渋く、味わい深く、青々とした爽やかさをまといながらも香り高い。なるほど、いつも飲み慣れている紅茶とはまた違った味と喫了感である。海の藻のような緑色の茶葉はまったくの未知のものだったから、たしかに最初のひと口を啜るのは勇気が必要であったものの、いざ飲んでみればそれはそれはよく仕上げられた茶葉だと感心した。
 天鳳棒茶というらしい。隣国の銘品と名だたる茶をもてなされ、戸惑いの感情を顔に隠さずにいたわたしに、彼は単身旅行の先で手ずから選んだ土産の品だと説明する。
 日もすがら執政に審理に何やらの処理に多忙を極めていた彼が、めずらしく休暇をとったのは昨日のことだ。おこがましいとは承知の上で彼を忙中閑なしと可哀想に思っていたのだけれども、最高裁判官たる彼が自らいとまを取ろうと思えば存外じつに簡単に取れるものだと知ったときは、ほっとしたような、なんだか胸のつかえが取れたような心地を覚えていた。
 またひと口お茶を飲み、ふと息をついて真正面に座る彼を見やる。
「落ち着きのある味と香りで気分が安らぎます」
「そうか。きみが気に入ってくれたなら購入した甲斐があった」彼はいささか満足気に口元を緩めて、その犀利な視線を部屋の片隅に向けた。壁際のサイドテーブルの上にはこれと同じ茶葉の箱が三つ四つ平積みにされている。「執務室にはきみの分も置いてあるから、好きに飲んでくれて構わない。退勤後でもきみの都合が良いときに来てくれたまえ。私自ら茶を淹れてもてなそう」
 かのヌヴイレット様ご本人から、ただの凡人の共律官である自分が茶汲みなぞさせてお咎めが下らないだろうか。この国の神はいなくなったが、わたしとて自ら不敬な行為で身を滅ぼしたくはないし、そも友好的に距離を詰められるたびに後先のことを考えては怯えている。──けれども、声に溌剌さを滲ませながら提案する彼にきっぱりイヤと断ることは、強固な心臓がなければむずかしいのだった。
 しばしの逡巡ののちに、頼りない声で返事をすれば、厳格な光を宿した瞳がかすかに笑んだように見える。それにしたって、あの茶葉の箱は多すぎると思うけど……。
「小旅行は楽しめたでしょうか」
「ああ。中々、異国の文化にじかに触れるというのは刺激的で新鮮であった。今度行く機会があれば時間をかけて散策したいと思う」
「気晴らしになれたようでよかったです」
「ふむ……きみもそのうち休みを取って遠出をするといい」
「わたしが?」
 きょとんと目を丸くするわたしを彼は真っ直ぐに見つめている。
「今年分の有給休暇は未消化だったはずだ。共律庭での責務に真摯に全うしてくれていることに感謝している反面、きみこそ息抜きが必要なのではないかと思慮していた」
「そんな、ヌヴィレット様がお気になさることでは……」
「私も最近知ったことだが、旅とはただの余暇の延長ではなく、己の知見や見聞を深めるに適している。けして強制するつもりはないが、よければきみにも体験してほしいのだ」
 たいへん善良で慈悲深く、頭が下がる。上司である彼がわたしを慮ってかけてくれた提言に、これもまた、きっぱりとイヤと言えるはずもなく。しかも、彼に勧められるがままに、異国の旅に対して興味もうっすら持ち始めていた。生まれてこの方、祖国以外の土を踏んだことはない。
「……行ってみようかと思います。ただ、わたしひとりで向かうには心細いので観光船のスケジュールを確認してみます。休暇申請はそれからでも大丈夫ですか?」
「問題ない。こちらで手配できることがあれば助力しよう」
「いえ、そこまでお手を煩わせるには……」
 萎縮しきってあたふたと首を横に振るわたしを菫色の瞳が入念に見つめる。ただ己の顔面を見ているというより、その眼の奥にはこの身を灼きつくすような強い力が宿されているようだった。その穏やかな虹彩の内側からは神秘的な光が瞬いた気がした。──ほんの一瞬、そんな気がしたのだ。
「きみはなにも心配することはない。気兼ねなく旅行を楽しみなさい」

 ルミドゥースハーバーから東に海原を進み遺瓏埠を抜け、またそこからいくつか海と河川を過ぎて望舒旅館に辿り着いた。国がら水上の移動には慣れていると自負していたはずが、動くときも寝るときも地平が揺らめいている感覚がつづくのは、なかなかどうして過酷な船旅だった。こればかりは備えようもない。
