カーテンを引いた窓から窺えたのは、朝霧が目の前の家々を包み込んだ幻想的な景色だった。

東から昇る太陽が、白々とした光を放ちながら向かいの家の影を濃く映し出している。私はその景色に目を奪われると、思わず綺麗だなと感嘆の声を漏らした。同時に吐かれた白い息が、結露の張った窓ガラスに触れて、雫が滑るように流れ落ちた。

「今日はきっと天気ね」

この景色を見た日はいつも決まって、晴れ渡る日が訪れる。最近までずっと雨が続いていて陰鬱とした気分だった私は、今日の天気が晴れると分かると嬉しくなった。

「そんなことで嬉しくなるものなの?」

私の声に気付いたカカシはもぞもぞと布団を剥いで、ベッドから上半身だけを起こした。もうすぐ春といえど、朝の時間帯はまだまだ肌寒い。だからなのか、なかなかベッドから降りようとしないカカシに私は苦笑した。

「毎日生きてるとね、どんな小さなことでも嬉しくなるのよ」

私の放った言葉は、カカシにとってさほど興味を引くものではなかったらしく「ふぅん」と素っ気ない相槌を打った。ぴょんと跳ねた後ろ髪の寝癖が、日頃から見せている毅然とした彼とは違い、思わず口を緩ませた。

「それにしても大丈夫なの?体」
「んー…まだ痛むかも」

怪我を負って任務から帰ってきたカカシは、里に着くなり病院へと運ばれた。しばらく入院していたが、体が少しずつ回復した今は、自宅で安静を命じられているのだった。
私は窓から離れて、彼の近くまで歩み寄った。そっと右手を伸ばして、彼の後頭部にある寝癖を直そうと2、3回、手で撫で付けてみる。しかし意外と頑固な寝癖らしく、手を離すとすぐに跳ね上がってしまった。これだけ強い癖だと、水で濡らさないとダメかもなぁ。

カカシは大きな欠伸を漏らすと、眠たげな目で私の背中越しにある窓をぼうっと眺めていた。赤と黒、色違いの両瞳には明るい外の景色が映り込んでいる。

「ねぇ、ナマエ」

気抜けした弛緩な声で私の名を呼んだカカシは、おもむろに私の右手を掴んだ。ぐっと引き寄せられたことで、私の体はバランスを崩して、ぐらりとカカシ寄りに傾く。咄嗟の出来事に着いて行けず、私はぎゅっと目を閉じた。ベッドに二人分の体重が掛かったことにより、ギシリとスプリングが軋む音が部屋に響き渡る。恐る恐る、閉じていた瞳を開いてみると、カカシは私の体を包み込むように抱き締めていた。

「ちょっと」

カカシの厚い胸板が苦しくて、手で押し退けようと試みるが、抵抗する私の体を離さないと言わんばかりに、回す腕にぎゅっと力が込められた。カカシの鼻先が私の首筋に触れて、思わず身動いでしまう。ふっと、吐かれた彼の吐息が、私の襟首の産毛に掛かって擽ったく感じた。

「……ナマエ」

もう一度、カカシは私の名を呼んだ。彼の唇から弱々しく発せられた声は、まるでカカシが消えてしまいそうに思えて、胸がざわつく。

「…なに?」

私は聞き漏らさぬよう、目を閉じてカカシの声に耳を傾けた。

「オレと、一緒になろう」

小さく吐かれた彼の言葉は、『らしくない』ものだった。

返答に困った私は、カカシの胸元に顔を埋めたまま言葉の意味を考えた。トクン、トクンと一定のリズムを奏でる彼の鼓動が耳に入り、溶け込んでゆく。

カカシが常に目を向けているものは、この里だった。里が大切で、常に里のために自分を犠牲にしてきた。それは仲間に対しても同じことだった。カカシは身命を投げ打ってまで他人を庇ってしまう。今回だってそう。カカシは仲間を守ろうとしたから怪我を負って帰ってきた。カカシは自分を犠牲にしてまで責任を果たす、強くて優しい人だった。

だからこそ、私なんかと一緒にいたら彼の重荷になってしまいそうで怖かった。何も出来ない足手纏いな私がカカシの隣にいれば、優しいカカシにまた一つ傷を負わせてしまうことになるだろう。もう誰かの為に傷付く彼を見たくなかった。彼の足枷にはなりたくなかった。

「…ごめん」

私が吐いた言葉を聞くと、一瞬にして彼の腕の力が緩んだ。私はそっと、カカシの胸を押して距離を開けた。力の抜けた彼の腕から離れるのは容易いことだった。するりと回された手を解いてベッドから降りると、冷たい床が足裏から伝わって更に私を悲しくさせた。ゆっくり立ち上がれば、私が履いているリネン生地のスカートがひらりと揺れた。深みのある赤色のスカートは、カカシが以前、似合うと言ってくれたスカートだった。

