あれからいくつもの季節が通り過ぎて、何度目かの春が訪れた。

新しい出会いを胸に抱きながら春を迎える人々が多いなか、オレはこの季節がどうも苦手だった。この柔く温かい空気はどうしても彼女を思い出してしまう。
自分の気持ちと真逆に吹く穏やかな春風が無遠慮に髪を揺らす。ならいっそのこと、この悲しい記憶も吹き去ってくれ。
疎ましい風を振り払うように自転車を漕ぐ速度を上げた。

ふと遠くで朝の朝礼を告げる学校のチャイム音が聞こえた。そんなはずがないと慌てて左腕にある腕時計を確認するが、何故か秒針が動かず止まっていることに気が付いた。
恐らく電池切れか。
その腕時計は中学の頃から使っている父からもらった腕時計だった。父は去年に亡くなったので今はその腕時計が形見でもある。大切に使っていた物だから故障ではなく電池切れだと気付いてほっと胸を撫で下ろした。仕方なく自転車を止めてポケットにある携帯を取り出す。画面に浮かぶ時刻を確認すれば、想像していたよりもずっと遅れていて、血の気が引いた。

「こりゃ、マズいな」

独り言を呟き、慌てて止まったままの自転車を漕いだ。坂道が思いのほか急な斜面でこれが毎朝続くのかと思うと気が重くなった。

けっこうな斜面なのによく毎朝走れたなぁ、ナマエ。
思わず彼女の顔が思い浮かび、苦笑した。

今日は新しく異動となった職場へ初出勤だった。教師になったオレは隣町の中学で5年間勤務していたが、今年の春に急遽、異動を命じられた。異動先を聞けば、なんとナマエの母校だった。

まさか、ナマエの母校だなんて。

あれから彼女とは会っていない。思えば彼女のことを知っていることといえば、名前がみょうじナマエということと、在籍していた中学校名だけだ。高校に関してもA高校に決めたとは言っていたが、合否すら知らなかった。
彼女の家も、彼女が今何をしているのかさえ、何も分からない。
昔も今も彼女のことは何も知らない。どうしてあの時、オレは彼女を知ろうとしなかったのだろう。
いつもナマエを思い出すときはこうして後悔ばかりが自分を苦しめていた。
振り払うように自転車のスピードを上げる。
途中、桜の花びらが視界を遮り、春というのはどこまでオレを嫌な気持ちにさせるのだと苛立ちを覚えた。



「困るよ。初日から遅刻なんて」
「すみません…」

学校に着くなり首を長くして待っていた校長はオレを見るなり小言を口にした。腕時計が電池切れで止まっていたから遅刻した。なんて、そんな言い訳も言えずに素直に謝ると、校長は次は気をつけてと念押しした。

「じゃあ、先生達に紹介しなくちゃいけないから、職員室に入って」

言って、ガラガラと音を立てて引き戸を開けると校長は職員室に入るよう命じた。遅刻したのに気まずいなぁ。挨拶をするのが億劫な気持ちになりながらも職員室に入る。
思っていた通り、一斉にして教員達の視線がオレに集中した。

「えー、この方が新しく我が校に赴任して来たはたけカカシ先生です。カカシ先生は隣町の中学で5年間勤めてました。担当科目は、えーと‥なんだっけ。まあ、あとは直接カカシ先生の口から聞いてください」

校長は一歩退いてオレを前に出るよう促す。ほら、自己紹介をして。言いながらオレに笑みを溢した。仕方なく前を向き、教職員達の顔を見渡す。しかし、その中に一人だけ見覚えのある顔があった。思わず息を呑む。

――ナマエだ。

彼女も驚いているらしく、目を見開いてこちらに視線を向けている。中学の頃は肩まで切り揃えていた髪が、今は伸びて一つに束ねている。
どこか幼い頃の面影がある彼女は間違いなくナマエだった。

