あの子の前を上手に通る癖を覚えたのはいつからだっただろうか。

中学一年の夏。茹だるように暑い日のことだった。体育館で昼過ぎに行われる全校集会は人熱れでむせ返っていた。生徒達が皆口々に「暑い」だの「アイスが食べたい」だの不満を漏らしている。私もその例外ではなく、「早く終わればいいね」と、後ろにいる友達に文句を垂れていた。


「えー今回みんなに集まってもらったのは人権作文で優秀賞を受賞した一年生のはたけくんの作品を皆さんに聞かせたいと思い…」


キーンと甲高いハウリング音のあと、話し出す校長に皆一斉にして視線を向けた。人権作文?はたけ?誰だよ、そいつ。それよりも早く教室に帰らせろ。気怠げな顔をして隣に座る男子の囁き声が耳に入ってきた。その的を射る言葉に思わず『私も』と心の中で同意する。言葉は汚いが、私もその意見には賛成だった。こめかみにツーと汗が伝う。早く教室に戻りたい。

「じゃあ、お願いね、はたけくん」

校長に促された一年生のはたけくんは、舞台袖からゆっくり現れ、軽く校長に会釈をすると演台の前に立った。体育館の照明に照らされて白く光を放つ彼の髪色は見たことのない色だった。灰色のような、鼠色のような。けど、光沢を持った銀色のような。例えようのない美しい色を見て、突如現れた『はたけくん』に私は目が離せなかった。

「一年四組のはたけカカシです」

名を名乗ったあと、作文を読み始めるはたけくんの声は変声期特有の不安定で危うげな声だった。しかし何故だろう、耳障りな声ではない。耳を包み込む彼の声はどこか聞き心地の良い、爽やかな声だった。すっかりその声の虜になってしまった私は必死になって彼の声に耳を傾けた。

「ありがとう、はたけくん」

拍手と共に体育館に響き渡る校長の声を聞いてはっとする。いつの間に終わったのだろう。作文よりも彼の声に聞き惚れていた自分に羞恥が込み上げて、暑さで火照った頬がさらに熱を帯びる感覚が走った。はたけくんは舞台袖から降りると、四組の自分のクラスの列へと戻って行った。
「すごいね」クラスメイトに褒め讃えられているはたけくんは、表情崩さず「別に」と、どこか冷めたような目をして答えた。クールな性格なのかな。彼の様子を見ながら思考を巡らせ顔をまじまじと見つめていると、気付いた点がいくつかあった。さっきまで壇上にいて顔までははっきり窺えなかったが、よく見ると鼻筋が通って綺麗な顔をしている。薄い唇の左下には小さな黒子がポツンとあって、そのせいか、他の男子生徒にない色気があるように感じた。

……知らなかった。こんなにかっこいい男の子が私と同じ学年にいたなんて。

高鳴る心臓をどうにか抑えようと、私は気休めに壇上へ視線を向けた。嗄れた声が聞こえるステージ上ではいつものように校長が長い講話を行なっている。普段なら眠くなる時間も今日は逸る鼓動のせいで瞼が重くならなかった。私はもう一度振り返り、はたけくんを見た。はたけくんは変わらず前を見て退屈そうに重たげな目を校長に向けている。しかし私の視線に気が付いたのか、ふっとこちらを見た。カチリと彼の黒目と私の目が合わさって、時が止まる。
――目が合っちゃった。
途端に恥ずかしくなり、私は慌てて彼との視線を逸らした。鳴り止まぬ心臓は止まることなくまだ胸に響いている。背中から掻いた汗がジワリと薄いシャツに浸食して肌に纏わり付いた。全校集会が終わったあとも芽生えた彼への想いは張り付いたシャツのように離れなかった。


***


それからあっという間に月日が流れて、私は三年生の春を迎えた。もしかしたら彼と同じクラスになれるかもと淡い期待を抱いていたが、その望みは簡単に打ち砕けた。はたけくんは三組で私は五組。相変わらず私と彼は別々のクラスで、接点も何もない関係だった。

