※彦卿が持明族の世界線。多々捏造あり


 はるか昔、とはいっても長命の種族にとってはそれほど遠い話でもなく、ざっと三百年はくだらないか。当時のわたしは成人の儀を終えて生家を飛び出し、長楽天のはずれにある仕立て屋で細々と生計を立てながら自活していた。
 今はもうその仕立て屋はべつの看板が掲げられており、わたしも長楽天から住まいと職場を移して長くなるけれど、当時の記憶は古ぼけることなくすべてが鮮明に色づいている。昨日のことのように精緻に思い出せる。洞天の儚げな美景、悠久の静けさが宿る悠暇庭、活気に溢れた行人の喧騒……。──そして若くして燃え盛るような恋情を覚えた彼のことも。
 彼は、持明族だった。誠実で、ときに豪傑で、玉兆をバラしては弄りまわすのが好きで、篆刻の技の道を極めるため修行に出たこともある。
 一心専念に自分の技を磨くことに長くない生涯を捧げる彼と、己の適性も知らず目標もなくぼんやりと生きてきたわたしは、まるで正反対の人生の歩み方をしていた。互いの人生は水と油のように混じることがないようで、じつはその逆、これが運命というやつなのかはわからないけれども、彼と出逢ってからほどなくして恋人となった。
「僕からきみに贈り物があるんだ」
 仲睦まじくそれなりに順風にともに年を重ねた。
 ふたりの見た目は年老いることなく変化はなかった。しかし、彼の情熱は、無防備なまま夜風に撫でられつづける蝋燭の炎のように以前までの苛烈さを失っていた。彼は自分の最期については不自然なほどになにも語らなかったが、それさえも終わりの予兆なのだといつしかわたしは察するようになった。
「贈り物?」
「きみの家の近所の桟橋にささやかな仕掛けをしたのさ」
「仕掛けって?」
「今は見つけられない。そうだな、天気がよくて暖かい日が続いたら一緒に出かけてみよう。きっと姿を現すはずさ」
 果たしてその約束は守られることはなかった。彼はそれからしばらくして脱鱗し、呆気なくわたしの元から去ってしまった。
 彼がいなくなったあと、彼が遺した多数の機械もどきを処分するのには時間を要した。残された者の宿命であり、持明族の彼と結ばれた時点でわたしが彼の身辺整理を担うことになるのだと心得ていたつもりでも、いざその立場になってみると思うように体が動かない。自分の店を休んで、のろのろと彼の遺した形跡を消していくうちに、ふと、ようやく、あの約束を思い出した。
 桟橋に向かった。一歩、二歩、歩みを進めて気がついた。
 花が咲いていた。濃ゆい青紫色の花々が白い陽の光を浴びていた。細っこい茎がしなだれて、星型のような花を四つ五つぶら下げている。みずみずしく花弁を広げる花々が、桟橋のたもとの一角を埋めていた。
 ささやかな色彩、足元に目を向けなければ気づかれないくらいにひっそりと咲いている。──その光景がじっくりと己のまなこに焼き付けられていった。
 さいごに彼が遺したのは、羅浮ではめずらしい桔梗の花だった。

 ▽

 贔屓の呉服屋で新作の反物を眺めてるときに、ふいにその一枚に桔梗のような花が施されているのに気がついた。
 手に取った瞬間、三百年前のあの光景が濁流のように脳内に流れ出す。いきなり頭の後ろを鈍器で殴られたような衝撃で思考のすべてが静止する。動揺する心音は激しく体の内側を揺らして、生地を掴んだ指先がかすかに震えていた。
 持明族の恋人との思い出はとうの昔に封印したはずの記憶だった。
 彼らは来世へと同じ魂を引き継ぎ、記憶をなくしてまた生まれ変わる。持明族との関わり方は人それぞれ見解が異なるだろうが、従来から彼らは記憶と人格をひとつの物差しにしており、同じ魂の器であっても中身がまっさらな状態で生まれ変わるならそれは別の人間になるのだという。
