テレビの音がやけに騒がしい。同時に苛立つ感情もうるさくて、今すぐにでもこの場から去りたかった。

「カカシなんて大嫌い!」

頭の中で出来る限り彼が傷付く言葉を瞬時に吐き捨てれば、予想通り、彼の影色の両瞳が大きく揺れ動いた。私の腕を掴むカカシの手の力がふっと緩んで解けてゆく。私はその隙を見て彼に背を向けると一目散にリビングを出た。

廊下に出ても彼は何一つ私に声を掛けては来なかった。「待って」も「ごめん」も、私を引き止める声など全く聞こえない。自分から出て行ったのにも関わらず、彼を求めてしまう自分が悔しくて、情けなかった。

このまま外へ出て行ってしまおうか。しかしそれをしてしまったら、本当に引き返せなくなりそうで怖かった。怒りで頭に血が上りながらも彼と別れたくない気持ちの方が勝っているのだから、私はとんだ臆病者だ。はぁ、大きく息を吐いて、彼と距離が開かない絶妙な位置にある脱衣所へと避難した。

脱衣所に入れば、湿り気を帯びた、独特の湿気臭い匂いが私を迎え入れた。陰鬱とした匂いと暗い雰囲気はどことなく今の私の心境と似ていて思わず苦笑する。とん、と白い壁に寄り掛かりながら目を閉じて、先程の出来事を思い出した。

「ねぇ、カカシ。私の話ちゃんと聞いてる?」
「んー?聞いてるよ」


事の発端は彼がテレビに夢中で私の話を聞かないことだった。私達は半年後に結婚式を控えていた。プランナーから次の打ち合わせまでに席順を決めるように言われていた私は、仕事や家事で忙しいながらも合間を縫ってなんとか自分の分を終わらせた。あとはカカシが呼ぶゲストの席順決めだけだった。

「プランナーさんが席順決めてだって。私の分は終わったからあとはカカシだけなの」
「んー」
「ねぇ、聞いてるの?」
「聞いてるよ。オレ、そういうの分からないからナマエが代わりにやっといてよ」


カカシはそう言うと、ガヤガヤ騒がしい芸人を見て笑い声を上げた。テレビの音。カカシの笑い声。騒々しい音が私の耳いっぱいに広がる。苛立った憤りがじりじりと腹の底から湧き上がる感覚がして少しでも解消しようとカカシを睨みつけた。変わらずカカシは私に目もくれず、テレビに視線を向けている。そして先ほど冷蔵庫から取り出したばかりの缶ビールのプルタブをパチンと開けると、缶のフチに口をつけた。ごくりとビールが喉を通る音がさらに私の怒りを煽らせる。

…なによそれ。プロポーズをしたのはそっちなのに。それさえ終われば後はなんでもいいの?二人の大切な式なのにそんな投げやりな気持ちで当日を迎えていいの?

ふたたび笑い声を上げる無神経なカカシを見て、私のなかにある積もり積もった感情がパンっと音を立てて弾け飛んだ。


「カカシなんて大嫌い!」




ふっと我に返り、目を開けた。目の前の洗面台の鏡には情けない顔をした自分が映っていた。

泣きたいなら泣けばいい。けど悔しくて泣きたくなかった。

合わさっていた自分との視線をそっと逸らして溜め息を吐いた。ここにいても何も変わらない。けど、カカシがいるリビングには絶対に戻りたくなかった。

気分転換にお風呂にでも入ろうかな。そう思い立った私は服を脱ぎ始めた。纏っている衣服を一つずつ取り去っていけば、晒された肌に冷たい空気が触れた。

裸になって、バスルームに続く戸を引く。足を踏み入れると床に残っていた冷たい水が足裏から伝わり、思わず「つめたっ」と声を上げた。

湯を浴槽に汲んでいる間、ボディタオルに石鹸をつけて泡立てれば、きめ細かいふわふわの泡が出来上がった。私はその泡で丁寧に一つ一つ身体のパーツを洗ってゆく。

温かいシャワーで泡を流して洗い上げた体からは彼と同じカモミールの香りがした。いつからだろう。彼も同じ香りがするようになったのは。それはただ彼と同じ石鹸を共有しているだけのことで、なんも変哲もないことだけど、私にとってのそれは嬉しくて幸せなことだった。

浴槽を確認すると、丁度いい湯加減のお湯が張っていた。お気に入りの入浴剤、バスボールを投げ入れれば、シュワシュワと小さな気泡を放ち、あっという間に湯の中に溶け込んでいった。とろりとした湯からはバニラ・ラベンダーの甘くて芳潤な香りがバスルームを包み込んだ。

