彼のことがこわい。思い切ってそう打ち明けたときに、きっぱりとわたしの所感を否定して彼を擁護するひとはスメールじゅうを探せばもしかしたら存在するのかもしれないが、あいにく今の今まで巡り会えた試しがない。あいまいに言葉を濁しながら困ったような笑みを浮かべるか、彼とあったいざこざの数々を掘り起こし因縁めいた口ぶりで彼に対する不満を列挙しはじめるか、反応はおおかたその二種類に分けられる。
 後者にいたっては、もはやわたしの抱く畏怖の感情とかけ離れている。けれども、彼に対してやり場のないわだかまりを抱えながら生きているひとにはささいな怖気さえ水を得た魚のごとく食いつかれる。図らずもよい着火剤になるのだろう。
 たとえば、彼と院生時代からの付き合いを続けるあのカーヴェ先輩も、冒頭のわたしの言葉を聞いたとたんに不愉快そうに眉根を寄せては胸の内に燻ぶり続けた鬱憤を一息に吐き出した。
「アルハイゼンは対人関係において友好的に振る舞う方法もそのメリットすら理解しているんだが、それでも頑なにやろうとしない。そこがアイツのどうしようもないところさ。無害でか弱い年下のきみにさえあの冷徹な仏頂面を崩すことなく圧をかけているんだろう」
 その場にいなくたってきみの戸惑った様子が目に浮かぶよ。やや大げさな手振りを加えて、それから呆れきったようなため息をついた。
「その、わたしの至らなさもあるし、彼の性格も理解しているので無理ににこやかにしてもらいたいとは思わないんですが……」
「だけど、きみの研究論文の監修をすると言ったのは彼だろう?本来なら懇切丁寧に指導してやるべき立場の人間が怖がられてるようでは……きみの成果にだって影響を及ぼすよ。そもそも、アルハイゼンに後輩の面倒を見るなんてこと自体無理な話だったんだ」
 かくして、杞憂は杞憂に終わらず、これが一般的な論文指導かと言われれば答えは否だろう。多忙の合間を縫ってもらった彼に途中経過のものを見せた際は、毎度怒涛の勢いで改善点が列挙する。彼の言葉を聞き漏らさないよう努めるのに精一杯で、こちらがあたふたと書きまとめている途中で彼は席を立ってしまう。
 それでも、彼が差し伸べてくれた手にすがるしかなかったのだ。
 アーカーシャ端末を改造して行われた国家に対する謀略が明るみにされて以来、知論派の賢者の席は空席のまま、ハルヴァタット学院に名を馳せていた学者も数名忽然とすがたを消しており、弊学は動乱の過渡期を迎えていた。従来の大賢者をトップに据え置いたピラミッドがてっぺんから崩れ落ちて跡形もなく砂塵と化したあとは、非常勤の講師に基礎科目の教鞭をとらせたり、繰り上げ式でその職位を埋めたりなど、まあ付け焼刃なことをつづけている。
 入学したばかりのわたしがそんな災難な一年にぶち当たるとは、運が悪かったのだと思う。けれども、いくら己の不遇を嘆いても進級課題の締め切りは無情に刻一刻と迫っている。しかも、同輩らは共同研究者を募って順調にことを進めているようであった。そも知識欲を好戦的な達弁で満たしているような知論派の学生の輪の中に、引っ込み思案の自分が入っていくこともできず、頼れる先輩だって見つけられず……。図書館の机で項垂れていたわたしに声をかけてきたのが彼で、一か月前のことだ。弱り切ったときに差し出された手を、何も考えることなく掴んでしまった。
「なんにせよアイツのそういう態度はもう治せないが、まあ野生的な人間ではないんだし、きみから一言きつめに言ったって構わないよ。むしろ、きみの言葉ですこしは態度を柔らかくするかもしれない」
「ひとこと……」
 とはいっても、自分が彼になにかを物申すなんて……。日が西から昇るくらい非現実的な光景だ。日常的に口喧嘩をしているカーヴェ先輩には考え及ばないのだろう。あの大樹のような巨躯や、凛然と光るするどいまなざしや、たけだけしい筋肉の隆起を見上げるだけで、手の中がじめりと汗をかく。彼の前で立ち尽くすたび、まるで野兎とかイタチとか矮小な生きものの気分になって、息の仕方を間違えば捕食されてしまいそうだと内心びくびくしている。