 脱鱗後、生まれ変わった彼をわざわざ捜すのは、彼自身を苦しめることだと理解していた。付き合っていた当時の記憶も人格もない『別人』となった彼から愛情を求めても、そこにふたりの幸せは生まれない。彼は死んで、ふたりの恋は明確に終わったのだと認めるのが自然の道理である。
 玉兆も工房も……長い時間の中で、彼の痕跡は跡形なく消え去った。桟橋のたもとに植えられた桔梗もとっくに枯れ果てている。
 だからこそ、この生地を目にした瞬間、息を飲んだ。体が震えた。一瞬で思考も視線もすべて奪われてしまっていた。
 ……まるで、あの桔梗が蘇ってわたしの前に現れたのかと思った。
「あら、そちらの柄、気に入られたのですか?」
 にわかに意識の外側から、人当たりのいい笑みを貼り付けた店主が声をかけてくる。
「えっと……これに似ためずらしい花を昔見たことがあったので」
「良いご縁があったのですね」
「……そうですね」
「ここでまた巡り会ったのはなにかの兆しかもしれません。お顔に合わせると……まあ、とても映えるわ!きっとこの花はあなたに良縁を引き寄せてくれるでしょう」
 と、強引な話術で捲し立てる店主に辟易となるも、この反物自体に惹かれていたのは紛れもなく事実だ。ちょうど一点物の羽織が欲しくて立ち寄った店に、奇遇にもそれと出逢ってしまった。一目見ただけなのに、眼裏に焼きつけられるような鮮烈で魅惑的な印象を受けて、他の柄が視界に入らないくらいに心を奪われている。
 とはいっても、この一目惚れは純粋なわたしの感性から来ているのだろうか。過去の男の影響を無視できないのではないか?青紫色の花を凝視しつづけると、どうしても脳裏には彼のかんばせがちらつく。
 散々と頭を悩ませた末に、思い切って購入することを決めた。いざ店主に伝えると、彼女は嬉々とした声をあげながら包装を始め、上機嫌を隠さない彼女の口がさっきよりもさらに滑らかに回る。
「上物の生地ですから、やはりお似合いだと思いますよ。将軍様もきっとお気に召すでしょう」
 その言葉には苦笑いを返すしかなかった。情報通の店主の余計な周到さは遠慮がない。

「おや、新しい羽織だね」
 わたしが身につけていたそれに、景元将軍は目ざとく気がついた。彼は袖口にやさしく触れ、しずかに花の柄を見つめている。
 悠々とした面持ちで、絢爛な肘置き椅子に寛ぎながらこちらを見上げるすがたは、先ほど仮眠から目覚めたばかりなのに、一枚の絵のように凛々しく存在感がある。
 巷では無眼だどうこうと勝手に噂されるけれども、これだけ起き抜けに顔をふにゃりとさせていても、わたしみたいな平凡な人間には底知れない威厳を感じるのだ。彼の柔らかい物腰で、ふとその威厳を忘れかけても、またすぐに畏れに似た緊張が走ることがある。
 将軍とその部下だ。自分の立場を考えれば畏まることは当然のこと。たとえ将軍と恋人関係になろうともそれは変わることがない。
 外交後に束の間の休息をとるために私室に戻られた将軍を呼び起こすよう、青鏃に頼まれたのが数分前。部屋に入ったときにはすでに将軍は起きていたが、どっしりと腰を下ろしたまま動こうとしない。
「はい。先日、お店で良い生地を見つけたので作ってみました」
 似合いますか?と冗談めかして問いかけると、彼はふっと口元を綻ばせて頷いた。
「ああ、とても似合ってる」
「よかった」
「この青みがかった紫色の花弁はきみの瞳の美しさをより引きたたせているよ。不思議と色合いがよく映える。自分で選んだのかい?」