「良い香り」

思わず恍惚した声で呟き、私はバスタブへ足を入れた。チャポンと微かに水しぶきを上げてゆっくり肩まで浸かると大好きな香りが濃くなってゆき、気持ちが弾んだ。
けど、その気持ちは一瞬だけ。どんなにお気に入りの香りを嗅いで気を紛らわしても喧嘩をした事実は変わらない。ツンと喉の奥に刺さる痛みを飲み込むと、私は目を閉じて彼と出会った日のことを思い出した。


カカシと私は会社の同期だった。大学が一緒だったらしいが、私が初めて彼を見たのは入社式の日だった。白銀の髪を持ち、大きめのマスクをしている彼は新入社員の中で一際目立っていた。彼は物腰も柔らかく人当たりの良い人だった。しかし、それは私を除いての話。他の社員には優しく接しているのに何故か私にだけ愛想がなく冷たい態度を取られていた。

人には好き嫌いがあるのだから仕方ない。彼にとって、私は嫌いな人間の類だっただけ。ただ、それだけのこと。

そう自分に言い聞かせて、気にしないように過ごしていた。しかし私の態度がさらに彼の癪に障ったのか、日ましに私に向ける無情な態度がエスカレートしていった。とうとう堪忍袋の緒が切れた私は昼休憩中の彼を呼び出して、問い詰めた。

「ねぇ、はたけくん。私のこと嫌いなのはいいけど、仕事上では普通にしてくれる?やりづらくて業務に支障をきたすの」

すると彼はマスクと前髪の間から覗かせた目をパチクリさせて、「違う」と否定した。
焦った様子の彼にじゃあなんでと更に問いただす。

「ごめん……オレ、お前が好きなの」

ぽつり、彼が小さく零した言葉は周りの雑音と共に私の耳に入り込んだ。私が好き?あれだけ嫌な態度を向けていたのに?突然の告白に今度は私が驚く番だった。彼は気まずい顔を浮かべると、私との視線を逸らして俯いた。拍子に彼の、白銀の細い髪が揺れる。

「好きになると意地悪したくなるって言うでしょ?……あれと一緒」

白状した彼はまるで、親に叱られるのを怯えながら待っている子供のようだった。

「なにそれ。中学生?」
「…そうかもね。オレ、中学生のまま時が止まってるのかも」


呆れた目を向ける私に、彼は顔を上げると困ったように笑った。向けられた初めて見る彼の笑顔に胸が高鳴る。今思えばあの頃からきっと私は彼の不器用なところに惹かれていたのかもしれない。

それから私達は付き合うようになった。互いのことを会社以外では下の名で呼び合い、初めて手を繋ぎ、唇を重ね合わせて、そしてお互いの身体の温もりを感じ合うようになった。彼と過ごした時間は本当に楽しくて瞬きするほどの時間だった。私にとって彼と共に過ぎ去った日々は大切でかけがえのないもの。いつまでも忘れないで胸に残しておこう。そう思った。

そして入社十年目の春。彼は柄にもない色鮮やかな大きな花束と共に婚約指輪を持って私にプロポーズをした。

「オレとずっと一緒に生きてください」

その言葉一つで、この世の全てが輝いて見えた。嬉しい感情と共に私の涙がポタリと零れ落ちる。カカシは私の顔を覗き込むと、頬を伝う涙を人差し指で優しく拭った。「ナマエはすぐ泣く」そう言って笑った彼の顔は十年前に告白をした時と同じ、困った笑みを浮かべていた。

「こちらこそ。よろしくお願いします」

そう言って、ゆっくり頷いた私にカカシは「良かった」と安堵の息を吐いた。優しい笑みを浮かべながらカカシは指輪が入っている小さな箱を開けて、装飾が施された指輪を手に取る。「手、貸して」と言われ、私はそっとカカシに左手を差し出した。私の薬指に指輪を嵌める彼の手は少しばかり汗ばんでいて、ああ、彼も緊張しているのだな。そう思うと愛しさが溢れ出た。

すっと音もなく、華奢な指輪が薬指に通される。

私は嬉しくて指輪を嵌めた手を広げたり握ったりを繰り返した。そっと手を空にかざしてみると、きらりと反射したダイヤが輝きを放つ。私は胸を弾ませながら彼を強く想った。薬指に光るこの指輪を一生大切にしよう。指輪を嵌めてくれたカカシを一生大切にしよう。そう固く決意をして、ぎゅっと手を握り締めた。

「カカシ、ありがとう」

笑い返したカカシはこの指輪と同じくらい輝いて見えた。

「これからも、ずっとよろしくね」




ぽちゃり、胸まで浸かった水面に雫が落ちて波紋を描いた。

音を鳴らした犯人は私の頬を伝って流れる涙の雫だった。涙を認めたくなかった私は、手のひらですくったお湯で顔を思いきり洗った。

『カカシなんて大嫌い!』

思わず口走った言葉を消せたらいいのに。また一つ、零れ落ちた涙が水を濁してゆく。散々泣いていいのなら、いっその事たくさんこのバスタブに水溜まりを作ってしまおう。ぎゅっと瞼を閉じて思い出すのは悲しげな彼の顔で。彼への想いがふたたび螺旋を描き始める。

