店員に案内された席は、はたけくんの席から離れた窓際の席だった。店の真ん中に置かれた大きめの観葉植物が目隠しとなったおかげで、幸いにもはたけくんが視界に入ることはなかった。

「どれにしよっか」

安堵の息を気付かれないよう吐き、テーブルに置かれたメニュー表を開く。目の前に座るサトルに訊ねると、彼は「そうだね」と顎に手を添えて考える素振りを見せた。

「ここのお店、メニュー多いから悩むよね。あ!これも良いなぁ。美味しそう」

メニュー表の文字を目でなぞりながら私は必死にサトルに話し掛けた。無理矢理にでも言葉を発していないと、はたけくんのことばかり考えてしまいそうで怖かった。

「そうだね。とりあえずこれにしよう」

そう言って、サトルが決めたものは生ビールに野菜サラダ。それとちょっとした揚げ物。いいよね?と確認したサトルに私は頷くと、そっとメニュー表を閉じた。
サトルは早速店員を呼ぶと、私の代わりに料理を頼んでくれた。サトルはいつもこうして私に気を遣ってくれる。私が風邪を引いた時だってそう。次の日も仕事なのに、熱が下がるまで付きっきりで看病をしてくれた。それに比べ、私は自分のことばかり。
どうしてサトルみたいに純粋な気持ちでいられないのか。私はサトルを愛さなくちゃいけないのに、何故それができないのか。サトルの優しさに触れるたび、自己嫌悪に陥った。

「…ナツミ、さっきから大丈夫?仕事大変だった?」

心配そうに私の顔を覗き込むサトルを見て、ハッと息を呑んだ。

「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」

笑顔で返せばサトルも笑うはず。そう思って口角を思い切り上げたが、サトルは笑ってはくれなかった。それどころか、表情がみるみる内に曇っていってしまった。

「ナツミさ、この前約束したよね?何かに苦しんだり悩んでいたりしたら必ずお互い打ち明けること。隠し事はなしって。忘れてないよね?」
「うん…忘れてないよ」
「この店入った時からおかしいよ?もしかして来るの嫌だった?だったら別の場所に変えようか「だから!大丈夫だってばっ!」

思わず口調が荒くなってしまった。自分の声の大きさにハッとしてサトルを見る。サトルは私から顔を背けると、小さく「ごめん」と謝った。
…違う。私はこんな風にサトルを傷付けたいわけではないのに。

「…サトルは悪くないよ、私が悪いの。…ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」

サトルを悲しませたこと、煩わしいと感じてしまったこと。感情をコントロール出来ない自分にとても腹が立った。サトルの顔を見ずに席を立つと、私は洗面所に向かった。






駄目だなぁ、私。

洗面所には私一人しかいなかった。トン、と背中を壁に預け、目を閉じてみる。タイル調の壁の冷たさが、背中から伝わり、とても心地良かった。

ふぅ、と息を吐く。肺に溜まった空気を思い切り吐いても、すっきりすることはない。喉の奥に様々な感情が張り付いたままだ。ゆっくり目を開けば、大きな鏡に映る自分の顔。会社を出る前に化粧直しをしたからメイクが崩れていることはない。
ここへ来る前は楽しかったのに。久しぶりにオシャレをしてお気に入りのヒールも履いて、髪も巻いた。会社で化粧を直している時だって、サトルと何を話そうかと考えるだけで気持ちが弾んだ。それなのに、どうして。

はたけくんと会ったせいだ。

駄目だ私、また人の所為にしようとしている。気持ちを切り替えなくてはいけないと思い、席を立つ前に持ってきた化粧ポーチを開けて洗面台に置くと、口紅を取り出した。唇にはまだ赤色が残っている。だけどこの陰鬱とした気持ちを少しでも取り払いたくて、唇に薄く紅を引いた。濃くなった赤は鮮やかだった。この色はサトルが好きだと言ってくれた色だ。きっと、今頃注文していたビールも届いているはず。早く戻って謝ろう。ポーチに口紅を仕舞うと、私は洗面所を出た。



洗面所から店内へ続く廊下は薄暗くて狭い。人とすれ違う際にぶつからないように注意を払いながら歩いてゆく。早く戻ってサトルに謝らなくては。そう思うと、無意識に急ぎ足になった。

「待って」

男性とすれ違ったあと、手を強く掴まれた。手に持っていたポーチが床に落ちる。ぐっと体を引き寄せられた反動で、自身の足がもつれ、転びそうになった。
転倒しなかったのは男性に抱き止められたから。驚きのあまり、今の現状に着いていけなかった。取り敢えず男性から離れようと、掴まれていない反対の手で胸を押し退けた。なんとか距離を取ることができたが、手は離されることはなかった。