 何気ない彼からの褒め言葉に、一瞬、喉の奥がきりりと締め付けられた心地がした。手ずから選んだのは紛れもなくわたし自身であり、あの店先で一目で財布を掴まれたのも事実だ。──けれど、同時に昔の恋人のことを思い出したのも事実だった。
 迂闊に口を滑らせると収拾がつかなくなるだろう。寛大な将軍なら数百年前の持明族の男との思い出話なんて取りに足らないものかもしれないが、今後もこの羽織に腕を通すたびに昔の男の遺香をわざと纏わせているのだと変な誤解をさせてしまいたくない。
「……はい、わたしの好みの柄でしたので」
 返事をする声がわずかに萎んだが、将軍は気にすることなく話を続けた。
「そうか。私の恋人は良い審美眼を持っているようだね」
 上司が部下を褒めるときとはまた違う……ふたりきりのときにしか出さない甘く穏やかな声音だ。がっしりとした厚みのある体躯に似つかわしくない温和で尖りのない瞳がわたしを見下ろしている。ふいに腰回りに彼の手が回され、エスコートするようにゆるやかに、けれど抵抗を許さない力の強さで体が引き寄せられた。
「将軍様、そろそろ公務の時間が」
「呼び方」
「……景元」
「ふふ、つねに呼び捨てでいいと言ってるのに」
 気兼ねなく主君を呼び捨てにするには、青鏃のように割り切って接する度胸がない。じとりと見つめ返すと、彼は擽られた子どものような笑みを零して羽織に指をかけた。たやすく肩口から布が外されて、絵柄の青い花が手折られる。新しい羽織は呆気なく部屋の床に沈んでいった。
「いくら美服で粧し込んでいても、私が脱がせてしまうから味気ないな」
 悪戯げにささやかれたその言葉は、この時間の先を気ままに仄めかしている。またもや公務の時間に遅れてしまって青鏃に小言を言われるのではないかと、数刻後の状況を察してひそかに嘆いた。
 ……かといって、こちらをじっと見つめる黄金色の瞳からも、慣れた手つきで体の輪郭を撫でる分厚い手からも、逃げるすべはない。従順に受け入れるしかないのだ。彼の気まぐれなわがままには、きっと誰だって敵わないだろう。
 しなやかな指先で顎先を掬われて、わたしの顔が上を向く。わたしを捕らんとする男のつよい眼差しにひるんで足が竦みそうになる。ゆっくりと近づくふたりの距離と布越しに感じる彼の感触に、わたしは目を瞑る。

「はぁ……それで?どうして景元を呼び起こしに行くだけのはずが、こんなに時間がかかってるのかしら」
「それは……色々あって」
「色々ね。ま、さして重要な仕事があったわけじゃなかったからよかったわ。将軍もそれを知っててずいぶん長い休息をとっていたのだろうけど。あと、今度からはどんなに急いでいても鏡を見てくることね」
「え?」
「口紅が口の端からはみ出てる」
 一瞬。時が止まり、顔から火が出た。
 思わず口元を隠すわたしに、青鏃は呆れたため息をついた。雑談に興じていようが、仕事中の彼女の手は休まることがない。
「……そういえば、将軍様はどこに行かれたの?」
 つい数分前わたしとともに着座の間に戻られた将軍は、そこでいくつか書類に判を押したあと、すこししてどこかへ立ち去っていた。
「新しく驍衛をつけるそうで、その相手と顔合わせをしているのよ」
「驍衛?景元将軍の?」
「ええ。なんでも兵卒の剣士らしいけど」
 だいぶ幼い少年の見た目をしていたわ。どうも持明族らしいけど。

 ▽

 彼と出逢う前まではひとりで地に足をつけてちゃんと生きていたはずなのに、彼が脱鱗しわたしの元を去ってしまってからは、その『ちゃんと』が出来なくなってしまった。