 カーヴェ先輩からの助言にはうやむやに答えたものの、やはりわたしとアルハイゼン先輩の相性はよいものでないし、迫りくる締め切りのストレスに加えて彼からの重圧感には、胃の底が締め付けられるような痛みを覚えている。ここ数日間、ずっと。
 もう思い切って、この関係を断ってしまおう。
 彼に論文の指導役を下りてもらうことを決心して家を出た。ちょうど、今日の午後は論文の修正案を見せるためにプスパカフェで約束をしている。
 カフェに到着すると、日当たりのいいテラス席に、長い脚を組みながら読書をしている彼のすがたを見つけた。一歩ずつ忍び寄っていくだけで心臓が口の端から零れ落ちていくようだ。
「あ、アルハイゼン先輩……」
 怯え切った声だ。燦燦と日が降り注ぐスメールの温暖な気候にはありえないほどに、体の芯から冷え切っている。
「きみか」
 パタンと手元の分厚い本が閉じられる。深いエメラルドグリーンの瞳がこちらを見やる。
「先週伝えた改善事項は手を付けられただろうか。第二章後半で述べた論述部分に、先行研究資料を引用して検証の正確性を補強するべきだと伝えていたが」
「その……」
「……」
「……はい」
 恐る恐る羊皮紙の束を差し出せば、彼の男らしくもしなやかな指先がそれを受け取る。それから無言のまま一枚一枚紙を捲っていく。自分の稚拙な文章をその射すくめるかのような視線がなぞっていくさまを、ただぼんやりと眺めていた。
「ふむ。すべて修正されている」
 すこしして、手元の紙から顔を上げた彼がそう告げた。
「このまま最終稿に取り掛かっても問題ないだろう」
「あの……」
「なんだ」
「えっと…………いえ、なんでもないです……」
 だめだ。彼が純粋な善意だけで施してくれる助けをはっきり断ることなんて、わたしには無理だった。あれほど頭の中で想定していたセリフも、彼を目の前にしてしまえば、喉の奥に引っ込んでしまう。彼のことがこわい。
 失意と諦観のはざまで力なく揺らいでいるわたしを、彼はまっすぐに見つめた。不純物のない透き通った宝石のような眼。けれど、どんなに光で透かそうとも彼が思案することはなにひとつわからない。
「――砂漠へフィールドワークに赴いた際、コザックキツネを何度か目にしたことがある」
 いきなり脈絡のない話だ。変わらずその語り口は固いままだった。
「砂漠の民たちが食糧とするのは、ワニなどの水棲動物や砂上で栽培可能な果実などがある。飲み水さえ貴重な彼らにとって日々の食糧を確保するのは我々の想像を超えて苦労がいるものだが、古来から砂漠に生息するコザックキツネはその食糧として選ばれたことはない」
 彼の口がすらすらと回る。依然として、この話が何を意味して、何を理解するべきなのか、わかりかねていた。
「その大きな理由のひとつは、コザックキツネは知恵と悠久の記憶を持つ生きものだという民間伝承によって、現地民から崇められていたからだとされている。それからもうひとつは、あの見た目にある」
「……可愛らしいからってことですか?」
「すべての部族に当てはまることではないものの、多くの人々には愛玩動物として認知されている。ときに人間は、自分より矮小で庇護欲の掻き立てられる動物に愛着を持つことがあるのだとは理解していたが」
 ふたつの眼がわたしを捕捉している。
 とつぜん、金縛りにあったかのように体は身動ぐことさえできない。息の仕方を間違えれば、捕食されてしまうなど……そんな妄想をしていたのはいつだっただろうか。はたして、それは本当に妄想なのだろうか。彼に対して感じる恐怖の中に、自分のうなじをするどい牙で狙われているような身の危険をわずかながら感じていたのだと、今の今になって気づいてしまった。
「それでも俺は食いつきたい衝動を覚えるようだ。きみを見ると、やさしく愛でるだけでは物足りなくなる」

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