彼の目の前を上手に通る癖を覚えたのはいつからだっただろうか。もう随分も前のことで長いなぁと溜め息を吐く。

一年生の夏の日、瞬く間に彼に恋に落ちた私は少しでも彼に覚えてもらおうと昇降口で待ち伏せをしたり彼の目の前に現れては靴紐を結ぶふりをしたりしていた。自分でも執拗に追いかけていることは分かっていた。彼に対して罪悪感を感じていたが、どうしても彼の目に私を映して欲しかった。

そして季節が春から夏に切り変わったある日。売店で買ったばかりの棒付きバニラアイスを食べながら、今日も私は昇降口で彼を待っていた。もうすぐ来るだろうか。暑さから逃れるようにひんやりとした壁に寄り掛かりながら彼を待っていると、ふと廊下から声が聞こえた。
…はたけくんの声だ。一年生の頃よりも少しだけ低くなった声は、変わらず夏風のように爽やかな声だった。私はそっと目を閉じて、近付いてくる彼の声に耳を傾けた。

「なぁ、カカシ。お前やっぱりアイツのこと好きなんだろ」
「は?何言ってるの」
「この前アイツとお前が仲良く話してるの見たんだよ」
「お前ねぇ…それだけでオレがアイツを好きだと決めつけるのやめてくれない?」

会話の流れから考えると、どうやら男子生徒がはたけくんの好きな人を問い詰めている様子だった。はたけくんの好きな人、私も知りたい。…けど、知るのが怖い自分もいる。聞こうか、聞かないでおこうか。葛藤を繰り返している間も、二人の会話はどんどん進んでゆく。

「じゃあ、誰なんだよ、お前の好きな奴」

はぐらかすはたけくんに痺れを切らした男子生徒は一段と声を荒げた。はたけくんは気怠げに大きく溜め息を吐くと、息を吸い込んだ。

「オレの好きな奴は――」

やめて、その先は言わないで。

気付けば、私はその場から走り去っていた。急に走り出したものだから、心臓と体が追いつかなくて息苦しい。けど、そんなの気にしてられなかった。大好きな彼の声で、知らない女の子の名を聞くのは余りにも辛かった。聞いてしまえば、長年積もり積もった彼への想いが無駄となってしまうだろう。そんなの、絶対に嫌だった。

ジリジリと焼けるような陽射しのせいで溶けたアイスが指の方まで流れていく。見るからに美味しくないそれはまるで私の心を表しているよう。立ち止まり、しかめっ面でアイスを見つめる私に行き交う人々は目もくれない。彼だけではなく、もう誰も振り向いてくれない。そんな気がした。烈々とした太陽の光を頭から浴びて、疎ましく右手に纏わり付いた液体を振り払うと、私はようやく歩き出した。


***


「ナマエ、そのアスパラ食べないの?」
「うん…飽きちゃって。良かったらあげるよ」

翌日の昼食の時間、食べ終えた私の弁当を覗き込んだ友達は弁当の片隅に残っているアスパラを見てそう訊ねた。母がいつも弁当に詰めてくれるアスパラとマヨネーズのセット。最初は美味しくて食べていたが、最近では飽きてしまっていた。

「ありがとう」

友達は差し出した弁当を喜びながら箸でアスパラを摘むとひょい、と口に入れた。「おいしい」と微笑みながら食べる友人の顔を見て、ほっと息を吐く。ただ単に飽きただけという理由で、せっかく母が作った弁当を残すのは申し訳ないと思っていたからだ。

「そういえばナマエ、今日の放課後空いてる?駅前に可愛い雑貨屋を見つけたの」

弁当箱を片付けながら話す友人に私は「ええと…」と言葉を濁らせる。放課後はいつも決まってはたけくんを昇降口で一目見てから帰る、そんな自分ルールがあったから。
…けど、彼に好きな人がいるのなら私の恋心はもう終わりなのかもしれない。これまでしてきた彼の目の前でわざと横切る努力も、彼の帰りを待つ時間も、全て無駄なことだったのかもしれない。

「いいよ」

返事を返すと、友人の顔がぱぁっと華やいだ。彼女の満面の笑みを見て、やはり断らなくて良かったとほっとする。私は空になった弁当箱をバンダナで包むとそっと、鞄の中へ入れた。




