岩王帝君を祀る神像の、その偉大な足元に、手づから摘んだ霓裳花を供えるのが璃月各地に蔓延る信仰の所作であるが、そもそもなぜ霓裳花という花なのだろうか。
 ある日、なんの脈絡もなく女はふいにそれを思いついて、はて、なんでだろうと首を傾げた。
 優雅な香しさと赤い花びらを絢爛に広げるすがたから、璃月では霓裳花は女性の象徴として見なされている。詩歌などの文学に不案内の女でも、古来からその花が女性的な意味を文脈上で果たすことはしるしばかりには知っていたのだ。璃月人にとっての霓裳花の心象は、かの璃月風土誌にも記述があるくらい有名な話だが、それを踏まえるとますます奇妙さを覚える。なぜ岩王帝君を──男神を象った石像に、そのような花を?
 女は不勉強であったが好奇心はつよい方であった。無知を恥だと感じる繊細さはあまりないが、かえってその分他人に教えを乞うことに抵抗を感じない。まさに直情径行に、たまたまその場にいた知り合いに己の疑問をぶつけた。
「どうして璃月人は神像に霓裳花を置くんでしょう。鍾離先生はなにかご存知ですか?」
 そう尋ねた相手は、女の雇い先である『往生堂』の客卿で、巷でも博識と名高い、鍾離という男だ。
 彼は女の質問にふむと間を置いてから、相も変わらず感情の読めぬおもさしで、けれどもいくばくか意外そうに眼を丸めて女の顔を見やる。
「きみの口からそんな話が出てくるとはな。罰当たりなことでもしてしまったのか?」
「急に気になっただけですよ。今まで慣習として見過ごしていたけれど、そういえばどんな由来があっての供物なのか知らなかったので」
 広大な璃月の地を縦断する本街道沿いに、岩の神の守護を受けた石像はいくつか鎮座している。豊穣やら無病やら、大人に言われるがままに目をつぶり祈念を捧げるという日課を砂を噛むようにつづけていた記憶が、頭の引き出しの奥にある。子どものころは、敬虔とは形ばかりに岩王帝君や祖国に纏わる伝承さえろくに知らなかった。
 女は、村じゅうの供物が置かれた神像のつめたい足元のことをよく覚えていた。土のついたタケノコや根菜、数枚のモラの小銭、なんだか光沢のある石っころとか……それから、やはり霓裳花も。
「遠い過去の時代から岩神に供え物をする伝統があったことは知っているか」
「たしか、住民の中から代表者を選んで神の御言葉を頂戴する際に、上等な供え物や祝詞を捧げたとか……」
「そうだ。璃月の繁栄とともにその役割は現在の七星が担うことになったが、およそ二千年前までは先住民と岩神が直接対峙していた。岩神の言葉はなによりも価値のあるものだ。彼らは等価交換として神に捧げるにふさわしいものを選りすぐるようになった」
「それが霓裳花?」
「いや、霓裳花は単なる比喩にすぎない。実際は──『霓裳花のようなもの』を捧げられたというべきか」
「?」
 女は怪訝な顔つきで彼を見あげたが、終ぞその金色の瞳と視線がかち合うことはなかった。彼の口が休むことはなく、まるで思い出話に浸るかのような口ぶりで話はつづく。
「『霓裳花のようなもの』が捧げられたのは長い歴史の中でも一度きりだったが、岩神はそれをとくに気に入って手元から離さなかった。その可憐な花の茎がくずおれ、萎れ、土に還るまで、岩神の愛寵はつづいた。以来、俗世では唯一無二であった供物に成り代わって霓裳花が捧げられている。言わば古い伝承の名残だ」
「はあ……その『霓裳花のようなもの』?はもう手に入らないのですか?」
 するりと女の顔に男の視線が滑らされる。一切のまばたきもはさまずに、彼のまっすぐな視線が女の眼を、頬を、くちびるをなぞっていった。温度を感じない瞳の奥でじっくりと確認するように女を見つめる彼の様相は、人から人に対するものというよりは、人から物に対する、はたまた神がこの世の万物を見下すようなものだった。
 ──あいにくか、女は時おり男が漏らす人ならざるものの気配にはまるで気がつかない。今の今までも、もしかしたらこの先も。
「そうだな。もしかすれば悠久の時を経て、鏡写しのようにそっくりなものが生まれることがあるだろう。……しかし、岩王帝君が亡くなった今では直接捧げることも叶わないな」
 彼の言い草に、女はふふと花弁が舞い落ちるようにふんわりと笑う。
「鍾離先生ってたまにおじいちゃんみたいな話し方をしますよね。そんなに堅苦しくしないで楽観的に考えましょう。きっと帝君のことだから、存命のうちに手中に収めていますよ」
 瞬間、ふたりのあいだを、清麗に香る小春の風が駆け去っていく。
 世界がふたりだけを切り取ったように、鳥の囀りや港の喧騒など、雑音のひとつさえ彼の耳に届かない。彼の中の時が止まり、やがてゆっくりと針が回り出す。
 女が発する言葉には不思議な魔力が込められているようだ。いや、言葉だけではない。そのやわらかな笑みの施し方から瞳の爛々たるかがやき、甘く軽やかな声のすべては、彼を魅惑して離さないのだ。あの時代もそうだった。彼女と瓜二つの、『霓裳花のような娘』と出会い、そして彼は──……。
 ふと小さく笑みを零した男を見つめ、女は思案する。神が特別ななにかに心惹かれたことがあったように、目の前の君子もなにかに執着するようなことがあるのだろうか……。すこし考えてはみたものの、やはり普段の振る舞いからは想像しがたく、先生にかぎってはありえないだろうというのが女の出した結論だった。

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