先生、せんせい

麗かな春の日だった。柔らかな彼女の黒髪は陽の光によって透き通り、栗色に輝いていた。

ナマエは隣に座ると、オレの名を呼んで、ゆっくり微笑んだ。オレは読んでいた本を閉じて、ナマエの横顔に視線を向ける。穏やかな日差しに照らされた彼女の頬には長い睫毛の影が差していた。儚く消えてしまいそうな彼女を見て、思わず頬に触れたい、そんな衝動に駆られたが、そんなことは許されないと思い、行き場のなくなった手は、本と共にポケットの中に忍ばせた。

「私ね、カカシ先生のことが好きなんだよ」
「だから冗談やめてって言ってるでしょ。ナマエ」

悪びれることなく、そんなことを口にするナマエにオレは呆れて溜息を吐く。
しかし彼女を拒否する反面、『そんなこと』を言われて嬉しく思ってしまう自分もいた。身勝手で矛盾な自分の気持ちに、つい苦い感情が胸に広がる。

ナマエがオレに向けている愛は知っていた。しかし受け止めきれず、オレはいつも彼女を遠ざけて背を向けていた。
オレにとって、ナマエは他の子と同じ大切な生徒だった。オレのせいで彼女の輝かしい未来を奪ってしまうことが怖かった。若いナマエにはたくさんの希望や可能性が無限に広がっている。だからこそオレなんかに足を止めず、真っ直ぐ迷うことなく彼女の道を突き進んで欲しかった。

「先生、今日も良い天気だね」

空を見上げて嬉しそうに話すナマエを横目にオレはまた一つ、溜息を吐く。

昼休みになると、こうして校舎の裏庭で会うようになったのはいつからだったろうか。彼女を本当に思うのなら、そろそろこの時間とも別れなくてはいけない。けど、なかなか言い出させずにいるオレはきっと、彼女のことを――。続く言葉を言ってしまえばオレはもう、取り返しのつかない気持ちを抱くことになるだろう。

しかし何度自分に言い聞かせてもナマエへの強い欲望がオレの中に絶えず、胸に募ってゆく。ホントはナマエを離したくない。ナマエを抱き締めたい。ナマエのその薄い唇に触れてみたい、と。

ああ、駄目だ。これでは。

オレは気持ちを押し殺しながら足元に咲く、名も知らぬ花に目を向けた。すらりと伸びた茎の先には白い小さな花を咲かせている。春になるとよく目にするこの植物をオレの頭の中ではただの雑草として認識していた。

「先生、その花好きなの?」

花に目を向けていたオレに気付いたのか、ナマエは不思議そうに訊ねた。

「別に好きでも嫌いでもない。ただの雑草でしょ?」
「違うよ。これ、(なずな)っていうんだよ」

そう言って、ナマエは薺と呼ばれた花をプツリと根本から千切ると「ねぇ、先生知ってる?薺の花言葉」とオレに問いかけた。
オレは首を傾げて、知らないと答える。すると彼女は「先生も知らないことあるんだね」と、からかって、悪戯な笑みを浮かべた。

「あなたに私の全てを捧げます。なんだって」

少し怖いよね。笑いながら話す彼女の横顔はどことなく悲しそうで。そんな顔をさせているのは紛れもなく自分なのに、胸が痛くなった。

「でもね、私、そのぐらい先生のことを思ってるから」
「はいはい」

オレの淡白な返事にも構わず、微笑む彼女は大切そうに手に握っている薺に目を向けた。

「でもね。本当はね、先生が気持ちを受け止めてくれないのは分かってる。…だから、はい」

そう言うと、ナマエは隣に座るオレに薺を渡した。

「せめて花だけは私を想って、先生の部屋に飾ってよ、なんて」

憂いを持ったその瞳を見ることが出来ず、オレは彼女の手からそっと薺を受け取った。
「気が向いたらね」なんて、曖昧な優しさを言いながら。

「じゃあ、先生。また明日」
「みょうじ」

わざと上の名で呼んだのは、彼女とオレの間に境界線を引いたのを分からせるため。彼女はオレの呼び方に怪訝に思ったのか、眉を潜めて、続く言葉を待っている。

「もうここには来るな」

ナマエの焦げ茶色の瞳が大きく揺れ動いた。彼女はオレの目を逸らし、髪をそっと耳に掛ける所作をする。それは、ナマエが動揺した時によくする仕草だった。オレはナマエのその仕草が好きだった。時にはその仕草が見たくて、わざと彼女を困らせる事を言った日もあった。…だが、それも明日からは見ることが出来ない。

ナマエはどう思っただろうか。オレを嫌いになっただろうか。オレはナマエの顔を見るのが怖くて、足元に視線を落とした。ナマエは一体どんな顔をしてオレを見ているのだろう。自分から彼女を傷付ける言葉を掛けたのにも関わらず、ナマエの顔を見ることさえ出来ないなんて、ホントにオレは臆病者だ。