「ごめんナマエ!先生に呼び出されているのすっかり忘れてて!だから先に昇降口で待ってて!」
「大丈夫だよ。待ってるね」

放課後、友人は手を合わせながら私にもう一度「ごめんね」と謝ると、慌てた様子で職員室まで走り去っていった。彼女に言われた通り、私は昇降口で待っていようと教室から出る。途中、クラスメイトが「バイバイ」と私に手を振ってくれたので、私も「バイバイ」と手を振り返した。

昇降口に着き、下駄箱から靴を取り出すと空いたスペースに上履きを入れる。日に当たることもなくずっと室内にあった靴を履けばひやりとした感覚が足裏から伝わった。邪魔にならぬよう昇降口の端まで歩き、とん、と壁に背中を預けて友人を待つ。いつもと同じ時刻にいつもの定位置で人を待つ。しかし今日の待ち人ははたけくんではなく、友人。

私は友人を待っている間、目を閉じて夏の風を感じていた。外と面した昇降口から吹き抜ける熱い風は校庭の砂と混じり合い少しだけ埃っぽい。炎天下のなか、ジージーと暑苦しく鳴く蝉の声はさらに外の暑さを感じさせた。

「ねぇ」

不意に聞き覚えのある声が耳に入り、目を開いた。急に視界が明るくなったものだから目が眩んでしまい焦点が合わない。「ねぇ」もう一度、私を呼び掛ける声が聞こえて、慌てて目を凝らした。ぼんやりと視界に映ったのは毎日のように追って見ていた、銀色の髪をした彼だった。

「はたけくん」

思わず彼の名が唇から漏れてしまい、はっとする。私達の間には接点も何もない。それなのに一方的に名前を知っているなんて、絶対に気味悪がられるだろう。しかし彼は驚く素振りを見せず、先程と変わらない表情のまま私をじっと見ていた。

「ねぇ、なんで昨日はオレの事待ってなかったの」

ツーと背中に汗が流れる感覚が走った。暑さで滲み出る汗なのか、それとも冷や汗なのか。何も言えず黙り込む私を見て、はたけくんは呆れたように大きな溜め息を零した。

「いつもオレのこと待ってるでしょ」
「なんで知ってるの」

私の問いに彼はまた一つ息を吐いて「あのねぇ」と腕を組む。

「こう毎日ともなれば気付くに決まってるでしょ」
「そっか…」

彼の言う通り、毎日のように待ち伏せをされていたら嫌でも顔を覚えてしまうだろう。もしかして嫌われてしまった?心配はするけど心の片隅に嬉しく思う自分がいて。彼が私を知ってくれていた。念願の夢が叶った。はたけくんには悪いけど、浮かれてしまう自分がいた。

「帰らないの?」
「…今日は友達を待ってるの」
「ふぅん、今日はオレを待ってるんじゃないんだね」

はたけくんは嫌味なのか、それともただ単に思ったことを口にしただけなのか。判断しかねる言葉を投げると、真っ直ぐ私を見た。初めて近くで見た彼の瞳は深い海のように真っ黒で、涼やかなその目元はこの季節にぴったりだと思った。そして今、ずっと映して欲しかった彼の瞳のなかに、私がいる。込み上げる嬉しさで何も言えず、口をもごもごさせる私に愛想が尽きたのか、彼はくるりと背を向けてしまった。

「じゃあまた明日ね、みょうじさん」

後ろ手で手を振る彼を見て、私は咄嗟に彼の背に話し掛ける。

「どうして私の名前知ってるの?」

彼は一瞬だけ振り向くと、ふっと笑みを溢した。彼の背後にある太陽が眩しくて目を細めてしまう。

「君がオレの名前を知っているのと一緒」

じゃあね。そう言い残すと今度こそはたけくんは去って行った。小さくなってゆく彼の背を見て、ああやっぱり私は彼が好きなのだと、恋い焦がれた。射てつく太陽に体だけではなく心まで焼かれてしまいそうだ。私は彼の姿が見えなくなるまで、見つめ続けた。

正直に言えば、それからのことは覚えていない。確かはたけくんが去って行った後、直ぐに友人がやってきて約束通りに駅前の雑貨屋に行った。「かわいいね」と、雑貨を見てはしゃぐ友人に悪いと思いつつ、私の頭の中は彼でいっぱいだった。「じゃあまた明日ね」そう言って友人と別れて一人になった瞬間、私は今日の出来事を思い出した。