「どうしたの?カカシ先生」

一向にして口を開かないオレに痺れを切らしたのか、校長はオレの顔を訝しげに覗き込んだ。
はっとして校長にすみませんと謝ると、ようやく自分が置かれている状況に気付いた。

「…はたけカカシです。校長先生から紹介していただきました通り、隣町の中学校で5年間勤めていました。担当教科は数学です。至らない点も多々ありますが、ご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いします」

なんとか落ち着かせて自己紹介を終えると校長は「そうだ、数学だったね」と呑気な口調で笑い掛けた。その間もオレの頭の中はナマエのことでいっぱいで、なんで同職なの、そもそもなんでナマエがここにいるの、そんな疑問ばかりが浮かんでいた。

「じゃあ、しばらくカカシ先生の面倒はナマエ先生が見てやってね」
「えっ」

何気なく発した校長の言葉にあからさまに動揺するナマエは困った顔をしてオレを見た。

「ほら、歳も一緒のことだし」

ね?と半ば強引に校長はオレをナマエに押し付けた。彼女は小さく「はい」と頷くと俯いてしまった。

…そりゃ、そうだよね。

「じゃあ、さっそくナマエ先生、カカシ先生に校舎案内を頼みますね」

校長が彼女にそう命じるとビクリとナマエの小さな肩が揺れた。そんなにオレのこと嫌なのかな。ナマエの怯えた様子を見て、肩を落とした。

「…案内します。ついて来て下さい。カカシ先生」

カカシ先生。その呼び方にちくりと胸が痛くなった。あの頃はカカシくんと無邪気に呼んでくれたのに。今は仕事中だし公私混同は良くないと分かっていても、つい落ち込んでしまう自分がいて苦い感情が胸に広がった。

しばらく彼女の背中を眺めながら着いて行くと、ふと彼女の背丈が小さく感じた。いや、オレの身長が伸びたのか。会わなかった月日がそれだけ長かったのだ。感慨深く思っていると、ピタリと彼女の足が止まった。どうしたのだろう?しばらく背中を見つめているとナマエはゆっくり振り向いた。


「…久しぶりだね、カカシくん」


長い廊下で懐かしい声が響き渡った。どくんと、心臓が波打つ。彼女はオレの目を見つめている。昔と変わらない、真っ直ぐな目だ。息をするのも忘れるくらいに二人の間に静かな時が流れる。遠くで生徒達の騒がしい声が聞こえてはっとした。

「久しぶりだね、ナマエ」

ようやく発した自分の声は微かに震えていて彼女に気付かれていないか心配になったが、ふっと笑った彼女を見て胸を撫で下ろした。笑った拍子に覗かせる八重歯が彼女のあどけなさが残っていて、あの日の記憶が一瞬にして鮮明に蘇った。

「びっくりしたよ。カカシくんも教師やってたんだね」

無邪気にオレに笑い掛けるナマエの頬は桜の花びらのようなピンク色だ。あれだけ嫌いな春に咲く桜も、ナマエを見れば春もいいなと思う自分がいて、つい苦笑いを浮かべてしまう。

「…ナマエ、今日の放課後時間ある?15分だけでもいい。あの坂道の途中で待ってるから」

彼女とまた話したい気持ちが溢れ出てきて、つい先走ってそんなことを言ってしまった。唐突な問い掛けに彼女はきょとんとした顔でオレに視線を向けている。しばらく考えている素振りを見せると、彼女の表情がたちまち曇っていった。

「……ごめん」

その一言に心が重くなる。そうだよね。別れを告げたのはオレの方なのに都合が良いよね。俯いて足元に視線を落とす。

「違う、違うの。今日は放課後に部活があって無理なだけなの」

私、合唱部の顧問なの。すかさず訂正の言葉を口にする彼女の焦る姿を見て、本日何度目か分からない安堵の息を吐いた。

「明日の放課後なら空いてるから」
「分かった」

彼女の言葉を聞いて、たちまち嬉しくなる気持ちが押し寄せた。

早く明日になってほしい。

浮かれた気持ちのオレは明日の約束のことで頭がいっぱいになりナマエには悪いが、校舎案内など頭には入ってはこなかった。







「よし。動いた」

腕時計の電池を交換して針の動きを確認すれば微かに一定のリズムを刻む音がしてほっとした。いつものように左腕に巻きつけてオレは家を出ると自転車に乗った。
朝の日差しが眩しくて思わず目を細めてしまう。暖かい春風がオレを包み込む。昨日まで嫌いだった春もたった一日で好きになってしまった。

