悲しいはずなのに、涙が出ることはなかった。

約束をすっぽかされた翌日も、その次の日も、私は至って普通に過ごしていた。『仕方ない』『こういうこともある』『いつか忘れる』ふと、あの日を思い出す時はこの三つの言葉で心を誤魔化していた。

土日は一歩も外へ出ずテレビを観たり、ベッドの上で雑誌を読んだりして気を紛らわしていた。動くことなく過ごしていたせいか、どことなく体が重い。今日は月曜日だというのに、会社へ出勤することが億劫で仕方なかった。
身支度を整えて部屋を出れば早速、夏の強い日差しが私を襲った。額からはうっすらと汗が滲み出て、せっかく丁寧に塗ったファンデーションが崩れてしまわないか心配になる。バッグからハンカチを取り出すと、押さえつけるように額の汗を拭った。
早く会社に行こう。クーラーの効いたオフィスを想像すると無意識に足早になった。




会社に着くと、さっそく心地いい冷気が体を包み込み、ふーと息を吐いた。

「柳井さん、おはよう」
「おはようございます」

椅子に腰を落とした早々、私に声を掛けてきたのは以前、アンケート調査を共にした先輩だ。先輩の顔はなぜか困った表情を浮かべている。

「柳井さん、来たばかりで悪いんだけどこれからこの前の場所でアンケート調査してきてくれる?」
「え、今からですか?先輩は?」
「私は今から取引先に行かなくちゃいけなくて一緒に行けないの」

ごめんね。それだけ言い残すと先輩はアンケート用紙とお礼サンプルが入ったカゴを渡し、オフィスを出て行ってしまった。一人取り残された私は、半ば強引に受け渡された物を見つめる。

「苦手なんだよなぁ。アンケート調査…」

溜め息と共に呟いた言葉は、オフィス内の雑音であっけなく掻き消された。…まぁでも、いつもお世話になっている先輩のためなら仕方ない。私は座ったばかりの椅子から立ち上がると、会社を出た。


外はやはり暑かった。烈々とした真夏の強い日差しが、容赦なく私を襲う。とりあえず話し掛けやすい人を見つけては声を掛けてみるが、先輩のように上手く行かず、断られてしまう。減ることのない真っさらなアンケート用紙を見ては、何度目か分からない溜め息を零した。

こめかみから流れた汗が顎まで伝い、ポタリと地面に落ちる。ポケットからハンカチを取り出し、汗を拭うと、何気なく駅前の朝の景色を眺めた。目の前を行き交う人々は皆、忙しそうだ。

そういえば、はたけくんと再開した場所ってここだっけ。

彼のことを思い出すと、胸がチクリと痛んだ。はたけくんは今何やってるんだろう。多分、仕事してるよね。元気でいるのかな。どうしてあの日来てくれなかったんだろう。私のこと、どう思っているのかな。
こんな風に聞きたいことは山程あったが、真実を知るのはやはり怖かった。

暑苦しい蝉の鳴き声と、人々の話し声を耳にしながら壁に寄り掛かる。コンクリート調の壁がひんやりとして気持ちいい。視線を足元に落とすと、ふっと空が暗くなった。太陽が厚い雲に隠れたのだろう。先程よりも和らいだ日差しに、ホッと胸を撫で下ろした。

「あの、」

頭上から低い声が掛かった。私のものではない、茶色い革靴のつま先がこちらを向いている。誰?と思うよりも先に、彼かもしれないと淡い期待を抱き、私はパッと前を向いた。

「…あの、柳井ナツミさんですか?」

だが、そこにいたのは彼ではなく、知らない男性だった。革靴の色とよく似た髪色の男性は眉を八の字に下げて、困窮した表情を浮かべている。

「そうですが…」

どうして私の名前を知っているのだろう。怪訝に思い男性見ると、怪しまれていることに気が付いたのか、慌てた様子で、

「違います。怪しい者ではないです」

と、手を左右に振った。

「カカシ先輩の部下、テンゾウです」

カカシ。その名を聞いただけで、反射的に心臓が波打つ。

「はたけくんの…?」

私の問いに目の前の男性は頷くと、緩やかに口角を上げて微笑んだ。

「…実は先輩からこれを預かっていまして」

言いながら、テンゾウさんは何か書かれた小さな紙切れを渡した。なんだろう。緊張しながら半分に折られたそれを広げてみると、思わず「あ」と声が漏れた。

『柳井さん、今日はごめんね』

走り書きで書かれたのにも関わらず整えられた綺麗な筆跡にも驚いたが、それよりも『今日は』という文章が気になった。今日はって、この前の金曜日のこと?私はテンゾウさんに訊ねようと、口を開く。

「あの、「ごめんなさい!」

テンゾウさんは大きな声で私に謝ると、深々と頭を下げた。

「本当はそれ、金曜日の夜にナツミさんに渡すよう先輩に頼まれていたんです。それなのにボク、すっかり忘れてしまって。先輩に電話を掛けても出ないし。ナツミさんに渡したくても会社知らないし。もしかしたらと思ってここへ来てみたら、ようやくナツミさんを見つけて…あぁ、本当に良かったです」

一息で言い放ったテンゾウさんの頭は下げられたままで、私はなんて声を掛けていいのか分からなかった。混乱する頭の中で一つずつ整理してゆく。テンゾウさんが私宛のメモを渡しそびれただけ。ということは、はたけくんは約束をちゃんと覚えてくれていたってこと?

