会いに行かなければならない理由はない。責任もないし、ましてや誰かに強制されたわけでもない。それでも、こうして水の下に会いに赴いている。きっと根ざしているのはわたしのひとりよがりな自己満足でしかないのだと、うっすら自覚はあるけれど、見て見ぬふりをしている。
 結局のところ、どんなに酷いろくでなしの無法者の兄であっても、心の奥底では情や憐れみを抱いてしまうのだし、きっぱりと家族の縁を切って見限ることもできないのである。兄はたしかに筆舌に尽くし難い犯罪歴を、刑期五十年という重みに替えて背負っている。極悪な人間だ。
 それでも唯一の家族であるわたしにとっては、良き兄であり、理解者であり……はたまた心の拠り所だったのだろうか。人から見た兄と、わたしの記憶にある兄のすがたは全くもってちがっていた。ガコンガコンと、メロピデ要塞の重厚なエレベーターによって地下へと引きずり下ろされるたんびに、妹のわたしに施してくれたやさしさや慈悲をなぜ他の者にも分けてやれなかったのだろう……と、つい恨み言のようなものが頭をよぎる。
 凍えるような寒さではないが、素肌をじかになぞりあげるのは、日の下の生活では感じることのない冷たさだ。水底の冷たさだと思う。
 ここにはじめて訪れた際に、要塞と名付けらた意味を理解した。まるで地下帝国だ。ひとが行き交い、食事を摂り、労役に従事している。老若男女、あまつさえここで産まれる赤ん坊すらいるらしいが、すべてに共通しているのは日の光を浴びることができない身分であるということだった。
 通路の真ん中で、オイルとすすでからだのあちこちを汚した男女が声を張って賭け事をしているのを見かけた。となりを歩く執事は、さも不愉快そうに眉根を寄せていた。外の世界、それもわたしたちの階級で通用している常識はここではなんの意味もなさないのだとは、すこし辺りを観察していれば自ずと察する。
 さて、そんな国中のならずものが詰めこまれたこの要塞の看守長はいったいどのような人物なのだろうと、身を固くさせ、戦々恐々としていたわけだけれども。
「メロピデ要塞へようこそ、お嬢さん。あんたがあのダラスの妹さんか」
 出迎えたのはたいそう紳士然とした、それも端正な容貌の男性だった。
 自分が思い浮かべていた看守とは、冷酷無情に番人をつとめ、ときには棘のついた鞭で罪人をいたぶったり、そんな無慈悲なイメージがあったものだから、懇篤に、それも上等な口触りの紅茶までもてなされるなんて思いもよらない。しかも、事前には、罪人上がりの看守長だと聞き及んでいたのだ。
 リオセスリという。彼はそう名乗った。
「本来ならわざわざ俺が出る必要はないんだが、ダラスに関しては刑期があまりにも長い上にここでの生活態度も良いと言えたもんじゃなくてね。就労ノルマの未達、看守への暴行、銃器の持ち込みなど、違反行為はあげたらキリがない。何度懲罰房に入れても、スイートルームから出てきたような顔をしてまた同じことの繰り返しさ」
 身内のことで耳が痛い。顔がバーナーで炙られたようにあつくなった。彼の顔を直視できず、ティーカップのなだらかな輪郭を無意味に目でなぞった。
 背後に立つ執事がわざとらしく咳払いをする。リオセスリさんは恭しくわたしを見やった。
「家族であるあんたには聞き難い話だったな。しかし、こちらも手を焼いていて為す術ない状況だ」
「だから、わたしの面会要求も受理していただいたのですか。わたしと兄は仲が良かったから、わたしと会うことで……もしかしたら兄が刑期短縮を目指して心変わりしてくれるのではないかと」
「察しがよくて助かるな」
「申請がこんなに早く受理されるのは異例だと聞きましたから、きっと何か腹づもりあってのことだと思っていました」
 リオセスリさんの目元がやわらかく窄む。重々しい巨躯に反して、彼がつくる表情はまるで威圧さを感じない。
 それは、よそ者のわたしの前だからかもしれない。
「ギブアンドテイクさ。こちらも無理強いはしない。あんたから面会要求があれば、速やかに承認するだけだ」

 その日の兄も懲罰房に入れられていた。ここで貨幣として流通する、特別許可券とやらを偽造したとかで。
 リオセスリさんに連れてこられた場所は、この要塞でもさらに深部にあたる。暗澹とした影と息も詰まる静寂が一帯を覆い尽くしていた。壁のパイプ管から漏れた汚水が足元をぬかるませていて、歩くたびブーツの底がびしゃびしゃ濡れた。わたしとリオセスリさんの足音と、無言の息づかいと、頭の上から鼠が走る音が聞こえる。たったそれだけだ。数分でもここに居たら、時計の針の音さえ恋しくなるだろう。
