてみると、誤魔化しも躊躇もなく、こくりと彼女は頷いた。これから将軍の周りを彷徨くことになる僕には隠すことはできないし、隠す必要もないと判断したのかもしれない。
「へぇ、なんか意外かも」
 思ったままの感想がふと言葉に出ていた。
 将軍が彼女を気に入る経緯は想像がついたけれど、彼女が将軍の恋人の立場を選んだことは、なんとなく意外だった。将軍の恋人という座はつねに多くの野心的な女性が虎視眈々と狙っていそうだし、本人の意思は関係なく、良くも悪くも注目を浴びてしまう。それこそ女官の噂話の種にされたり、はたまた軍内の政治利用に狙われたりすることだって絶対にないとは言いきれないのだ。
 見たままの彼女には、野心だとか自己主張だとか、そういうものがあまりないように思えた。彼女を悪く捉えているわけではない、むしろそれこそが彼女の個性であり、僕が感じた謎めいた力はそこに内包されているのかもしれない。
 ──そう、たとえば、花は花でも、道端でひっそりと陽の光を浴びて、鮮やかな色合いの花弁を広げている花。ふと目を向けなければ見過ごしてしまいそうな地べたに根を張りながらも、凛々しく清く咲いている花……。
「……それは、たしかに将軍とは身分不相応だと思ってるけど……」
「え?いやいや、そんな話じゃないよ!」
「?」
「お姉さんみたいな人が景元将軍を好きになるのが意外だなーって思ったんだ」
 言葉足らずのせいで思いもよらない受け取り方をする彼女に慌てて意味を説明すると、彼女はハッと目を開いて唖然とした。そして、まるでなにかを堪えるように眉間にシワを寄せてするどい目付きで僕を睨む。その穏やかな表情が様変わりするまであっという間だった。
 自分の発言のどの部分が彼女の癇に障ったのかわからない。しかし、彼女が険悪な様相をしているのは明らかで、それは自己防衛のための怒りとは異なって見えた。ただ僕の口から発せられた言葉にむかついて、さらに言うと傷ついているのかもしれなかった。
「あ、えっと、悪く言ったつもりはなかったんだ。お姉さんと将軍は僕から見てもお似合いだと思うよ」
 黙りこくった彼女にかける声がうわずる。
 彼女は自分の足元を見下ろしながら沈黙をつづけて、それからゆっくりと顔を上げた。曇りのない瞳と目が合う。
 今の彼女の顔からは怒りが、感情が消えている。さっきまで食いしばっていた口元が元の形に戻るように緩い弧を描いていた。
「うん、わかってるよ、大丈夫」
 そう言ってやんわりと微笑む彼女のことを、僕は大丈夫だと思えなかった。その言葉はまるで彼女が自分に向けて言っているように聞こえたから。

「将軍の恋人ってどんな人?」
 僕の唐突な質問に、景元将軍はいささか眼を丸くしたあと、ふと宙を見上げて思い耽る。
「一言で形容するのは困難だ。彼女の愛らしいところを巻子本にしたためても一軸で足りるかわからないのだから」
「ええ?僕に惚気けるのはやめてよ」
「はは、聞いてきたのはお前の方だ」
 恥ずかしげもなく、よくそんなことが言えるなあ……。歳をとりすぎるとこんなささいな惚気話には抵抗もなく羞恥も覚えないのか、聞いているこっちがこそばゆくなってくる。それとも将軍が無頓着なだけなのか。
 僕の発言で彼女を怒らせてしまったあの日から、神策府で彼女と遭遇することがないまま一日一日が過ぎていった。直接業務上の関わりがないとはいえ、同じ職場で働いていて、彼女の後ろ姿も一切見ないというのは有り得ることなんだろうか。余程勘が鈍くなければ、避けられていると考えるのが妥当だ。
 あの場で僕は謝罪をして、そして彼女は受け入れて「大丈夫」と答えたのはたしかに記憶に記されている。形上は一件落着したように見えて、じつは解決していなかったというのが僕の推察になるけれど、果たしてその核となる原因は全くもって謎のままなのだ。彼女は僕に対して、避けたくなるほどの感情──遺恨なのか侮蔑なのか怒りなのか──を今も抱いているのだと思う。
 だからといって、僕にどうしろというんだ。原因がわからないのに解決はできない。心当たりもないから、下手に的外れな言動をして余計に彼女を怒らせたくないし、結局は現状のまま過ごすしか無い。
 将軍に相談するのも……なんか違うな。たしかに将軍は僕と彼女の間を取り持つ役としては最適だけれど、このことに将軍を巻き込むとさらに厄介な事態を引き起こしてしまいそうな気がする。
 ふぅと浅く息を吐く。顔を上げると、正面から将軍のまっすぐな視線を受ける。その体の内側まで見透かされそうなするどい眼光で。
「他人に執着しないお前が自ら彼女のことを尋ねるとは意外だね」
「えっ?だって、気になるし……」
 ……あれ?そういえば、なんで僕は彼女のことをこんなに気にしているんだっけ。