 船酔いで重くなった頭に萩花州の清冽な風が薬のように染みる。かすかに鼻を澄ませば、芳醇な甘さのお香のけむりとみずみずしく咲き並んだ霓裳花の馨しさを知り、たしかにそれらはフォンテーヌ廷では嗅ぐことのないものだ。
 一晩ここからの佳景を堪能して、明日には璃月港を目指すつもりである。名物の創作料理に舌鼓を打ったところで、日が暮れるまでのあいだ、その辺をぼちぼちと散策しようと旅館を出た。されども神の瞳を持ち合わせていない非力な女がひとりでうろつくのは物騒すぎるので、その辺といってもすぐその辺で、橋も渡らずに川辺のすすき野原や遠くに聳える山なりを眺めていた。
 石畳の段差に腰掛け、涼やかな川のせせらぎを聞きながらぼんやりしていると、やにわに自分の足元に影が落ちる。人の気配がした。ゆっくりとおもてを上げると、見知らぬ男が自分を見下ろしていた。
「旅客の者だろうか。この一帯は日が落ちるとヒルチャールの群れが移動を始めるからひとりでいるのは危険だ」
 端正な顔立ちの男の人だ。黒地に金の紋様が印された外套を身につけた彼はそう告げる。
「あ、えっと、そうなんですね。すみません、旅行で来ているのですがこの辺のことをよく知らなくて」
「気にすることはない。ここの民でさえ知らずに魔物の生息地に足を踏み入れることもある。俺の方こそ、きみのひとりの時間を邪魔して失礼した」
「いえ、邪魔だなんてそんな」
 声を張って立ち上がるわたしに、彼はしずかに微笑む。まるで絵画の中にいるような笑い方だった。
「きみはここに到着してまもないのか?」
「はい。フォンテーヌから船に乗り昼前に望舒旅館に到着したばかりで、やっと璃月の土を踏みしめているところです」
「そうか。旅商人や船隊の戦士でなければそれほど長距離の船移動も体にきつかっただろう。して、璃月を訪れたことは初めてか?」
「璃月どころかフォンテーヌの外を出たのも初めてです。職場の……上司が最近璃月に来た経緯があって、わたしに旅行休暇を勧めてくれたんです」
「寛容な上司に恵まれているとは僥倖だ」
 気さくで明朗な笑みの作り方だった。
「しかし、何千里と海山を超えようとも、きみを縛る鎖は錆びることも朽ちることもないようだ。強大な加護は俗人の身を守るのと同時に、授かったら最後その加護の主からは逃れられない契約を結ぶことになる。思うに、きみが今後彼から享受できるのは純粋な祝福ばかりではないのだろう」
「?あの……」
 突拍子なく奇想天外な話を始める彼についていけず、いきなり講談でも語られているのだろうかと呆然とした。呆気に取られるこちらにも意を介さずに、やはり彼はその人好きの表情を変えないまま話を続ける。人っけのない異国の川のほとりで見知らぬ男と、何とも妙な時間を過ごしている。
「不審がられるのは致し方ない。つい、きみの体にまとわりつく強い気配が気になり声をかけてしまった。余計な話は帰路の遺瓏の波濤に揉まれて忘れてくれ」
 忘れるべき話をされているのか、わたしはこのまま彼の話をなにも理解せずにすっかり記憶の中から消し去って、華やかな璃月の絶景だけを覚えて帰ればいいのか。
 けれど、これを覚えていたところでどうすればいいというのだろう。彼の話によって頭の中は消化しきれない混乱が渦巻いていた。やけに達観した目つきでわたしを見下ろす彼は、わたしを哀れんでいるようで手を差し伸べようとはしないし、警告めいた言葉を吐いても事態の詳細は語ろうともしない。神の啓示のようだ。
 言いたいことを言って踵を返そうとする彼の腕を、とっさに掴もうとして手が伸びた。瞬間。ばちんと静電気のような痺れが走る。空っぽの手のひらを見下ろすわたしの頭の上から苦笑まじりの声が降りかかる。
「たとえきみからの接触であっても、俺がきみに触れることをきみの主は許さないようだ」
 そういうまじない……いや、のろいがかけられている。彼はわたしにそう告げた。

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