「お兄さま」
 せまい牢の中には、ずいぶんやせ細った兄が壁に背をもたれて胡座をかいている。わたしの声に反応し、顔を上げた。無造作に生やした髭と油っぽい髪、胡乱な目つき。あまりの変わりように生唾を呑んだ。フォンテーヌ廷の一等地にある屋敷で過ごしていたころの面影は、どこにも残っていない。
 兄はわたしに微笑んだ。その笑い方は、たしかに兄そのものだった。それから、水気のない乾ききった声でわたしの名を呼んだ。ここは空気が汚れている、あまり長居するべきじゃない、きみは早く地上にもどるんだ。──それきり、彼は口を開かなかった。
「何か声をかけなくてよかったのか?」
 兄とつかの間の面会を終えたあと、リオセスリさんは問うた。
「……あれ以上あの場にいても、兄が話してくれるとは思えませんでしたから」
 なんだか、役に立たなくて、すみません。吐き出した口の中がとたんに苦く感じた。面会したかったのはわたしの意思だ。けれど、純粋に兄に会いたかった気持ちと同等に、これ以上兄が周囲に迷惑をかけてほしくなかった。
「謝る必要はない。あんたはただ家族に会いに来ただけ、そうだろう?」
 端からあまり期待をしていなかったようだ。もしくはこちらを気遣ってくれているのか、彼の口許が簡単にゆるく弧を描いていた。
「あの、また来てもいいでしょうか。あれでも、一応わたしの唯一の家族で……顔だけは見ておきたいのです」
「もちろん構わないさ。ただ次回はあのジメジメした懲罰房の棟にエスコートしたくないな。そればかりは彼の態度によるだろうが」
 リオセスリさんは冗談めかしてそう言ったが、きっと次も兄はあの懲罰房に拘禁されているのだろうと、そんな予感がしていた。やっぱり、わたしとひと言会話をしただけで、あの兄の病気のような非行が治るなどとは思えない。そればかりか、兄にとっても、この要塞にとっても、わたしから希望を与えられる気がしない。結局のところ、わたしが彼に会いに行くのは、ただのひとりよがりの自己満足なのだ。

 日をおいたところで、兄との面会は相も変わらずといった具合で、はたしてあの時間が面会と呼べるのかもわからない。
 今日もすんなりとそのまま帰ろうとした、その矢先に、リオセスリさんから声をかけられた。良かったらここを見学していくか。わたしはなにも考えずに返事をした。付き添いの執事が言いたげな顔でこちらを見るのには気づかないふりをして、執務室を出た。
「あんたみたいなお嬢様がここを歩いているのはめずらしい光景だろうな」
 連れ回すことになるが、本当によかったのか?リオセスリさんの言葉に頷く。
「こういった世界があることを知っておきたいので」
「知っても、一生無縁の世界だろう。あんたが本当にあのダラスの妹なのかも疑わしいよ」
 こことは無縁であることが正常なのだ。
 先々代の水神の時代から続く家門と、ありあまる財産。代々から爵位を引き継いだ由緒ある家にわたしは生まれた。生まれた瞬間から、恵まれた生活が確約され、わたしは幸運だと思っていた。──しかし、両親はいきなり亡くなり、兄は重罪を犯し投獄された。突如として、当主にわたしの名が挙がる。家を継いでいかねばならない使命が生まれた。
 わたしの生きる道はすでに決められている。水の上と水の下。彼の言う通り、住む世界がちがう。
「……リオセスリさんは、ここから出たいと思わないのですか」
 彼への興味が、ふいに口からこぼれた。
「案外、気にいっていてね。俺にとってはここが我が家みたいなもんさ」
 皮肉れたジョークでもなく、きっと事実なのだろう。何度か彼と会い、話をしてから、彼がただの権威目当てで看守長をつとめているなんて思えなかった。囚人の統率、要塞の治安維持、正義と秩序の遂行……。それが、彼にとっての生きる道。
 もし、生まれた家がちがったら、リオセスリさんとわたしの出会い方もちがっていて……。いっしょに生きていく世界線もあったかもしれない。それは水の上なのか、水の下なのか……つい、そんな不毛な妄想をしてしまう。なぜなんだろう。このひとの世界にいるわたしの絵が思い浮かんでは、海のあぶくのように甘く溶けていく。
 それから要塞内の主要スポットを一通り見てまわり、食堂でともに食事をした。