「あの、はたけくんは今どこに?」

ようやく頭を上げたテンゾウさんは眉を寄せながら「それがですねぇ…」と重々しく口を開いた。

「実家です」
「実家?」

予想外の答えに驚いてしまい、間髪入れず聞き返してしまった。テンゾウさんは「はい」と小さく頷くと、言葉を続ける。

「金曜日の夕方にお父さんが倒れたと連絡を受けた先輩は、慌てて実家に帰ったんです」
「お父さんは無事だったの?」
「それが、先輩からの連絡がまだなくて…」

テンゾウさんは深く眉間に皺を寄せると「先輩が心配です」と弱々しく呟いた。
はたけくんのお父さんが倒れた。真実を知った私は己を恥じた。はたけくんの事情も知らずに約束を破られただなんて勘違いしていた自分が恥ずかしい。稚拙で独り善がりな考え方しかできない自分に腹が立った。だけど、それよりも一番に怒りを覚えたのは、はたけくんを信じることができなかったこと。

「私、はたけくんに会いに行ってくる」
「え?」

突拍子もないことを言い出した私にテンゾウさんが疑問符を浮かべる。

「私ね、はたけくんと地元が一緒なの。帰ればはたけくんに会えるかもしれない」

今度こそはたけくんに会って、自分の気持ちを伝えたい。待ってるばかりはもう嫌だ。今度は、私から会いに行く。

「何か分かったら連絡するね」
「ありがとうございます」

テンゾウさんは私に連絡先を教えると「よろしくお願いします」と、再びお辞儀をした。ようやく笑ったテンゾウさんの顔を見て、安堵する。

「では、ボクはこれで」

去って行くテンゾウさんを見つめながら私は小さく手を振った。はたけくん、後輩に好かれているんだな。心配するテンゾウさんの顔を思い出しながら、ふと、そんなことを思った。




翌日、私は会社を休んで地元に帰っていた。電車の車窓から見える景色がビル街から緑あふれる景色へと移ろいでゆく。久しぶりに見た『地元』の風景は、懐かしさと切なさがたくさん詰まっていた。

電車を降り、バスに乗り継ぐ。小刻みに揺れる車内でも私は窓の外に目を向けていた。学生の頃によく友達と通っていたボーリング場がなくなっている。母校の目の前には、新しいコンビニが出来ている。自分の記憶とは少しだけ異なる景色を見て、生まれ育った場所なのに違う街へ来てしまったような、そんな不思議な気持ちになった。



「ただいまー」

家の扉を開くと、懐かしい匂いが真っ先に私を迎えた。ただいまを口にするのは本当に久しぶりのことで、最後に実家に帰ったのは確か去年の夏だったなと思い出す。とりあえず玄関スペースの端にボストンバッグを置き、サンダルを脱ぐ。しばらくするとパタパタと忙しくこちらへと向かってくる足音が耳に入った。恐らく母だろう。

「あら!ナツミ、おかえりなさい。早かったのね」

料理の最中だったのか、手をエプロンの裾で拭き、ニコニコと笑いながら出迎えてくれたのは母だった。

「急ぎだったから始発で来た」
「急ぎって?何かあったの?あなたが夏休暇以外に帰ってくるなんて珍しいわよね」
「んー…まぁ、ちょっと」

私が言葉を濁すと母は何かを察したのか、「まぁ、ゆっくりしていきなさいね」と優しく笑った。

「ありがとう。とりあえず荷物を部屋に置いてくるね」

私は玄関に置いたバッグを持つと階段を上がり、2階にある自室へと向かった。来る途中、キッチンから見えたのは鍋でぐつぐつと煮込まれている好物の肉じゃが。懐かしい匂いの正体を知った私は擽ったい気持ちを感じながら部屋のドアを開けた。

とりあえず荷物を置いてからはたけくんを探しに行こう。バッグをベッドの脇に置き、部屋を出ようとするとふと学生の頃に使っていた勉強机が視界の隅に映った。

そういえば、あの手紙はまだ机の引き出しに入れたままだっけ。

『あの手紙』とは、はたけくんに渡すことの出来なかったラブレターだ。唯一にして形ある青春の思い出のはずなのに、内容がどうしても思い出せなかった。私、なんて書いたんだっけ。確かめようとして引き出しを開けると、無造作に奥へと追いやられた手紙を取り出した。
古くなり少しだけ黄ばんでしまった水色の手紙。封を閉じる部分には金色のシールが貼られていて、まるで封印のようだなと苦笑した。長年の封印を解こうと、爪先でシールの端を引っ掻いてみる。だが、私の手はピタリと止まってしまった。
今の私がこの封を切ってしまったら中学生の私は悲しむだろうか。
手紙の内容は忘れていても、彼を好きな気持ちは覚えていた。だって、私は今でも彼のことが好きだから。手紙を読むのは大人になった私ではない。紛れもなく、はたけくんだ。

私はバッグに手紙を入れて、勢いよく部屋を出た。パタパタと音を立てながら階段を下り、サンダルを履く。ひどく慌てた様子の私に母が「どうしたの?」と訊ねる。

「ごめん!お母さん、夕飯には帰るね!」

振り返らずにそれだけ言うと、扉を開けて家を出た。相変わらず、可愛くない日差しがあの日のアイスのように私を溶かそうとする。だけど、今日だけは負けたくない。私は太陽を睨みつけると必死に抗い、反発した。

目指すは、あの場所へ。

地面を強く蹴り上げ、走り出す。

手紙の入ったショルダーバッグは嬉しそうに揺れていた。

水色の瞬き


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