 ▽

「──僕はきみを置いていなくなってしまう。こればっかりはどうしようもないんだ。だから……」
「だから?」
「……残酷な結末を変えることはできない。これは持明族にとってある種の呪いだよ。きみを巻き込みたくない」
「巻き込まれてるよ、とっくに。仙舟人として生まれたときからわたしも長命という薬師の呪いを受けてる身だもの」
「きみは頑固だね」
「ふふ、知らなかった?あなたに似たの。それくらいあなたがいない世界で生きたくないってことだよ」
「……そうだね」
 お互いの幸せを考えて別れを告げようとした僕を彼女は止めた。……いや、もしかしたら僕も心の奥底では彼女に止められたかったのかもしれない。僕を引き留めようとする彼女の手はどうしても振り払えなかったのだから。
 それから僕たちはいつか来る終わりの日まで仲睦まじく生活をともにした。僕にとっては一生分の時間を、彼女にとっては永永と続く人生のうちのほんの数十年を。
 いつからか徐々に自分の活力が衰え、抱いた野望も定めた目標も、そこに手を伸ばして追い求めることに疲れを感じはじめた。彼女には何も言わず、不安にさせないために平素通りに過ごす姿を見せていたが、結局のところ気づかれていたかもしれない。彼女は僕以上に僕を知っている。
「僕からきみに贈り物があるんだ」
「贈り物?」
「きみの家の近所の桟橋にささやかな仕掛けをしたのさ」
「仕掛けって?」
「今は見つけられない。そうだな、天気がよくて暖かい日が続いたら一緒に出かけてみよう。きっと姿を現すはずさ」
 桔梗という、彼女によく似た花だった。
 羅浮ではめずらしい桔梗の種を入手して、彼女の家の近所にある桟橋のたもとにばら蒔いた。毎朝水をやって様子を見続けていたが、花を咲かすためには程よい日照りが必要で、あと何日か経つころには僕の目論見は達成しているだろう。
 僕がいなくなるときにひとりぼっちになる彼女の心をすこしでも慰められたらと、僕の自分勝手な祈りのためにあの花は咲く。