「このスープに入ってる薬味、ミントですか?」
「ああ。基本的に高価な食材は使えないからな。あんたが普段食べてるものからしたら物足りないだろう」
「そんな!むしろさっぱりしていて、とても気に入りました。うちでも作ってもらいたいくらい」
「ほお。名家のお嬢様の口に合うとは、ここの料理人も泣いて喜ぶな」
 サービス食の簡素的な見た目の割によくできた味に感動していると、リオセスリさんはにこやかに笑う。垂れがちのまなじりに皺がよせられて、夜のにおいが漂う秋の夕空のような薄紫色の虹彩がやさしく細められる。
 その瞳にはいつも、日の当たらない水底の世界を映しているのだろう。そう思うと、なんだか無性にさみしくなる。

 突然、兄が床に伏したとの報せを聞いて、わたしはメロピデ要塞に急いだ。緊急事態を知らせる連絡は、とりあえず早急に来てくれと簡潔すぎるもので、内情はまったくわからない。いくら大罪人とて、最低限の衣食住と健康管理は保証されているし、兄には持病もなかったから、まるで検討がつかなかった。
 刑務官に案内された先は医務室だった。室内に整然と並んだ病床のひとつに、兄は目を瞑って横たわっていた。
「一時は峠を越えるかと思って看取りのためにあなたを呼んでもらったの。でも、今はようやく呼吸も安定してるし問題ないわ。ここでしばらく療養したら平気よ」
 顔を白くするわたしに、シグウィンさんはホットチョコレートをもてなしてくれた。それから、落ちつきはらった声で話し出す。
「あの……兄はいったい」
「第一発見者が倒れている彼を見つけた際、彼の傍らに小瓶が落ちていたの。今は公爵が回収しているけど、中身を検分したところ致死性の猛毒であることが判明したわ」
 くらくらした。シグウィンさんの声が急に遠く感じる。つまり、兄は自ら命を絶とうと……。
「それから……彼の手のなかにはこれも」
 手渡されたのはしわくちゃの紙切れだ。ゆっくりと皺をのばせば黒い文字が現れた。乱雑に殴り書きされたその筆跡にはずいぶん見覚えがある。
 兄の遺書であり、わたしに宛てた手紙だった。
 心臓にしつけ糸がからまって、四方に引っ張られる心地がする。きゅっと締め付けられれば、からだに巡る酸素も止まって息が苦しくなった。目眩がする。
「…………これ、わたしの他にだれか読みましたか?」
「公爵が回収したからすでに読んでるはずよ」
「彼はなんと?」
 最初からおかしな感じはした。わたしを呼んだ本人である彼がこの場にいないのだ。ここに来た際は必ず同行してくれる彼が。
「さあ、どうだったかしら……あ、そういえば、あなたに伝えてくれって言われてたかも。『ここはあんたがいるべき場所じゃないから、お兄さんの顔を見たらすぐ地上に帰りなさい』って。公爵も心配性なのね」
 兄と同じことを言うものだ。ここに来るべきではないと、やさしく促すようで、明確な拒絶だ。
 もはや乾いた笑みも出てこない。項垂れるわたしにシグウィンさんは気遣わしげに窺ってきた。今はそんな彼女の温情にすがる気力も湧かない。
 足早に医務室を去り、エレベーターに乗った。ガコンガコンと上へ引きずり上げられる音を聞きながら、わたしのいるべき世界とやらを考えていた。
 兄は手紙で、自分の凶悪性は治らないと語った。妹のわたしには謝罪と、それからもう見放してくれとも。度々、このメロピデ要塞を訪れるわたしに対して罪悪感と申し訳なさを感じていて、それが募りに募って……ことの顛末だ。
 わたしがここに来ることでさらに兄を苦しめるなら、ここに来てはいけないのだろう。そして、彼もここにいるべきではないと言うなら、わたしはそれを聞かなくてはいけないのだろう。彼らが言うことが正しい。そんなことはわかりきってるはずなのに、わたしはひどく傷つけられた気分になる。
 ──きっと、いつの間にか、わたしはこの水の下の生活に憧れてしまったのだ。彼の、リオセスリさんの瞳に映る世界の一部になりたいと願ってしまった。

 兄の症状は無事に回復したと聞く。結局、あれから一度も見舞いに行くことができなかった。
 ふとして、叔母が家にやってきた。愛想よく世辞を交わしたかと思えば、客間のテーブルの上に婿候補の写真を並べた。それも、どっさりだ。兄が獄中に入ってもろくに連絡もよこさなかったのに、このひとの関心は自分と家の名誉を守ることしかないのだ。
「来月には、成人になるでしょう。そろそろ結婚相手を考えないと思ってね、わたくしが見繕ってあげたのよ」