目の前の急斜面も昨日ほど苦ではなかった。気持ち一つでこんなにも違うのかと自分でも驚いてしまう。オレを追い越す生徒達は表情一つ崩さず坂道を駆け上がる。若さとは良いものだと自分と比較して思わず苦笑した。

今日は彼女とこの坂道で会う約束をしている。はやる気持ちを抑えきれずにオレも生徒達に負けてられないと追い越した。途中で「カカシ先生、ずるいってば」と、金髪の男子生徒が声を掛けてきたが、気にせず「お先に」と笑いかけて自転車を漕ぎ続けた。


学校に着いて職員室に入ればすぐに彼女の姿を探してしまう。彼女の席は入り口付近なので容易く見つけることができる。予想通り、彼女は椅子に座って今日の授業に使う資料の準備をしていた。

「おはよう」

声を掛ければ小さくピクリと肩を揺らす。振り向いてオレだと分かると「おはよう」と笑って返した。

「今日の約束覚えてるよね?」

確認すると彼女はにっこり微笑んで強く頷いた。

「今日の放課後。坂道の途中。15分だけ。」

唇で転がすように放った言葉はまるで二人だけの合言葉のようで、擽ったい気持ちが押し寄せた。

「よろしくね」

彼女に釣られて微笑む。ふいに窓から入り込む温かい風がカーテンを揺らした。







授業も終わり、待ち侘びた放課後が訪れた。オレは帰り支度を整えて職員達にお疲れ様と声を掛けた後、職員室を出てゆく。去り際にナマエの席を確認したが、ナマエの姿はなかった。恐らくホームルームが長引いているのだろう。軽い気持ちで校舎を後にした。


帰りは下り坂なので楽だ。自転車に乗ってびゅうと風が頬を切る感覚を楽しみながら坂を下る。坂道の途中に一本だけ脇に植えられている桜の下でブレーキをかけると甲高い音が鳴り響いた。早く着きすぎただろうか。腕時計の時刻を確認すれば校門を出て行く際に目にした校舎の時計の針とあまり進んでおらず、がっかりした。

「先生、さようなら」

下校途中の生徒達が次々とオレの目の前を通り過ぎてゆく。あの子たちもいつか恋を知って大人になってゆくのだろうか。そんなことをぼんやり考えていれば、徐々に帰宅する生徒達も少なくなり、日が暮れてきたことに気付く。


さすがに遅いな。


不安が押し寄せてきて坂道の先を確認するが、彼女の来る気配はない。もしかして、彼女もこんな気持ちでオレを待っていたのだろうか。淡い気持ちを抱きながら、こんな風にオレを思って。
ふと空を見上げればすっかり日も沈んで暗い夜の空にぽっかりと月が浮かんでいた。視線を徐々に下げてゆけば、月明かりで照らされた夜桜が見事に咲き乱れ、一瞬にして目を奪われる。妖艶に咲き誇る桜にまるで吸い込まれそうになり、思わず一歩退いた。

「カカシくん!」

突如、オレの名を呼ぶ声がした。息を切らしながら坂道を下ってゆく彼女の姿を見てほっと安堵の息を吐いた。ナマエはオレを見るなりごめん遅れてと謝ると膝に手を置いて息を整えている。

「生徒が体調悪くなっちゃって、病院まで付き添っていたの」
「大丈夫だよ。それよりも生徒は?」
「うん、ただの風邪だったみたい」

彼女はほっとした様子でオレの問い掛けに答えると、にっこり微笑んだ。額にはうっすらと汗が滲み出ている。昔も今も彼女は走り続けているなと思うと、つい口元が緩んだ。

「綺麗だね」

ふと呟く彼女の視線の先には先程、吸い込まれそうだと感じた桜だった。

「カカシくんとまたこうして桜を見れるなんて夢みたい」
「大袈裟だねぇ」

彼女の言葉はどうしてこうも真っ直ぐで正直なのだろう。昔からそうだった。ナマエはオレとちゃんと向き合って接していた。それなのにオレはナマエと向き合おうともせずに彼女の手を振り解いてしまった。

「私ね、カカシくんに感謝してるの」

唐突な彼女の言葉に思わず「え?」と呟く。ナマエは変わらず満開に咲く桜を見上げている。その横顔はどことなく悲しく見えて、ぎゅっと胸を掴まれたように苦しい。

「A高校ってね、音楽専門の科があるの。私ね、合唱部だったからいつか合唱部の顧問になりたかったの」

言いながら、桜からオレに視線を移した。彼女の射抜くような視線に目を合わせられず、俯いた。

「知らなかった」

ぽつり、心の声がそのまま唇から溢れ落ちた。‥オレは、彼女を知ろうとしなかった。ナマエが何に情熱を燃やしていたのか。ナマエの将来の夢も、ナマエの好きなこと嫌いなこと、それすらも何も知らない。
――今なら間に合うだろうか。あの頃に戻れるだろうか。

「オレ、もっとナマエのこと知りたい」

気付けば声に出していて、慌てて彼女を見ればナマエは驚いたように目を見開いてオレの目を見た。今度は目を逸らさず、あの頃と変わらない彼女の瞳を見つめる。

「今からじゃ遅いかな?」

確認するように弱々しく訊ねれば彼女の丸くなっていた目がゆっくり細められて、笑った。

「そんなことない」

彼女は徐にオレの右手を握った。オレもぎゅっと握り返す。どんなに暑い日も寒い日も互いに温めあった右手と左手は変わらずここにあった。

「乗る?後ろに」

二人で自転車に乗らないかと訊ねると、ナマエは一瞬にして頬を赤らめて手を左右に振りながら否定した。

「いいよ、もう若くもないし」

慌てた様子の彼女にいいからと半ば強引に自転車の後ろに乗るよう促す。彼女はオレと自転車を交互にしばらく見つめると、諦めたのかそっと近付いて自転車の荷台に腰を落とした。ずん、とタイヤに二人分の体重が掛かる。

「手、離さないでね」
「うん」

ぎゅっとオレの服の裾を掴むナマエの手にドキリと胸が鳴り響く。落ち着かせるように深呼吸をしてゆっくりペダルを踏み込む。微かにチェーンが回る音を立てて自転車が動き出せば、すぐに春の夜風がオレ達を包み込んだ。


「……カカシくんも、もう離さないでね」


ぼそっとナマエは背中越しで聞こえないくらいに小さく呟いた。その声を耳にして彼女を想う気持ちがより、強く焦がれる。彼女は、ナマエは今どんな顔をしているのだろう。きっと初めて手を繋いだあの日のように真っ赤に頬を染めているのかな。軌道に乗った自転車を漕ぎながら、オレは息を吸った。すん、と桜の匂いが鼻を掠める。


「もう離さないよ」


そう約束すると、オレの服の裾を握る力がより一層強くなった。
ふと左腕に巻いてある腕時計に視線を向ければ会わなかった年月を辿るように秒針が時を刻んでいる。それはまるで、止まったままの二人の時間が再び動き出したかのようだった。オレは前を見て、背中に伝わる手の熱を感じながら真っ直ぐ続くこの坂道をゆっくり下ってゆく。ひゅるりと春独特のぬるい追い風がオレたちを後押しするかのように吹き抜けた。


歌詞参考 自転車/aiko







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