 ▽

 仙舟同盟の会合から戻った将軍はいくつか書類を捌いたあと、また出かける用事があるとのことで席を立った。これからじきに日が落ちて多くの者が終業を迎えるころだった。
 僕もついていくべきかと問いかけると、将軍は些末な用だからお前はここにいなさいと断る。
 将軍の指示通りに長机のそばで立ち惚けた。周囲には話し相手もおらず、なにもしない時間が続くのは非常に退屈だ。そぞろに視線を動かして暇を持て余していると、ふと、金色の紐で結ばれた小さな巾着袋が落ちていることに気がついた。
 将軍の持ち物だ。中身はくわしく知らないけれど、つねに肌身離さず持ち歩いているから貴重品の類が収容されているのだと思う。
 数分前に出かけたばかりの将軍だけれど、もしかしたらこれがなければ困る場面に遭遇にするのではないだろうか。僕の考えは杞憂かもしれない。それでも、万が一、将軍がこれを必要としていたら……。
 しばらく巾着袋を手にして思い悩むも、ここで悶々とするくらいなら手っ取り早く行動した方が気が楽になる。やっぱり、これを届けにいこう。些末な用と言っていたはずだから、たとえ僕がその場にいても問題は起こらないだろう。
 思い立ったままに部屋を飛び出し将軍を捜した。警備巡回中の兵士に将軍の行方を尋ねれば、坪庭の竹やぶにそれらしき姿を見たと返される。
 ──なんだってそんな場所で……将軍はいったい何をしてるんだろう?
 馴染みのない場所、中身のわからない用事、すべて違和感だ。気味の悪い風が胸を撫で去っていくのを感じながら、急ぎ足で坪庭へ向かう。建物の奥に夕日が沈みかけて、うっすらと冷気を纏った宵闇が辺り一面に広がっていた。
「あ」
 暗所でも一際と目立つ獅子の鬣のような長髪。景元将軍の後ろ姿を遠目に見つけた。ゆっくりと歩み寄っていくと、何やら話し声が聞こえる。将軍は誰かと一緒にいるようだ。
「……何の御用でしょうか」
 高く澄んだ女性の声。僕はこの声の主を知っている。
「そう畏まらなくたっていいさ。業務時間外のきみを引き留めているのは私の方だからね」
 固い口調の彼女と相反して、鷹揚な喋り方で将軍は彼女との距離を詰めていく。
 ……この会話は僕が聞いてしまっても大丈夫なのだろうか?傍から見れば、将軍とその恋人である彼女の私的な会話を僕が盗み聞きしているみたいだ。
 頭では踵を返すべきだと認識しているのに、僕の足は石化したように動かなくなった。純粋な好奇心のほかに何かが起こりそうな予感がして僕の胸をざわつかせている。その『何か』を期待なんかしていないはずなのに、なぜだか僕はこのふたりの会話を見届けなければいけない気がした。
「ここに呼んだのは業務に関係ないことですか?」
「もちろん。それとも、私と私的な会話をするのは嫌だったかな」
「いえ!そんな、ことありません……」
「ああ。そうだろう、きみは私のものだからね」
「……将軍?」
「何でもないよ。話を戻すと、最近きみの様子が何だかおかしいように見えてね。出来れば私の公務が立て込んでいないときに、きみの話を詳しく聞こうと思ったんだ」
「わたしの……」
 ここからでは彼女の表情は確認できなかったが、恋人である将軍を前にして背筋を強ばらせ萎縮している。会話の内容はただ体調を気遣っているにすぎないのに、傍から見た彼女はまるで尋問されているかのようだった。
「きみを叱責するつもりはなかったんだが……生まれたての小鹿のように震えてるね。私に怒られると思って怖がっているのだろうか」
「将軍……景元、あの」
「うん」
「…………すこし、待ってもらえますか。わたしの不調は時間が経てばきっと良くなると思うので」
「ああ、もちろん」
 将軍の指が彼女の前髪を払う。剥き出された額に口を寄せながら、彼女の腕を自分の方へ引き寄せた。抵抗もなく彼女の華奢な体が将軍の恵体に覆われる。薄闇の中で引き立つふたりのシルエットから目を離せなかった。
 ……いや、これ以上は僕が見ていいものではない、ふたりに見つかる前にここを立ち去らなくては。
 結局のところ巾着袋も特段必要ではなく、ここに駆けつけたのはただの僕の杞憂だった。本来なら無駄足になったことを悔いているはずなのに、ただどうしてだか、ふたりのことが気になってしまう。ふたりの会話の内容が脳の髄に染み付いて離れようとしない。そればかりか、彼女の言った『不調』という言葉が引っかかって、将軍の抱擁を受け入れる彼女を見続けていると、自分の腹の底からムカムカと──正体不明の感情が沸き起こってくる。
 まるで僕の体が僕の意志を無視して反応しているみたいだ。僕の中に別の誰かがいて勝手に僕の体を操っている感覚。気味が悪い。こんなことは今までになかったはずなのに……。いや、違う。最近にも似たようなことがあったはずだ。彼女と出会ってからこんなことが続いている。
 彼女を一目見て、心が揺れ動かされるほど目を奪われたのも、将軍に慰められてる彼女を目の当たりにして、得体の知れない不快な感情に襲われているのも、すべて、すべて、彼女だ。彼女がすべてを引き起こしている。
 なぜ彼女なのか、なぜ僕なのか、そもそも彼女は僕にとって一体何者なのか──僕は何もわからない。考えを巡らせても、出口の見えない迷路のようにぐるぐると思考が同じところで行き詰まって、答えに辿りつくことができない。彼女についての不可解な謎が焼却できないまま燻っている。
 ……ここで思い悩んでいてもしょうがない、さっさと立ち去ろう。深く息を吐いて、音を立てないようにゆっくりと後ろを振り向く。踵を返そうとした、その瞬間、視界の端で将軍の金色の瞳がこちらを見つめていたような気がした。


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