遠くで今のオレ達に流れる空気とは不釣り合いな、生徒たちの明るい声が聞こえる。
ナマエは微かに聞き取れる声で「そうだね」と呟いた。

「じゃあね。カカシ先生」

ナマエはそう言い残すと、走り去って行ってしまった。オレは咄嗟に顔を上げて、遠ざかる彼女の背を見た。「ナマエ」と、名を呼ぼうとしたが、喉に何かが突っかえて、声がうまく吐き出せない。小さくなってゆくナマエの背中を見て、オレは一体何がしたかったのだろうと自問自答した。

頭上から降り注ぐ、今の気持ちとは真逆の陽気な春の日差しが疎ましい。
これでいい。これで良かったのだと、馬鹿なくらいに自分に言い聞かせた。

オレのことなんて忘れて、いっそのこと嫌いになればいい。

そう思うのに、みっともないくらいに後悔の念が押し寄せて来るからどうしようもない。この腕で去ってゆく彼女を包みたかった。もっと側にいたかった、そんな欲ばかりが溢れてしまう。

オレは彼女から受け取った薺に視線を向けた。そこら辺の道端に咲いていて、どこにでも咲いている花なのに、彼女が摘んだだけで特別に感じる。

これは、ナマエとの思い出の最後の欠片。

オレは薺を背広の内ポケットに大切に仕舞い込んで、校舎に戻った。


***


温かい陽の光が包む春が訪れ、耳をつんざくような蝉の声が降り注ぐ夏が過ぎゆく。落ち葉の音を奏でる秋に黄昏て、雪の結晶で頬を冷やした寒い冬が終わる。

そして、また新しい季節が巡ってきた。

あれから、ナマエとは校舎の裏庭で会うことはなかった。なんとなくオレもあの場所に足を運ばなくなっていたし、恐らく彼女も行くことはなかっただろう。
ナマエと廊下ですれ違っても互いに視線を逸らし、話をすることもなくなった。そして月日が流れ、あっけなく彼女は卒業してしまった。

あれから7年、か。

結局、彼女からもらった薺は、ちぎられた断面から古くなり、黒くなってしまった。大切だと思っていた花もいつかは枯れてしまう。そして一度捨てたものは、もう二度と戻らない。

オレは変わり映えのしない毎日を退屈に思いながらも、今も気ままに教師をやっていた。一つ変わったことと言えば、生徒と一定の距離を置くようになっていた。それは多分、ナマエのこともあったからだと思う。オレは生徒と近い距離にいることが怖くなっていた。

ひゅっと職員室の窓からぬるく、のどかな風が入り込んだ。風が揺らしたカーテンの隙間から入り込む、春の日差しが、オレを照らしてちらつかせる。
眩しくて目を閉じると、柔い風に吹かれながら温かい笑みを溢すナマエがそこにいるような気がして。そっと瞼を開けてみたが、そこには何一つ変わっていない景色だった。
――馬鹿だね、オレって。ため息を吐いて、オレは席を立つと、帰り支度を整えてから職員室を後にした。





オレが歩く川沿いの道は、うちの学校の大半の生徒の通学路だった。

夕日に照らされた橙色の水面が反射して、ゆらゆらと揺れている。綺麗だな。オレは煌めいている川を横目にしつつ、移ろう景色に目を向けるのもたまにはいいものだと、呑気にポケットに手を突っ込みながら歩いた。

「先生、さよなら」
「はいはい。さよなら」

時折声を掛ける生徒達へ適当に挨拶を交わす。口をすぼめて口笛を吹きながらしばらく歩いていると、ふと道端に見覚えのある花が咲いていた。

「薺、だ」

思わず独り言を呟いてしまい、はっと我に返る。ゆっくりしゃがんで、雑草の中でポツンと佇んだ花を見てみると、長い茎の先端には霞草のような小さな白い花が咲いていた。やはり薺だ。オレは嬉しさが込み上げて、思わず自分のものにしようと花に手を伸ばした。しかし、オレの伸ばした手はすぐにピタリと止まった。

頭に浮かんだのは古くなり、枯れてしまった花の姿。オレはまた繰り返すのか。この花を、想い出を枯らしてしまうことを。

やめておこう。

すっと立ち上がり、名残惜しい薺から目を逸らす。足を踏み出そうとした瞬間、背後から懐かしい声でオレを呼ぶ声がした。

「先生…?」

振り返れば、ナマエが立っていた。彼女は驚いた顔をしてオレを見つめている。その瞳は昔と変わらない、焦げ茶色の瞳だった。

「久しぶりだね、先生」
「ああ、久しぶりだね」

柔らかく笑う表情。あの頃よりも伸びた、癖のある彼女の髪の毛が風に揺れて、緩やかに跳ねた。全て、あの頃のナマエのままだった。

「先生、変わってないね。元気にしてた?」

ナマエはクスリと笑いながら、オレに問い掛けた。

「俺はまあまあかな。ナマエは少し、変わったね」
「え、どんな風に?」
「なんかこう、綺麗になった」

ナマエは驚いたように「え、」と声を漏らした。オレが言ったその言葉は、偽りなどなかった。ナマエはあの頃よりもずっと大人びていて、綺麗になっていた。しかし、美しくなった彼女を見るなり、オレのなかで黒く、薄汚れた感情が湧き出てゆく。