 わたしの覚悟が甘かったのだ。長命種である自分が持明族の人間と関係を持つとどうなるかなんて、結末は何度も何度も想像できていたはずなのに。いざ自分が愛した人に置いていかれると、体は鉛のように重くなって、生きる気力も湧かなくなった。
 食事も娯楽も仕事も、何もかも手につかない時間が多くなり、好きだった仕立ての仕事は辞めざるを得なかった。しばらく家の中で塞ぎ込んでいたが、とうとう身銭が底を尽いたので新たに職を探しに外に出なければいけなくなった。
 馴染みのある風景は否応なしに昔の思い出を蘇らせる。ありきたりな長楽天の街並みは、わたしの心臓を不気味に撫で回すように居心地の悪いものになった。彼との思い出が宿るその場所に近づくだけでも自分の孤独がさらにみじめに感じて苦しくなったし、もしかしたらどこかで……生まれ変わった彼にまた再会するのかもしれない、と余計な期待をしてしまう愚かな自分がいた。
 離別の苦しみは時間が解決するとよく聞くけれど、わたしにとってそれがいつの話になるかもわからないし、すべて解決してくれる保証もないのだ。
 ふとして、きっぱりと未練を断ち切るには環境を変えるしかないと思い立ち、腹を決めて住み慣れた街を去った。余計な思案を挟まないくらいに多忙で、前職とはまるっきり毛色の異なる仕事を探していた矢先、雲騎軍の技官採用の報せを聞いた。
 正直、神策府に縁があるとは思わなかった。半分度胸試しで受けた採用試験がなんと無事に通過し、軍事のこともろくに知らないわたしは青鏃の配下で一から勉強することになった。
 それからは悪戦苦闘の毎日だ。しかし、日々新しい知識を吸収し、あくせくと働きつづけていると、なんだか心の調子も快方に向かった。職場の人間関係にも恵まれ、美味しいものを食べて精一杯働いてぐっすり眠って……を繰り返すうちに、ひとりの夜に涙を流すことも滅多になくなっていた。
「おや、新しい技官か」
 その日、はじめて景元将軍と鉢合わせた。
 それまで一方的に将軍のことを知っていたものの、直接顔を合わせて対峙したことはない。敵意のない温和な瞳がわたしを捉えて、彼は気さくな口ぶりで言葉を続けた。
「青鏃が言っていたよ。優秀な部下のおかげで自分の残業時間が減ったとね」
「そんな、恐れ多いです」
「もう仕事は慣れたか?」
「ええ、皆さんやさしくしてくださるので……」
「志しが同じ者であればどこの誰だろうと受容し歓迎する、それが我が雲騎軍のやり方だ。そして、皆に認められることはきみ自身の力のおかげさ」
 将軍という立場の人がこんな目下の者に寄り添った言葉をかけてくるとは……。冷厳とは無縁のようでありながら、柔和な物腰で、主従の垣根を越えた親しみやすさすら感じる微笑を浮かべている。まっすぐにひとを見据えた瞳の奥には慈悲深さと将軍たる威厳が混在しているようだ。
 将軍との初対面はわたしにとって衝撃的なものだったけれども、不思議と苦手意識が芽生えることはなく、むしろその後は忠誠や敬服を越えた感情を抱きはじめていた。明確に彼を特別視し始めたのはいつからだろう……それでも、ふと気がついたころにはすでに将軍に惹かれていたし、幾度となく自分の心境を整理してもそれが恋心だと認めざるを得なかった。
 将軍と自分の立場のことを考えるとあまりに分際を弁えないように感じるが、どうしてだか、わたしはみずから前途多難な恋路を進んでしまう質なのか。思えば持明族の男を好きになったときも、恋仲になるきっかけはわたしの方にあった。
 しかし、自分の主君をそういう思慕の念が入り交じった目で見回したり、よもや主君から女として見てもらおうと取り入るなんてことは出来ない。一度態度に出してしまうだけで、職場の風紀も乱しかねない。