「どうして?」

私の背中越しにいるカカシの声は先程と同様、消え入りそうな声だった。その声を聞くなり、じわじわと目頭が熱くなる。私は振り向かないで、真っ直ぐ前を見た。振り返ってカカシの顔を見てしまえば、涙が出てくると思ったからだ。

「私、自由がいいの。誰にも縛られたくないの」

出来る限りの明るい口調で答えれば、静かな部屋と相反した、不釣り合いな私の声が響き渡って、余計に虚しさを募らせた。

ごめん、本当は違うの。本当はカカシと一緒にいたいの。

言いたくても言えない言葉を呑み込むと、代わりに涙が溢れ落ちた。無意識にぎゅっと握り締めたスカートに、皺が寄る。

「だから、ごめんね」

私は真っ赤な嘘をスカートの中に隠した。握り締めていたスカートを離すと、薄い布にはみっともないほどの皺ができていた。

「そっか、そうだよね」

カカシの声は変わらず優しかった。彼が今どんな顔をしているのか、背を向けている私には分からない。思い浮かぶのは、眉を下げて困りながら笑っているカカシの顔。

ふと窓に視線を移せば、先程よりも薄れた朝霧の合間から、うっすらと水色の空が窺えた。太陽の光が徐々に強くなる様子を見て、今日の天気はやはり晴れだと確信する。

「ナマエ」

カカシが私の名を呼んだ。振り返ろうとしても、どんな顔をしていいのか分からない。私はカカシに背を向けたまま「なに?」と、訊ねた。

「手、貸して」

カカシは私の右手に触れると、確かめるように自分の手と重ね合わせた。何度も繋いだことのあるその手に、私は戸惑いながらも握り返す。
温かいカカシの手には小さな豆が出来ていた。これが里を守る手。かさついたその手を強く握ると、カカシも同じぐらいの力で私の手を握り返した。

「じゃあ、今だけそばにいさせてよ」

カカシは私の右手を軽く引っ張った。とん、と背中に彼の胸板が当たる。カカシはそっと後ろから腕を回すと、私を抱きしめた。
ふっと鼻をかすめたのは陽だまりのような温かい香り。それは大好きなカカシの匂いだった。私は回された腕を掴んで、そっと目を閉じた。拍子にポタリと涙がカカシの手に溢れ落ちる。けど、カカシは何も言わなかった。カカシはただ黙って、私の首に顔を埋めた。カカシの柔い髪が私の頬に触れるなり、擽ったくて思わず笑んでしまう。カカシもふっと小さな笑い声を上げた。

「あったかいね」
「そうだね」

私はまた一つ、苦しい恋を知った。一人きりで新しい日々を繰り返すのはやはり怖い。けど、今だけでも良いからカカシのそばにいたい。明日が来るたびに何度も足は止まるけれど、今は泣くよりも、こうしてカカシと笑っていたいの。

私はのんびりとした朝の空気を噛み締めながら、彼に背中を預けた。







ナマエがオレの腕の中にいる。かつては共に助け合い、ナマエのその小さな背中を預けて痛みを分け合った日もあった。オレは、ずっとナマエと一緒に生きてきた。オレ達には充分すぎるほどの月日が流れたんだ。

ホントはナマエがオレに嘘を吐いたことを知っていた。その嘘が冷たくて優しい嘘だということも分かっていた。オレの腕の中でひっそりと泣く彼女の涙が真実だということも。全部、知っていた。

人は、産声を上げて生まれた瞬間から、死に近付いている。けど、オレは死を恐れるよりも、残された時間をナマエとゆっくり楽しみたい。

だから、ね。これはずっと何十年も先になる未来の話かもしれないけれど、もしも世界が平和になって、全てが終わったら、もう一度ナマエに告白しようと思っている。だからナマエ、その時はちゃんとオレの言った言葉をお前のホントの気持ちで受け止めて欲しいんだ。

それまで、待ってて。

オレは冷えた空気を思い切り吸い込んで、ナマエの匂いを肺いっぱいに溜めた。ナマエはようやく泣き止んだのか、今度は小さな笑い声を上げている。こうして、オレの腕の中で泣いたり笑ったりするナマエが愛おしくて堪らないんだ。

そうだなぁ。今は泣くよりも、お前と一緒に笑いたい。お前と同じ景色をこうしていつまでも見ていたいんだ。

ナマエと一緒に見た窓からの景色は、ナマエの言った通り、澄み渡った青い空が広がっていた。オレは彼女に身を寄せて、温もりを感じながら、囁くように呟いた。

「もう少しだけ、こうしてよっか」



歌詞参考 朝寝ぼう/aiko







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