「ごめん、自分の道を歩きたいの」

はっきり言い放つと、彼は悲しそうな目をして笑った。その弱々しく優しい笑みを見て、ずっと気付かないようにしていた罪悪感が私の中で生まれる。カカシはいつだって私の我が儘を受け入れてくれた。昔も今も変わらず、ずっと。

夢があるから距離を置きたい。

私は不器用だった。他の子のように夢や恋愛を両立できるほど要領が良くなかった。夢。家族。友達。恋愛。どれも捨てがたい中で、最も手放したくないもの、それは夢だった。

「お前の気が済むまでやっておいで」

優しく言い放つ彼の言葉はいつになく温かくて胸が苦しくなる。『行くな』そう言って、引き止めてくれることを期待してしまう私はまだ自信と覚悟がないのだろうか。
縋るように彼に目を向ければ、彼は変わらない笑顔で頷いている。大丈夫、と。
――もう後には引き返せない。目頭が熱くなり、喉の奥には痛みが走った。鋭く刺さるようなこの痛みを一生忘れないようにと胸に刻みつける。するりと解いた手の間には冷たい風が吹いてより一層、悲しみが訪れた。

「大丈夫、行っておいで」

消え去った彼の手の温もりが名残惜しいだなんて、矛盾する気持ちに嫌気が差す。

「ありがとう」

精一杯の笑みを浮かべて、私は彼に背を向けた。ひゅっと体をすり抜けて追い越す風はまるで背中を押してくれているような気がして。一歩、足を踏み出すと、果てしなく続く夢へと向かった。


***


今日の天気は雨だった。外からはザーザーと屋根を打ち付ける雨音が聞こえる。なんとなくつけたテレビには天気予報が流れていて、気象予報士によると今日は一日中雨らしい。ついでにと、ナマエの住む地域の天気も確認する。
向こうは晴れ、か。こんな風に天気を確認してしまう癖がついたのはいつからだろう。…確か、ずっと前からだ。
ああ、馬鹿だなぁと自嘲気味に笑い、先程淹れたコーヒーに口をつけると、ナマエの顔を思い出した。

ナマエは、元気にしているのだろうか。

あれから二年の月日が経とうとしていた。「行ってらっしゃい」ナマエの背中を押して言ったもの、胸の片隅にはまだ寂しさが残っていた。ちなみにナマエからの連絡は一切ない。忙しいのか、それともオレへの気持ちが薄れてしまったか。
こちらから連絡を取ればいいのだと思うが、ナマエの夢を邪魔したくない。いや、それは建前で、本音を言うと、ナマエの本当の気持ちを知るのが怖かったのだ。
気休めにもう一度、カップに口をつける。口内に広がるのは苦い味。空っぽの胃に流し込んだコーヒーが胃を刺激してキリキリと痛みを感じさせた。

今日は土曜日。本当は自分が顧問する部活動があったが、生憎の雨により中止となった。突然訪れた休日に、何をしようかと頭を唸りながら考える。
そういえば、近々行われる定期テストがまだ未作成なんだっけ。部屋の掃除もしたいし。買い出しにも行かなくてはならない。次々と頭に浮かぶやらなくてはいけないことを挙げては、うんざりして溜息を吐いた。

とりあえず部屋の掃除から始めることにしよう。飲み干して空になったカップを手に持ち、ソファから腰を上げると、不意にインターフォンが鳴り響いた。
宅配便だろうか。以前、読みたかった本をネット通販で購入した事を思い出し、カップを流し場に置くと玄関へ向かった。
どうせ宅配員だろうと、ドアスコープで確認することもなく静かにドアを開く。扉の向こう側に目を向けると、思いもよらぬ人物がそこに立っていたので、はっと息を呑んだ。目の前にいたのは、二年前に会ったきりの、ナマエだった。

「来ちゃった」

申し訳なさそうに苦笑いを浮かべるナマエは雨で微かに濡れていた。

「どうしたの?」

オレの問いにナマエは一瞬だけ悲しげな顔をすると、下を向き俯いてしまう。ナマエの背中越しから窺える外の様子は相変わらず雨が降り続けている。びゅっと吹き抜けた秋の冷えた風が余計に寒さを感じさせた。

「とりあえず中に入りなよ」

部屋に入るよう促すと、ナマエは「ありがとう」と小さく頷き、部屋に上がった。




「何も変わらないね」

渡したタオルでナマエは濡れた髪を拭きながら懐かしげに言うと、部屋を見渡した。

「そうだね。ここは何も変わってないよ」
「うん、なんだかほっとした」

コーヒーが苦手なナマエに紅茶を淹れたカップを渡すとナマエは「ありがとう」とそれを受け取った。実はこの紅茶の葉はナマエがいつ戻ってきても良いようにと、取っておいたものだった。まさか本当に使う日が来るなんて。残しておいて良かったと紅茶を見て安堵する。

「で?どうしたの急に「あ!ねぇカカシ。もしかしてあれって卒業アルバム?」

オレの声を遮り、ナマエは本棚に並ぶ高校の卒業アルバムを指差して言うと、「見てもいい?」と訊ねた。

「いいよ」

承諾を得たナマエは卒業アルバムを手に取り、ローテーブルに置くと、表紙をゆっくり開いた。

「わぁ懐かしいね」

ナマエは嬉しそうな声を上げると「私達、若かったね」と笑いながらオレの顔を見た。

「そうだね」

頷いて答えると、ナマエはまたふわりと笑う。ナマエは昔と変わらない笑みをオレに向ける。だが、その笑顔には悲しみが入り混じっているようにも見えた気がした。もしかしてナマエは何か思い悩んでオレの元へ帰って来たのだろうか。『何かあったの?』訊ねたかったが、それを聞く勇気がまだオレにはなく、黙って知らないふりをした。

「あの頃のナマエ、生意気だったよね」
「カカシもね」

空気を変えるために冗談を言うと、ナマエも笑いながら返した。ナマエとオレが初めて出会ったのは高校一年の時だった。同じクラス、同じ部活ということもあり、ナマエと仲良くなるのはあっという間だった。自分とは真逆の天真爛漫な性格のナマエ。いつの日か、オレはナマエに恋をしていた。

「ねぇ、覚えてる?校舎裏にある金木犀」
「うん、覚えてるよ。綺麗に咲いていたよね」

下を向き、卒業アルバムに視線を向けているナマエの表情はこの角度では見えない。だが、弾む声を聞く限り、ナマエはとても楽しそうだった。
オレはふと、ナマエと過ごした学生生活の日々を思い出した。橙色の金木犀の小さな花びら。秋の訪れを告げる甘い香り。ナマエと隠れながらキスをした廊下の白色。互いに傷付け合い、些細に掛け違えた糸の赤色。心が割れた時も、特別な日々もオレの隣にはいつもナマエがいた。

「カカシ」

ナマエは顔を上げてオレの名を呼ぶ。その澄んだ瞳につい目を逸らしたくなった。

「カカシは私の道標。ここまで迷わないように歩いて来れたのはカカシのおかげだよ。…だけどね、私、」

あの頃に戻りたいの。

真っ直ぐ向けられる色素の薄い瞳からは涙が零れ落ちて、頬を伝う。その涙は一体どんな意味が込められているのだろうか。無意識にそっと人差し指で涙を拭ってやると、湿り気を帯びた生温い感覚が指先に伝わった。

「夢を追い掛けてここまで来たけどやっぱり私、無理かもしれない。自分より才能がある人がたくさんいて、自分がちっぽけに思えてしまう」

ナマエの流す涙は指で拭うだけでは足りない。やがて顎にまで伝い、ぽたりと音を立ててアルバムの頁に雫が落ちた。ナマエはそれに気付くと「ごめん染みになっちゃうね」と側に置いてあるティッシュに手を伸ばそうとする。オレは咄嗟にナマエの手を掴んだ。