 もちろん誰にも言うつもりはないし、この感情はどこにも漏らさず蓋をして、ひっそりと消えていくのを待つのが懸命だろう。わたしは将軍への誤った感情が消えるのを待つことにした。
 それからは一心に仕事と向き合い、なるべく将軍を視界の内にいれないようにしながらやり過ごした。このままうまく目の前の仕事だけに集中していれば、いつしか、将軍に恋心を抱いていたなんて一時の迷いだと笑い飛ばせる日がくるのだと考えた。──考えてはいた、はずだった。

 神策府で働きはじめて一年が過ぎたころだ。
 あくる日から将軍が曜青に出向かれるらしく、しかも今回の外交は数日に渡ると青鏃から聞いた。数日間、神策将軍の座は空いたまま(おそらく太ト様が臨時の代理を務めるのだろう)になるが、将軍の不在も関係なく青鏃は青鏃で仕事に追われてため息をついていた。
 青鏃に、いくつか仕事をわたしに分けてよと言えば、あなたに分けられる仕事はないわよとすげなく断られる。
「ああ、違うの。誤解しないで。あなたにはあなたの仕事があるから実際無理だと思ったの」
「わたしの仕事?」
「景元と一緒に曜青へ行ってもらうから」
「え?」
 聞き間違えか、ととっさに耳を疑うも、目の前の彼女は平然と言葉を続ける。
「曜青の方から各地の視察訪問に招かれているの。あちらの工造司や産業団地を訪問して記録するのがあなたの仕事よ。ともかく彼とは毎日一緒に過ごすことになるわね」
「……青鏃じゃなくてわたしの仕事なの?」
「さぁ、将軍のお考えは私にもわからないから」
 と、青鏃は肩を竦めた。彼女にわからないものはわたしだってわからない。
 将軍の命ならば我々に逆らう余地はないし、主命の意図をすべて理解できると自負するほど傲慢ではないけれど、なぜわたしに任されたのだろうか……。そもそも、新米のわたしなんかが初の外訪で役に立てるとも思えない。
 日が明けて、わたしは自分が行く意味もわからないまま舟に乗った。曜青の港に着くなり衛兵が迎えに来て、さっそく景元将軍とわたしは天撃将軍の謁見に向かった。道中の将軍は非常に落ち着いて見えて、移動中の星槎では目を瞑っていた。
 会談も視察もスケジュール通りで、二日目三日目とつつがなく続いた。あちらの接待が丁重でよく配慮されていたためか、道中不便を感じることもなく、初日に感じていた焦りが嘘のように平穏無事に最終日を迎えた。
 やることもすべて終えたし、帰りの時間を早めましょうか。将軍にそう尋ねると、すこしだけここら辺を散策しないかと思ってもいない返事。
「散策、とは」
「言葉通りの意味さ。本来ならば、もうしばらくここへ滞在する予定だったのだろう。たまには余った時間を有効に活用してみるのも悪くない」
 はあ、と歯切れ悪い声が出る。ただ歩き回るのならわたしが側にいる必要はないのでは……。と、言葉にしなくとも顔に出ていたらしい。将軍がやさしく目を細めて微笑む。
「きみもぜひ一緒にどうだい?無理強いはしないが」
「いえ、無理だなんて」
「そうか。なら、行こうか」
 将軍が歩き始めるのに合わせて、その大きな影を踏むように彼の後ろをついていく。
 庭園、茶寮、名だたる宮閣に戯園まで──。将軍はわたしを連れて曜青の名所を回った。人も文化も街並みも、羅浮とはまた異なるあでやかさで溢れている。行く先々で目を奪われていくわたしを将軍は穏やかに見つめていた。彼が曜青の観光をしたがってたというより、わたしに案内したかったのではないかと……彼の表情を盗み見たとき、そう感じてしまった。
「思う存分楽しめたかい?」帰りの舟が待つ港へ向かう道中、おもむろに彼は尋ねてきた。わたしの返事を聞いた彼は嬉しそうに顔をほころばせる。「ふふ、それはよかった」