「…っやめて「オレだよ。柳井さん」

私の声を遮ったのは、夏の日に初めて聞いた、私の名字を呼ぶ声。ゆっくり視線を上げると、男性と目が合った。

「はたけくん…」

はたけくんは冷たく私を見下ろしていた。間接照明に照らされた白銀の髪は暖色を帯びている。だが、その色と反して、彼の瞳は闇のように暗く、冷たい。

「連絡、待ってたんだよ?」

穏やかで柔らかい口調だが、怒りが入り混じっているようにも感じた。彼の気迫に怖くなり、咄嗟に「ごめん」と謝る。それでも彼は手を離してくれようとしなかった。それどころか、手を掴む力が強くなった。

「一緒にいるの彼氏だよね?どうりで連絡して来ないわけだ」

はたけくんの様子がいつもと違う。薄暗くて顔がよく見えないが、頬が少しだけ赤く、目が充血しているように感じ取れた。そして、私の手を掴む彼の手は、とても熱い。

「…はたけくん、もしかして酔ってる?」
「酔ってないよ」

はたけくんは掴んでいた手を今度は指を絡めるようにして握り締めると、私を壁に押し付けた。どん、と鈍い音がしたのと同時に背中に痛みが走る。反論しようと口を開いたが、彼の顔を見た私は言葉が出て来なかった。彼は、とても悲しい表情を浮かべていた。

「昔は、オレのこと好きだったのにね」

言葉を残すと、はたけくんは顔を近付けた。ふわりとアルコール独特の香りが鼻を掠める。顔を背けようとしたが、後頭部を押さえつけられているので敵わない。はたけくんは抵抗する私を無視し、唇にキスを落とした。柔く、温かい感覚が唇に伝わる。一方的な、強引なキスだった。触れるだけのキスが、徐々に深くなってゆく。
はたけくんは自身の舌を私の唇に割り入れようとする。咄嗟に唇をきつく結んで抵抗したが、遅かった。彼の熱い舌が口内に侵入し、掻き乱された。じわりとお酒の苦い味が口の中で広がる。まだアルコールを取っていないはずなのに、キスだけで酔いそうだった。

「…ふっ、ん」

繋がれていない手で彼の胸を叩くが、びくともしない。それどころか彼は私の太腿の間に足を入れ、逃さないように更に壁へと追い詰めた。このままだと本当にまずい。誰かに見られてしまう。それならまだ良い。もしもこんなところをサトルに見られたらーー。最後の力を振り絞って、私は彼の胸を押した。

ようやくはたけくんと離れることができた時には息が上がっていて声にならなかった。私は彼を睨みつけて、精一杯の抵抗を示した。
はたけくんは眉間に皺を寄せながら私を見ている。怒っているのか、悲しんでいるのか、表情が読み取れない。しばらく沈黙が続いたあと、はたけくんは口を開いた。

「…ごめん」

その声はとても小さく、店内の賑やかなBGMの音で容易く掻き消されてしまった。私は、ようやく解放された手ではたけくんの頬を叩いた。パチンと乾いた音と共に鈍い痛みが手のひらに走る。はたけくんも痛かったと思う。けど、謝る気にはならなかった。

「謝るくらいならこんなことしないで」

俯くはたけくんに言葉を吐き捨てた。はたけくんは何も言わず自身の足元を見つめている。
悔しかった。酒の勢いでキスをされたことが。大切な初恋の思い出を大好きな人に穢されたような気がして悲しかった。涙なんか見せまいと、足元に転がっているポーチを拾いあげると、私ははたけくんに背中を向けた。そのまま何も言わず、足を一歩踏み出す。

「待って」

私を引き止める声が背中に掛かったが、返事をすることもなく歩き続ける。カツカツとヒールの音が廊下に鳴り響く。

「ちゃんと柳井さんと話しがしたい。来週の金曜日の夜。この時間。ここに来て」

焦った声。はたけくんは勝手な人だ。思えばあの頃もそうだった。私の名字を気紛れに呼んでみたり、惑わす言葉を口にしてみたり。それは大人になった今でも変わらなかった。秘密を打ち明けたいと告白したと思えば、酔った勢いでキスをして、私の心を掻き回す。

「本当に傲慢で、勝手な人、」

口先では散々はたけくんの悪口を吐いているのに、心の底ではまだ彼を好きな気持ちが燻っていて。
長年胸の中に宿っている気持ちをどうすることもできない自分が情けなく、みっともなくて、涙が溢れ落ちた。

一滴は声にならない


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