カカシ、傷付いたかな。私のこと、嫌いになったかな。思えば思うほど後悔の念が押し寄せてゆくからきりがない。本当は彼を傷付けたくないくせに、わざと傷付く言葉を吐いてしまう私は我が儘で天の邪鬼だ。

ぽちゃり、今度は涙ではなく髪に滴る雫が水面を揺らした。泣き腫らした瞼を開いては閉じてを繰り返す。今は何時だろうか。日付を跨いだ0時過ぎかな。眠たい身体を湯に沈めて夢と火曜日の境目にいる私は彼の顔を思い浮かべた。
…カカシ、何してるのかな。


「ナマエ」


ふっと聞こえた声は先ほどから想い、馳せていた彼の声だった。一瞬にして目が覚めた私は扉に目を向けた。ゆらり、ドアガラス越しに彼のシルエットが揺れ動くのを見て心臓が波打つ。

「…ごめん」

カカシは弱々しく私に謝った。その声を聞いて、やはり彼を傷付けてしまったのだと胸が掴まれたように痛くなる。ひどいことを言ってごめん。傷付けてごめん。私も言わなくちゃいけないのに、自身の唇からは違う言葉が漏れてしまう。

「何が?」

私の発した声はひどく冷たく、狭いバスルームに響き渡った。カカシはしばらく黙り込むと、抑揚のない、私を宥めるような声で言葉を発した。

「二人の式なのにナマエばかりに任せちゃってごめん」

スモーク掛かったガラスドア越しにいる彼の表情は分からない。けど、力ない声色を聞く限り彼の顔はきっと悲しい表情なのだろう。私はあの日、指輪を嵌めて心に誓った言葉を思い出した。彼を大切にしなくちゃ、そう決意したのに今まで何ひとつ守れていない。ただこうして、カカシを悲しませているだけだ。

「…カカシ、私に言ったプロポーズ覚えてる?」

私の唐突な質問にカカシは「え?」と声を上げる。

「もう一度言ってくれたら許してあげる」

わざと困らせる事を言うなんて、やっぱり私はわがままだ。…けど、忘れかけていたカカシとの記憶をもう一度蘇らせたかった。この世の全てが輝いて見えた、あの日の気持ちを取り戻したかった。

「ええ、今……?ちょっと待って、そうねぇ…」

ドアガラスを通して見える彼の影は困ったように頭を掻いていた。その仕草は動揺した時によくする彼の癖だ。

私はこれまで、たくさんの時間をカカシと共に歩んできた。仕事がうまくいかなくて落ち込んだ時、何も言わず側にいてくれたこと。美味しいものでも食べに行こうと彼の行きつけの店に連れて行ってくれたこと。帰り道に寒いからと言って、彼のポケットに手を入れたこと。カカシとの積み重ねた日々は本当に一瞬で、大切なものなのに、私は見落としてしまった。

「……オレとずっと一緒に生きてください」

だけど、彼はちゃんと覚えていてくれた。大切な、プロポーズの言葉を忘れずにいてくれた。すりガラス越しにいる彼のシルエットはまだ頭に手を置いたまま。私はそれを見て、思わず笑ってしまった。

「…え、なに?」

困惑したカカシの影が大きく揺れる。「なんでもない」そう言って、湿った空気を大きく吸い込み、深呼吸をした。お気に入りの入浴剤の香りが鼻を掠めて今度こそ心弾む気持ちになれる。

「あと少ししたらそっちに行くね」

そう答えれば、彼は戸惑いながらも「待ってるね」と言葉を残して去って行った。

私もカカシに謝らなくちゃ。

ぼんやりとした頭の中でどう謝ろうかと必死に考えながら、また目を閉じた。リビングからは微かにテレビの音が聞こえる。カカシ、まだ起きていてくれるだろうか。のぼせた身体を起き上がらせて、涙で溜まったバスタブから出ると、火照った身体が冷えた空気に触れて、程よく冷ましてくれた。

脱衣所の棚に折り畳まれているバスタオルを手に取って、髪を拭きながら洗面台の鏡に映る自分を見る。泣き腫らした瞼に生える睫毛はまだ濡れていた。彼と同じ柔軟剤の香りがするタオルでそっと睫毛の雫を拭き取っているとふと、リビングを歩く足音が耳に入った。

良かった、まだ起きているみたい。

私は浮かれた気持ちのまま急いで服に着替えると、ドアを開けて愛しい彼の名を呼んだ。

「カカシ、ごめんね」
「ううん、オレこそごめん」



歌詞参考 バスタブ/aiko







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