「あの……将軍様」
「なんだい」
「どうして今回わたしが同行することになったのでしょうか」
「どうしてだと思う?」
 いくら頭を捻っても答えは出てこない。
「あけすけに言えば、きみとともに来たかったから……という答えになるが」
「……よくわかりません」
「はは、では答えが見つかるまで熟考を重ねてくれ。最近きみがやけによそよそしくなったのが面白くないんだ。その意趣返しだよ」
 将軍は気づいていたんだ、という驚きで声が出ない。呆然とする部下を彼は満足げに見下ろしていた。
 主従関係にふさわしい距離をとっていたふたりのあいだの空気が、あいまいな甘さを纏った男女のものになり始めたのは、おそらくその日がきっかけだったと思う。
 『どうしてわたしが?』という問いかけの答えは、熟考を重ねるまでもなく、ごく自然に詰められた距離感やわたしの名前を呼ぶときの彼の表情から察しては……それらがただの自惚れではないと知らされるのだ。将軍への恋心を捨てようとしていたわたしをさり気ない強引さで引き止めたのは、紛れもなく将軍自身だった。すべて景元将軍の手の上で転がされるように、わたしたちは今までの形式的な関係から線を一歩踏み超えた。

 ▽

 新しく兵卒の驍衛をつけるという景元将軍の考えには、異を唱える者も少なくなかったと聞くが、結局は将軍の思い通りに駒が進んだ。神策府で働き始めてから、しばしば将軍と他の上層部で意見が食い違う場面を目にしている。将軍が言いくるめるのかつっぱねるのか、説得の様子はわからないけれども、きまって毎度将軍の意向通りになるのだからやはり恐ろしい人だと思う。
 その驍衛たる人物が今日より正式に将軍の側仕えになるらしい。
 出勤して早々に着座の間に向かうと、将軍の眼前に兵士らが数名整列している。なにやら聞きなれない声が列の向こう側から聞こえてくるも、鎧の軍勢が壁のように隔てているせいで声の主を探すことができない。こちらからはかろうじて景元将軍の顔がちらりと見えた。
「名は彦卿と申します。本日より景元将軍のお側に仕えることになりました」
 どうぞよろしく、と気さくに挨拶をする声は声変わり前の少年のものだった。厳格でしかつめらしい神策府の空間ではあまり馴染みのない明朗さに溢れている。
 新入りに対する懐疑的な兵士や事務官のどよめきが広間の隅々まで広がるも、将軍の一声がそれらを消し去った。やがて、ぞろぞろと列が崩れて彼らが四方八方に去っていく。目の前の人影が無くなってやっと視界が開けてきた。
 ──ふと、視線の向こう側にいた将軍がこちらに気づき、わたしの名前を呼んだ。それと同時に、となりの少年が振り向く。
 少年の瞳がわたしを見つける。不思議な引力で目を奪われた。彼の顔をまじまじと見つめる。
 体の内側を激しく鳴らす不気味な鼓動が耳の奥を震わせる。その瞬間、わたしの世界が静止した。ひとの声も虫の羽音も一切消えて、闇の底へ放り込まれたように何も聞こえなくなる。無意識に開きかけた口は声を発することも忘れていた。
 顔を形づくるそのすべてがまるで鏡合わせのようにそっくり似ていた。顔の輪郭、まなざし、眉の形、唇の厚さ……。これほどまでその特徴を受け継いだ人物を見たことがあるだろうか?疑問が頭に浮かび上がるも、彼があの種族であることを考えれば自ずと答えは導き出される。
 わたしの古い記憶の中の男が、そこにいた。
「きみも来ていたんだね。先ほどの紹介は聞いていたかい?彼が彦卿だ」
「…………」
「?どうした?」
「あっ……その、なんでも、ないです……」