「だったらさ、戻ってきなよ」

ナマエが「え、」と小さく反応する。離そうとした手を迷わずぎゅっと握り返した。

「ナマエが辛いのなら、逃げてもいいんじゃない?」

行っておいで。そう言ってナマエを見送ったはずだった。だが、ナマエがいない日常を改めて過ごしてみると、辛く、寂しさを感じた。本当は『何言ってるんだ』と、叱咤した方がナマエのためなのかもしれない。だが、どうしても言えなかった。ナマエにはオレのそばにいて欲しかったから。

「だけど…」

簡単には夢を断ち切れないのだろう。ナマエは憂いを持った表情をすると、ふたたび俯いてしまった。その拍子にまた一つ、涙が零れ落ちる。

「…じゃあさ、ナマエ。今だけあの頃に戻ろう。この部屋を出たらナマエは夢を追い続けなくてはいけない。だから今だけ。…大丈夫。昔と変わらず、ナマエのそばにはいつもオレがいるから」
「カカシ」

ナマエは静かにオレの名を呼ぶと、顔を上げてふっと笑みを零した。それは久しぶりに見たナマエの本当の笑顔だった。

「…本当に?」
「本当に」

良かった。ナマエは頷くと、ようやく安心したように笑った。学生時代の頃と変わらない笑顔。オレが恋をしたのは、ナマエのその無邪気な笑顔だった。
掴んでいた手を引き、互いの距離を詰めてオレはナマエの耳元で囁く。自分に言い聞かせる言葉のように、

「だから、もう泣かないで」、と。

そのままソファに押し倒すと、驚いているナマエの顔がすぐ近くにあった。僅かに怯えた様子のナマエの首筋にゆっくり顔を埋めて薄い皮膚を唇で吸い上げる。
久しぶりのナマエの肌。香り。二年前と変わらないナマエの感覚が嬉しくて理性が飛びそうになる。会えなかった月日をじっくり味わうようにオレは何度もナマエに口付けを交わした。深く、深く、甘く。身体が溶けて重なり合うように。





私達は求め合うように何度も身体を重ね合わせた。体力も尽き果てて、私を優しく抱きしめながら眠るカカシを盗み見ると、気持ちよさそうに寝息を立てていた。私は彼の寝顔を見て思う。ああ、ずっとこうしていられたらいいのに、と。だけどやっぱり、それは出来ない。私はまだ夢を追い続けていたい。
ごめんね。カカシ。
心の中で謝ると、起こさないように彼の腕の中から抜け出した。ソファの下で無惨に散らばった衣類を拾い上げて、下着から身に付けてゆく。

私は本当に自分勝手な女だ。現状が上手くいっていないからといって、カカシに会いに行くなんて。余計に彼と離れ難くなるのは最初から分かり切っていたことなのに。だけどようやく彼と再会して気が付いた。彼の優しさに甘えたらきっと、全てが中途半端になってしまうだろう。
最後に、壁に掛けてあるトレンチコートを羽織ると、冷たい生地が肌に触れた。また少し、寒い冬が近付いている。

『いってきます』

彼の寝顔を見て唇だけ動かすと、言葉を喉の奥に残したまま、部屋を後にした。





パタン、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。
――そうか。ナマエは行ったのか。薄く閉じていた瞼を静かに開けると隣にいた筈のナマエはいなかった。置き手紙もなにもない。あるのはナマエの匂いが残る部屋。濡れたタオル。外からは、相変わらず雨音が聞こえてくる。
耐え難い哀愁を感じて、気を紛らわすためテレビをつけた。流れている番組は天気予報。気象予報士によるとオレの住む場所は一日中雨。そしてナマエのいる場所は、晴れ。

ナマエがいない日々を送るのはやはりつらい。だけどいつかきっと、雨が止む日が訪れる。そして濡れた土は乾き、星が降る夜空も見えるだろう。その時はきっと、ナマエの夢が叶った時だ。

その日を迎えるためにオレは変わらない場所でずっと願い、待ち続ける。

窓を開けると、湿った空気が瞬く間に部屋に入り込んだ。目を閉じて、雨音に耳を澄ましながら息を吸う。埃っぽい雨の匂いと共に鼻を掠めたのは、懐かしい、金木犀の香りだった。


歌詞参考 恋をしたのは/aiko







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