――彼が、私を知っていた。しかも、名前まで。

これまでの努力が報われたような気がして嬉しかった。もしかしたら彼が振り向いてくれる望みはまだあるのかも知れない。それがほんの僅かな確率でも、彼の心にまだ隙間があるのなら、気持ちを伝えたい。
決意を固めて、先ほど雑貨屋で友達とお揃いで買った真新しい水色の便箋を袋から取り出すと机の上に転がっていたペンを握った。

『私はあなたが好きです』

ペン先で綴った文字はずっと思いを寄せてきた私の気持ち。『好きです』たった一文でいい。彼に好きな気持ちが伝わればそれでいい。私はもう一度、文章を目でなぞると、そっと封を閉じて、便箋に付属されていたシールを貼った。

明日、彼はこの手紙の封を切って、私の想いを知るだろう。その時、彼はどんな風に私を思うのだろうか。驚くだろうか、嫌がるだろうか。それとも――。想像すればするほど、煩いくらいに胸が高鳴った。


***


翌日、私はまたいつものように昇降口で彼を待っていた。暑さと緊張で汗ばんだ手には彼への想いを綴った手紙を握り締めている。
相変わらず吹き抜ける風は埃っぽい。けど、生温い風を感じるのも今日でこれが最後。私の恋は今日、終止符を打つ。すっと息を吸って手紙を胸に当てながら願った。

「どうか渡せますように。思いが届きますように」

昇降口に続く、廊下の奥から話し声が聞こえる。大好きで恋をした、彼の声だ。

彼がこちらに近付くほど、段々とはっきりと大きく声が耳に入ってくる。しかし聞こえてきたのは女の子と彼の楽しそうな笑い声。

長い廊下で彼の声と女の子の声が一つになった。

胸をぎゅっと強く掴まれたように苦しい。はたけくんは誰と笑っているの?壁から身を引いて覗いてみると、はたけくんは知らない女の子と楽しそうに笑い合っていた。初めて見た彼の優しい笑顔。私はそれを見て、あの子とはたけくんの関係性を一瞬にして理解できた。

――きっと、彼の好きな子はあの子。

どうして忘れていたのだろう。彼には好きな人がいるということを。彼に話し掛けてもらえて、彼が私の名を知っていてくれて。たったそれだけなのに、もしかしたらって、淡い期待を抱いていた自分が馬鹿みたい。乾いた喉で唾を飲み込むと、ヒリヒリと痛みを感じた。一人取り残された気持ちになった私は、いつかと同じくその場から走り去った。

乱れた呼吸を整えながら真っ直ぐ続く道を見る。いつもと同じ帰り道なのにやけに今日は遠く感じる。ジリジリと私を照りつける可愛げのない日差しが憎らしい。
無我夢中で走ったせいか無意識にきつく握り締めていた彼に宛てた手紙がぐちゃぐちゃになっていた。
…本当は最初から分かり切っていたことだった。指にまで溶けて、流れてしまったアイスのようにこの恋は手遅れだったということ。いまさら悔いても仕方がない。泣きたかったのに私の顔は認めるしかないと笑った。







チリン、風鈴の涼やかな音が縁側に鳴り響いた。風と共に懐かしい実家の匂いが私の鼻に掠める。

今年の夏の休暇も私は実家に帰省していた。生まれ育った場所が変わらずここにあることはとても幸せな事だ。冷凍庫から引っ張り出してきたアイスを片手に縁側に座ると、袋からアイスを取り出した。暑さのせいで早くも溶け始めるアイスを慌てて口に入れる。
…そういえば、あの日も同じように暑い日だったな。

あの空、あの道、彼の顔。

今年も蘇る、夏の切ない記憶。結局、あの日に渡せなかった手紙は机の引き出しの奥に閉まってある。もう一生、誰にも封を切られることはない手紙。けど、どうしても捨てられないのは唯一にして形ある青春の思い出だったから。

ポタリ、小さな音を立てて溶け出したアイスの雫が床に垂れた。やはり私にとってこのアイスは美味しくない思い出の味。けどこの季節になるとどうしても食べたくなるのは、彼を思い出したいからか。それとも切ない思い出に酔いしれたいからか。

大人になった今でも苦しくなるその記憶に、私は思わず目を閉じた。

歌詞参考 アスパラ/aiko







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