「そうか。彦卿、彼女は青鏃の部下で軍の庶務を行っている。ここでなにか不便なことがあったら彼女に尋ねるといい」
 無垢な丸い瞳がわたしを見据える。一片の濁りもなく強い光を目の奥に宿す彼は、一心専念に玉兆を触っていた昔の恋人そのものだ。見た目の年齢は違えど、記憶の中の恋人の輪郭が目の前の少年とぴったりと重なっていく。少年の至るところから彼の面影を感じてしまう。
 ゆっくりと唾を飲み込む。彼らはわたしの心境なんて露も知らないだろう。いや、このことは知られてはいけないのだ。絶対に。

 運命のいたずらか。まさか、ここで彼と再会することになるなんて、夢にも思わなかった。彼を忘れるためにここに来て、うまく新しい恋で上書きして過去とはきっぱり決別したはずが、まさかこんなことになるなんて。
 正確に言えば、彼は『彼』ではない。同じ魂の生まれ変わりでも、今の彼は名前も生業も志しも違う。わたしの知る男とはまったく異なる人生を歩んでいる。
 ──つまり、今更わたしが気にすることなんてないのだ。突然の邂逅には衝撃を受けたものの、今のわたしは、昔の恋人に対して未練や哀愁やはたまた思慕の感情なんて、欠片も持ち合わせていないはずだ。過去は過去であり、長らく蘇ることなく綺麗に風化されていた思い出なのだから。
 朝、平常通りに職場につき、机上に山積みにされた書簡や軍用書類に目を通す。黙々と作業を続けていると余計な思考を挟まずに済んだ。いつの日か、将軍への感情を忘れるために、ここで籠城して一心不乱に書類を捌いていた時期を思い出す。
 ある程度やりこなしたところで、ふと思い出した。たしか、今日は一日将軍が府内にいる予定だ。将軍の承認が必要なものをまとめて庶務室を出ると、前方からコツコツと足音が聞こえて面を上げた。
 足が止まる。
「あ、お姉さんだ」
 彦卿だ。
 自然な流れで視線が交わる。軽快な笑みを浮かべながら彼はわたしに近寄ってきた。
「こんにちは。これから景元将軍のところに行くの?」
「……そうだけど」
「ふうん。ねぇ、聞いたよ。お姉さんは将軍とそういう仲なんでしょ?」
 将軍の驍衛なら自ずと知ることになるだろうし、もはや隠しておく道理もないので、その質問にはこくりと頷いた。
「へぇ、なんか意外かも」
「……それは、たしかに将軍とは身分不相応だと思ってるけど……」
「え?いやいや、そんな話じゃないよ!」
「?」
「お姉さんみたいな人が景元将軍を好きになるのが意外だなーって思ったんだ」
 今のあなたにわたしの何がわかるの、と飛び出しそうになった言葉をすんでのところで飲み込んだ。この言葉が根ざす感情は不満なのか、当てつけなのか……だとしたら誰に?目の前にいるのは過去の恋人ではなく、彦卿という名の少年だ。だというのに、彼の口から今のわたしが選んだ恋人のことを言われると胸の中が荒波だって、感情的にいらないことを口走りそうになってしまう。
「あ、えっと、悪く言ったつもりはなかったんだ。お姉さんと将軍は僕から見てもお似合いだと思うよ」
 黙りこくったわたしに彦卿は慌てて言葉を継ぎ足した。
 彼は何の悪気もなく言ったのだと、頭では理解している。問題は、彼を彼として見れていないわたしの方にある。目の前の彼に、昔の亡霊の影を映して見ることをただちにやめなければいけない。──自ら厳しく叱咤するように、頭の中で警鐘が延々と鳴り響いていた。
「うん、わかってるよ、大丈夫」
 わかってるから、大丈夫、大丈夫……。
 口の中で反芻する。それは慰めの言葉というよりも、自分にかける暗示のようだ。

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