「叔母さま、大変ありがたいのですがこういうことはわたしひとりでやるので……」
「そうはいきませんよ。そうやってずるずると後回しにして、今に至るんじゃないですか。いいです?女性が子を成せるのもタイムリミットがあって──」
 くどくどと叔母が語りだすのを、遠い雑音のように聞き流した。机上に並んだ、身綺麗な男性の顔ぶれをぼうっと眺める。当たり前にわたしが求めていた人はいない。
 もう、うんざりだ。
「はい?今なんて」
 深く息を吐いて、はっきりと言葉にした。
「ですから、わたしはここにいるどなたとも結婚する気はありません。家督のために子を産みたくありません。後世にもこの家のしがらみが引き継がれるなら、わたしでこの家を終わらせます」
 ガシャンと、陶器が打ち捨てられる音が部屋に響く。顔を真っ赤にして叔母は金切り声で詰る。呆気なく割れたティーカップの破片が散らばるテーブルから、しとしとと、紅茶が大理石の床に零れていく。下へ、下へと流れていく。流動的にかたちを変えて、流されるままに居場所を変えられる、水が憎たらしい。うらやましい。叔母が荒々しく部屋から出ていくまで、わたしはずっとそんなことを考えていた。

 会いに行かなければならない理由はない。責任もないし、ましてや誰かに強制されたわけでもない。それでも、こうして水の下に会いに赴いている。
 ただ、会いに行くのは兄のためではない。
「逃げてきたんです、すべてから」
 いきなり執務室に現れたわたしに、リオセスリさんは目を丸くして呆然と見つめていた。
「……これは驚いたな。こちらに来るなんて連絡はもらってなかったが。ここまでの警備はどうやってかいくぐったんだ?」
「あいにく、渡せるものはたくさんありますから」
 リオセスリさんは呆れたようにため息をついた。
「そうだったな。どの警備が買収の誘いに乗ったのかはあとでじっくり調査しよう。それと、いつもの付き人はどうした」
「ここにはわたしひとりで来ました」
「何を言ってるのか自分でわかってるのか?ここがどんな場所かまだわからないのか。あんたみたいな身なりの人間がひとりでうろつけば目立つどころの話じゃない」
「どんな場所かも、知ってるつもりです。それでもわたしはここに来たかったんです。たとえ、あなたから拒絶されても」
「……あんたのために言ったんだ」張りのない声だった。それでも、わたしの耳の奥にこだまする。「ここはあんたの来るべき場所じゃない。無駄な愛着が湧いてしまう前に釘を刺したかったんだよ。日の光を浴びて、綺麗な服を着て、食べるものにも困らない裕福な生活を続けられるなら、地上にいるべきだ」
「でも、そこにはリオセスリさんがいないじゃないですか」
 息を飲む音が聞こえる。見開かれた彼の瞳のなかに、泣き出すのを必死に堪えるわたしのすがたがあった。やっと、彼の視界に映りこめたような気がした。
「すべてから逃げてきました。家の慣例からも、俺を見限れという兄の思いからも……。それでも、あきらめたくないんです。あなたのそばを離れたくなかった」
 馬鹿な選択をしたにちがいない。いっときの感情で捨てるべきものに縋り、恵まれた生活を手放すわたしのことを、だれだって笑うだろう。……それでも。あの水の上の世界では、わたしの心は永遠に乾ききって満たされないのだと確信してしまった。
 目の縁の涙腺がふるえて、徐々に彼の輪郭が歪みはじめる。耐えきれずに、顔を俯かせた、その瞬間。腕が力強く引っ張られた。逞しい両腕と胸にからだが預けられる。彼のにおいがわたしを包みこむ。
「………俺にどうしろというんだ」
 苦しそうにつぶやく、けれども、わたしを抱きしめる力はなによりも強い。
「わたしを離さないでください。これからも、ずっと」
 わたしが望むのは、ただそれだけだ。ほかにはなにもいらなかった。愚かにも、自分の生をすべて投げ打っても彼とともにいたいと願う、この感情はきっと不滅に宿るのだと信じている。
「あんたには敵わないな。俺がどれだけ……まあ、いいか。もう逃がしてやれないんだから」
 頭の後ろで彼がくつくつと笑う声がする。胸板から彼の顔を見あげると、大きな手のひらがわたしの顎先をさらい、ゆっくりと彼の顔が近づいてきた。──ここで目を瞑るのが淑女の嗜み、そうでしょう?

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