オレの知らないところで、見違えるほど綺麗になっていかないでよ。

自分勝手で利己心な願望が、あの日と同様、芽生え始める。

「冗談やめて下さい。先生」

ナマエはオレの言葉に顔を赤らめて髪を耳に掛けた。久しぶりに見るその仕草に、オレは懐かしく思えた。
しかしそんな思い出に浸るのも束の間、キラリと輝く彼女の左薬指に光るものが見えて、ぎゅっと強く心臓を掴まれたように苦しくなった。

「ナマエ、今は何してるの?」

結婚してるのと聞けなかったのは今のナマエを知るのが怖かったから。彼女は一瞬だけ困った表情を浮かべると、ゆっくり瞼を伏せた。夕日に照らされて頬に差す睫毛の影がやはり儚いながらも美しく、触りたいとあの日と同じ衝動に駆られる。

「去年に結婚して、今は働きながら主婦をしてるの」

顔を上げて少しだけはにかんだナマエの笑顔は本当に幸せそうだった。そうか。ナマエは愛する人を見つけて、幸せになったんだね。なんだ。振り返っているのはオレだけだったのか。ナマエはとっくの昔から前を向いていたんだ。オレは、ナマエの嬉しそうな顔を見るのに耐え切れず、足元に視線を落とした。

「それはおめでとーね」

我ながら薄っぺらい言葉だと思った。経験を積んだ、いい年した教師が生徒の幸せを願うこともオレはできないのか。いや、ナマエだから出来ないんだ。

「…私ね、先生のことずっと見てたんだよ」

ポツリと小さく呟いたナマエの言葉に驚いて、オレは咄嗟に顔を上げた。ナマエは悲しげな表情を浮かべると、今度はナマエがオレから逃げるように視線を逸らした。

…全て、オレ達は遅かったんだね。

オレに向けていた彼女の熱い視線が、もうここにはない。愛の最後が溶けて、消えてしまった。

「知ってた」

吐き出した声は情けないほどに弱々しくて。彼女にもうここにはくるなと言った、あの日と同じくらい掠れた声だった。

「オレもナマエの事が好きだったから」

最後の言葉を交わしたあの日、オレはナマエの顔を見ることが出来なかった。だから、今度はちゃんと気持ちを伝えて、真っ直ぐナマエの顔を見た。そこには、あの日に見ることのできなかった、ナマエの柔らかい笑顔があった。

今度は下を向かないでちゃんと受け止めるよ。だから、お前も本当の事を言って。

「私はね、あなたが好きだった。大切だった。…ありがとう。カカシ先生」

彼女の穏やかな声が鼓膜の奥に響き渡った。何度も好きと言ってくれたナマエ。真っ直ぐに愛を向けてくれたナマエ。その言葉を信じていられた時間は本当に瞬間で。忘れないようにと深く、胸に刻み込んだ。

オレは足元に咲いている薺の茎を折って、ナマエに渡した。ナマエは戸惑った顔を見せたが、そっと、オレの手から健気に咲く白い花を受け取った。ふいに触れた彼女の指先が冷たくて、オレが温めてやれたら良かったのにな、と思ってしまう自分は本当に未練がましい。

「せめて花だけはお前の部屋に飾ってよ、なんて」

その言葉は以前、ナマエがオレに向けて放った言葉だった。彼女もあの日の事を思い出したのか、小さく頷いて、笑った。

「じゃあね、先生」

元気でね。そう言うと、ナマエはオレに背を向けた。

「じゃあね、ナマエ」

オレも彼女の言葉を真似て、別れの挨拶を口にすると、ナマエに背を向けた。

遠くで、最終下校を告げるチャイム音が聞こえる。もうそんな時間か。ふと目に映ったのは、朱に染まる広い空に浮かんだ、燃えるような真っ赤な夕陽だった。途端に切なさが込み上げてきて、思わず振り返りそうになったが、オレはぐっと前を向き、堪えた。

これでホントにサヨナラなんだね、オレ達。

みっともないほどの後悔を隠すように、オレは強く握り締めた拳をポケットに入れて、真っ直ぐ続く、彼女とは反対の道をゆっくり歩いた。

例え、この想いが誰にも知られなくても、明日が曇りで美しい夕陽が見られなくても、それでいい。

けど、たった一つ願わくば、もっとナマエを好きでいたかった。もっとナマエと一緒にいたかった。もっともっと、オレは

「ナマエの側にいたかったんだ」

オレの吐いた小さな嘆きの声は、ゆるい春風に流されて、あっけなく消えていった。


歌詞参考 もっと/aiko







×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -